大亀幸雄 50年の足跡 |
思い出すことども
運動、闘争、選挙、邂逅、別離…。50年の政治活動の中で、大亀幸雄氏が今も忘れられない出来事の数々を、年譜の形でまとめてみた。
■政治・政党活動について
1945年(S20)
敗戦後、平和と民主主義を求めて青年団運動に参加。翌21年秋に江田三郎を訪ねて弟子入り。ただちに農民運動、政治運動に参加。
1948年(S23)
黒田寿男、中原健次らが労農党を結成。社会党岡山県連は分裂。
1957年(S32)
社会党岡山県連と労農党岡山地本が統一。大亀は統一交渉の社会党側の窓口となる。
1960年(S35)
安保条約反対・岸内閣打倒の大衆運動が高揚し、国会議事堂を数十万の大衆が包囲。初めて院内外の闘いが結合/浅沼委員長刺殺さる。江田三郎は委員長代行となり、3党首テレビ討論会に出演、好評を博す。
1961年(S36)
江田三郎は社会党改革に情熱を燃し「構造改革のたたかい」 「社会主義の未来像」(江田ビジョン) 「如何なる国の核実験にも反対」などの論文をつぎつぎと発表。
1974年(S49)
京都府知事選挙で秋山長造は、除名覚悟で大橋和孝を応援。
1976年(S51)
社・公・民政権(革新中道連合政権)をめざして、江田三郎は 「新しい日本を考える会」を設立。
1977年(S52)
江田三郎は社会党改革に絶望して社会党を離党、社会市民連合を結成、二ヵ月後に急逝。江田五月が参議院全国区選挙に病床から立候補、139万2475票、第2位で当選。大亀は江田三郎亡きあと社会党を離党、岡山社民連の結成に着手。
1978年(S53)
岡山県社会民主連合を結成。代表に大亀幸雄、事務局長に金谷光夫を選出。
1985年(S60)
社民連第4回全国大会(於:友愛の丘)は、激しい党内論争で分裂一歩前の状況であったが、江田三郎の墓前で「再生・前進」 を誓いあい、代表に江田五月を選出して再出発。
1988年(S63)
岡山社民連・江田五月会主催の新春パーティーに、社会・公明・民社の3党が初めて出席し、政界再編成へ始動。
1992年(H4)
政策集団「シリウス」が発足。社民連は日本社会党と「院内統一会派」を結成、社会党本部に故江田三郎の写真が掲示された。しかし自己批判はなし。
1993年(H5)
ついに自民党政権が倒れ、8党派による細川連立政権が誕生。江田五月は国務大臣科学技術庁長官に就任。
1994年(H6)
全国社会民主連合は日本新党と合流・統一。岡山社民連も日本新党岡山と合流・統一/社会・公明・民社・社民連・日本新党・新生党の6党会談が発足。
1995年(H7)
日本新党岡山は新進党岡山の結成に参加。
■選挙について
大亀氏は第23回衆議院選挙(S22)から選挙運動に参加。以来、国政、知事選だけでも30回以上を闘ってきた。その中でも特に印象に残るものを書き出してみた。−衆議院選挙について
1949年(S24)
黒田寿男を中心に労農党が結成され社会党は分裂。その直後の選挙に江田三郎は社会党公認で立候補して惜敗。
1963年(S38)
社会党は岡山1区で黒田・和田・江田の3名の公認を内定。その後中原健次が病気で立候補を辞退したので、急遽、江田三郎を岡山2区に移す。江田三郎はトップ当選。
1976年(S51)
あらゆる調査から見て、トップ当選は確実と思われていた江田三郎が落選。
1983年(S58)
江田五月が岡山1区から立候補、トップ当選。以後連続4回トップ当選。
1993年(H5)
社民連・民社党・連合岡山の推薦を得て、石田みえは岡山2区から立候補、第2位で当選。−参議院選挙について
1947年(S22)
大亀は、社会党公認の太田敏兄の運動員として、全期間、本隊車に乗車。見事当選。
1950年(S25)
前年の衆議院選挙に敗れた江田三郎が参議院選挙に挑戦。トップで見事当選。
1953年(S28)
秋山長造は、小脇芳一(弁護士)との公認争いに勝ち立候補、トップで当選。
1962年(S37)
柴田、白髭、流郷、塩田ら9名が立候補の意志表明。選考は難航するが最終的には矢山有作と決定、トップ当選。
1967年(S42)
矢山有作(参・現)の公認問題をめぐって社会党県本部大会は野次と怒号と暴力行為で大混乱、県本部大会は2回も流会。
1986年(S61)
革新統一候補の実現に失敗、高原勝哉(弁護士)を擁立して闘うが惜敗。1989年(H1)も高原で再挑戦したがこのときも惜敗。
1995年(H7)
石田みえを新進党公認で擁立、見事に当選。衆議院選挙区別に見ても第1・第2・第4区で勝利。−県知事・岡山市長選挙について
1951年(S26)
西岡広吉(現)にたいして三木行治を擁立して闘い、49万212票で当選。面白い楽しい選挙であった。
1964年(S39)
三木行治の急逝にともなう選挙に、秋山長造を擁立して加藤武徳と大勝負、残念ながら惜敗。
1972年(S47)
加藤武徳(現)に対し長野士郎を擁立して闘う。岡山方式と云われるブリッジ共闘方式を構築。共産党も味方にして闘い見事当選。
1991年(H3)
岡山市長選に安宅敬祐を擁立して闘う。政党としては岡山社民連のみが推薦、8万1207票で当選。1995年(H7)は自民・共産以外の各政党の推薦をうけ、見事当選。
1992年(H4)
長野県政に批判的態度をとり、岡山社民連としては自主投票を決定。(文中敬称略)
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