平成十三年四月十八日(水曜日)
午後一時二分開会
─────────────
委員の異動
四月四日
辞任 補欠選任
柳田 稔君 吉田 之久君
島袋 宗康君 佐藤 道夫君
四月十七日
辞任 補欠選任
吉田 之久君 峰崎 直樹君
─────────────
出席者は左のとおり。
会 長 上杉 光弘君
幹 事
海老原義彦君
野沢 太三君
野間 赳君
江田 五月君
堀 利和君
山下 栄一君
小泉 親司君
大脇 雅子君
委 員
阿南 一成君
岩城 光英君
木村 仁君
久世 公堯君
陣内 孝雄君
世耕 弘成君
中島 啓雄君
中曽根弘文君
松村 龍二君
森田 次夫君
脇 雅史君
小川 敏夫君
川橋 幸子君
北澤 俊美君
寺崎 昭久君
直嶋 正行君
松前 達郎君
峰崎 直樹君
魚住裕一郎君
大森 礼子君
橋本 敦君
吉岡 吉典君
吉川 春子君
福島 瑞穂君
水野 誠一君
平野 貞夫君
佐藤 道夫君
事務局側
憲法調査会事務
局長 大島 稔彦君
参考人
埼玉大学教養学
部教授 長谷川三千子君
静岡大学人文学
部教授 小澤 隆一君
─────────────
本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
(国民主権と国の機構)
─────────────
○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
日本国憲法に関する調査を議題といたします。
本日は、国民主権と国の機構について参考人の御意見をお伺いした後、質疑を行います。
本日は、埼玉大学教養学部教授の長谷川三千子参考人、静岡大学人文学部教授の小澤隆一参考人に御出席をいただいております。
この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
参考人の方々から忌憚のない御意見を承りまして、今後の調査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
本日の議事の進め方でございますが、長谷川参考人、小澤参考人の順にお一人二十分程度ずつ御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
なお、参考人、委員とも御発言は着席のままで結構でございます。
それでは、まず長谷川参考人からお願いいたします。
○参考人(長谷川三千子君) 本日は、お招きいただきまして大変ありがとうございます。
本日の会議に先立ちまして、調査会の事務局からはいろいろな資料をちょうだいいたしました。そこには、一年余りにわたるこの会議の会議録もございました。その中に、私が特に感銘を受けた御発言がございました。これは大学生の方の御発言なんですが、こんなふうにおっしゃっていらっしゃるんです。「今日求められる憲法論議とは」「憲法が実現しようとしている正義や理想それ自体を再検討する立憲的な議論であると思います。」と、こういうふうにおっしゃっていらっしゃいまして、私はこれに大変感銘を受けました。
現在では、たくさん憲法論議と称するものが行われておりますけれども、本当に憲法の原理についてきちんとした吟味、検討をするという場は非常に少のうございます。私は、この憲法調査会、殊に参議院の憲法調査会というのは、そういう原理についての立憲的な議論のできる数少ない貴重な場であると認識しておりますので、私自身できるだけその皆様の御期待に沿えるような形で原理についての吟味、検討という、そういう立場から考えてまいりたいと存じます。
殊に、きょう話題になっております国民主権という原理は、日本国憲法の原理の中でも、とりわけ大事な柱となる原理と言われております。それだけに、それについての吟味、検討というものは十分に客観的に綿密に行わなければならないと存じますので、私もきょうはその観点から、限られた時間ではございますけれども、できる限りの検討をしてみたいと思います。
まず、国民主権というのはどういう原理なのかというふうに問われたときの一番常識的な基本的な答えはどんなふうなものかと考えてみて、これが、お手元にございます参考資料の@をごらんいただきたいんですが、これはある中学校の社会科教科書の公民に出ている国民主権についての説明でございます。「国民主権は、国家の権力は国民がもっており、政治は国民によって行われるという原理である。」と、これはもう本当に正しい、何の間違いもない解答と言っていいと思います。ただし、すらっとこれだけを言われますと、何か余りにも当たり前のこと、何を今さらこれが原理なんだというふうに感じる中学生もあるいはあるかもしれません。
日本の政治は日本国民によって行われる、これは日本の長い歴史を振り返ってみましても、日本の政治が日本国民以外のだれかによって行われたというのは、第二次世界大戦の敗戦後の占領足かけ七年間のほんのわずかの特殊な例外的な時期だけでございます。日本の政治は日本国民によって行われる、これは何か余りにも当たり前ではないかという感じがいたします。
ところが、そういうことではないんだ、国民主権というのはもっとはっきりした原理でありイデオロギーであり思想なんだということを指摘してくださるのが佐藤功先生の「日本国憲法概説」の中の、この二番に皆さんに御紹介してございます一節です。
この「日本国憲法概説」という本は、多分昭和三十年代に法学部の大学生でいらした方は皆さんおなじみの、いわば教科書的な本と言ってよろしいかと思いますけれども、その中で佐藤功先生は、国民主権というのは、単に国家を形成するすべての人間の意思が政治権力の源泉であるという抽象的な無色な思想をあらわすのではないとはっきり喝破していらっしゃいます。「その歴史的性格に注意する必要がある。」、これが私は非常に重要な御指摘だと思います。
国民主権という原理を理解する上で、それがどういう歴史的な経過でどういう思想として形成されてきたかという、これが非常に重要な意味を持ちます。これは、決して単に過去たまたまそういうときにあらわれたというエピソードのようなことではなくて、このこと自体が実は国民主権という原理の本質を形づくっている。
そういう側面のあることをきょう少し眺めてまいりたいと思うんですが、ではその歴史的性格と言われるその歴史的出来事は何なのかといいますと、十八世紀後半のアメリカ革命、フランス革命というこの二つの革命であると佐藤先生は御指摘なさっていらっしゃいまして、まさにそのとおりなんです。ただ、今回、きょうは非常に時間が限られておりますので、アメリカ革命における国民主権の形成という、これは非常に複雑な問題で、多分小澤先生がこれについては正確に御説明くださると思いますけれども、私は、きょう差し当たっては、より単純で、しかもより典型的なフランス革命における国民主権という概念の出現という、そちらの方に焦点を絞って眺めてみたいと思います。
しかし、いずれにしましても、この歴史的性格というのは結局何なのかというと革命ということなんですね。革命という言葉は我々よく使うんですが、実は革命というのは端的に言って何なのかといいますと内戦なんですね。つまり、国の内側である二つの勢力が相争う、それが革命の端的な姿なわけでして、ここに佐藤功先生が国民主権というのはその意味で闘争的な概念なのであるとおっしゃるのは、これもまた非常に的確な御指摘だと言っていいかと思います。
これは、たまたまフランス革命、アメリカ革命の場合、どちらも君主に対抗する、あるいは特権階級に対抗するという、そういう国民の戦いであるという性格があるわけなんですが、これが果たしてそれだけで終わるものなのか。国の内側において二つの勢力が相争うという歴史的経過から登場してきたということが現在の国民主権の上に影を落としているかいないか、それについての吟味、検討というものが一つ問題点としてここから浮かび上がってくると言っていいかと思います。
そういう意味で、この佐藤功先生の「日本国憲法概説」に書いていらっしゃる御指摘は非常に重要な大事な御指摘なんですが、ここにはちょっと一つだけ微妙にニュアンスのずれと言っていいようなものがあると思います。これは、君主主権、国民主権という場合の主権概念自体が闘争的な概念であると受け取れるような書き方をなさっていらっしゃいます。ところが、実際には主権概念それ自体はむしろ内戦という、そういう国家のある意味で病を克服しようという動きの中から出てきたんだということ、これも一つ我々が心得ておいていいことではないかと思うんです。
これが三番にちょっと引用してございますジャン・ボダンの「国家論」からの主権というものの定義なんですが、ジャン・ボダンは十六世紀のフランスの法律家なんですが、既に十三世紀からフランスにおいて使われていた主権という言葉を正確に初めて定義した人というふうに知られております。主権と我々が日本語で訳すこの言葉のもとの意味は、端的に最高の力という意味でして、それをこのジャン・ボダンの「国家論」は最初にフランス語で書かれておりまして、それが十年ぐらい後にラテン語訳になるんですが、その二つのフランス語版とラテン語版においてボダンはちょっと違う定義づけをしております。まず、最初にフランス語版の方では、「主権とは国家の絶対的で永続的な権力である。」というふうに定義しております。これは、今我々がいわゆる国家主権として習っているそういう概念なんです。
今の例えば公民の教科書でも、国家主権とそれから国民主権というときの主権とはページも四十ページぐらいかけ離れたところで説明しております。我々自身、全く同じ主権だという意識なしにこの言葉を使っているんですが、この主権という概念の定義の出発点においては、これは本当に一つの同じ事柄の二つの側面という形で定義されている。これも一つ、我々が心の片隅にとめておくべきことではないかと思います。
殊に、国家主権という言葉が、現在では何かまるでこの言葉を言うこと自体が好戦的な姿勢であるかのようなそんな風潮も見られるんですが、実はボダンの国家主権の定義というのはこれと同時にこんなことを言っております。主権国家というのは、ヨーロッパだけに主権国家があるんではない、アフリカにもアジアにも多くの主権国家があって、これは神の前ではみんな平等の国家なんだという国家平等論をうたっているんです。これはキリスト教の神を前提としているということはあるんですが、考え方それ自体としては二十世紀の国連の基本としている考え方そのままなんですね。そういう先駆的な思想というものが既に主権という言葉に伴ってあらわれていたということも、ちょっと我々がついでながら心しておいていいことではないかと思うんです。
いわゆる君主主権と言われるのがこの後半の定義なんですが、まずここで、ボダンは一体何でこういう定義づけをしたんだろうかということを理解しておく必要があります。これは、今ちらっと申しましたように、フランスの十六世紀というのは、宗教戦争で国内の内紛が絶えない、ほとんど国が分裂するんではないかと内側にいる人にとっては感じられるような、そういう危機の時代でございました。この危機を何とかして乗り切っていくためには、このフランスという国家の船を沈没させないようにしっかりと国家のシステムをつくり上げる必要がある。それにはまず、平たく言えば国が一つの国家としてしっかりとまとまること、それからそのかじ取りをだれがするのかということがしっかり定まっていて、しかもそのかじ取りが自由に行えるようになっていること、これが危機に際しては非常に必要なことである、これがボダンの「国家論」を書くに当たっての心構えだったわけです。
そういう観点から、君主主権の定義というものも行われております。ここには、「主権とは市民や臣民に対して最高で、法律の拘束をうけない権力である。」という、こういう定義づけがなされております。ボダン自身としては、これは今申し上げましたように、あくまでも危機を乗り切るために必要な方便という、そういう意味での定義づけをしているわけです。
ですけれども、皆さんすぐお気づきのように、これはある意味で大変危険なものを含んでおります。法律の拘束を受けない権力というものを主権者に与えた場合に、これは何でも主権者が望めば法律お構いなしに行うことができるという一種の暴君容認論になりかねないわけです。ボダンは、これについては非常にはっきりと歯どめをかけております。ボダンはこの「国家論」の中で、主権の定義と同時に正しい統治論というものを掲げておりまして、主権者といえども、つまり最高の力の持ち主といえどもこの宇宙の絶対の支配者である神に対してはしもべである。神の命令、すなわち正しい統治を行えという命令に背いたらば、たちまち天罰が下るということを言っているんです。
正しい統治というのは何なのかというと、これは彼の言うところによれば、国民の自由と財産と生命を守り保障するということなんですね。つまり、端的に言えば国民のための政治をせよと、こういう縛りがある。それに背いたときには君主、最高の権力者といえども神罰を得ずにはいられないという、そういう考え方なんです。ですから、差し当たってボダン自身の主権論の中では、これは決して闘争的な概念でもなければ暴君容認論でもない。ただし、今申し上げたように、そういう歯どめを抜きにしたらば非常に危ういというものが確かにその中にはあったわけです。
これを二百年後にちょうど反対側にひっくり返しましたのが、これが四番に挙げておりますシェイエス、シェイエスのこの「第三階級とは何か」というのは、一七八九年、フランス革命の直前、その年の一月に出版されまして、これが間接的にフランス革命の火つけ役になったとも言われている、フランス革命の理論家と言われるシェイエスの主張なんですけれども、そこではっきりとシェイエスは、国民主権という言葉は使っていないんですが、国民主権の思想を語っております。ちょうど君主を国民に置きかえた形で、国民が意思すること、それが法律となるのだと。そして、国民はあらかじめ法律に縛られることなしにその意思を通すことができるという、そういう国民主権の理念というものをここで打ち出します。
ただし、一つだけここで違うのは、ボダンの場合には神による命令というものがあったんですが、この国民主権では神による命令というものは一切取り除かれているんです。むしろ逆に、これははっきりと国民を神の位置に置いているというふうに言うことができるんです。
例えばここに、「国民はすべてに優先して存在し、あらゆるものの源泉である。」、あるいは「その意思は常に至上至高の法である。」という表現があるんですが、これは明らかにそれまでの時代では神だけに使われるような表現なんですね。ここで、いかに国民というものが至上至高のものに祭り上げられているかということがはっきりと見てとれると思うんです。
ただ、それだけなら構わないんですが、ここで一つ問題があるのは、例えば「国民がたとえどんな意思をもっても、国民が欲するということだけで十分なのだ。」というこういう言い方をしております。これは神の場合でしたら問題ないんですね。神は全知全能で絶対の善の存在ということになっていますから、これは神の意思というものは、たとえどんなことを欲しようとも究極的には善であるという教義になっております。ところが、国民というのは要するに人間なわけですから、人間というものは過ちも犯し、また邪悪な心を持つということもあり得る。ここで、「国民が欲するということだけで十分なのだ。」ということは、これは大変危険なものを含んでいるわけです。
実は、このシェイエスの少し先輩に当たりますジャン・ジャック・ルソーという思想家がいるんですが、彼がこれに非常に近い、シェイエスがここで国民の共同意思という言葉を使うんですが、それに非常に近い考え方を一般意思という形でジャン・ジャック・ルソーは論じております。ただし、そこではルソーは一般意思というのは何でも人民が望めばそれが一般意思なんではないんだ、人間自身が理性でもって自分の欲望を抑える、そういうことがあって初めて一般意思というものが可能になり、そして人民主権が可能になるんだということをはっきり言っているんです。ところが、それに対してこのシェイエスは、そういう道徳的なお説教はたくさんだということをはっきり言っているんですね。もう国民が欲するということ、それを多数決で決める、それが直ちに国民の意思になるんだということを断言しているんです。
ここで我々は考えてみなければならないのは、こういう歴史的性格というものが現在の我々の考えている国民主権というものの中でどの程度きれいに修正されているのか。つまり、こういう単に非常にある意味で乱暴なシェイエスのような、国民が欲するということだけで十分なのだという議論になっているのか、それともルソーが語るように、国民人民の一人一人が理性で自分の意思をコントロールする、それが前提になるのだということが本当にきちんと国民主権の理念の中に入り込んでいるのか、そういったことをきちんと吟味することなしに日本国憲法の柱は国民主権であると、ただそれだけを言って済ましていたのではやはり無責任な憲法論議ということになってしまうんではないかという気がいたします。
そんなところで私の問題提起を終わらせていただきます。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
次に、小澤参考人にお願いいたします。
○参考人(小澤隆一君) 静岡大学の小澤です。
本調査会に参考人としてお招きをいただき、光栄に思います。
国民主権と国の機構に関する総論的な内容の意見を述べることが私に対するお招きの趣旨と受けとめ、かつ日本国憲法について広範かつ総合的な調査を行うという会の設置の趣旨に即して、レジュメの標記のテーマでお話をさせていただきます。
表題の冒頭に「日本国憲法における」と掲げたのは、憲法を変える変えないの議論をする前提として、日本国憲法に盛り込まれた理念、権利がどのようなものであり、それはこの憲法の五十有余年にわたる運用の中でどのように扱われてきたのかを踏まえるべきこと、このことの検討抜きに議論は成り立たないことを強調したいからです。また、検討は総合的に行われなければなりません。広範であるということは散漫とは違うはずです。また、個別具体的な問題を検討する場合でも、憲法の制度全体への目配りやその歴史的な展開を見る視点を失ってはならないと思います。個別の事実、あるときの歴史的出来事だけを取り出して憲法を論ずることは厳に慎まなければならないと思います。
レジュメに即してお話をさせていただきます。
一、まず国民主権と国の統治という主題についての私の基本的な考え方を述べたいと思います。
第一に、国民主権の原理は、西欧近代におけるその成立以来、今日に至るまで普及発展し、世界の多くの国々の憲法の基本となっていること、それは今日、経済のグローバル化や国際法秩序の変容などによってその機能や意義について変化が生じてはいるものの、今なお重要な役割を果たしており、そして二十一世紀中も相当程度の間、相当程度の間というのはどのぐらいかはちょっとまだ見当がつきませんが、重要な役割を果たし続けるであろうということです。今後とも、この原理を維持しつつ、その内容を豊かにしていくことが憲法を考える際の基本に据えられなければなりません。
第二に、国民主権との関連で国の統治とその機構を問題にするならば、主権者たる国民と国民の代表府たる議会、議員との関係をまずもって論じなければならないということです。先立つ三回の本調査会では、各参考人から二院制、国会と内閣の関係、裁判所、地方自治、天皇などについて意見が寄せられています。いずれも国民主権と国の機構というテーマにとって重要なものですが、この時間も限りがありますので、私の意見は、他のあらゆる問題よりも基本的で、すべての問題の出発点になると思われる主権者国民と国会、国会議員の関係に問題を絞らせていただきます。
二の国民主権の意義です。
国民主権の原理は、今、長谷川参考人が御説明なられましたように、アメリカの独立革命やフランス革命によって樹立され、日本では現在の憲法によって初めて採用され、今日に至るまでその内容を豊富化させてきています。
市民革命の時代には、国民主権は制限選挙制をも容認するものとされていました。女性は長らく参政権すら与えられませんでした。市民の政治活動や表現の自由が厳しく制限されたこともありました。その後、選挙権がすべての男性と女性に保障され、市民の政治活動、政治への参加、政治の監視が国民主権を基礎づけるものとされるようになりました。今日の国民主権は、こうした人類多年にわたる自由獲得の努力の成果、日本国憲法の九十七条ですが、を踏まえて理解されなければなりません。
国民主権原理は、その長い歴史の中で、国民とはその国の国籍を持つ人の全体であるとか、あるいは過去、現在、未来の国民という抽象的な全体であって、みずから主権を行使できるものではないとか、あるいは国民に主権がある、主権があるとは国家権力の正統性が国民にあることを意味し、国民主権から即国民の政治参加が導かれるわけではない等々のさまざまな説明が示されてきたこともあります。二百数十年、国民主権の長い歴史の中でいろんな説明がされてきております。
しかし、今私が言いましたようなそういう説明は、今日の到達点にあってはもはや克服されていると思います。レジュメにも書きましたように、国民主権とは今日の段階では、すなわちその国において政治に参加する能力のある市民が平等に選挙その他の方法で政治に参加し、国の政治の基本的な方向を決定する権能を持つこと、このことを要請する原理として理解しなければならないだろうと思います。
そして、国民主権の憲法のもとでも、現実に国の政治を動かすのは皆さんのような議員やあるいは政府などでありますから、それらの活動を監視し、コントロールし、そしてその活動に国民の意思を反映させるために国民主権の重要性は今日なお低下しているわけではないと思われます。
三番目の主権者たる国民と国民の代表との関係に移らせていただきます。
以上のような国民主権の理解を前提にいたしますと、主権者たる国民と国民の代表、すなわち国会、国会議員との関係はどのようなものになるでしょうか。
日本国憲法は、十五条で「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」と定め、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する。」と四十三条一項で規定しております。これらの規定から、国会議員は全国民の代表として国民によって選挙されること、そして十五条一項が書きますように、罷免されることもあり得る存在であることがここからわかります。ただし、この十五条一項の罷免という表現をでは一体どう制度でもって実現していくのか、あるいはし得るかについては、これは学会の中でさまざまな意見があります。
でありますが、しかし、少なくともこの罷免という言葉によって、選挙された公務員は主権者たる国民に対して責任を負って政治を行わなければならないという原理が表明されている、このことだけは確かなのではないかというふうに思います。ある議員が汚職などをきっかけにしてその職を辞すること、これはこの国民代表たる責任にたえないということのゆえであるというふうに理解することができるだろうと思います。
国会議員が全国民の代表であるということは、それでは一体どういう意味か。先ほど長谷川参考人もフランスの例を御紹介されましたけれども、フランスで革命後初めて成立した憲法は一七九一年の憲法です。その憲法の中で国民主権が宣言されていますが、それと同時に次のように定めてあります。県において任命される議員は、各県の代表ではなく全国民の代表である、県の代表ではなく全国民の代表だということです。市民革命が樹立したこの理念は、国民の代表たる議員は、その選挙区あるいは支持母体を専らに代表するものではなく、全国民の代表でなければならないという意味において今日でも営々と生きております。
実際に国会議員が全国民を代表するというのは、それは現実には不可能なことだと、無理を要求されている、だからこんな規定は事実に反するから変えてしまえなどというような憲法改正案を私はこの間、寡聞にして聞いたことがありません。
全国民の代表である委員の皆さんは、特定の人々、特定の団体を専らに代表するものであってはならない。言いかえれば、政治には公共性が要求される、このことは近代市民革命における国民主権原理の樹立以来の揺るぎない原則なのです。そのことを、本会の元会長と元幹事が収賄容疑で起訴されている今、改めて私は強調したいと思います。この原則に背くようなことがあれば、それは、すぐれて公共的な事柄である憲法についての広範かつ総合的な調査を行う資格が問われるのだということを一人の国民の立場から申し添えておきます。
四に参ります。
全国民の代表にふさわしい選挙制度とは、それでは一体どのようなものか。選挙制度だけではありません。政治資金のあり方も含めて、国会とその議員が全国民の代表にふさわしくあるためにはそれなりの工夫が必要です。政治資金の規制は、議員が全国民の代表という性格から離れていってしまわないための工夫であるというふうに言えましょう。
ここでは、選挙制度の組み立てを中心に、どのような配慮、工夫が必要であるかについて述べたいと思います。
憲法四十三条一項に基づくならば、両議院の選挙制度は全国民の代表を選挙するためにふさわしいものでなければなりません。このことから、次のようなことが要請されるはずです。
まず第一に、今日のように複雑な社会のもとでは、主権者である国民の中にはさまざまな政治的意見を持つ人が含まれています。両院がそのような国民のすべての代表であるためには、多様な民意が反映される選挙制度を採用することが望ましいと言えます。
選挙制度の具体的な構成については、立法府の裁量によるところが少なくないと思います。が、それでも少数意見が著しく過小にしか代表されない、その意味において民意の正確な反映という趣旨から大きく逸脱するような選挙制度は裁量の限界を超えるものと思われます。いわゆる死票を大量に生じさせるような選挙制度は、この要請にそぐわないものと言えます。
第二に、憲法十四条一項及び四十四条に基づく選挙人の資格、すなわち選挙権の平等の要請も、選挙制度は全国民の代表を選ぶにふさわしいものであるべきだという要請との兼ね合いでその意味が明らかにされなければならないと思います。選挙権の価値が選挙区の間で平等でなければならないということは、十四条や四十四条によって差別してはならないというふうに要求されることと同時に、両議院の議員は全国民の代表なのだという点からも求められているのです。
この点にかんがみて、現在の衆議院の選挙制度は小選挙区の間の人口格差が二倍を超えており、問題があります。参議院の選挙区に至っては、定数の対有権者比格差が最近まで五倍ありました。いずれの場合も最高裁判決は合憲との判断を下していますが、五名の判事による違憲判断の少数意見がついていることを指摘しておきたいと思います。
私は、特に参議院の選挙区における定数格差を選挙区選挙の議員は県の代表たる性格をも有するのだということを理由に正当化することは、憲法四十三条の趣旨に照らして許されないのではないかというふうに思います。それは、その議員が全国民の代表であるというその性格を否定することになるからです。県の代表ではなくて、全国民の代表であるはずだと思います。
なお、近年、参議院の選挙制度に関してさまざまな議論が始まっているようでありますが、その際に、参議院議員の国民代表たる性格を一体変えるのか否か、そういう点まで果たして議論の射程が及んでいるのかどうか、その点はなお不明確であるように思えますし、検討も決して十分ではないように思います。この点について慎重に考慮、議論していただきたいように、その種の議論に対しては感じております。
第三に、全国民の代表を選ぶ選挙制度は、すべての国民にその制度の趣旨がわかりやすいものでなければなりません。選挙で投票するに際して一体何を基準に投票することが求められているのか、このことが国民にわかりやすい選挙制度であるということです。
その点では、候補者個人に投票をする選挙区選挙や、あるいは政党名簿に対して投票する拘束名簿式の比例代表選挙はわかりやすいと言えます。反対に、このたび本院の選挙に導入された候補者個人名と政党名のいずれの投票も可とする比例代表選挙の方式は、国民にとって極めてわかりづらい選挙制度ですので、改めていただきたく私は考えております。
第四に、国民主権の理念の実現のために、選挙と選挙運動の制度は国民に開かれたものでなければなりません。
この点では、現在の両院の選挙における立候補の制度は、その高額な供託金によって国民にとって極めて敷居の高いものになっており、選挙運動も戸別訪問を全面一律に禁止するなど、そのことによって厳しく制限されており、多くの問題点があります。これらの点について、再検討をお願いしたく思います。
第五に、国民代表たる国会の最大の任務は言うまでもなく立法です。そのためにも、立法に当たっての両院の調査立案機能をさらに充実されますよう希望いたします。
また、議院内閣制の健全な運営のためには、両院による内閣の行政運営に対する適切なコントロール、これが必要不可欠なものと思います。日本国憲法六十六条の第三項は、「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負ふ。」と定め、内閣不信任決議の権限の有無にかかわらず両院が内閣の責任を問えるものとしていますから、その趣旨を踏まえて貴院におかれましても、内閣に対する適切なコントロールを行使されますよう期待しております。
最後に、結びとさせていただきます。私の意見は以上のようなものです。
主権者国民と国民代表府たる議会、議院との関係という国の統治の基本的事項にかかわっては、現在の憲法のどこかを改正して新たな制度につくりかえるというようなことは、今日まで具体的な問題として特に提起されてきていないように思われます。逆に問題があるとすれば、それはむしろ現在の両院の選挙制度や政治資金規正の制度などが日本国憲法の国民主権や国民代表制の原理から見て満足なものではなく、なお立法による改善の余地が大きいということにあると思われます。
今後とも、国民主権と国の統治の問題を調査されます際には、現在の選挙制度、議会制度、政治資金制度等が、憲法の理念を踏まえて、その趣旨にのっとり設計され運用されているか、仮にそうでないとすれば、その原因はどこにあるのかについて、厳密かつ入念な検討を踏まえて具体的に明らかにしていくようお願いいたします。
改めるべきは憲法の方なのか法律以下の制度や運用実態の方なのかの判断は、そのような今私が申しましたような検討を踏まえてなされるべきことを強調して、私の意見の結びとさせていただきます。
以上です。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
これより参考人に対する質疑に入ります。
質疑のある方は順次御発言願います。脇雅史君。
○脇雅史君 お二人の参考人、大変に貴重な御意見をいただきましてありがとうございました。
私は、長谷川参考人にまずお尋ね申し上げたいわけですが、まことに申しわけないんですけれども、きょうお話をいただいた部分からちょっと外れるんですけれども、事前にちょっとお書きになったものを読ませていただきまして極めて刺激を受けたといいましょうか、そういう部分がありますので、また国民の皆様にもぜひ知っておいていただきたいことではないかなというふうに感じましたので、その点についてまず御質問をさせていただきます。
私が国会に設けられました憲法調査会の議論をずっと伺っておりまして一つ単純に考えておりましたことは、何でこの憲法の制定過程といいましょうか、そんなにもこだわるんだろうかと。もう五十年以上も前の話、ぐだぐだ言わなくても、もういいじゃないかと。今あるんだから、そのある憲法について、これから二十一世紀、我々がその憲法のもとに新たな国家社会を築いてやっていく中で、不都合があれば変えればいいし、足りない点は加えればいい、そういうことでいいんじゃないだろうかというふうに思っていたんですが、実は、長谷川さんの書かれたものを見まして、それが大いなる間違いだということに私は気がつきまして恥ずかしく思ったんです。
実は、その制定過程というものが、国と憲法、国家と憲法ということを考えた場合に、極めて本質的な問題であって、内容と同等に考えるべきものなのかなと、そういうふうに私は受け取ったわけですけれども、その点につきまして、時間がなくて恐縮ですけれども、簡単にお話をいただければと思うんです。
○参考人(長谷川三千子君) お答えいたします。
今ちょっと問題から外れて申しわけないと脇先生がおっしゃったんですが、実はもう根本的なところで国民主権の問題それ自体と制定過程ということは深くかかわっております。
今申し上げましたように、主権という言葉は最高の力という意味なんです。この主権というものが一番典型的に発揮されるのが憲法を制定する力としてなんですね。今御紹介いたしましたシェイエスの言葉も、これもまさに憲法を制定する力として国民が至上の力を持っているという、そういう話なんです。ですから、少なくとも国民主権ということを重要な憲法の柱にする以上、その憲法が国民の力によって、日本国民の力によって制定されたものであるということが不可欠だということになるわけです。
その点において、日本国憲法の制定過程というのは明らかに、その当時確かに国会は開かれておりましたけれども、その国会をさらに統御する最高の力というのは法律的にも当時GHQの最高司令官のマッカーサーのもとにあったわけでして、現に国会の審議も全部GHQに逐一報告して、委員会の審査過程でも全部GHQの許可を得ないとそれが決定されないという形になっておりました。これは、もうごく伝統的な国民主権の概念に照らして、全く国民主権の存在しなかった状態というべきものだと思います。
ここで、先ほどちょっと私が示唆いたしましたように、主権というこういう近代西洋の概念、それ自体をすっかり取っ払ってしまって全く別の概念を持ち込もうということならば、この制定過程というものを問題にしないという道もあり得ると思います。つまり、いいものができればいいじゃないか、意思が問題ではない、理性が問題なんだから、日本国民が力を持っていなくても日本国民が頭でいいと思ったらそれでいいじゃないかという議論もあり得るんですが、しかし国民主権ということを原理としてうたってしまった以上、この制定過程における力の問題というものは絶対に無視できない問題になってしまう。そういうジレンマを日本国憲法は抱えていると存じます。
なぜ憲法の制定過程が問題になるかといいますと、今、脇さんがおっしゃったとおり、そういう国民主権ということ、大事な原理原則それ自体に直接かかわってくるからなんだというふうにお答えできると思います。
○脇雅史君 どうもありがとうございます。
多分、今のお話、国民の皆さんお聞きになって、すんなり胸に落ちるといいましょうか理解をしていただけないかもしれないというふうに私自身思うんですが、私の経験からして、それをきちんと考えていくということがこの憲法を考える上で極めて大事だということだけは感じましたので、ここでもう一回表明をさせていただきたいと思うんです。
もう一つ刺激的な部分がございまして、憲法第九条は破滅的な条文であるという言い方をされていましてぎょっとしたんです。だれも平和を希求するという、求めるという概念について反対する人はいないですし、妙な言い方だなと思ったんですが、これまたよく読むうちになるほどと感心をしたわけであります。私自身も、ただ普通に読んでいて第二項というのが余分なんじゃないかなと漠然と思っていたわけですけれども、先生のお書きになったものを見て改めて感じたわけですけれども、この点もやはり国民の皆さんに知っておいていただきたいと思うものですから、ぜひ少しお話をいただければと思います。
○参考人(長谷川三千子君) お答えいたします。
第九条一項は全く問題のない条文なんです。これは不戦条約にもありましたとおりの国際的な平和希求の文言をそのまま踏襲しております。ただ、第二項の陸海空軍の戦力を持たない、保持しないということは、これは国家としての力を持たないという宣言なんですね。
私たち、主権と力という概念は全く別の言葉のように考えているんですけれども、今申し上げましたとおり主権というのは本来、力という言葉なんですね。ですから、力がゼロである規定というものを憲法のうちに設けますと、これはもう国家主権あるいは国民主権というときのその国の主権の大もとがゼロになるということになってしまう。ゼロのものを国民が持つか君主が持つかということはほとんど意味をなさないわけでして、ですからこの憲法第九条の二項、力を持たない、ゼロであるというのはそういう意味で論理的にまずいということなんです。
それからさらに、それが果たして本当に平和を達成するために必要なことであるのか、また平和を達成するためにベターなことであるのかというこの議論はまたもう一つ別な議論になるんですが、ピース・キーピング・フォースという、これは武力ですよね、つまり平和を保持するためには力が要ると。これは少なくとも、残念ながら現代の国際社会の常識になっております。平和を保持するためには全員が祈りをささげて道徳的に生きようというところまで現代の国際社会は進んでおりません。
ですから、そういう意味でも、完全に力を放棄するということは平和を保持するための活動を一切放棄するというそういう意味も持つわけでして、今回は国民主権が話題でして九条が問題ではないんですけれども、そのことは主権という言葉に絡んでやはり忘れてはいけないことではないかというふうに考えます。
○脇雅史君 どうもありがとうございました。
きょうのお話の中から、主権ということについていろいろ歴史的なことをお述べいただいたわけでありますが、それでは、現代日本、現代社会ですね、この二十一世紀の日本で国民主権というものは一体どんな概念なんだというふうに長谷川先生は思われているんでしょうか。
○参考人(長谷川三千子君) これは大変難しい問題で、国民主権という言葉を言った途端に、私がきょうここで申し上げたような歴史的性格というものがもういや応なしにつきまとってしまうわけです。
我々の、これから前向きに、では国民主権という言葉がそういう厄介な言葉だったらどういう言葉を用いたらいいんだろうと、それは別なところでも問いかけられたことがあって答えに窮したんですが、ちょうど先ほどの小澤先生のお話にも、公共の利益ということが究極の目標なんだということがお話にございました。私は、もうこれは単に近代以来ではなく古今東西の、アリストテレスも実際に政治学の中で言っているとおり、正しい国政のあり方というものはすべて公共の福利を目指していると言っていいと思います。
ですから、私はもう端的に一言、国民のための政治を目指す、日本国憲法の原理はそれなんだと一言で言い切ってしまうのが一番すっきりするんではないかというふうに個人的には考えております。
○脇雅史君 それでは、そういうお考えで現在の憲法を見ますと、いろいろそれぞれ国の三権について書かれておりますけれども、特に書き足らないとか書いていることに問題があるとかという箇所はございますでしょうか、長谷川先生の目から見て。
○参考人(長谷川三千子君) 私は、今申し上げたような国民のための政治ということを第一に考えて、そして政府と国民は常に対立するものであるというイデオロギーを払拭することができれば、現在の日本国憲法というものは、先ほど申し上げました九条二項を除いてはおおむね正しく運用することができる条文ではないかというふうに考えております。
ただ、これ以外にも、ここでは話題に上りませんでしたが、基本的人権という言葉も、これも実は国民主権と同じように非常に厄介な、イデオロギーを背景に持っているある意味では厄介な言葉と言っていいものでございます。そういう言葉を不用意に使ってしまっているというところをこれから一つ一つ洗い直していく必要があると存じます。
○脇雅史君 どうもありがとうございました。
それでは、小澤先生にお尋ねいたしますけれども、先ほど四十三条、「全国民を代表する」ということでお話がございましたが、確かにこの条文、文字どおり読みますと先生の言われるようなことになるんだと思うんですが、憲法九条もそうですけれども、もともとの条文が本当にその字面どおり読んでいいのかどうかということ、その翻訳の意味もひっくるめて、私はこの原文がどうかちょっと見ていないので知りませんけれども、そのまま意味を実現しようとすると無理があるんじゃないかな。一人一人の国会議員が、一人一人が全国民を代表するなんということはできるんだろうかと。
例えば、あることについて意見を求められてイエスかノーですかといえば、世論調査をすればずっと賛成とか反対とかさまざまな意見があるんですから、それを一人で集約して意見を述べるということができなくなってしまいますね。ですから、概念の上ではあり得ても、現実の国会議員に、一人一人が全国民を代表せよということは多分無理なんだと思います。
その辺はいかがお考えでしょうか。
○参考人(小澤隆一君) ありがとうございます。
とても大切なことだと思いまして、全国民の代表というこの言葉は、フランス革命以来この二百年間いろんな意味で使われ、そして変遷しているんだろうと思います。フランス革命当時は、あなたたちは全国民の代表なんだから選挙区の民衆の声を聞くなと、議会の場だけで、その中の討論から出てきた結論で判断せよという、そういう言い方として多分表現されていた、あるいは解釈されていたんだろうというふうに考えられます。そういうことを先ほど御紹介がありましたシェイエスなども言っております。ですから、そういう意味での全国民の代表というつかまえ方もある。しかし、これはやはり今日の民主主義の世の中にあっては多分とれない解釈の仕方だと思います。
今日の民主主義のもとでは、その場合の全国民というのはまさに現に生きている国民であるはずでして、その現に生きている国民が多様な意見を現に持っているとするならば、その多様な意見を持っている全国民にふさわしい議会、あと議員の皆様の活動ということに多分なるんだろうと思います。
その場合に、やはり考えてみた場合に、先ほど私が申しました選挙制度の組み立ても、それにふさわしい選挙制度にしなければならないと。特定のところが過大に代表される、逆に過小にしか代表されないということがないような、そういう選挙制度が必要だというふうに、今日の全国民の代表というのはそういうふうに理解すべきだというふうに考えております。
以上です。
○脇雅史君 ありがとうございました。
終わります。
○会長(上杉光弘君) いいですね。時間が参っております。
それでは、次に江田五月君。
○江田五月君 お二人の先生、きょうはお忙しい中をありがとうございます。
まず、長谷川先生にお伺いをしたいと思うんですが、きょうの御意見を伺うに先立って、私ども先生方のお書きの論文といいますか、中には新聞の切り抜きもありますが、事務局が整えて配ってきたので読ませていただいております。
今も脇さんからお話ありました長谷川先生の「宮澤俊義「八月革命説」の逆説」、あと「国民主権と基本的人権とは」という、これは新聞の切り抜きと、もう一つ学士会会報の「「権」を論ず」というのが入っておりますが、その「「八月革命説」の逆説」というのは大変刺激的で、旧仮名遣いもなかなかチャーミングでおもしろく読みました。綿密な客観的な詳細な検討が要ると思いますが、ちょっと私の能力に余りますし、またほかの仕事が、全部ほったらかせばそれもできるかもしれませんが。
きょうは、大変おもしろいんですが、今の、これは「新編 新しい社会 公民」というところから引かれました「国民主権は、国家の権力は国民がもっており、政治は国民によって行われるという原理である。」、これは全く正しい、そして、これによって、こういう原理で日本の政治が行われていなかった時期というのは占領中だけであったと、こういうお話でした。
そうすると、先生の場合には、いわゆる大日本帝国憲法、この時代の日本の政治というのもこの原理によって行われていると、そういう理解ですか。ちょっとそれは僕の誤解ですか。
○参考人(長谷川三千子君) 先ほどの私の話は大分レトリックがございまして、もし素朴に中学生がそのままこれを今の時点で読んだらばこんなふうに思うかもしれない、でもそうじゃないよと大学の先生は次の二の方でこんなふうに教えてくださるという、いわばまくらのような形で申し上げたわけなんです。
今御質問がありましたように、例えば大日本帝国憲法の場合に、この国民主権の原理というものはどういうふうに採用されていたのか、されていなかったのかという、そういう御質問というふうに私は受け取らせていただきます。
○江田五月君 はい、結構です。
○参考人(長谷川三千子君) これは、大変実は大日本帝国憲法を起草する際に問題になった当の問題でございます。
実は、ごく素朴にリンカーンの言葉によって、国民の国民による国民のための政治という意味合いでしたらば、実は明治の人たちのいわばコンセンサスと言ってもいいものでありまして、以前ここで参考人として意見を申し上げたときに、五カ条の御誓文というのを参考文献に挙げましたらば、どなたかに大変しかられました。自分はこういうものは暗記したけれども、こんな古臭い天皇の御誓文なんかを持ち出して何とけしからぬとおしかりを受けたのでございますが、実はそこの趣旨というものは何かというと、政治というものは国民の国民による国民のための政治でなければいけないという趣旨だったんですね。ですから、国民主権という原理がもしもそれだけのものであれば、全く問題なく大日本帝国憲法に採用されていたと存じます。
ですけれども、帝国憲法を起草するときのいわば陰のブレーンとも言うべき井上毅という人、この人が一番鋭くいろんな問題を考えた人なんですが、実はこの主権という言葉には単なるそういう単純なものでないものがあると。ちょうど、ここの佐藤功先生がおっしゃっていらっしゃるようなことを既に明治の時代に鋭く察知していたわけです。
当時、帝国憲法起草の以前に主権論争というのが大変日本で盛り上がります。その中でやはり問題になったのが、国を二分して戦ったときの片方のスローガンであるような、そういう原理を果たして大日本帝国憲法に入れてよいものかどうかという問題がございました。結局、憲法の起草者たちは、そういう闘争的な概念というものは、日本の場合その歴史的な性格、日本というものの歴史的な性格にかんがみて入れるべきではないと判断して、そしてこれははっきりと国民主権というイデオロギーは採用しなかったと言い切っていいと存じます。
ですけれども、ではそれは君主主権という概念を採用したのかというと、私は少なくとも井上毅の構想では君主主権でもない。日本というものは、本来そういう君主と国民が主権を相争うという歴史ではなかったはずだ、あるいは自分たちはこれからそういう国柄を築いていくべきではないと考えている、そういう考えを持っていたというふうに存じております。ですから、帝国憲法は君主主権でもなく国民主権でもないと考えるのが一番起草者の意図に合っているというふうに考えております。
○江田五月君 今のお話は、これもよく一晩寝て考えてみなければわからないんですが、しかし、井上毅氏の考え方というものを先生がこの論文で極めて要約してお書きになっている、神権主義とか呼んで片づけてしまうものではない、日本の独特の治者、被治者というようなそういう二分論じゃない国の統合性といいますか、「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」の「統治ス」に含められた意味というようなことでお書きなんですが、しかしやはり普通は「万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」といえば、それはやっぱり天皇主権だというように理解をされてきて、そして八月革命説というのは、その革命という言葉がいいかどうか、果たしてそこで国民主権がすぐ成立したか、それはいろいろ問題があるけれども、天皇主権なり君主主権なりというものから変わったと、そういう意味で主権の存在が変わって、したがって革命という言葉が当たるんだという、そこまでは私は納得できるのかなと思うんですが、いかがなんですか。
○参考人(長谷川三千子君) 少なくとも宮澤先生は今おっしゃったとおりの考え方でお考えになっていたと思います。
私は、そのとらえ方というのは多分その当時の主流の考え方だったと思うんですけれども、私個人としては、そういう考え方はむしろ余りにも西洋、近代の憲法学に引きずられているんではないかというふうに考えるわけです。ただし、恐らく私のような考え方を当時の法学会で発表いたしましたら、多分異端的な説であるというふうに言われただろうというふうには存じます。
○江田五月君 そこで、もうちょっと先生のお考えを伺いたいのは、今の井上毅氏が懸命に考えた、それは明治憲法、大日本帝国憲法がそういう考え方で日本の統治構造を設計したということなのか、それともそれ以前からずっと日本に続いていた、日本の連綿たる歴史の中で続いてきている過去、現在、未来と続く国民という、まあ私に言わせれば得体の知れない何かわからないものですが、そういう説明もある、そういう日本国民、日本人というんですかがとってきた統治形態だということなんですか、いかがですか。
○参考人(長谷川三千子君) 私はそういうものではないだろうと思います。
普通、伝統というふうな言葉で呼ばれるときにイメージされるのが、今おっしゃったとおり何か得体が知れないけれども大昔から何かみんながやってきたことらしい、それをそのまま引き継いでいくことが伝統であるという、そういう理解が一般的なんですけれども、私は特にこういう憲法起草というようなときに当たっては、むしろ未来を見据えて、では自分たち日本人はこれからどういう政治のあり方を理想と考えていくのか、それを真剣に、自分たちの過去を無視するのではなく、自分たちの過去を、未来を踏まえながら再検討して再解釈してつくり上げていく、それが私は恐らく正しい伝統のとらえ方だろうと思うんです。私の少なくとも、ひいき目かもしれませんけれども見る限りでは、フランスの法学思想を十分に身につけながら、なおかつ日本の古典にもしっかりとした目を向けていた井上毅という人は、そういういわば創造的な伝統というものを目指していたんだろうと思います。
そこで、では結局早い話がどういうことを日本の伝統として考えていたのか、どういう国のあり方をこれからつくっていこうと考えていたのかという問題になるわけですけれども、私はもう端的に、国民の国民による国民のための政治という、それを目指していたというふうに考えてよろしいかと思っております。
○江田五月君 端的に言って、そういういろんな経過をたどって今の日本国憲法というものを持った今の日本の政治の形というのは、これは国民主権だと先生はお考えですか。それとも、その成立の由来が瑕疵があるから国民主権になっていないとお考えですか。国民主権ではあるけれどもいろいろまだ足りないところがあるとかというようなことになるんですか、今のことについては。
○参考人(長谷川三千子君) これは大変禅問答のような御質問でして、日本国憲法は国民主権であると言った途端に、では日本国憲法はだめじゃないかということになってしまうんですね。
先ほど申し上げましたように、日本国憲法の制定過程というものは近代成文憲法というものの原理に照らして非常に困った制定過程なんです。余り困った制定過程なものですから、結局みんな見ないことにしてやってきたという、それが私は現実ではないかと思いまして、では今それを直視したらば我々の、何か今失われた十年間とかいう言葉がはやっておりますけれども、失われた五十年間をどうしてくれるんだということになるわけでして、これは私は一つの思想的な問題として、どうやってこの日本国憲法の根本的な矛盾を我々で納得し解決していくのかというのは大変難しい問題だと、そういうふうにしかお答えできません。
○江田五月君 私も先生も、多少私の方が上ですが、大体この五十年全部失われちゃったらちょっとたまらぬなという感じがしますが。
そこで、小澤先生にちょっと伺っておきたいんですが、国民主権は憲法の重要な制度で、しかし選挙の制度や政治資金のことやその他もろもろ足りないところがあって、足りないところはありながら、しかし国民主権ではあるんだろうと思います。国民主権で、最終的には国民に由来する政治の動き。そうすると、それは国民がやはり責任を負っているんじゃないか。その国民がなかなか政治に関心を持ってもらえないような状況があって、これは政治の方が悪いということかもしれませんが、そんな中で首相公選論というのが今しきりに言われているわけですが、先生はこれはどうお考えでしょうか。
○参考人(小澤隆一君) 首相公選論については、現時点ではそれをどのような具体的な制度にまで煮詰めるのかということについては余り提案がないように、これは私は勉強不足かもしれませんが思います。その点においては、ちょっと言葉が悪いかもしれませんが、思いつき的な要素の大きい、そういう論ではないかなというふうに思っております。
私が、この首相公選論を、仮に議院内閣制を維持したまま首相について公選制度を設ける、そういう制度として理解した場合、このような制度設計は、私の理解するところでは非常に不安定な制度設計なのではないかなというふうに思います。公選にすれば限りなく大統領制に近づきますので、その大統領的な首相が国民に信を得ているという状態と、それと仮に議院内閣制のもとであれば両院は首相及び内閣に対して責任を問う関係にありますから、その問う問い方、あるいは問えるのか、そういった問題が生じてまいりまして、恐らく制度設計としては非常に不安定な要素のあるものだというふうに現時点では、今議論されている限りにおいては理解しております。
以上です。
○江田五月君 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 次に、大森礼子君。
○大森礼子君 公明党の大森礼子です。
まず、小澤参考人の方にお尋ねいたします。
国民主権について、このレジュメの方でも先生は、「その国において政治に参加する能力のある市民が、平等に、選挙その他の方法で政治に参加し、国の政治の基本的方向を決定する権能をもつことを要請する原理」とあります。それで、代表民主制ということで代表を選ぶことになるわけなんですが、そのことがやっぱり選挙制度というのは重大になってくると思います。
小選挙区制につきまして、今、先生は全国民の代表という観点から現在の衆議院の小選挙区制度について、多分これは死に票、死票を捨象する制度だからよくないという御意見なのだろうと思うんですが、もう一つこの小選挙区制度につきまして別の観点から御意見を伺いたいと思うんです。
というのは、この小選挙区制度が導入されたのは、たしか二大政党制を日本でもつくるんだということだったと思うんですね。それで、多分二大政党に対立する概念は、その当時は連立政権だったろうと思うんです。この場合、二大政党という場合には、一つの政党、第一党、第二党が政権交代ができる制度ということで当時はとらえられていたと思うんです。それを前提に考えますと、そもそも小選挙区制度にしたことで二大政党が実現するのかという大きな疑問が実はあるんです。よくイギリスが引っ張ってこられるんですけれども、イギリスの場合は選挙をこれは一院のみ、ハウス・オブ・コモンズ、庶民院だけで、あとは貴族院です。それから、選挙の結果、比較第一党、一番多く勝ったところの党首が首相になるという、これはコモンローになるんでしょうか。日本の場合には衆議院優越で憲法六十七条で過半数が要るということになります。この違いがある。
それから、日本の場合、参議院の権限というのが非常に強力なんですね。憲法五十九条で、法律案が一たん参議院で否決されますと今度は衆議院でもう一回三分の二以上修正があるという非常に強力な権限が与えられております。
それともう一つ、衆議院と参議院との選挙の間にタイムラグというものがございますね。そうしますと、これから、だから本当に二大政党制になるためには、衆議院と参議院と同時にやっぱり過半数を押さえる政党が出てきて初めてそれは機能するのではないかと思うんです。それがそういう方向になるのかどうかということ。
それからもう一つ、タイムラグがありますから、今、Aという勢力が衆議院、参議院とっていると。衆議院がBになったときに、参議院の権限が強いですから、両方Bになるまでの間、非常に政治が混乱するのではないかと。これに対して、憲法の仕組みから見てこの二大政党制というのが果たしてなじむのか、そしてそれを目指す小選挙区制が果たしてよい選挙制度なのかと、こういう素朴な疑問を持つわけですが、先生はどのようにお考えでしょうか。
○参考人(小澤隆一君) 今、大森委員が御指摘になられたこと、大体私もそのように思っております。
要するに、選挙制度をある制度にするということによって、制度とは違う、実際の政治の世界の中でまさに、表現はあれですけれども、生ものとして動いている政党のあり方、そのあり方が決まってくるということにはやはりならないのだろうと。今おっしゃられたさまざまな指摘がすべて検討されなければならない要素、従属変数的な意味も持った要素となって、結果的にはそのつもりで制度をつくっても実際にはならないということは大いにあり得るのだろうというふうに思うんですね。まさに風を吹かせておけ屋をもうけさせようという、そういう話に、議論に制度論の問題としてはどうもなるような気がいたします。
○大森礼子君 要するに憲法五十九条、法律の成立条件の関連から見まして、果たしてこうなるのかなというちょっと素朴な疑問を持っておりました。
それからもう一点、国民に開かれた選挙制度のところで、小澤参考人が触れられた、戸別訪問全面禁止がやはりよくないのではないかとありました。私は、選挙についていろんな、公職選挙法に規制というのがありますが、あれが非常に複雑過ぎるのではないかな、これも思うのですが、まず、きょうは戸別訪問についてですが、これについてはもちろん、これは最高裁ですか判例もあるんですが、それも踏まえて先生はどうあるべきだとお考えになるか、簡単に御意見を伺えればと思います。
○参考人(小澤隆一君) 最高裁のレベルでは、合憲であるという判断が出ていることは御承知のことだろうと思います。
ただし、この戸別訪問の問題については、下級審の段階では、地裁、高等裁判所含めて幾つかの違憲判決が出ている問題でありますので、果たして最高裁の合憲判決が前提にしている立法事実が今日においてもなお維持できるものなのかどうか、それを現時点で精査していく必要が私はあるように思います。
これとの関係では、やはり九四年の政治改革法が通ったときに、一度は戸別訪問を解禁するのだというそういう方向性が出たわけです。ところが、結果的にでき上がったものはそうではなかったということもありますので、そういう経緯も含めてやはり再検討していただくべき重要なテーマではないかというふうに思っております。
○大森礼子君 一時解禁の動きがあったというのは、あれも選挙運動員、何か非常に限られた範囲だったような記憶があります。
それで、よくいろんな人が来たらとか住居の平穏が害されるとかいうんですが、何というんでしょうか、もしその戸別訪問とかで嫌であれば、昔よく押し売りお断りという札がありましたけれども、家の前に戸別訪問お断りと、無断で入ったら住居侵入罪もしくは不退去罪で警察に通報しますぐらいな、この札をかければそういう混乱も少なくなるのではないかなと思っております。
時間の関係で長谷川先生の方にお尋ねします。
ちょっとまだよく理解できないところもあるんですけれども、要するに主権概念というふうに、今、先生がおっしゃったように、フランス革命における国民主権ということからお話しになりました。要するに、ここで言う主権概念というのは内戦というものを経験する中で生まれてきたものと。ところが、日本の場合には内戦の結果ではなくて外戦、外との戦争の結果できたということで、内戦の中から生まれる主権概念というのがなかったということになりますね。
それで、先生のおっしゃることは、要するに国民主権という言葉を使うときには正確に使いなさいよと、こういうことから始まるのでしょうか。つまらない質問で済みません。
○参考人(長谷川三千子君) 本当に限られた時間なものですから舌足らずの説明になってしまって、今大変いい御質問をいただいたと思います。
そもそも、どうして主権概念というものが我々に感覚的になじまないのか、今の話をずっとお聞きになって、多分皆さん感覚的になじまないという感じをお持ちだと思うんですけれども、これはもう単にフランス革命のことだけではなくて、先ほど十三世紀のフランスからずっと実は使われていた言葉なんだと申し上げたんですが、そもそもヨーロッパの中世以来の国の成り立ちというものが日本の場合とは全然違うんですね。
一番はっきりしているのがイギリスの場合で、外来の王様がやってきて、そして土着の貴族と市民たちを支配したという、そういう伝統がもう十一世紀以来連綿と続いておりまして、もう余りそれが伝統になっているので、それなりにきちんとした、先ほどおっしゃったコモンローの伝統というものがむしろでき上がっているくらいなんですが、これはもともとの日本の状況とは非常に違っているんですね。
日本の場合は、むしろギリシャのあの民主政が出てくる以前のいわゆる古王国、小さな小王国の時代の形式に一番近いんではないかと私は個人的に思っているんですが、つまり共同体というものが全部一緒になって、その先頭に立って自分たちの共同体の神に祈る王を持っているというのがあのギリシャの古王国の形なんです。ですから、そこではもう王も民も一緒になって、同じ方向を向いて来年は豊作になりますようにということを祈るわけですね。そこで主権という言葉を持ち出してきてみても、全く意味のない概念ということになってしまうわけです。
ですから、少なくともギリシャもかなり時代が下るまでそういう国の中の力が相対立するという概念は出てこなかったんですが、日本はむしろそういうギリシャの古代の民主政以前の形に似ているというふうに言うことができるかと思います。ですから、そもそも我々が主権という概念を感覚的にとらえにくいというのはむしろ自然のことではないかというふうに思っております。
我々としては、我々自身のそういう感覚的にわかりにくいよというところを素直に国民主権という原理に対してぶつけて問いかけていくという、それが憲法論議においても大事なんではないかというふうに思っております。
○会長(上杉光弘君) 大森議員、時間が参っております。
○大森礼子君 もっと伺いたいんですが、もう時間が来ましたので終わります。
実は、長谷川先生のお話、非常にわかりにくかったんですけれども、やっぱり国民主権がどういうのか、概念はきちっととらえるべきだと思う。そして、そこを考えることでこれから本当に国民のための政治、こういう国にするにはどうしたらいいかということを考える上で非常にこの御指摘は大事だと思います。また先生の論文とか読ませていただいて勉強させていただきます。
ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 次に、吉川春子君。
○吉川春子君 共産党の吉川春子です。
お二人の参考人の先生、ありがとうございます。
まず、小澤参考人にお伺いいたしますけれども、参考人は、議院内閣制の健全な運営のためには両院による内閣の行政運営に対する適切なコントロールが必要不可欠というふうにおっしゃっておられますが、具体的には適切なコントロールとはどういうことなんでしょうか。
議院内閣制は、衆議院と内閣の間を主として律しているようにも考えられますけれども、同時に内閣は連帯して国会に責任を負うとしています。二院制、特に参議院と内閣の関係について、憲法は何を期待あるいは予定しているのか、現実の国会と内閣との関係についてどう評価されているのか、お伺いいたします。
○参考人(小澤隆一君) 二点あったかと思いますが、最初の点ですけれども、適切なコントロールということで想定しておりますのは、憲法と国会法に規定されております国政調査権、それと質問権、この行使です。あと、問責決議等による内閣の責任追及、これもコントロールのうちに入るんであろうというふうに思います。
特に前の二つ、これはその行使が主権者国民の国政に対する知る権利の保障に役に立つ、そういう意義を持っているものと思われます。そういう意味で、国民主権にとってとても大事なものだと思います。
特に質問権の行使に際しては、特定の人々や団体の利害に専らにかかわるようなそういう方法ではなくて、全国民の代表にふさわしい行使の仕方をぜひお願いしたいというふうに思います。
それと、二番目の方の御質問ですが、議院内閣制は衆議院と内閣との関係というお話でしたが、内閣が二つの院に責任を負うタイプの議院内閣制というのは、必ずしも日本が特異なわけではなくて、例えばフランスにおける第三共和制、第二次大戦前の制度はそういう制度でありましたので、ほかにもあります。もちろん両院の意思が差異を生じる、そごを来すことはあるわけですから、そこでは二院にその責任を負うというのは、一院に対してだけ責任を負うのとは少し複雑に制度のつくりはなりますが、しかし代表を通じた国民による政治の監視、そして統制の場あるいはそのルートが複数あるということは、それ自体国民にとって決して悪いことでは私はないと思います。
参議院は、直接に内閣の基礎となる衆議院と違って、それとは違った立場で、ただし全国民の代表としては同等の立場で内閣のチェックを行うことが私は期待されている、日本国憲法のもとでは期待されている、このように考えております。
○吉川春子君 不信任決議権は参議院にはありませんので、参議院が内閣を辞任に追い込むことはできないわけですが、現実には国民の直接選挙によって選ばれる参議院は、内閣に対してもかなり強い権限を発揮していると思います。
三年前のあの参議院選挙で野党が圧倒的多数を握り、閣僚の問責決議が可決され、問責決議には法的拘束力がないにもかかわらず政治的責任をとってその閣僚は辞任したということがありましたけれども、参議院で総理の問責決議が可決されれば、政治上やっぱり大きな責任が生じ、辞任せざるを得ない事態も起こり得るというふうに考えるわけですけれども、憲法上も法律について、衆議院で三分の二で再議決しない限り、参議院による否決が内閣の命運を決するということも起こり得ると思います。
こういう現状の仕組みの中で、内閣は衆議院の多数だけではなくて参議院の多数も基礎に形成されざるを得ないんだ、こういう分析をされる学者もいらっしゃいますけれども、現実に今、衆参とも圧倒的多数の与党が国会を抑えているわけですけれども、そうしますと、やっぱりその行政の暴走をストップさせにくい、国民にとっては余り幸せな形じゃないのかなと思いますが、その点についてはいかがお考えですか。
○参考人(小澤隆一君) 日本国憲法のもとでは、今御指摘のように参議院には不信任決議権がない。その意味では、国会に対して連帯責任というふうに書いてはいても、その責任の意味が衆議院と参議院でそれぞれに違うというのが現行のシステムです。
ですから、仮に衆議院の方で多数の支持を得ている内閣が参議院で問責された、決議が成立したという場合に、果たしてでは内閣がそこで退くべきかどうかというのは、これはまさしく内閣総理大臣の判断によるということに恐らくなるのだろうと思います。ですから、実際の制度のかなり運用に任される部分が、その部分については私は大きいというふうに思います。しかし、それでも憲法六十六条三項の趣旨に即して、参議院が内閣に対して必要な場合は問責決議をされるということは、これは憲法に基づく大事な国民代表としての仕事ではないかというふうに考えております。
御指摘の立法の場合の衆議院、参議院のそれぞれの権限の問題ですけれども、これはまさしく立法権ですので、衆議院の方に三分の二の特別多数が必要とされるというのは、これはあって当然のことだろうと思います。
やはり国民の前で堂々と法律を成立させるというためには、審議議決手続の一定の民主主義的な手続というのが必要になってきますから、そのためのハードルとして現在の衆議院、参議院のこの立法議決における手続というのは適切なものだというふうに考えております。
○吉川春子君 長谷川三千子参考人にお伺いいたします。
参考人は論文で、憲法の成立事情がいかに重要なものかということを強調されて、日本国憲法についても、先ほど来議論がありますように、連合国最高司令官が制定主体であったとされておりまして、そして前文に日本国憲法、国民はこの憲法を制定する、これは事実に反するという御指摘があり、憲法にとって破壊的なものとか日本国憲法の致命的欠陥と、こういう言葉も使っておられるんですけれども、ということは参考人は、日本国憲法の諸原理が人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であったということを認めないということなのかということ。
それから、時間の関係で続けて伺ってしまいますが、日本国憲法の基本的人権の保障とか戦争放棄とか、こういう基本理念、こういうものは日本国民の願いとは全く関係なく、例えばGHQが持ち込んだものというふうにお考えなんでしょうか。
戦前、あの暗黒時代であっても、婦人参政権獲得運動、普通選挙権、あるいは治安維持法に抵抗する、宗教の自由、結社の自由、労働権を守る、こういう国民の活動があったわけなんですけれども、そういう活動が今の憲法にことごとく、ことごとくというか、かなり反映されていると。そういう面についてお認めにはなれないということなのか、そこをお伺いします。
○参考人(長谷川三千子君) 非常にたくさんの内容の盛り込まれた御質問なんですが、一どきにお答えいたしたいと思います。
私が申し上げました憲法にとって破壊的であるというのは、これはあくまでも先ほど申し上げました主権というそういう理論に基づいて考えたときのいわば論理的、形式的な形として非常にまずいということであって、その内容がどうであるかということとは実は直接にかかわりがないんです。
つまり、確かによく言われておりますように、GHQが憲法を起草したときに日本人の民間の憲法草案というものを参考にしている、それから当時の日本国民の一般的な国民感情としてもう戦争は御免だというそういう感情があった、それから女性の権利というものについても、女性たちがもうこれだけ力をつけていて、そしてこんなに能力もあるんだから女性にいろんな権利を認める、これはまあよかろうじゃないかというような一般的な感情があると。そういったふうなことは、今まさに御指摘のとおりでございます。
ただし、それとそれを制定する正式の権限というものがどこにあったかというのとは、これは全く別次元の問題なんですね。これが先ほどから申し上げている、主権というのは力という概念であって、そしてこの力という概念を中心にして考えたときにはだれが最高の力を持っているのか、それが一番重要なことになるんだというこの問題がいつでもひっかかってくるわけです。そして、そういう意味では、日本国憲法が制定されたときの日本の状況というものは、もうまごう方なく連合国最高司令官の力のもとにあったわけでして、その意味でそういうときに制定された憲法というものを日本国憲法としてそのまま占領が終わった後に持ち続けるということ自体が実は非常にまずいことだったわけですね。
ですから、そういういわば近代成文憲法の形式というものを本当に大事なものと考える人が当時の国会に多数を占めていれば、このときに何らかのもう一度選び直すというような手続をとることができたと思うんですが、これはもう我々が後から悔やんでもしようがないことなんですが、私が憲法制定過程というものが大事だと申し上げたのはそういう意味なんです。
それともう一つ、先ほどから問題になっております九条における平和を希求するという問題、これが第二項の問題とどうかかわってくるか。
これはやっぱりきちんと皆さん理解しておいていただかなければならないんですが、一国が武力を放棄するという規定は世界平和にとって何の意味も持たないんです。これは日本人がこういう犠牲的な精神を払ってこういう条項をつくっているから、だから皆さんも私のモラルリーダーであるこのリードに従いなさいということを日本が声を大にして言い続けても、これはなかなか世界じゅうがうんと言わないんです。
それで、これは結構です、こういう言い方をするということは、私自身は大いに、何というか私自身としてそういう言い方を世界にしたいというふうにも思っております。ですけれども、それをするには、今度もう一度ぐるりと主権の問題に返ってくるんですが、主権というような力をもって憲法の一番中心の柱とするようなそういう原理的な考え方というものから取り払っていかないと、どうしても九条二項がそのまま世界に通用するような世界にはならないという非常に難しい構造になっているわけです。
そういうわけで、今の御質問に対しては、いわゆる制定過程の主権の問題というのは、そういうあくまでも我々に非常に感覚的にとらえにくいんですが、主権の論理の問題なんだというふうにおとらえいただきたいと思っております。
○吉川春子君 時間が来ましたので、終わります。
○会長(上杉光弘君) 大脇雅子君。
○大脇雅子君 社会民主党の大脇でございます。
長谷川先生にお尋ねをしたいと思いますが、先生は、現憲法というのはGHQの占領下のいわば軍事的戦略の一環としてつくられた、まさに制定された主権が問題だというお説だと思うんですけれども、この憲法の制定過程を見てみますと、マッカーサーの提起された草案には、私たちかつての社会党とかあるいは共産党とかあるいは憲法研究会の草案など英訳されて参考にされておりますし、それから帝国議会の審議におきましても何項目かの改正がされまして、いわば日本化といいますか土着の努力がされたと思います。
私は、やはり日本には連綿として続いた自由民権の思想というものもありまして、それが戦争の惨禍というものの土壌の中で、まるで明治維新において日本がそれを国の活力としたように、この敗戦の事実というものを多様な形で国民の好奇心や活力でもって抱き締めまして、そして高い教育水準と日本の発展というものがあったと、そうした五十年として見てみないといけないのではないかというふうに思いますが、今失われた五十年のようにおっしゃいましたが、私はまさにこの五十年の日本の国民の生き方というものこそ、やはり非常に着目しなければならないのではないかというふうに思います。
先生は、明治憲法を改正する必要は戦後なかったんだというお説も展開されておりますが、この点についてはどのように五十年を評価されるんでしょうか。
○参考人(長谷川三千子君) 今の御質問には、二つの御質問が含まれている形になっていると存じます。一つは、日本国憲法というものがGHQの草案に基づいているとはいっても、これは国会の審議の過程で随分日本化の努力がなされているではないか、それをひとつ評価すべきではないかと。それから今度は、日本国憲法というものをいただきながらの戦後の五十年というものをどう評価するのか、これを端的に失われた五十年だとばっさり切り捨ててよいものなのかどうかという、こういう二つの御質問に分かれると思いますので、そういう形でお答えしていきたいと存じます。
まず第一の問題につきましては、これは確かに日本化の努力というものは当時の国会議員、法制局の方たちもそれは必死でなさいました。私は、その努力というものは後の人間として大いに評価すべきであるし、それを忘れてはいけないと思います。殊に、法制局の佐藤達夫さんがこの日本語訳をGHQに持っていってもう一度ひざ詰めで三十六時間のぶっ通しの検討をするわけですけれども、あれはもうまさに何というか、GHQの最高権力にもめげず日本人としてできる限りの日本化の努力をしたという、そういう一つの場面として我々が忘れてならないところだと思います。
ただ、全体として見た場合には、確かにおっしゃったように日本人の草案というものをいろいろ吸収したり、そういう場面がございました。それから、今言ったような日本化の努力がございました。ですけれども、憲法改正小委員会の議事録を見てみますと、もう痛々しいほど気を使って、果たしてこの文言でGHQが納得してくれるでしょうかねと言って、委員長が、まあそれはまず出してみて、否定されたら否定されたところでもう一度やりましょうなんということを言っているわけです。つまり、もう絶えずGHQが最高の力を持っているという前提の枠の中で日本人が憲法の論議をした、その結果こういう成文ができ上がったということで、全体としては私はやはりGHQの最高の力のもとでつくられた憲法という評価を下さざるを得ないと思います。
ただ、大事なのはむしろ第二の問題だと思います。戦後の五十年の日本の歴史をどう評価するかという、こういう大きい問題にもかかわってくるんですが、私はこれを先ほど例えばというふうに申し上げたんですが、失われた半世紀と言ってただばっさり切り捨てるというのは、これは日本人として、あるいは歴史を見る目として決して責任のある見方とは言えないだろうと存じます。日本人たちがあの焼け野原からこれだけの繁栄を築くべくみんなで頑張ってやってきた、これは一体何だったのかということは、これはもう一度我々自身で本当に再評価し直すべきだと思います。殊に、日本人が今のように総自信喪失に陥っているときに、この五十年というものは決して失われたんではなくて、実は焼け野原からの大変な復興だったんだということをもう一度我々で再評価するということは、これは非常に大事な精神的な営みであるというふうにも思います。
これは、多分小澤先生と私と認識を一にするところだと思うんですが、憲法の問題というと、どうしても我々は単に条文だけが憲法だというふうに考えてしまうんですね。その憲法のもとで我々国民がどういう生活をしてきたのかという歴史それ自体から憲法を見直す、憲法の解釈をするという、逆にそういう立場というものが実は憲法を眺めるときに必要ではないかという気がするんです。
我々、一口に日本国憲法のもとに五十年間と言っているんですが、逆に我々の五十年間のこの復興の歴史を振り返ってみて、そこから実は日本国憲法、文言はこういうふうに言っているけれども、これは我々自身の生活によってこういうふうに解釈して生きられてきたのだと、そういう再検討の試みというものをいま一度すべきではないかというふうに思っております。
そういう意味では、今、大脇さんがおっしゃったそういう歴史を振り返る態度それ自体については、私はある意味で全面的に賛成いたしております。
○会長(上杉光弘君) 長谷川参考人に申し上げます。
極めて情熱的に熱心に御答弁いただいておりますが、限られた時間で運営をいたしておりますので、できるだけ簡潔にお答えをいただければありがたいと思います。
○参考人(長谷川三千子君) ごめんなさい。これで終わりです。大変大きい御質問だったものですから。失礼いたしました。
○大脇雅子君 もう一つどうしてもお尋ねしておきたいのは、先生は、九条二項は、戦争放棄を規定していて国家として力を持たない、力がゼロになったということで、ほかの条項よりむしろここが問題だとおっしゃったんですが、私は、国の力というのは軍事力だけではなくて経済力、それから文化の力、それから対話と交流をいたします人と人とのきずなとかネットワークというのがまさに国の力であり、軍事力によらないでほかのそうした国の力で平和のために働くようにというのが憲法九条二項の精神だと思うんですが、これはいかがお考えでしょうか。
○参考人(長谷川三千子君) 一言でお答えいたします。
私もそう考えられたらどんなにいいだろうと思っております。ところが、現在の国際社会というのはそういう考え方で動いていないというこれが現実で、そこが大変残念なところでございます。
○会長(上杉光弘君) 大脇君、時間が参っております。
○大脇雅子君 もうちょっと時間を、一分ください。
私は、九条二項のような考え方は非常に二十一世紀を先導する先駆的な役割ではないかというふうには考えております。具体的に戦略的な重要性を持った規定だというふうに考えます。
時間が限られておりまして、小澤先生に重要な質問をしたいと思ったんですが、ごめんなさい。どうも失礼いたしました。
ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 水野誠一君。
○水野誠一君 無所属の会の水野誠一です。きょうは本当にありがとうございました。
まず、長谷川先生に伺いたいと思います。
今議論になっていろいろ御説明いただいた憲法の制定過程の問題というのは、もうかなり議論が尽くされて、議論といいますかお答えいただいているのでこれは省きたいと思うんですが、国民主権の歴史といいますか、その解釈というものの歴史的な推移というものをお話しいただいて大変勉強になったんですが、外国の言葉にノーブレスオブリージュという言葉がある。つまり、これは単純に言えば、高貴な人間はその義務を負うという意味だと思うんですが、それと同時に、主権者には大きな権利とともに義務というものが伴うものだということを考えたときに、国民の主権、つまり国民の権利ということと義務とのバランスということですね、これは私は非常に憲法上重要な意味を持つんじゃないかと思うんです。
そこでお尋ねをしたいのは、国民主権のみならず主権論の中で、この主権ということと義務との関係というのは今までどんな議論あるいは語られ方がしてきたのか、簡潔に御説明をいただければと思います。
○参考人(長谷川三千子君) これは、ただいまお話しいたしました君主主権の場合には非常にはっきりしておりまして、神から正しい統治をすべきであるという義務を主権者は負わされているという、そういう形でもう非常に厳しい義務規定がございます。
それから、国民主権の場合にも、私がちらっと申し上げましたルソーの場合には、主権者各人が自分の理性を最大限に使うことという、そういう非常にある意味で義務と言っていいものが思想それ自体の中に込められております。
ですから、もしルソーの思想を中心として我々が国民主権というものを理解するとすれば、今おっしゃった国民の主権という権利と義務の関係は、国民は自分の意見を国政に反映させるという権利を持っているけれども、同時にその意見を非常に理性的に、情に走らずに考える義務を負うと、そういうふうな言い方ができるんではないかと思っております。
○水野誠一君 ありがとうございました。
次に、小澤先生にもちょっとお尋ねしたいと思っておりますのは、今の質問にも関連するんですが、先生はさっき全国民の代表というところで参議院選挙について触れられました。全国民の代表であって、それは県の代表ではないという視点から見たときに、一票の格差というのは非常に重要な意味を持つと。これは私も全く同感でございます。
それと同時に、全国民の代表といったときに、今非常に問題になっております投票率の低さ、これも私は非常に重要な問題ではないかなと思うのでありますが、投票の権利、つまり選挙に対する参政権ということと、同時に投票の義務というものがこれは私はこれから重要な意味を持ってくるんじゃないかなと思うんですが、今の権利と義務という関係にもかかわると思うんですが、この点について小澤先生はどういうふうにお考えなのか、お聞かせください。
○参考人(小澤隆一君) 子供に対する奉仕活動の義務みたいなものと比較的よく似た問題が含まれているテーマだと思うんですね。やはり基本的には、権利であるものに対して、同時にその義務を課するというのは矛盾的でありまして、もちろんそういうことをやっている国もあります。非常に少額の罰金を要するに投票を拒否した者に対しては科するような、そういうことをやっている国もありますが、それよりもやはり一体低い投票率の原因はどこにあるのかということを精査していただくのがまず先決ではないかなと思います。
一点、先ほどの主権者国民にとっての義務という、主権における権利と義務の問題ですが、私が理解している限りでは、フランス革命当時にあっても、そしてシェイエスらが活躍したフランス革命のそのさなかにあっても、主権というものは野方図な無制限な権利ではなくて、れっきとした制限つきの権利として扱われていたということを指摘しておきたいと思います。
フランス革命の人権宣言の十六条、その中には、権利が保障されず、そして権力の分立が規定されていないすべての社会は、憲法を持つものではない、こういうふうに書かれております。国民が主権者の名において定める憲法というのは、自由の保障と権力の分立が含まれていなければいけないのだ、主権者国民が定めるべき憲法というのはそういうものなのだ、国民は主権をそのように使うべきものなのだということをフランス革命の人権宣言は国民主権の宣言と同時に書いているということを、私のつたない研究の中からそういうふうに感じますので指摘させていただきたいと思います。
以上です。
○水野誠一君 私は、今の投票の問題について言えば、結局、投票するような魅力を感じさせない政治に問題があるんだと、こういう御指摘も含んでいたと思うんですが、それは事実我々が反省しなければいけないもので、しかし投票の権利を放棄するということと、それから投票には行くけれども白票を投ずるということ、これがやっぱり私は権利と義務という関係において非常に違う、大きな相違点があるような気がするんです。ですから、投票する価値がないというのであればそれは白票を投ずればいいことであって、この大事な権利を放棄するということは、同時に私は表裏一体の問題として義務の不履行ということにもなるんではないかなと、そんな印象を持っております。
そこで、もう一つお尋ねをしたいのでありますが、先ほど首相公選の問題というのが御質問があって、それについて小澤先生がお答えになっておりました。
私は、これまた非常に単純な、素朴な疑問として感ずるのは、今、国の政治というものがまさに議院内閣制、そして議会民主主義という形でなされているというのに対して、地方自治が首長制という、つまり言ってみればダブルスタンダードになっている部分があるんじゃないかなと思うんですね。
こういう問題というのが憲法の解釈上あるいは運用上全く矛盾のないことなのか、多少やはりそういう意味での問題を含んでいるものなのか、その点について小澤先生の御見解をちょっとお尋ねしたいと思います。
○参考人(小澤隆一君) 日本国憲法は、国の統治については議院内閣制を採用し、一方、地方については「地方自治」の章の中で明確に首長の選挙も定めておりますので、現に定められているというその限りにおいては特に矛盾がない。
国と地方が、例えば国が大統領制なら地方も大統領制的につくられるべきだと、議院内閣制なら地方もそうあるべきだという、そういう即応関係にはこれは必ずしもないのではないかというふうに考えておりますので、現在の制度にそのことについて何か矛盾があるというふうには理解しておりません。
○水野誠一君 憲法上は問題ないと。
統治上というのはいかがなんでしょうか。それは、そういう矛盾というのもやはりないと見てよろしいんでしょうか。
○参考人(小澤隆一君) 特別にそのことによって何か問題が生じるというわけではないと思います。
○水野誠一君 長谷川先生、今の点については何か御意見ございますか。
○参考人(長谷川三千子君) 首相公選制そのものについてですか。
○水野誠一君 というか、地方と国の統治のあり方が二つ違う制度になっていると。この点についての御意見、ございますか。
○参考人(長谷川三千子君) これはもう少し広い問題として、先ほど小澤先生が非常に問題にしていらした全国民の主権というそういう立場から考えると、いつでも地方の政治の問題と中央の政治の問題というのは絶えず緊張と矛盾をはらんだものだと思うんですね。これは実はフランス革命のそのときにも非常に問題になっていた問題でして、これは私自身としては、これは勉強が足りないせいかもしれませんけれども、こうすれば全部解決できるんだというような、そういうオールマイティーの解決方法はないんではないかというふうに思っております。
○水野誠一君 終わります。ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 平野貞夫君。
○平野貞夫君 自由党の平野でございます。
最初に、長谷川先生に質問的意見を申し上げますので、御意見をいただければ大変ありがたいと思います。
先生のきょうのお話を私なりに整理しますと、二つこの憲法調査会に提案があったと思います。一つは、憲法の国民主権とか基本的人権という諸原理を議論する場合には歴史的性格という原点を踏まえて議論しなさいよということと、それからもう一つは、日本国憲法の根本的矛盾をどうするのかということを皆さんよく考えなさいよと、私は二つを受けとめたわけでございます。
そこで、このお話は二つとも別の話じゃないと私は理解しておりまして、これを同時決着というのは難しいんですが、私は最近この問題を文明の転換期、現在、産業社会から情報文化社会へ激しい流れで文明が変わっておるわけですが、この中の混乱期の問題として、その混乱期をどうそれを整理し直すかという、こういう視点で見てみるべきじゃないかという個人的意見を持っているわけでございます。
と申しますのは、この近代社会の二百年というのを考えてみますと、経済的には資本主義というシステム、自由競争、そしてイデオロギー的には見えざる神の手というのが、私流に言う、それを支えていたと思うんです。それから一方で、自由、平等、民主というテーゼがあって、そしてそれに基づく議会制民主主義、国民主権、基本的人権という諸権利が憲法に規定されたと。
これを支えているちょっと皮肉なイデオロギーは、選挙する人は善良な市民である、政治的判断に非常に常識を持った方たちが選挙に参加するんだと。選挙された人は国会で非倫理的あるいは不平等な判断はしない、皆エリート、良識ある行動をとるという、こういうイデオロギーに支えられていた制度だと思うんです。いわば資本主義システムも議会制民主主義システムも一つの擬制、フィクションを前提にした社会が産業社会じゃなかったかと思います。それはそれで大変意味があったと思います。
自由、平等、民主というテーゼ、いわゆる実現絶対的に不可能な、物理的なものに向かって向上していくといいますか、人間の、そして人間を解放していくというそういう大きな力にもなったと思いますが、こうインターネットを中心とする情報化社会になって、解放されていない人間もおりますが、かなりさまざまな情報を平等に持つという社会になったときに、私はやはりそれがフィクションである、それが擬制であると。それを、より擬制を少なくする、いわばそういう憲法の基本的原理を定義し直すといいますか、これはもちろん否定するわけじゃございません。そういう多くの国民、多くの人間が共通な情報を持ち得たという社会変動の中で、資本主義も変わってきます、これは変わっていっておるわけですが、非常に悪くなっているわけですけれども、悪い面が出てきていますけれども、そういったものの規律あるいは基本的人権の非常にプロパガンダ的なものの見直し、あるいは国民主権のあり方、もうちょっと抽象的なものじゃなくて、具体的にどういうふうにそれを人間の幸せのために定義づけるべきか、こういう時代に今この二十一世紀が幕があいて我々は迫られていると。それに対して政治側がいい回答を出せない、メニューを出せない、そこに僕は日本だけじゃなくて全世界的に六〇%近い無党派層の存在があると。
自由民主党が非常に悩んでおられるのは、別に野党がいいことをして強いからじゃないと思うんですよ。そういう文明の転換に対して適切に対応できないというところが原因で、我々野党もいつそういう目になるかわからぬ状況だと思うんです。
そこで、それを救うための、時間は設定しませんが大きな真剣な見直し、見直しするについては、やはりその国の歴史、よき伝統、あるいは心の問題、要するに物質的欲望をどう抑えるか、あるいは足ることを知るというような古代の人間の知恵もかりるべきじゃないかと。そういう形で憲法の重要な原理を見直していくべきだという意見を持っておりますが、いかがでございましょうか。
○参考人(長谷川三千子君) 大変立派な演説をちょうだいいたしまして、私はささやかな形でしか御質問に対してお返しができませんが、簡単に私なりにまとめますと、このいわゆるグローバリゼーション化と言われるその世界の中で、日本国憲法というものに一体何ができるだろうかという問いかけをしてくだすったととらえてもよろしいかと存じます。
私は、一つここで我々が忘れてならないのは、今もう国家というものは時代おくれだというふうな風潮が出ておりますけれども、やはり国というものは、先ほどから何度も申し上げておりますように、国民を守るためのシステムとして、国家というこの枠組みというのはいわば現在の我々に残された最後の国民を守るためのとりでだというふうにとらえております。ですから、グローバリゼーションになればすべてがバラ色だという、そういう考え方というものに我々が引きずられるべきではないというふうに思います。
そして、先ほど近代の国民主権というのが非常に没道徳的な形でプロパガンダとして語られたというふうに御紹介しまして、これは確かに小澤先生が御修正なさったとおり全体の、先ほど取り上げなかったと申し上げたアメリカにおける国民主権の伝統というものも含めて、あのフランスの人権宣言の場合、それが大きくまたはね返って反映されているんですけれども、決して全体としては完全に没道徳的なイデオロギーであるとは言えない。確かにあのシェイエスの語っている、私利私欲、党派性でもって動いてはならないというような原則というのは、我々にとっても有効な道徳的な提言であると言うことができると思います。
そういう意味では、実は非常に没道徳的な運動として展開しているのは、このグローバリゼーションの資本の無機的な動きなんですね。ですから、そのために我々に求められているのは、ある意味で二十一世紀、二十二世紀の人間にも通用するような、普遍的であって、しかも我々の体質に合った、先ほどからお話ししているように、主権というのはどうも我々の体質に合わなくて何かぴんとわからないわけですね。そうではなくて、本当に我々がおなかの底から納得できるような、しかも普遍性を持った道徳的なものというものをどうやって発見していくか、これがこれからの憲法論議の課題だというふうに私はとらえております。
○平野貞夫君 ありがとうございました。
小澤先生に一点お尋ねしますが、私は国民主権の具体的な、最も、最もと言うと言い過ぎかもわかりませんが、非常に大事なものが、やっぱり国民の憲法制定権あるいは憲法改正権だと思います。
その点、我が国の憲法は、改正規定もちろんあるわけですが、それに伴う法整備ができておりません。これは重大な憲法の欠陥であり、これは護憲派であれ改憲派であれ、イデオロギー抜きにして、やっぱり国民主権を国会が封じている行為だと私は思っておるんですが、もう一日も早くこれは整備すべきことだと思っていますが、その辺についての先生の御意見をいただきたいと思います。
○参考人(小澤隆一君) 整備がないというそのこと自体については、確かに法律が要するに欠けている、欠陥であるということは御指摘のとおりだと思います。
ただし、私の理解では、結局なぜ制定できなかったといえば、それは戦後一貫して憲法改正問題が政治的な議論のいわば土俵の上に乗っかっていた、だからまさに土俵の上に乗っかっている問題をどう扱うかという問題と絡んだ形でしか改正手続の具体化問題が議論できないという、そういう構造になっていたからまさにそれは政治問題化する、政治問題化するとようようには手がつけられない、どうもそういうところに原因といえば原因があったのではないかというふうに理解しております。
○会長(上杉光弘君) 佐藤道夫君。
○佐藤道夫君 佐藤でございます。
私は、ただいまの平野議員のような極めて次元の高い大演説をするつもりは全くございません。両参考人に対しましてごくごくありきたりの法律解釈をお伺いしたい。余り哲学だ何だかんだと言うつもりはございませんので、どうか誤解がないようにしてください。
私、ある大学で法律学を講じておりまして、特に憲法を中心とする話をするときなどは学生たちも熱心に聞いてくれている。そして、講義の合間に、休憩時間などに彼らと懇談をしておると、彼らが一様に言うのは、憲法九条を先生どうお考えになりますか、どう読んでみても現在の自衛隊というのは明らかに憲法違反でしょうと。飛行機、航空機、軍艦、潜水艦まで持っておりながら、あれが戦力に当たらない、こんな解釈はないでしょうと。自衛隊が必要かどうか、もし必要だというならば憲法九条を速やかに改正すべきじゃないでしょうかと。自衛隊は明らかに要らないといえば、憲法違反だ、憲法九条は変える必要がないんだと、こういえば、自衛隊はすぐにでもやめる、これは当たり前のことじゃないでしょうか、日本は法治国でしょうと。彼らの言っていることを多少論理的に整理するとそういうことになるわけです。私ももっともだと思います。
日本人というのは昔から建前と本音を上手に使い分けまして、建前は大変大切にして神棚に上げて、現実は建前を無視してどんどん進行していく。自衛隊と九条の関係だってそうだと思いますよね。何しろ戦力なき軍隊だからいいじゃないかとか、専守防衛だからいいじゃないかとか、そんな話はおよそ通用しないと思うんです。やっぱりそれならば九条をきちっと改正して、そして自衛隊を保有する、だれが考えてもそうだと思うんですよ。
憲法の解釈には哲学が必要であるとか、歴史の知識が必要であるとか、制定経過はどうだとか、学者というのは大変難しい議論をすぐ始めるわけですけれども、肝心の憲法を読むのは、憲法だって一つの法律ですから、読むのは国民なのでありまして、国民は哲学の知識も何もない、制定経過だって何も知らない、そして憲法を自分の目で読んでみて、何だ自衛隊おかしいじゃないかと、こう考える。これは当たり前のことなんですね。
おまえの哲学の知識がないんだ、それが悪いんだと、こんなことは言えません。そういう誤解を与えないような法律、憲法をつくるのが国会の仕事であるわけですからね。難しい法律つくっておいて、これがわからない、おまえがだめなんだ、頭が悪いんだと、そんなことは言えた義理じゃないのでありまして、やっぱり憲法九条を素直に読めば、多くの学生たちが、あれはおかしいな、一体何だろうかと。彼らもやっぱり高等学校のころから、高校生のころからそういう疑問を持って先生に聞いても、先生も、おれもよくわからぬのだ、少しはおまえが勉強しろということでまともに答えてくれない。先生、いかがでしょうか、先生ならばまともに答えそうですがと、こういう感じで私は答えさせられておるわけでありますけれども。
こういう極めて初歩的な法律知識、お二方にお尋ねするのも恐縮と存じますけれども、国民の一人としてこういうことについてどうお考えになるか、小澤参考人からお願いしたいと思います。
○参考人(小澤隆一君) 多くの学生たちがそのように素朴に考えるのと、日本の憲法学者が憲法九条を素直に読んで自衛隊や安保条約は違憲だというふうに憲法解釈をしているのと、それは多分同じように思っているというふうに思います。あれを素直に読めば、やはり自衛隊や安保条約は合憲だとはなかなか言えないというのが結論的には出てくる。
そこで、やはり先ほど大脇委員の方からの長谷川参考人への御質問、いろいろ九条関係でありましたけれども、まさにそのときに、現在の憲法規範の背後にある理念あるいは原理と、それと現にそれに反する事実というものを比べてみて、どちらをどのように立てるのか、どちらをより価値のあるものとして現時点で判断するのか、そこがまさに問われているのではないかと思います。
価値的にまさに現実の方が上だというふうなそういう判断があるなら憲法を変えようというふうになるかと思いますが、憲法九条を変えてはならぬというふうな議論を立てる場合には、これは私も現時点ではそのように判断しておりますが、憲法九条一項、二項、両方に盛り込まれた理念は、現在の国際社会の中でとても大事な日本としてのスタンスだというふうに判断いたしますので、これはその理念も含めて維持すべきであるというふうに考えております。
現実が変わったからといって、あるいは現実に実現できないからといって規範を捨てるのだというふうな議論が仮に成り立つのだとしたら、先ほど私が指摘させていただきましたように、では全国民の代表という四十三条の規定はどうなってしまうのでしょうかという、そういう問題が起こるというふうに思います。現実に引きずられた形で規範を捨てるという議論の仕方は非常に問題が大きいというふうに思っております。
以上です。
○参考人(長谷川三千子君) 一つ、佐藤さんに哲学というものについての非常に大きな誤解があるように存じます。哲学というのは、学問の中であらかじめの知識なしにできる唯一の学問でございます。本当に今、佐藤さんがおっしゃったとおり、素朴に考えてみて、こういう法律がある、そしてこういう現実がある、さてどうしたらいいかという、まさにそういう素朴なところから考えなければならないのが憲法九条だろうと思っております。
では、現実というものについてどう考えるのかということなんですが、一つ現実というものについて考えるということ、それからもし本当に日本がありとあらゆる武力なしに過ごすとしたら、それは一体どういうことになるのかということをきちんと考えてみるということ、これがもう一つ必要だろうと思います。
憲法九条の一項には「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」という言葉があるんですね。正義を希求するというのは、これは一体何なんだろう。何の予備知識も要りません。ただ考えてみるわけです。そうすると、これは多分、世界のどこかで不正義を行っている人間があったら、不正義を行っている国があったら、それに対して断固制裁を加える、それが実は正義ということなんですね。ただ何にもせずに不正義をそのままに放置するのでは、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求することにはならないだろう。それでは日本が何の武力も持たないで憲法九条第一項を実現できるのかどうなのか、そういうところから素朴に考えていくべきだと思います。
私は、これについては早急に、性急に私自身の回答を出そうとは思いません。これはいろんな考え方がありまして、実はそうやって不正義を懲らしめると言ってこれまでたくさんの不正義の戦争が行われたじゃないかという考え方も可能です。ただ、私が一つ強調したいのは、一つ一つそういうことについて、今おっしゃったとおり素朴に自分の頭でイデオロギーに引きずられずに考える、そういう議論があれば、もう既にこの問題についても今おっしゃったような矛盾なしに解決しているはずではないかという気がしております。
○佐藤道夫君 一問だけよろしいですか。
哲学がさほど次元の高くない学問だということを今初めて知りましたので、認識を改めたいと思います。
今や二十一世紀、戦後五十年もたっていると。やはり憲法改正の要否について真剣に議論して、新しい時代に今の憲法でいいのかどうなのかということを議論すべきだろうと思うのでありまするけれども、国民の関心がほとんどない、上がってこない、一体何だろうかと思わざるを得ない。相当なインテリでも、この国会でこういう問題が取り上げられている、本当ですか、どうせそのうちまたしぼんじゃうんでしょうというぐらいで何の関心も示してこない。一体どの辺にこの原因があるんだと。それから、国民の関心を高めて国民がみずからこういう議論にも飛び込んでくると、そういうムードをつくり上げるにはどうすればいいのか、時間は余りありませんけれども御教授願えればと思います。どうぞ、両参考人。
○参考人(小澤隆一君) 多少繰り返しにもなりますけれども、やはり国民が現に関心を持っている憲法と実際の運用とのずれ、このずれの原因をやはり明確に調査検討していくという、そのことが大事なのではないかと思います。
政治の公共性ということを私は言いましたけれども、政治の公共性をめぐっては、やはり汚職ですとかあるいは公金が私的に使われているだとか、そういった問題が随分出ていると思います。そういった問題の根源を洗っていくということ、これをやっていただければ恐らく憲法と現在の政治制度に対する国民の関心は大いに高まるのではないかというふうに感じております。
○参考人(長谷川三千子君) 私は、ただ反省しております。
つまり、若い人たちに、憲法の問題ってこんなにおもしろいんだよ、こんなに自分でどんどん考えていけるんだよということを魅力的な形でアピールできないでいる我々言論人、学者にその責任の一端があるというふうに私は考えて本当に自己反省しております。
○佐藤道夫君 終わります。
○会長(上杉光弘君) 時間が参りましたので、本日の質疑はこの程度といたします。
参考人の方々には大変貴重な御意見を御熱心にお述べいただきまして、まことにありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
本日はこれにて散会いたします。
午後三時二十三分散会