戦争と平和の問題や国家と忠誠の問題などにつき、議論が賑わっています。私は民主党憲法調査会の事務局長として、これまでの護憲論に立て籠もって憲法論議を封じ込めることに終止符を打ち、パンドラの箱を開けて壮大な憲法論議を起こしたほうがいいと考え、民主党の憲法論議をスタートさせました。それが、現憲法の下で育った私たち世代の役割だと思ったのです。そのことで許さないと言われるなら、もちろん許しは請いません。
戦後改革で育った世代の感性や思想は、戦前の国民を戦争へと駆り立てた世代の感性や思想よりも、ずっと豊かで強靭だと確信しています。もう一度この確信に立ち返って、自由な議論を起こさないと、戦後改革の思想性がどんどんひからび、折角の戦後の平和や幸福追求の尊重などが、烏有に帰することを心配したのです。
しかし、昨今の議論を見ていると、靖国神社の議論に象徴されるように、戦後改革を論難する側の議論に対し、これを評価し推進する側の議論が萎縮しているようで、残念です。「無条件降伏」拒否にしても「東京裁判」批判にしても、本格的な反転攻勢が必要だと思います。
靖国で会おうといって死んでいった死と交通事故で死んだ死は、質が違うので、崇高な自己犠牲に対し国家が尊崇の念を持って追悼しなければならない、という議論には、私は全く同意できません。国家が、そのような論理を立てて、国民精神を戦争に動員しただけのことです。そうしなければ動員できなかったからです。この論理を認めることは、自己犠牲を否定して入獄した人は非国民だというレッテル張りを、再び認めることになります。
国民から見れば、死は死なのであって、交通事故は運が悪かったと言えても、戦争で殺されたのは運の問題ではありません。国民が体制によるそのような論理操作を許したという点では、国民は自業自得かもしれませんが、国家指導者が国民に自業自得だなどと言うことは、許されないことです。
それでも、そのような論理操作の中で亡くなった人に対し、哀悼の意を表するのは当然です。しかしその施設としては、靖国神社は全く不適切だと思います。もちろん、個人が遺族として靖国参拝で故人を偲ぶのは、尊重すべきことです。