1998年12月25日 戻るホーム著作リスト

私が習った古式泳法


 私の故郷、岡山県は、日本一風光明媚で気候温暖。少なくとも、岡山県人は、みなそう信じている。国立公園、瀬戸内海に面し、南は四国山脈で台風が遮られ、北は中国山地で冬の季節風が遮られる。地震のもと、活断層も走っていない。

 現に牛窓町などは、自ら日本のエーゲ海と称し、観光宣伝に努めている。瀟洒な別荘が立ち並び、広大なオリーブ園やヨットハーバーもあって、たしかにその雰囲気はある。先日、産業廃棄物処分場問題が争点となった町長選挙で、反対派の新人候補が現職を破って当選したのも、大いに理由のあることだ。

 日本列島は、緑の地球のすばらしさにもっとも恵まれたアジア・モンスーン地帯に属し、岡山県は、その日本一なのだから、世界一恵まれた地域ということになる。

 しかし、そうなると、どうも県民に覇気がなくなり、みんな、まあ現状でハッピーだとなる。そのくせ、誰かが抜きんでてくると、すぐその人の足を引っ張る。閉鎖社会の平和を乱すからだ。

 そんな雰囲気のなかで育つと、つい、あまのじゃくの子どもが現れて、天変地異を待ち望むようになる。政治家がそんなことを言うと穏やかでないのだが、子ども時代の素直な感情とお許しいただきたい。

 

 私の生まれ育った岡山市は、町の中心を旭川が貫流している。

 私の母校、市立旭中学校の命名の由来はこの川だし、同じく、県立岡山朝日高校の校歌にも歌いこまれている。

 旭川は、普段は流量もそれほど多くなく、岡山市までくると、ただひたすら、ゆったりと流れる。気候温暖の象徴のような一級河川だ。市の中心部で大きく左に蛇行し、ついで右にうねって元にもどる。その右岸に高台があり、岡山城の天守閣が聳える。別名、烏城は、残念ながら、今はコンクリート造り。左側は中州になっており、日本三名園の一つ、後楽園。

 お城の石垣の下に、長さ五十メートルほどの砂浜があり、ゆっくりと深くなって、その先は対岸までやや深い淵となっている。初心者にも上級者にも恰好の水練場で、ここで私は育った。

 

 わが国には、およそ十二の古式泳法が伝承されているが、そのうちの一つが私が習った神伝流である。伊予大洲に発祥し、津山藩の庇護を受け、今も津山市で、代々の宗師が一門を率いる。岡山市に伝わったのは比較的新しい。煽り足を用い、「真」「行」「草」の基本泳法のほか、さまざまな泳法か展開される。

 最初に、ここに通いはじめたのは、小学校三年生だったろうか。水に入るのもこわい子どもが、水泳教室に入っためだ。次第に慣れて、中学二年で、十キロ遠泳を完泳。その時には、陸にあがったら、足もとがふらふらしていたのが、中三の時には体力もついて、完泳の後、友達の弁当まで食べあさる始末だった。そして中三で初段。日本水泳連盟主催の「日本泳法大会」にも出場。高一で二段。高三で三段。そのころから、水練場の現場の責任を負うことになり、大学時代は、夏だけは学生運動はお休みで、水泳に没頭していた。

 

 水練場の運営は、多岐にわたる。

 シーズンの始まる前には、要綱書を作って各学校に配り、生徒を募る。名札やぼんぼん付きの水泳帽などを用意する。土嚢を積みあげ、水練場を整備する。よしずで小屋を作る。材木を組み合わせた筏を、当時は八艘、作る。沖にブイを定置し、ロープを張る。沖での練習のため、和船一艘を調達する。その他、その他。

 シーズン中は、文字どおり悪戦苦闘。講習は午後一時から三時までだが、その後夕方まで、泳法の練習。其本の泳ぎ方の練習から、手足を紐で縛って泳ぐ「手足がらみ」、何人かが抜き手でいっせいに泳ぐ「雁行」など。時には、当時やっと始まったシンクロナイズド・スイミングよろしく、むくつけき足を水面に直立させる、曲芸まがいの練習をしたり。あれやこれやで、朝十時頃から夜八時頃まで、褌すがたで通すことも珍しくない。言いにくいが、股間の皮膚病など、あたりまえとなる。

 シーズンが終りになると、まず納め会。成果の発表会だ。プログラムを作り、案内状を発送する。当日は屋形船数艘を調達。そこにポートがまぎれこみ、ひっくり返って人が溺れる。「それっ」、お得意の水難救助。こうしたお芝居で父兄参観を盛りあげる。無事終ると、水練場を解体する。シーズン中、水に浸かりっぱなしの材木を肩に担ぐと、数本で肩は真っ赤に腫れあがる。すペて終ると、夜は後楽園外苑の芝生で、盛大にすき焼きパーティー。薄明かりしかなく、生煮えで食ペなければ、生存競争に負けてしまう。虫が飛び込んでも、これも蛋白質だ。

 

 暑い夏なのに、冷や汗をかくこともしばしば。

 一日の講習が終って、子どもがみな帰ったあとに、子どもの名前を書いた木札が一つでも残っていると、さあ大変。その子の家に連絡しても、まだ帰っていないと、たとえその子の荷物が残っていなくても、半ばパニックになる。講師が全員、陸から沖に一列に並んで潜って、川底を大捜索。一時間も経ったころ、無事に帰ったとの連絡があり、「必ず木札を受け取って帰ること」ときつくお説教をして、胸をなでおろす。

 講師陣がそろわないこともある。みな、何の報酬ももらわず、今で言う完全ボランティアなのだ。自由意思だから、人がそろわなくても、誰にも文句も言えない。当時は、たかが水泳教室で、アルバイト料を捻出できるような講習料金は取れなかった。だから責任者は、講師をやってくれる人を集めるのに、大変苦労する。夏休みの宿題の下請けを手伝ったり、補導教師の目をものともせず、喫茶店に連れていったり。

 

 夏も終りが近づくと、台風の季節となる。穏やかな岡山も、時には台凧の影響を受ける。あまのじゃくの私は、そんな時がうれしくて仕方なかった。当時のわが家は、わら葺きのあばら屋で、強風に屋根のわらが吹き飛ばされそうになった。そうすると、強風をものともせず屋根に登って、緩みかけているわらに縄をかけたりするのを手伝った。大冒険をしている心境だった。

 そんな時は、旭川も暴れた。清流は焦げ茶色の濁流に変り、上流から流木を一杯まきこんだ急流となって、水練場に飛び込んできた。水面は普段は平面だが、こんな時には、まるでかまぼこのように、中央が盛りあがって怒り狂ったように飛び跳ねていた。

 筏も船も、岸にしっかりと係留しなければならない。小屋にも縄を掛けねばならない。褌すがたで川岸に立ち、武者震いしながら、強風と急流に立ち向かった。

 そして、つい勢いあまって、必要以上に冒険心を発揮し、急流を対岸まで泳ぎきる競争をしたりした。流木に頭をぶつけたら、一巻の終り。時にはそれに雷まで加わった。川の上は、泳者の頭より高いものはないのだから、これは大変危険なのだ。今思えば、冷や汗三斗ではすまない。しかし、当時はそんなことは平気だった。冒険少年の前には、不可能も恐怖心もなかった。

 

 今、旭川はどうしているか。昔のエネルギーは今も健在か。

 旭川は死んだ。と、私は言わなければならない。とんでもない話だ。一九六〇年代の終りになって、遊泳禁止になってしまった。

 水が遊泳不適とされた。大腸菌が増えたせいだ。都市化の波に襲われたのと、上流のダムによる水量調整のせいなのだろう。

 たしかに濁流がすペてを洗い流すことが少なくなり、水泳シーズンに水は淀むようになった。実は天災は忘れたころにやってくるのだが。

 そのため、私たちの水泳講習会は、プールを賃してくれる学校を求めて、ジプシーのようにさまようこととなった。私も大学を卒業し、夏に郷里に帰ることも思うに任せず、友軍にもならなくなってしまった。

 時代の変化なのか、私たちのような無鉄砲な冒険を好む後継者もいなくなった。

 私にはプールの水は、どうしても生きているとは思えない。管理された水には、親しみがわかない。思いがけないことに出会い、驚き、感動することが期待できないのだ。

 

 時は流れ、無秩序な都市化への反省もあって、川の水もずい分きれいになってきたように見える。もともとシーズンオフになると、水は澄んでくる。そこで昨年九月、烏城の築城四百年記念行事の一環として、懐かしい水練場跡地付近で、古式泳法大会を開いた。河本淳会長の「式泳」に始まり、私も片手抜きと諸手抜きの「雁行」に参加した。

 久しぶりに泳ぐのと、さすがに水がひんやりと冷たいのとで、他の泳者についていくのがやっと。歳を感じた。しかし、やはり川はいい。昔のままで私たちを迎えてくれた。遊泳禁止は解けておらず、ちょっとした冒険でもある。すきっとした。

 今私は、神伝流では九投、日本水泳連盟の「範士」となっている。最近は特に、そもそも泳でこと自体が少なくなっており、今年の夏など、恒例の国会議員の水泳大会にも出場できず、忸怩たる思いでいる。

 川だけは何としても、昔の清流にもどしたいと思う。そして子どもたちの冒険心をよみがえらせたいと思う。


泉 ― 次代への贈り物 ― (岡山編)  星文社刊 掲載


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