大亀幸雄 50年の足跡 |
恩師、江田三郎 大亀 幸雄
江田さんと初めてお会いしたのは、たしか昭和二十一年十月、私が十九歳のときだと思う。その頃は、敗戦後で、新生日本をめざす平和と民主主義の息吹が、燎原の火のように燃えひろがっていたときである。
私は江田さんを訪ねて、「政治運動に参加したい」と、弟子入りを希望した。それから約三十二年間、公私にわたって深い関係を続けてきた。だから江田さんは、恩師であり、同志であり、父親でもある。
江田さんにはよく可愛がってもらった。私が肋膜炎になって困っているとき、「君は僕の家で療養しろ」と言って部屋を与えてくれた。寝食もともにしてくれた。ボロ服を着ていると、お下がりの服もくれた。結婚のときも、娘の入学のときも、泥棒にあったときも、火事にあったときも、本当に面倒をみてくれた。
江田さんは第一印象とはちがい心のやさしい人である。江田さんの心暖まる手料理も忘れることのできない一つである。
江田さんは人生のすべてを政治にささげた人である。いつも日本と世界のことを考えていた。ある人が、「江田さんはこれからのことばかり考えている」と言っていたが、そのとおりだ。「これからの農民運動」「社会主義の未来像」「構造改革路線」「革新政権構想」など、あげればきりがない。
江田さんは心から社会党を愛していた。だから社会党の長期にわたる地盤沈下には心をいため、いつも社会党の発展の方向、方法を模索していた。
いつ頃かは不明(昭和五十一年?)だが、社会党の将来に絶望感をもつようになり、新しい社会主義政党の結成を本気で考えるようになった。私もいくどか相談をうけた。そのための有志懇談会にも出席した。そのとき私は、「新党結成は時期尚早である」といって反対した。三十二年間生活をともにした社会党に未練があったからである。
しかし今にして思えば悪いことをしたと思う。まさか江田さんが亡くなるとは夢にも思わなかった。こんなことになるなら、せめて五、六年でも江田さんの思うとおり活躍してもらえばよかった。かえすがえすも残念である。
江田さんが全生涯をかけて追求したのは、「新しい社会主義とは何か」 であったと思う。もう江田さんは帰ってこない。われわれがこの旗を守り発展させるほかない。この道がどんなに険しくても―。(一九七九年発行、「江田三郎―そのロマンと追想」より)
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