1999年9月24日 | 戻る/ホーム/民主党文書目次 |
東ティモール 住民投票 民主党国会議員監視団
参議院議員 竹村 泰子 参議院議員 江田 五月
参議院議員 岡崎 トミ子 参議院議員 笹野 貞子
参議院議員 和田 洋子 衆議院議員 山本 譲司
国連などの国際機関スタッフの前で、次々と繰り広げられる暴挙。東ティモールがまたしても血塗られた歴史のページを上塗りしている。
私たち14人(議員6人とスタッフ)を迎え、運転し、食事を作り、もてなしてくれたあの人たちの安否はいま分からない。無事でいて下さるよう切に祈る。
1975年に武力攻撃によってインドネシアに併合されて以来、度重なる紛争で大きな犠牲を出しながら、屈することなく、自分たちの意志を自ら表明することを待ち望んだ東ティモールの人々の行為が今回の住民投票である。
インドネシア政府もこのことを謙虚に受け止め、紛争の制圧に全力をつくして欲しい。国連を始め、国際社会も、住民の安全と平和を第一義的に考え、効果的に動いて欲しい。
日本政府は、インドネシア政府に対しての最大の供与国であることから、人権のために最大の発言と努力をして欲しいと考える。
充分言い尽くせませんが、選挙監視に参加した私たちの報告をここに記録として急ぎまとめました。
東ティモール住民投票民主党国会議員監視団長
参議院議員 竹 村 泰 子
(1)期 間
1999年8月28日(土曜日)〜9月1日(水曜日)
(2)訪問地
東ティモール(ディリ、リキサ、マウベラ)
(3)団構成員
1、議 員
団長 参議院議員 竹村泰子 (国際交流委員会NGO局長) 参議院議員 江田五月 (広報委員長代理) 参議院議員 岡崎トミ子 (NPO委員長) 参議院議員 笹野貞子 (男女共同参画委員長) 参議院議員 和田洋子 (男女共同参画副委員長) 衆議院議員 山本譲司 (国民運動副委員長) 2、随行員
団長 東 正夫 (笹野貞子事務所) 江田洋一 (江田五月事務所) 古沢希代子(東ティモールを考える議員懇談会事務局) 梶原博之 (小川勝也事務所) 脇谷千津子(岡崎トミ子事務所) 勝木一郎 (岡崎トミ子事務所) 3、通 訳 鈴木隆史 (インドネシア研究者)
井上千津代(現地参加、カトリックシスター)4、同 行 北上哲仁 (社会民主党中川智子事務所)
(4)目 的
東ティモールの独立の是非を問う住民投票の8月30日実施が決まり、公正と安全の確保による、民主的な住民投票実施のために国際的監視が必要と考え民主党として選挙監視を行うため議員団を派遣した。
(5)監視の概要
監視団は、8月29日から31日まで東ティモールに滞在した。投票日には国連東ティモール支援団(UNAMET)の認証を受けた「東ティモールのための国際議員団(PET:Parliamentarians for East Timor、1988年に設立。国際事務局はカナダ。江田五月は設立呼びかけ人の1人。会員数は約400名)」の国際オブザーバー(投票監視員)としてディリ、リキサ、マウバラで投票監視作業を行った。451,792人の登録有権者のうち98.5%が投票する高い投票率を記録した。9月4日に結果が発表され、自治案賛成数(併合支持)が94,388票、自治案反対(独立支持)が344,580票で78.6%と、多数が独立を支持した。監視団はまた、ノーベル平和賞受賞者、カルロス・シメネス・ベロ司教やジェムシード・マーカー国連事務総長特使との会見や日本人文民警察官からのヒアリング等を行った。住民や現地の活動家との交流・意見交換が実現したのも大きな成果だった。
(1)東ティモール問題
1974年、400年間東ティモールを植民地支配してきたポルトガルで政変がおき、植民地解放が宣言された。東ティモールでもいくつかの政党ができるなど、独立に向かう動きがみられたが、インドネシアは東ティモールに混乱を引き起こし、その混乱に乗じて1975年、軍事侵攻を行った。11月28日、住民の圧倒的な支持を受ける独立派は東ティモール民主共和国の独立を宣言したが、12月7日、インドネシア軍が全面侵攻に踏み切った。翌7月、インドネシアは東ティモールの27番目の州としての併合を宣言した。
インドネシア政府は、1万人規模の軍隊を駐留させるほか、政策的にインドネシア人多数を入植させたり、インドネシア語を強制するなど、文化・経済面の支配も強めてきた。国連は東ティモール人の自決とインドネシア軍の撤退を求める安保理決議を2回、総会決議を8回採択しているが、インドネシア政府はこれを無視し続けてきた。
豊富な資源を有し、有力な市場であるインドネシアに対し、日・豪・米など諸外国はインドネシア政府に対して強い態度をとってこなかった。とくに最大の援助供与国である日本は併合を認めないという公式な立場をとっているが、インドネシア政府を避難する国連総会で8回におよぶ決議のいずれにも「反対」票を投じてきた。なお、第二次世界大戦中、日本軍は3年半にわたって東ティモールを占領している。この間、日本軍による残虐行為、食糧供出の強制、戦争による飢饉などで4万人が犠牲になったと言われている。
8度の国連総会決議が採択されたように国際社会も東ティモールを忘れたわけではなかった。日本でも1986年、江田五月議員らを中心に「東ティモール問題を考える議員懇談会」が結成されている。1991年のサンタクルス事件、1996年のベロ司教とジョゼ・ラモス・ホルタCNRM海外特別代表のノーベル平和賞受賞を通して、東ティモール問題も世界的な注目を浴びるようになってきた。国連事務総長は、ポルトガルとインドネシアの会談を仲介し、併合派・独立派両方の東ティモール人指導者をあつめての「全東ティモール人包括対話」を実施してきた。
(2)住民投票
昨年('98年)スハルト政権に代わって、ハビビ政権が誕生した。今年('99年)、1月にハビビ大統領が、「東ティモール人がインドネシア領としての自治州案を拒否するのであれば、インドネシアは東ティモールを手放す」と発言。その後5月5日の国連合意によって、8月8日の住民投票で住民の意思が問われることになった。住民投票の実施のために国連は国連東ティモール支援団(UNAMET)を組織した。投票は2度の延期を経て、8月30日に行われた。結果を受けて、10月召集のインドネシアの国民協議会で独立が承認されると、併合は無効とされ、東ティモールは国連管理下で独立にむけて歩み出すことになっている。
(a)日 程
8月28日(土) 10:55 成田発(JL-725)
20:10 デンパサール着
20:30 蓮香スラバヤ領事
(デンパサール泊)8月29日(日) 09:00 ジェムシード・マーカー国連事務総長特使
10:30 デンパサール発(MZ-642)
12:40 ディリ着
12:50 堀江総理府PKO事務局参事官
清水外務省ディリ駐在員
13:00 ディリ派遣特派員と懇談
14:00 マル・カイロス
CNRT選挙キャンペーン調整企画委員長
松野明久UN投票管理要員
15:00 UNAMET本部
折田文民警察官 三方文民警察官
16:00 植木政務官兼副報道官 野村政務官
16:40 デビッド・アンドリューアイルランド国外務相他
EU議員団8月30日(月) 06:30 投票監視開始
ディリ (ビラベルデ投票所・コルメラ投票所他)
09:00〜16:00過ぎ(1)ディリ班 (竹村・岡崎・笹野)
モタエロ地区 1カ所
コモロ地区 4カ所
ベモリ地区 1カ所
ダレ地区 1カ所
他にザビエル協会、ダレ神学校、モタエロ・クリニック、
ラモス・ホルタ親族宅等訪問(2)リキサ・マウバラ班(江田・和田・山本)
バザラテテ地区(マウメタ投票所・ラウハタ投票所)
コタ地区(ダト1投票所・ダト2投票所)
マウバラ地区(バビキニア1・2投票所)
コタ地区(ハトケシ投票所)
ディリ(ベモリ投票所) 他にインドネシア警察本部8月31日(火) 09:00 ベロ司教
09:30 PET派遣議員たちと意見交換
11:00 イアン・マーティンUNAMET代表
各国議員団
12:25 ディリ発(MZ-643)
14:20 デンパサール着9月2日(木) 13:30 解団式(参議院議員会館第4会議室)
14:00 記者会見(同上)9月3日(金) 15:00 高村正彦外務大臣へ要請 【資料(3)】
(「日本政府の東ティモール支援についての要請書」)9月6日(月) 15:00 小渕恵三総理大臣へ要請 【資料(4)】
(「日本政府の東ティモール支援についての要請書」)
団長 ジェムシード・マーカー 国連事務総長特使(デンパサール)
デビッド・アンドリュー アイルランド国外務大臣他EU議員団 (UNAMET本部)
カルロス・シメネス・ベロ司教・ノーベル平和賞受賞者(ディリ)
PET派遣議員(ディリ)
イアン・マーティンUNAMET代表(ディリ空港)
マル・カイロスCNRT選挙キャンペーン調整企画委員長(ディリ)
蓮香スラバヤ領事(デンパサール)
堀江総理府PKO事務局参事官(ディリ)
清水外務省ディリ駐在員(ディリ)
松野UN投票管理要員(ディリ)
折田文民警察官、三方文民警察官(UNAMET本部)
植木政務官兼副報道官、野村政務官(UNAMET本部)
他
1 )投票監視開始
東ティモール自治案の可否を問う住民投票は8月30日午前6時30分から同日午後4時までの間に行われた。議員監視団は、国際オブザーバー(投票監視員)としてディリ地区、リキサ地区、マウバラ地区の投票監視作業を行った。2個所に分宿したわれわれ派遣団は宿舎近くの投票所を視察しはじめ、まず6個所の投票所を視察した。投票時間が始まる頃にはいずれの投票所も大勢の住民が列をなして並んでおり、無事投票が始まりつつあることを示していた。投票箱に何もないことを確認しサインをした和田議員が目にしたのは朝4時から並んでいた年老いた女性の姿であった。
投票はまず、身分を示すもの(運転免許証など)と選挙人登録証、特殊蛍光塗料の有無の確認がなされ、次に特殊蛍光塗料がスプレーで吹き付けられ(不正に2度投票することを防ぐため)、そして投票用紙が配られ、投票が行われた。投票所には上記作業をするスタッフ、UNAMET職員、文民警察官、国連ボランティアがおり、投票作業を進めていた。投票所の敷地外でインドネシア警察官が警備にあたっていた。
午前9時過ぎ、監視団はホテル・ディリにいったん集合した後、ディリ市内を中心に監視活動を行うディリ班と、リキサを中心に監視活動を行うリキサ・マウベラ班の2班に分かれて監視活動を開始した。それぞれの班のレポートをもって報告に代える。
1)監視日 1999年8月30日(月曜日) 2)議員団 竹村泰子参議院議員(団長)、岡崎トミ子参議院議員、笹野貞子参議院議員 随行秘書 東(笹野事務所)、脇谷(岡崎事務所)、梶原(小川事務所) 通訳
井上千津代 3)行程 セコラ、チナ、モタエル(1個所)、コモロ(4個所)、ベモリ(松野氏担当個所)、ダレ(1個所)、ザビエル教会、ダレ神学校、モタエル・クリニック 団長 ディリ班は、9時過ぎにホテル・ディリを出発し、市内の投票所を丹念に視察監視した。視察場所はモタエロ(1個所)、コモロ(4個所)、ベモリ(松野氏担当個所)、ダレ(1個所)、聖サフランシスコ・ザビエル教会の以上8個所であった。その後、ダレ神学校、モタエル・クリニックを訪ねた。
モタエル(Motael)地区
モタエルの投票所もほかの多く投票所と同じく学校が利用されており、整然とした投票がなされていた。4つの投票箱を4個所に分散して効率化を図っていたので、住民の投票はスムースに進んでいた。モタエルの投票所からの移動中に、独立派の指導者の一人でシャナナ・グスマンの次に位置するリーダーであるリアンドロ・イサク氏( Riandro Izac)がインタビュー(ボイス・オブ・アメリカ)を受けていた。われわれに対して、イザク氏は「今朝、身の危険を省みずすでに投票を済ませてきた」、「国際社会の協力で今日の日を迎えられたことにたいへん感謝する」、ただし「国連がもっと早く活動を始めてくれれば」という旨を語った。
コモロ地区(Comoro)
ディリの西に位置するコモロ地区では、4個所の投票所を視察した。直接的な妨害行為は見受けられなかったが、投票所の入り口でいかにも圧力をかけている青年がいたがインドネシア警察はこともなげにしていたり、投票を待つ間に不遜な態度で周囲を威圧している者達もいた。
コモロの第017投票所でも粛々と投票が行われていた。状況視察をしていたUNAMETの代表イアン・マーティンは、竹村代表はじめ一行に「順調に進んでいる」と話かけてきた。
印象的なのは、幼子を抱き喪服を着た夫妻との出会いであった。シスター井上が話し掛けると、彼女の父親は、3日前(27日)ロスパロスで刺殺されたうえに銃でも撃たれ、しかも家を焼かれ、そのとき弟も重傷を負ったという。それでも投票に来る姿は、住民投票にかける強い意志の現れであった。投票は一見平穏に行われているようであったが、住民の生命の危機は身近に切迫していることを示していた。
ベモリ地区(Bemori)
ディリの東に位置するベモリ地区では、国連ボランティアの松野明久氏が担当する第022投票所に行き視察をした。到着したのは1時ごろですでに投票はほぼ終わりに近づいていた。松野氏によれば、投票開始時刻には千人ぐらいが並んで投票を待っていたそうだ。総じて投票所はどこも平穏で投票作業は効率よく進められていた。ダレ地区(Dare)
ダレ地区はディリ市街から南の丘陵地帯にある。投票所に着いた頃には、ほとんど投票が終了し、あと4名を残すばかりなっていた。投票中の住民を撮影することは禁じられており、文民警官が撮影を制止していた。聖フランシスコ・ザビエル教会
ダレの投票所から丘陵地帯のつづら折りの山道を登ってゆくと聖フランシスコ・ザビエル教会があり、教会に隣接する信徒会館が投票所になっていた。投票はほぼ終了しており、UNAMET職員は順調だといったことを話していた。マレーシアの文民警官も滞りなく投票が終わりつつあると述べた。ちょうどそこに神父も投票に来られ、投票を終えてわれわれに話し掛けてきた。岡崎トミ子参議院議員より、教会の正面に何か鐘のような鉄の塊が吊してあったので何かと聞くと、神父が日本軍の大砲の後部だとこたえ、一同ショックを受ける。そこで、われわれは、50人ほど集まって教会の周りに座っていた信徒たち(山岳地帯の住民)と対話をした。
竹村団長は、「日本軍がこの島を占領していた1942年からの3年半の間、皆様に多大なご迷惑をかけたことを謝罪する。あの大砲の一部を吊しておかれていることは、日本が住民に対して行ったことを決して忘れない、という思いと同時に、共に平和のために働こうという意味だと思う。
われわれは、そのことをベースにしながら東ティモールに関わって来た。東ティモールの自由と正義のために、歴史的な民族の選択の選挙を監視するために来て皆さんと会えてうれしい」と語った。
信徒の代表から「初めてわれわれの投票所に海外の視察団が来たことに感謝をする。ただ、9月5日の開票日までに危険があり、日本はわれわれの安全を守るために軍の派遣をはじめとする何らかの手段を講じてほしい」旨の話があった。
この問いかけに対して、竹村団長から「日本は憲法9条があり簡単に自衛隊を派遣することはできないが、外交手段をはじめ国連の承認を得て国際間で行動するものには経済力はもちろん人的な貢献をすることを約束する。あらゆる手段を通じて東ティモールのために寄与したい」と語った。
笹野貞子参議院議員からは、20世紀に起こった不幸は20世紀のうちに終わらせ、次の世紀を迎えたい旨の話をした。住民の拍手を受け投票所を後にした。
ダレ神学校
神父からディリ市街を一望できる場所として紹介されたのがダレ神学校(セミナリオ)であった。神学校は教会から近くにあったが、ここに100人ほどの難民がいた。銃や刀をもった者も多く、ファリンテルのメンバーもいたようだ。われわれ一行が着くと握手を求めてきた。「オトノミー(併合派支持)」のTシャツを着て身を守っている者もいた。ダレはディリ市街から距離があり、難民が民兵からの襲撃を避けるために避難し、神学校の神父が保護している。神学校は1975年のインドネシア軍の侵攻時に艦砲射撃により建物が破壊された。現在の建物は再建されたものであった。神学校の中にいたシスターは、われわれの通訳をしてくださったシスター井上に対し、「今後、精神的に物質的に住民のケアーが大切である。特に西部の状況が分からないので見てきてほしい」と懇請された。
ベコラ地区
ダレ神学校からモタエル・クリニックに移動する間にベラコ地区を車中から視察した。投票は終了したが、緊張は高まっていた。大勢の住民が避難するために大きな荷物を抱えて歩いていた。ディリ市内は、併合派が強い地区、独立派が強い地区が交互に存在していた。ベコラ地区にゆくと、フリージャーナリストの小山氏(筆名南風島、はえじま)がわれわれの車に向かい「今にも山から武装民兵の襲撃があるかもしれません。みな刀などを持って警戒にあたっています。危ないので引き返してください」と警告してくれた。
モタエル・クリニック
モタエルクリニックには民兵の襲撃を受けた人たち(肩を刀で切られたもの、銃で足を銃で撃たれたもの)が入院しており、見舞った。クリニックの入り口の横には併合派の者が数名おり、シスター井上から写真は撮らないようにとの注意があった。5時50分に病院を後にした。以上
1)監 視 日 1999年8月30日(月曜日) 2)議 員 団 江田五月参議院議員、和田洋子参議院議員、山本譲司衆議院議員 随行秘書 江田(江田事務所)、北上(中川智子事務所)、勝木(岡崎事務所) スタッフ
古沢紀代子(東ティモールを考える議員懇談会事務局) 通訳
鈴木隆史(インドネシア研究者) 同行
浅野健一教授(同志社大)、清水連絡員(外務省) 3) 行程 バザラテテ地区(マウメタ投票所・ラウハタ投票所)、コタ地区(ダド1・ダド2投票所)、マウバラ地区(バビキニア1投票所・バビキニア2投票所)、コタ地区(ハトケシ投票所)、ディリ(ベモリ投票所) リキサ・マウバラ班は、3台の自動車に分乗、インドネシア警察の警護(車両1台、5名)を受けてリキサ・マウバラ地域の投票所の監視を行った。
リキサは併合派の勢力圏と言われ、教会襲撃事件や、UNAMETの輸送団襲撃事件が発生するなど世界から注目され、治安状況が不安視される地域である。ただし、世界からの注目によってこの地域はかえって安全であるのではないかという情報も事前にあった。
民兵による示威行為などが報告された地区もあったが、どの投票所でも有権者による投票は順調に行われ、住民たちの強い意志がうかがわれた。
バザラテテ地区―マウメタ投票所(042)・ラウハタ投票所(043)
ディリから自動車で約1時間。海岸線の道路を走り、バザラテテ地区に到着した。市街というよりは郊外という表現が妥当な地区。マウメタ投票所には1011名、ラウハタ投票所には1105名の有権者の登録があった。それぞれ文民警察が2名、スタッフが11名配属されていた。
この地区には、他の地区の投票所とあわせ、2つの投票所が設けられていた。これはラウハタ投票所が設けられる予定であった地区の村長が投票所の設置を拒否したため。ラウハタ投票所で投票予定であった住民たちはバザラテテまで来て投票を行っていた。
コタ地区―ダド1投票所(038)・ダド2投票所(039)
リキサ市内の投票所。
ダド1投票所には1729名、ダド2投票所には1721名の有権者の登録があった。それぞれ文民警察が3名、スタッフが15名配属されていた。文民警察の一人はオーストラリアの女性。
国連スタッフから、午前9時頃に、民兵とのあいだで若干のトラブルがあったことを聞かされた。民兵が「葬式のため」に付近を行進したと言うもの。また、投票者の列のすぐ脇に赤いベレー帽を手にした男を中心にした民兵15名程度がたむろしていた。しかし住民の投票活動には大きな支障はなかった。監視団が訪れた11時頃までにはすでに半数程度の投票が完了していた。
4月に虐殺事件がおこったリキサ教会を訪れた。
マウバラ地区―バビキニア1投票所(046)・バビキニア2投票所(048)
バビキニア1投票所には1802名、バビキニア2投票所1869名の有権者の登録があった。それぞれ文民警察が4名、スタッフが19名配属されていた。投票所に至る道を含め、地区周辺に多数のインドネシア国旗が翻っていた。
カーターファウンデーションのスタッフと一緒になった。コタ地区―ハトケシ投票所(040・201)
山上の投票所。4479名の登録があった。文民警察が8名、スタッフが38名配属されていた。悪路を一時間、ハトケシ山中のハトケシ投票所に行った。
途中、EU監視団のアイルランド班、チリ監視団とすれ違った。ごく細い山道を車の列がすれちがうのに時間がかかった。あまりの悪路に、自動車が停止すること2回。放棄された民兵の監視小屋と思われる小屋跡を2つ程度目撃した。標高が高くなると、ところどころ、CNRTとシャナナのポスターを散見するようになった。坂の途中で、住民20名ほどが日本の監視団をみて喜び、ティモール万歳を何度も叫んだ。
投票所が近づくと投票所からかえってくる数百名の住民とすれ違った。危険を考え、最後の投票者が済むのを待って、一緒に帰ってきたものと思われる。
山上の、とくに治安状況を不安視された投票所であったが、14時半に投票所に到着した頃には投票がほとんど終わっていた。100パーセント投票の終わっているステーションもあり、登録者のうち投票をしていなかった数名はゲリラではないかと言われていた。
到着時、国連スタッフからディリへの帰路の治安について情報提供を受けた。「1時間前から民兵の活動が活発化している。ディリへの道に民兵が出没し、特にメディアに対していやがらせをしている」という内容。彼らにカメラを向けて刺激しないようアドバイスされた。
ディリ東地区―ベモリ投票所(022)
ディリに戻り、国連ボランティアの松野明久氏が担当するベモリ投票所を訪れた。襲撃事件や発砲事件が目立つ、ディリ市内では危険な地域という。すでに投票は終わり、門が閉められていた。中にはいると、投票数の確認作業で若干のトラブルがあった様子で松野氏が現地スタッフに指示を出していた。
以上
私たちは、8月30日に行われた国連東ティモール支援団による住民投票を視察し、これが当日の同地域における住民の自決権の行使として、十分支持しうるものであったことを確認してきました。
投票作業は、全体として平穏かつ効率的に行われた。暴力や脅迫による妨害は全国的にも少なかった。7つの投票所が、民兵の活動によって一時(30分から2時間程度)閉鎖を余儀なくされる事件があった。また、エルメラにおいてはUNAMETの現地職員が殺害された。インドネシア占領下の、また投票キャンペーン中の暴力や脅迫を考えると、関係者の努力と、なによりも住民の勇気によって98.5パーセントという高い投票率が記録されたことは高く評価される。
開票作業も極めて順調で、投票結果は住民が圧倒的多数で独立を求めていることを、国際社会に明確に示すもであった。
このような国際社会が是認できる公正な住民投票と開票作業により住民の意思が表明された。国際社会はこの結果を尊重しなければならい。しかしながら、その後に起きた極度の治安悪化はとうてい国際社会が容認できるものではなく、早急に是正されなければならないことを明らかにし、総括としたい。
参議院議員 笹 野 貞 子
人間の悲しみと、それを乗り越えた知恵と、その知恵を無視する暴力への怒りとを一挙に見た思いです。
しかしなんと言っても、歴史の発展性を暴力や権力によって阻止しようとする行為はあってはならないことです。私は今、帰国後荒れ狂う併合派の暴挙をニュースで見て、煮えたぎる怒りでいっぱいです。
UNAMETの皆様方の懸命な努力で実現した8月30日の投票日は、朝から暑い陽が照りつけていました。命がけで投票に集まった人々の目は、何ものをも恐れないような強い意思がみなぎっていました。自然発生的に集まって語り合った80人くらいの人々は、日本から監視に来てもらったことへの私たちへの感謝と、投票後の治安の維持への日本の協力を口々に訴えていました。
21世紀を目前に日本が果たす国際平和への役割は、今すぐそこにあるのです。私はこれからも東ティモールに対し、いや国際社会に対し、民族自決の人権社会構築のために日本の国が果たすべき役割を、日本政府に対し叫び続けたいと思っています。
参議院議員 和 田 洋 子
8月29日降り立った東ティモールの地は暑い夏日ではなく不気味な雰囲気の飛行場だった。長年の悲願が叶う、独立と自由を勝ち取る投票日を明日に控えた島都とはどうしても思えない。「ン?…」活気がなく、店は閉ざされ、人影は無く走る車は国連のUN車、歩いている人は外国人カメラマン、記者。私たちが日本に帰国後、時々深刻に伝えられる報道を聞き、あの静けさは、たくさんの同朋を失った経験が、自分の本心を出してはいけない、これからの不安と恐怖の瞬間だったのだろうか。そんな気がする。
8月30日投票日、開始時刻6時30分。投票所に当てられた学校は住民で埋め尽くされていた。時計は6時を少し廻っていた。最前列の超高齢のおばあさんに、何時にお出になったのか、そしてお気持ちをお聞きした。「4時から並んでいる。東ティモールのために、孫のために投票しに来た。
投票結果が判明し、最悪の状態が世界に報道されている今日、住民が選択した結果は、尊重されなければならない。日本に何ができるか、日本は何をしなければならないか。
東ティモールの社会システムがしっかり構築されるまで人的にも物的にも支援していかなければならない事を痛切に思う。
衆議院議員 山 本 譲 司
「日本は東ティモールを第2次世界大戦中に3年半にわたって占領し、現在では、東ティモールを弾圧するインドネシアへの最大の援助国です。にもかかわらず、この間の対応を見ると、日本政府には何も期待できない」。
これは、ノーベル平和賞を受賞したラモス・ホルタ氏が1997年に来日し会談した際に、私たち日本人に向けられた痛烈な言葉です。
国際的な人権問題である東ティモール問題に10数年関わってきた私にとって、今回の投票監視活動は、長年の念願であると同時に、日本人としての責任と使命感をもっての参加でした。
実際に投票日の前日に東ティモールを訪れると、街は静まりかえり、独立阻止派の民兵組織とインドネシア国軍の目に見えない圧力を至るところで感じました。
投票結果は、予想通り圧倒的な多数で「独立」を打ち出したものの、その後は騒乱状態が続いています。
私たちは東ティモール滞在中、単なる投票監視だけでなく、出来る限り東ティモールの住民の皆さんと意見交換をする機会を持ち、そうした経験の中で、投票後の治安面での見通しは非常に甘かったと痛感しました。独立を支持する住民は、混乱を誰もが想定していました。
今回の住民投票は、東ティモール独立に向けてのゴールではなく、スタートです。現在の状況が独立への生みの苦しみとなるよう、私は今後とも、日本政府に東ティモールへの最大の支援を働きかけていきたいと考えています。
参議院議員 岡 崎 トミ子
今回の住民投票監視は、1994年に超党派の東ティモール問題を考える議員懇談会のメンバー5人と、日本の国会議員として初めて東ティモールを訪ねて以来2回目の訪問となった。
この10年間、東ティモール民族自決の実現のため、アメリカ・ポルトガル・タイ・オーストラリア・東ティモールへ飛び、世界の東ティモールにかかわる議員やNGOの人たちと共に活動を続け、やっとたどりついた住民投票である。5年ぶりに降り立った東ティモールは、島全体が緊張の中にあるように感じられた。
選挙キャンペーン中にも絶えず起きていた殺人・焼き打ち・暴力、投票日にも何が起きるかわからないという不安が誰の胸にもあったと思う。しかし、早朝から並んでいた人たちや、日中炎天下の“3時間も並んでいる”と笑顔で答えてくれた人々からは、この24年間、“略奪と虐殺”の悲しみの歴史の中で苦しんできたこの情況を変える一票なのだという決意と勇気を感じとることが出来た。あらゆる暴力に屈することなく、民族の誇りを失わず独立の道を選んだ人たちに心から敬意を表したいと思う。
9月9日、私は決算委員会の質問に立った。「今、この時虐殺が行われている東ティモールに対して日本政府が出来ることは、国際的な平和維持部隊を受け入れるようインドネシア政府に要請し、受け入れなければ政府開発援助を即時停止するという以外にない…。日本政府は東ティモール人を見殺しにする気か。」とせまった。
彼らの祈るような気持ちで投じた民意を遵守するため、『独立』と発表された時のあの輝かしい笑顔をとり戻し、彼らの足でしっかり立てる日がくるまで、選挙を見守った者の責任として積極的に活動を続けていきたいと思う。
参議院議員 江田五月事務所 江田洋一
私が東ティモール問題に関わるきっかけとなったのは、貴島正道さん(東京東ティモール協会の代表)だ。貴島さんは日本軍の一員としてティモール島に侵攻し、そして終戦をそこで迎えた。
帰国後貴島さんは罪滅ぼしをするかのように半世紀以上にわたって東ティモールの独立のために支援活動を行ってきた。私も多くの独立を訴える東ティモールの人々の日本訪問のお手伝いをしてきた。
出発の数日前、貴島さんが事務所に来てこう言った。「僕の代わりにしっかり選挙監視をしてきてね。僕は独立が認められたらゆっくりと訪ねようと思っているんだ。」住民は、高らかに「独立」の意思表示を宣言した。20世紀最後の民族自決運動をなんとしても成功させなければ…。
僕は高齢のためにすっかり足が弱くなった貴島さんが、「東ティモール国」で「うまいコーヒーとうまい一服」ができるように、あらゆる努力を惜しまないつもりだ。まもなく来る21世紀のためにも。
衆議院議員 中川智子事務所 北 上 哲 仁
併合派民兵が闊歩し、治安を維持すべきインドネシア国軍及び警察がサボタージュするというという投票当時の状況を考えると、選挙に参加する住民の身に危険が及ぶことは充分に可能性があった。にもかかわらず、投票率は98.6%と極めて高く、私たちが現地で目にしたのは、投票所までの遠い道のりを歩く大勢の人々、投票箱への長い列であった。私は住民の勇気に感動し、人間としての誇りを覚えた。東ティモールの人々はインドネシアに軍事侵攻されて以来、24年間にわたって暴力・拷問・脅迫等によって人権が虐げられ、多くの人命が失われ、政治的沈黙が強いられてきた。今回の高い投票率は、住民の自治と非暴力への固い意志が表明された共感じる。投票結果は、圧倒的に独立を支持するものだった。多くの人々は、独立への道が平和的に歩み出されることを願ったが、現状は人々の心を裏切るものとなっている。腹立たしい思いがする。
今回の住民投票参加にあたって、御尽力頂いた皆さんに心から感謝を申しあげます。お世話になりました。
参議院議員 岡崎トミ子事務所 脇 谷 千津子
国連東ティモール支援団の認証を受け、インドネシアに併合か独立かの住民投票が公正に行われる為の監視団(民主党国会議員監視団)スタッフの一員として東ティモールに同行させていただいた。
投票日の当日、三人の女性議員(竹村、笹野、岡崎)の班に参加、ディリ市内の投票所を見て廻った。どの投票所も朝早くから沢山の人達が静かに順番を待っていた。議員を先頭に私達が入っていくと、人々が脅えているように思えた。24年間インドネシアの占領下にあって虐げられて来て、今、自由を勝ち取るための一票に命を賭けて来ている人達の目だった。彼たちは一瞬私達が妨害に来たのかと思ったのではないか、それほど投票所の空気は緊張したように思えた時、「違います、私達は貴方方を守るため日本から来たのです」と、ニッコリ呼び掛けるかのように、テトン語で「ボンディア!(おはよう)」と声をかける議員達、するとあちらこちらから嬉しそうに挨拶が戻ってきた。感激の一瞬だった。
乾季で緑が少なく、川の中には全く水もなく、乾いた砂埃の町中を銃を持ったインドネシア軍のトラックが走り、民兵と称する人達が今にも独立派の人々を襲ってきそうな緊張した東ティモールを後にして9月2日、日本に着いた。高速道路から見える高層ビルが建ち並ぶ景色を見た途端、東ティモールとの余りの違いに、思わずタイムトンネルから抜け出たと思ってしまった。
私達がお世話になった民家の軒先で寝泊まりしていた難民の子供達、私の上司の岡崎議員が日本の童謡を教えると、岡崎さんの目を真っ直ぐ見て一生懸命に覚えていた裸足の子供達、また東ティモールで最後に訪れたモタエルクリニックで、民兵に襲撃を受けた人達を見舞った。そのそばで男の子がマラリアにかかり、クーラーもない暗い病室で幼い姉が看病をしていた。今、どうしているだろうか。あの子供達の未来のために何か役に立てる事はないかと痛切に感じた。
参議院議員 岡崎トミ子事務所 勝 木 一 郎
ついに行くことのできた東ティモールで、多くの顔に出会った。カメラを向けられて大喜びで集まってくる子供たちの顔。ハトケッシュ山に向かう悪路をわれわれの車とすれちがったチリの監視団の青年のはしゃいだ顔。リキサの投票所でたむろする民兵をじっとみつめた国連文民警察官の女性の厳しい顔。投票を待つ大勢の仲間とともに誇らしげに列のなかにいた住民の顔。1年前にはこんなに早く実現するとは考えられなかった国連監視のもとでの住民投票に、多くの人々が期待をかけ、さまざまな立場で参加した。何よりも、多くの住民が命をかけて投票に行った。一見、のんびりとした環境でひたすらのどかに暮らしてきたかのような笑顔をもつ東ティモールの人々の、粘り強い抵抗が、世界の人々の心に訴えて30日の投票を迎えさせたのだ。私自身、「いいとこどり」で国際社会の一員にしてもらえた気持ちだった。ところが、我々が東ティモールを去って間もなく、いや、去りつつあったまさにその頃、現地の治安は急速に悪化していった。心配されていた通りに。投票日にあれだけ大勢いた外国人も殆どが脱出を余儀なくされた。我々ににこにこと信頼の笑顔で手を振ってくれた東ティモールの人々を思い出す。インドネシア軍や統合派の暴力集団に対してすら和解を呼びかけた彼らを国際社会は見捨てなかったと、そう、後で胸を張るために、できることに取り組みたい。
参議院議員 笹野貞子事務所 東 正 夫
物心ついた私は、「ハルマハラの父ちゃん何時に帰るの」が、父に対する呼び名でした。国連東ティモール監視団の一員として笹野議員から参加を促されて、初めて読んだ一冊の本の中で東ティモールを確認したときです。東ティモールの北の島にハルマハラ島を発見したときは本当に驚きました。
それは父が私の誕生まもなく、ハルマハラ島に軍人として三年半の占領をしていた島だったからです。
戦争とはいえ日本軍のやったことに対し、「ごめんなさい」という気持ちを伝えたくてボランティアに参加しました。
案内人は、日本から国会議員の先生たちが、東ティモール住民の人権復権のために来て下さったことに深い感謝を表されたときは、本当に来て良かったと思いました。
山深いダレ地区の山中に子供を抱いて逃げた人たちに接して、地球上での社会も「自由で脅迫のない民族自決の平和な世界を創りたい」と強く念じました。
参議院議員 小川勝也事務所 梶 原 博 之
東ティモールの独立を平和裡に選挙によって実現するという希望はうち砕かれた。国際社会が容認した住民投票は、併合派やインドネシアの特定の利害関係者に住民の意思を尊重するおいう約束を反故にし、地を灼き人をなぎ倒しながら、「焦土作戦」を展開した。
住民投票への大きな期待を寄せた東ティモールの人達が、あまりにも簡単に殺され、傷付けられている。今回、われわれのサポートをしてくれた寡黙で誠実な青年たちは無事なのだろうか。彼らは東ティモールになくてはならない有為な人材である。
「殺されても投票に行く」と語っていた強い決意を示していた独立派リーダー、「選挙後が心配」と語った人の言葉は現実となった。「住民投票をしなければよかった」という後悔をさせないために、混乱と殺戮を一刻も早く止めなくてはならない。独立という理想を達成するためには、いかに取り組むべき課題が多く、努力が必要かを痛感した。
私の東チモール問題とのかかわりは、1986年夏、貴島正道さんの要請で古沢さんと共に、国連のヒアリングで意見陳述したのが始まりです。帰国後、超党派の「東チモール問題を考える議員懇談会」を作りましたが、当時は世界中がこの問題を忘れかけていました。
議員懇の代表は、秋山長造さん、山田耕三郎さん、久保田真苗さん、田邊誠さん、そして竹村さん。懐かしい名前が続きます。会の構成も政党の変化で変わり、やはり国際人権に関心を持つ者は、おのずと「民主党」に集まって来たなと感じます。
忘却のかなたに置き去りにさせじと、毎年、国連に人を送ったり、東チモール人の全国行脚を手伝ったりと、運動を続けました。1994年には竹村さん達が現地を訪れました。その前私たちが試みた時は、インドネシア政府は難癖をつけて許可しませんでした。
先の展望は何も見えず、ただ植民地の民族自決という理想だけを追い求めてきましたが、時代の波は突然大きくうねりだし、今や連日、トップニュースに躍り出ました。
国連の呼びかけで、住民投票がどのように闘い取られたかを世界と歴史に証言するため、私たちはディリに降り立ちました。
住民の一人ひとりがみな、正装し、次の世代の記憶に刻みつけようと、子ども連れで、投票する姿は、まさに感動的でした。私たちが忘れかけている民主主義の原点です。
その民主主義と人権の聖地が、突然、血ぬられた呪いの地と変わりました。偏狭と傲慢の支配は、許せないことです。国際社会の正義と信頼が、危殆に瀕しているのです。
この地を、国際社会の愛情と努力で、何としてももう一度祝福された地に変えなければなりません。日本の責任と役割は重大です。
私たちはここに、28の目と耳で実際に見聞した住民たちの正義への希求を、 必ず支持し支援することを固く誓って、この報告の結びといたします。
参 議 院 議 員 江 田 五 月
投票後、独立派民兵の活動が激化し、治安は極度に悪化した。
投票日翌日の31日にはエルメラで150人の国連関係者が足止めを食う事件が発生した。その後各地で殺人、暴行、放火が発生し始め、それまで安全であった国連職員ら、外国人の安全も脅かされるようになった。リキサではアメリカ人の国連文民警察官が銃撃された。
5日には国連安保理が緊急協議を行い、インドネシア政府と治安対策に関する交渉を行うための交渉団の派遣について合意した。6日には、それまで「聖域」視されてきた、ベロ司教宅や国際赤十字本部事務所までもが襲撃され、いっそう歯止めがなくなった状態になった。このころまでに投票監視にあたっていたボランティアや報道関係者を含むほとんどの外国人が東ティモールを脱出している。
10日になると、米政府はインドネシア国軍の襲撃への関与を公式に断定した。これまでに米国・豪州・ニュージーランド等がインドネシアとの軍事交流の中断を発表している。
10万人が都市部から山間部に逃げたとの情報があり、避難民は全体で20万人を超すとみられるという報道が10日に流されている。
12日夜、インドネシア政府がPKFの受け入れを表明した。
監視団は帰国後、東ティモールでの住民投票が公正に行われたことを証言し、投票結果が適切に現実の行動に反映されること、現地の治安の安定化のために日本政府が努力することを求め、積極的に活動を行っている。
9月2日には記者会見を行い、9月3日には高村外相に、同6日には小渕総理に対する要請行動を行った(参考資料参照)。9月3日から、竹村議員が「東ティモール住民投票結果の遵守を求める声明」の賛同者を募る活動を開始し、現在までに多数の賛同を得ている。9月8日には、江田議員が、アムネスティ・インターナショナルや東ティモール協会らのNGOとともに、町村外務政務次官、古川内閣官房副長官、インドネシア大使を訪問し、要請活動を行った。同日、NGO主催の報告会に江田議員と岡崎議員が出席。9月9日には岡崎議員が決算委員会で政府がインドネシア政府に対して、住民投票の結果を尊重し、治安維持のために有効な対策をとるよう強い姿勢で要求することを求めた。
その他、参加各議員がマスメディアや地元での活動を通して東ティモール問題への理解と協力を求める活動を行っている。
1999年9月3日
高村 正彦 外務大臣殿
民主党国会議員監視団
以上
199年9月6日
内閣総理大臣 小渕恵三 殿
民主党国会議員監視団
以上
1999年9月4日
東ティモールの住民投票について(談話)
民主党幹事長
羽 田 孜
民主党幹事長代理
鳩 山 由紀夫
本日、東ティモールの自治権を問う住民投票の結果が発表され、独立支持が残留支持を大きく上回ったことが明らかになった。
今回の住民投票の実施に対し、国連東ティモール派遣団(UNAMET)や諸外国から派遣された選挙監視員とともに、民主党選挙監視団(団長:竹村泰子参議院議員)が選挙監視活動に参加し、公正な選挙の実施に貢献できたことは大変有意義であった。
しかし、国連現地スタッフの襲撃事件が相次ぎ、死傷者が出ていることは大変遺憾であり、早急に現地の治安が回復することを望む。
私たちは、インドネシア政府及び東ティモール住民が開票結果を尊重し、住民の意思が平和的なプロセスのもとで実現されるべきと考える。
また、そのために必要な支援を国際社会と協調しつつ、わが国が積極的に実施していくことを日本政府に求める。
以上
1999年9月13日
東ティモール情勢について(談話)
民主党幹事長 羽田 孜
ハビビ・インドネシア大統領が、騒乱状態にある東ティモールに対する国際的な平和維持部隊の投入を受け入れることを決定した。
9月4日の開票結果発表から1週間以上経過し、国際社会の一致した注意喚起にもかかわらず、インドネシア政府は状況を好転できず今日に至っている。
その間、民兵のみにとどまらない併合派武装勢力の暴走により多数の住民が死亡し、ディリが「死の街」と化していることを考えれば、ハビビ大統領の決定は遅きに失したと言うべきであるが、東ティモールの治安回復と住民投票の結果に示された民意の実現のために、国際社会が必要な努力を果たす道筋がついたことを歓迎する。
日本とインドネシアとは同じアジアの友邦であり、歴史的にも人的交流の面でも、その密接な関係はアジア及び世界各国と比べても勝るとも劣らない。欧米各国が東ティモールの現状を憂慮し、経済援助の凍結を含む強い警告を発しているのに比し、日本政府の対応はあまりにもあいまいである。
東ティモールにかかわるインドネシア政府の姿勢は、日本政府のODA4原則に抵触するものと断ぜざるを得ず、大統領が国際的な平和維持部隊の受け入れを表明したとはいえ、その実行については、まだ不確実な要素が多い。
民主党は日本政府に対し、積極的に国際社会、国連をはじめとする関係機関、各国と協力し、東ティモール問題の平和的な解決に向け、最大援助国としての影響力を行使するよう強く求める。
以上
(7)投票用紙(サンプル)
(8)東ティモール地図
1999年9月24日 | 戻る/ホーム/民主党文書目次 |