2000年4月19日 坪井節子さんからのメッセージ |
少年法「改正」法案審議の前に |
政局の激動の中、国会議員の皆様におかれましては、日々お忙しい毎日をお過ごしのことと存じます。 さて4月15日の朝日新聞の報道によりますと、自民党では解散総選挙前のこの時期に他の重要法案の成立を見送ってでも、少年法「改正」法案の成立をめざす方針を明らかにしたとのことです。その理由は、名古屋での5000万円恐喝事件などの「凶悪事件」への国民の関心の高まりに応えるためということのようです。 私は、これまで日弁連の一員として、また多方面の市民の方々と共に、今回の「改正」法案の問題点を議員の皆様に訴えてきた者のひとりです。そして日本の子どものおかれている本当の姿を知る多くの議員の方が、検察官関与を軸とする今回の法案が、事実認定の適正化にも、被害者救済にも、加害少年の更生にも、非行の予防にも役立たないものであることをご理解くださり、法案の審議に慎重を期そうとされてきたことに、敬意を表して参りました。 しかし今また、国政への信を問う総選挙に向けての大切な時期に、世間の耳目を集める事件の発生に便乗して、子どもたちの未来に絶望的な影を落とす「改正」法案を拙速な審議のもとに成立させてしまおうという動きを見て、矢も盾もたまらず筆をとった次第です。 名古屋の恐喝事件は、重大であり、多くの問題を提起するものです。このような事件の発生は防がなければならず、被害者は救われなければならず、加害者は深く悔いて更生の決意を固められるようにならなければならないこと、論ずるまでもありません。ですが審判に検察官が立会い、裁判官合議制を採用し、身体拘束期間を延長し、検察官抗告権を認めるという今回の「改正」法案のどこが、これらの重大な問題のどこを解決できるというのでしょうか。 今国民が本当に求めているのは、このような事件を起こす子どもたちを生み出している今の日本の社会の病巣をえぐりだし、子どもを恐れず、子どもを見守り、子どもと共に安心して生きていける社会、子どもたちが人間らしく生き、成長できる環境をととのえることだと思います。子どもを危険視し、非行少年を厳罰に処し、社会から隔離したところで、今の社会のままである限り、またまた凶悪な犯罪を犯す子どもが生まれてきます。いたちごっこです。監獄ばかりが巨大化する社会の到来です。 名古屋の恐喝事件をもう一度冷静に見なおしてください。 大人社会を映し出す鏡 まずこの事件は、人の命を道具にして巨額の保険金をせしめるような犯罪が横行している大人社会を、そのまま映し出した犯罪であることは、間違いありません。子どもはこの社会の外で暮らしているのではありません。大人社会の真っ只中で、その価値観にさらされて生きているのです。子どもたちだけに倫理を要求しても、どうにもならないのです。まず大人が衿を正すことを求められています。 学校、警察、児童相談所の責任 この事件がここまで深刻になったのは、警察や学校、児童相談所などが、問題を直視せず、それぞれの責任を果たさなかったためだということは、既に明らかになっています。子どもは悩み、間違いを犯しながら成長するのです。その悩みを共に悩み、間違いを指摘し、転んだ子どもを助けあげ、人格をかけて子どもと共に生きようとする大人が傍にいなければ、子どもは健やかに成長できません。彼らのまわりには、そんな大人がいなかったのです。 警察も学校も児童相談所も、本来の役割が何かをもう一度思いおこすことが必要です。そしてそうした機関だけでは子どもを救えないのなら、地域の中で、真剣に子どもたちの相談に耳を傾け、本気になって動きまわることのできる子ども専門の第三者機関、子どものオンブズパースンを作っていかなければならないと思います。 何故子どもたちは、あのような犯罪を起こしたのでしょうか。 私は彼らに直接会っていません。しかし同じような恐喝事件を起こした子どもたちにはたくさん出会ってきました。事件の結果だけを聞くと、モンスターであるかのように恐ろしくなる子どもたちですが、会ってみれば、私たちの子どもと同じひとりの「人間」だとわかります。それもこれまでの人生の中で、一度も自分のありのままの存在を認められたことのない、自分の人生にプライドを持てない、自信も希望も奪われた悲しい子どもたちなのです。 一見経済的にも、社会的にも恵まれた状況にある日本の子どもたちです。でも親や教師、周りの大人たちから、「あなたが生まれてきたよかった」と言ってもらえない、いつもいつも「だめなやつだ」「お前など生きている値打ちはない」「いない方がいい」とさげすまれ続けた子どもたちが、なんと多いことでしょうか。その屈辱的な痛みを訴える相手もいない、怒りを理解してくれる人もいない子どもたちが、痛みと怒りをためこみ、荒れすさみ、大人に絶望し、人生を投げ出して復讐を始めてしまう。彼らは単純にお金が欲しかったわけではないのです。人を傷つけ、金を巻きあげるという形で、たまりにたまった痛みと怒りを発散させたのです。それは一方で認めてほしい、愛してほしい、助けてほしいというSOSでもありました。それを「甘え」だといえる人は、彼らほど追い詰められずに生きてこられた人なのでしょう。しかし彼らには、そうしかできなかったのです。 彼らは反省していないと責められます。でもすぐには反省などできないのです。自分たちが暴力にさらされ、屈辱を受け、人間として認められず、捨てられてきた過去を、誰もあやまってくれないのです。なぜ彼らだけが反省できるでしょうか。 彼らが本当に反省し、更生を誓えるようになるためには、全人格をかけて、彼らの人間としての尊厳を取り戻し、罪の深さを悟ることができるよう働きかける大人たちが必要なのです。彼らがこれから出会う家庭裁判所の調査官や裁判官、鑑別所の技官、付添人、少年院等の教官らに、そのような情熱と力を備えた人材が配置されることを願います。 彼らが再び同じような犯罪を引き起こすことがないような人間に成長すること。彼らを排除せず、受け入れてその成長を促すこと。本当に安全な社会はそこからしか生まれないのです。 加害少年の親の責任はどうなのでしょうか。 彼らを認めきれなかった、愛しきれなかった、見て見ぬふりをしてきた親の責任は、自覚されなければならないでしょう。子どもたちは、「いい子だから愛される」のではなく、無条件にそこに存在することを喜ばれるという関係を必要とします。それは通常、親によって与えられるものです。この少年らの親が子どもたちのありのままを愛してこれなかったこと、その結果として子どもが苦しみ出したことを理解できなかったこと、そして子どもの抱える問題から逃げてきたこと、そうした経緯を、親にきちんと自覚してもらわなければなりません。 これまでの分析から明らかだと思います。 |
2000年4月19日 少年法「改正」法案審議の前に |