2003/02/26 戻るホーム憲法目次

第156回国会 憲法調査会
平成十五年二月二十六日(水曜日)
   午後一時開会
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   参考人
       北海道大学大学院法学研究科教授
       常本 照樹君
       神戸大学大学院法学研究科教授
       三井  誠君
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  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査 (基本的人権 ― 人権保障の在り方と方法)

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○会長(野沢太三君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、「基本的人権」のうち、「人権保障の在り方と方法」について、北海道大学大学院法学研究科教授の常本照樹参考人及び神戸大学大学院法学研究科教授の三井誠参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
 忌憚のない御意見を承り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 議事の進め方でございますが、常本参考人、三井参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず常本参考人にお願いいたします。常本参考人。

○参考人(常本照樹君) ただいま御紹介いただきました北海道大学の常本でございます。
 理性と熟慮の府である参議院に、憲法調査会にお招きいただきまして、誠に光栄に存じております。
 それでは、失礼して着席させていただきます。なかなか出先がよろしいかと思いますが。

 本日は、人権保障の在り方と方法、とりわけ制度の面について憲法の観点からお話しするようにと言われておりますので、少々お時間をいただきまして、若干思うところを述べさせていただきます。

 人権保障に関する制度と申しますと、大きく裁判所による保障と裁判所によらないより簡便な保障制度に分けることができますが、裁判所による権利保障の在り方につきましては、現在、司法制度改革の議論の中で詳細にわたって検討されておりますので、したがいまして、時間も本日はごく限られておりますから、既に司法改革論議の中で現れている具体的制度改革に係る問題は、憲法論として興味深い問題を含む司法への国民参加の問題を除き、本日は扱わないことにいたしたいと思います。

 それでは、一応お手元のレジュメによりまして順次進めてまいりたいと思います。

 最初の、裁判所による人権保障でございますが、今日はやや変わった角度から裁判所あるいは司法による人権保障の問題を取り上げてみたいと思います。

 すなわち、果たして司法で人権は守れるのかという問題であります。何を言うのかとお思いかもしれませんが、実はアメリカではここ十年ほど、この問題は大きな議論を巻き起こしております。

 事前配付資料としてお配りしている中にジェラルド・ローゼンバーグの「ザ・ホロー・ホープ」という本の紹介が入っているかと思います。ローゼンバーグは現在シカゴ大学の政治学科の准教授であり、ロースクールでも教えております。彼が一九九一年に刊行したこの本は、その題名を直訳しますと、うつろな希望、あるいはむなしい期待とでもなるかと思いますが、要するに、裁判所は社会に変化をもたらすことができるのか、できるとしたらどういう条件の下でかという問題につきまして、特に主要な人権問題を取り上げて実証的に研究したものでございます。

 それまでのアメリカにおいては、御承知のように、一九五四年のブラウン判決に始まり、人種差別や刑事手続上の人権、選挙権の平等、人工妊娠中絶を選択する自由などをめぐる合衆国連邦最高裁判所の積極的な判決に触発されて、裁判所が憲法判決によって社会を改革できるのは当然だという前提に立ち、その上で、それが果たして妥当かあるいは不当かという議論が一般のマスメディアでもまた学会でも熱心に行われておりました。この議論は日本でも大きく紹介され、影響を与えたと言うことができます。例えば、社会改革訴訟とか公益訴訟とか、そういったような言葉もよく使われました。そこに出版されたローゼンバーグの本は、事実の問題としてその前提を大きく覆したのであります。

 今回お配りしている文献は大変手際よく本の内容を紹介しておりますので、詳しくはそれをごらんいただきたいと思いますが、要点は、その二百二十一ページにまとめられておりますように、当該人権問題に関連する十分な判例があり、立法府と行政府からの有効な支持があり、かつ一般市民からの支持もあるといったような例外的な事情がそろわなければ、裁判所による人権保障に係る社会変化は無理だというのであります。

 アメリカにおける人種統合は、一九五四年のブラウン判決によってもたらされたのではなくて、一九六〇年代の連邦議会の立法によってもたらされたのである。また、女性の中絶の自由も、一九七三年のロウ対ウェイド判決によって実現されたのではなく、既にそれまでに社会にそれをもたらす基盤が形成されていたのであって、判決の有無にかかわらず中絶の自由は実現されたのである。かえってロウ判決は、その判決を見て安心した中絶推進派がその手を緩め、反対派が危機感を持ってかえって勢い付いてしまったという、そういうマイナスの効果があったというのがローゼンバーグの主張であります。

 この主張はアメリカの学界に大変大きなインパクトを与え、その後、この主張を更に進めて、リベラルな学者の中からは、裁判所は人権保障を通じて有益な社会変革を行う力がほとんどなく、仮に若干あったとしても、現在の最高裁は大変保守的であって人権を縮減するばかりであるから、この際思い切って裁判所から違憲立法審査権を取り上げるべきだという声さえ聞こえるようになっております。

 この本の分析の前提には、実はアメリカ特有の事情もあろうかと思います。すなわち、人種差別であるとか中絶の自由の問題などについて明らかなように、それらに関する人権保障について社会の相当部分に強い反対ないし敵意があるということであります。したがって、アメリカでは、こういった事情を推して、最高裁が改革を行うのは困難だというのも無理もないとも言えましょう。

 その点、日本の場合における人権問題については、概して敵意というよりは無関心が多いと言うべきかもしれませんから、であるとすると、ローゼンバーグの主張はそのままでは当てはまらないのかもしれません。しかし、司法的な人権救済には大きな限界があるという指摘は無視できないと思います。特に、個々の事件における個人の救済は仮にできたとしても、構造的な人権保障は困難だということであります。

 日本でも参照すべきことは、立法府が人権保障に力を尽くさなければ、さらに、人権教育、啓発を通じてそれを充実させて、国民の人権意識を育成しない限り、司法的救済の有効性には大きな限界があるということ、さらに、人権救済を、専ら司法部の役割、仕事であって、それが不十分であるなら司法部の改革を行えばよいとする考え方では足りないということでありましょう。

 具体的問題の例としてローゼンバーグが取り上げている中心的事例である黒人問題に類するマイノリティー問題として、日本では、いわゆる同和問題、あるいは帰化した人々にかかわる問題、そしてアイヌ民族問題などがあろうかと思います。まだ雪がある北海道からやってまいりました私としましては、この際、アイヌ民族の権利保障と裁判というものを例として取り上げてみたいと思います。

 アイヌ民族に係る裁判で最も有名なのは、北海道日高地方のアイヌの人々が多く居住する地域に建設されたダムをめぐるいわゆる二風谷ダム事件をめぐる一九九七年の札幌地裁判決でございます。これは日本の判例としては珍しく全文英訳されまして、世界に知られております。

 本判決では、国際人権規約、自由権規約あるいはB規約二十七条及び憲法十三条に基づきまして、アイヌ民族に属する人々の文化享有権が認められ、さらに、一般の少数民族に比べて先住民族の文化享有権に対しては政府はより一層強い配慮を行う義務を負うという大変注目すべき判断を示しました。

 しかしながら、この判決によってアイヌ民族の権利保障は果たして前進したのでしょうか。判決そのものはいわゆる事情判決であって、ダムが取り壊されることはありませんでした。また、この判決以降、この判決が直接の契機となって具体的な形でアイヌ民族の文化享有権が実現したことは残念ながらないと言わざるを得ません。

 これは実は何も二風谷判決に限ったことではありません。事前配付参考資料の中の私が書かせていただいたものにもございますように、アメリカ、とりわけアラスカ、カナダ、オーストラリア、そういった多くの国々で先住民族の権利にかかわる裁判所の判決が見られ、それが先住民族の権利保障に大きく寄与したと言われることも少なくありません。しかし、実のところ、それらの判決を子細に見ると、それらの判決そのものの効果として先住民族の権利保障が前進したというのは正確ではないということが分かります。多くの場合、その判決が契機となって立法された法律によって具体的な権利の保障が実現されているのであります。

 ここで見られるのは、言わばフォーラムとしての裁判の機能であります。すなわち、アメリカ、特にアラスカ、カナダ、オーストラリアなどの例を見ますと、人権にかかわる問題の所在が、あるいは事件の背後にある利害関係、権利関係が裁判の中で明らかにされ、それが社会を、そして議会を動かしたことによって、その問題を解決するための法律が制定され、権利の実現が図られたのであります。

 そのような裁判が起きるまでは、国民の多くは、議員も含めて、あるいは敵意ないし反感を持ち、あるいは敵意を持っているとまでは言えないにしても、そのような問題の所在には気付かずあるいは無関心で、あるいは気付いていてもプライオリティーが低く、対策が取られていなかったのであります。

 しかし、仮にフォーラムとして裁判が機能したとしても、それを受けて権利を実現するのは、繰り返すまでもなく、立法府、国会の仕事であります。

 二風谷判決の場合は、裁判を受けて権利実現を果たすに足る政治部門のサポートが残念ながら得られていないと言わざるを得ないと思いますし、その背景にはアイヌ問題はしょせんはローカルイシューだとする国民の、そして直接にはマスメディアの無関心があると言わざるを得ないと思います。

 実際のところ、アイヌ民族初の国会議員であった萱野茂参議院議員が存在したときには、政治過程においても国民的にも注目を集め、アイヌ問題はナショナルイシューとなり、一九九七年にアイヌ文化振興法が制定されるまでに至りましたが、萱野議員が去った後は、アイヌ問題は再び政治の舞台から姿を消した感があります。

 以上の話は、要するに、司法による人権保障の在り方を考える場合には、司法だけを見ていたのでは不十分であり、常に立法府によるサポート、そして実効的な人権救済啓発を通じて、国民の人権意識の高揚を図る必要があるということであります。

 二番目に進みます。

 簡便な人権救済手続についてですが、人権を侵害された人は、申し上げるまでもなく、裁判を通じて問題の行為の差止めを求めたり、損害賠償を請求することができます。判決は強制力がある点で実効的な救済と考えられておりますが、しかし、そのためには被害者自身が問題の行為を行った者を特定した上で裁判を起こし、被害を受けたことを立証しなければなりません。公開の法廷における立証などによって、二次的な人権侵害や差別を引き起こすこともあります。しかも、裁判に当たっては訴訟費用や弁護士費用が掛かり、判決まで相当の時間が掛かるという問題もよく知られております。

 差別禁止規定が法律によって定められていなければ、裁判的救済に困難があることは言うまでもございません。日本における包括的な人権規定と言い得るものは憲法の人権規定のみかと思いますが、申し上げるまでもなく、憲法は原則として私人間の紛争には適用がありません。しかし、もちろん実際には差別あるいは人権侵害行為は、私人と私人の間でこそ多く発生しているのであります。私人間であっても重大な人権問題については、いわゆる間接適用説と呼ばれるアプローチによって憲法の人権保障の趣旨を及ぼすことはできないわけではありませんが、とりわけ法律効果を伴わない嫌がらせとか差別発言などといった問題の対処は極めて困難と言わざるを得ないと思われます。

 日本と同様に裁判所以外の人権救済機関、後に述べる国連の基準に沿った国内人権機関を設けていないドイツでは、裁判所へのアクセスを容易にするとともに、法律扶助制度を充実させることによって、裁判所による権利救済の実効性を高めております。

 日本でも行政機関による人権救済を考える前に、司法的救済を改善することが先決だという声がございます。確かにこれも重要な指摘には違いありませんし、今般の司法改革の中でその方向に向いた改革がなされようとしていることは確かであります。しかしながら、司法的救済の基本的特質は個別的な事後救済にあり、特に今般の司法改革は個人のイニシアチブと司法による事後的救済を強める方向に向いておりますが、人権侵害とりわけ弱い立場に置かれている人々のそれは、事後救済では遅過ぎることが多いのであります。したがって、予防的あるいは先回り型、若しくは事後であったとしても早期対応型の人権救済制度が必要と言うべきであります。

 日本における現在の裁判所以外の人権救済制度としては、人権擁護一般について法務省の人権擁護局、あるいは法務省の人権擁護行政を補完するものとして人権擁護委員制度があるということは御承知のとおりですし、これ以外にも国及び都道府県に幾つかの機関がございます。しかしながら、これらの諸機関の活動に大きな制約があることはかねてから指摘されております

 人権擁護委員制度についても、国際人権規約、自由権規約第四回政府報告書に関する規約人権委員会の最終所見は、人権擁護委員制度について多くの問題があるということを指摘し、これに代わる人権侵害の申立てを行う独立機関の設置を勧告しております。

 裁判所外での実効的な人権救済機関の在り方を考える際に注目すべきなのが、一九九三年に国連総会が採択した国家機関あるいは国内人権機関の地位に関する原則、いわゆるパリ原則であります。細かいところは省きますが、その人権救済機関による人権救済の方法としては、まず非公開の場であっせんや調停などによって当事者が話し合い、人権侵害者がこの行為の問題性に気付き、謝罪や賠償に応ずることを促すように進められます。調停の内容としては、差別行為を行った団体に人権教育プログラムの策定を命じたり、人権に配慮した環境作りを命じたりして、その実現の監視等も行い、将来の人権侵害を予防することなどもできるわけであります。

 こうして、人権侵害の簡易、迅速、柔軟かつ専門的、構造的な解決が行われるとともに、それに先立って人権政策の在り方、人権教育、そういったものについて様々な活動が行われているわけでございます。しかも、このような活動、とりわけ救済活動は無料であって、被侵害者による申立てが容易となるような環境が整えられております。

 このような人権救済擁護機関が実効的に機能するためには、保障される人権差別禁止事項を具体的に示した法令が必要でありますが、日本には今のところそういったものが憲法規定以外には存在しておりません。その点、現在国会において審議されている人権擁護法案では、法定の差別禁止事由による不当な差別的取扱いをしてはならないと規定しております。これについては、法的効力を持つ規定であり、不法行為責任を問う根拠になるとも言われており、もしそうであるとすると日本で初めて差別を一般的に禁止した法律と言うこともでき、注目されるところであります。現に国会で審議されている具体の法律案について論ずることは、憲法調査会における審議にはなじまないと思うので詳細について論ずることは避けますが、さきに述べたパリ原則の精神を生かした簡便、迅速かつ実効的な人権擁護機関が実現することを強く期待したいと思います。

 最後に、司法への国民参加の憲法問題について簡単にお話し申し上げたいと思います。

 この問題は、司法制度改革の中でも司法の国民的基盤の確立方策として重視されており、裁判員制度の導入がうたわれていることは御承知のとおりであります。裁判手続への一般市民の参加方法については、いわゆる陪審、参審と呼ばれる制度があり、司法制度改革の議論の中でも諸外国の制度が様々に参照されております。

 しかし、その憲法適合性についてはほとんど棚上げ状態のまま最終報告に至っております。その背景には様々な現実的考慮があったとはいえ、憲法学界においては従来からその憲法適合性については消極的な議論が少なくなかったのでありますから、その議論を抜きで済ますわけにはいかないと思われます。

 特にこの問題は、憲法三十二条、七十六条三項、八十条等の司法に関する憲法規定の幾つかにかかわることでもあり、また憲法解釈の在り方が制度設計にも影響するのでありますから、あえて今回取り上げる次第であります。

 陪審制については、かねてより、憲法三十二条は裁判官による裁判を受ける権利を保障するものであるとの理解、及び七十六条三項の裁判官の独立の保障規定に基づいて、陪審が裁判官の判断を拘束することは許されないとし、英米型の陪審制、すなわち陪審による事実認定や有罪、無罪の判断に裁判官が拘束される制度は憲法違反であるとする見解が強かったと言えます。

 しかし、明治憲法とは異なり、日本国憲法三十二条は裁判所の裁判を受ける権利を保障しているのであって、裁判官による裁判を受ける権利を保障する規定とはなっておりません。英米におけるように、陪審員も裁判所の不可欠の要素であると考えれば、陪審も含めて構成される裁判所における裁判を三十二条が保障していると解することは十分に可能であります。

 また、裁判官の独立についても、その独立は第一に政治部門からの独立を意味すると解されますから、陪審による一定の拘束は問題にならず、かえって、巷間よく言われておりますように、司法行政権による個々の裁判官へのコントロールが存在するとするならば、それを阻害するという意味で裁判官の実質的独立性を高めると言うこともできます。それに、そもそも合議制の裁判において、個々の裁判官が完全に独立した判断を貫徹できないのは当然のことでもあります。

 このように、英米型の陪審制は憲法に違反するものではないし、参審についてもほぼ同様の理由でその合憲性を認めることができるものと考えます。

 それでは、陪審と参審いずれが憲法により良く適合しているのでしょうか。

 憲法三十二条は単に裁判を受ける権利を保障するのではなく、公正な裁判を受ける権利を保障していると考えるべきであるとすると、裁判制度を構想する場合にはより公正な裁判を実現する制度を採用すべきと思われます。

 素人の市民が裁判官から独立して判断する陪審制は、事件のタイプにもよるでしょうが、誤判、誤った判断を生む確率が相対的に高いという指摘がございます。もしその問題が、事実認定及び法判断について専門的訓練を受け経験を積んでいる裁判官が審理に市民とともに参加することによって軽減されるとすると、市民と裁判官が協働する参審型の方が三十二条の要請により適合すると解すべきことになると思われます。誤判と陪審の関係については様々な意見や調査があり、そのいずれが正当であるか私には判断が付きませんが、制度選択にかかわる憲法論の枠組みはただいま申し上げたことではないかと考えております。

 そうだとすると、法律のプロである裁判官と様々な人生経験を持った市民が対等な立場で裁判に参加し、互いの能力と経験を生かしながら有罪無罪の判定も刑の量定も協力して行う、そして評議の内容に基づいて裁判官が判決文を書くという裁判員制度は、裁判官と市民の割合の問題など細部における具体的制度設計の問題を残しているとはいえ、大筋において憲法に適合した制度ではないかと思われるわけでございます。

 十分に意を尽くすことができませんでしたが、時間になっておりますので私の陳述は以上で終わらせていただきます。御清聴に感謝申し上げます。

○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 次に、三井参考人にお願いいたします。三井参考人。

○参考人(三井誠君) 神戸大学の三井です。

 私に与えられましたテーマは、人身の自由と刑事手続というものでございます。

 人身の自由とは主として身体拘束からの自由を指し、人間の自由として最も根源的、基本的なものであります。日本国憲法は、個人の尊重を基軸に、奴隷的拘束及び意に反する苦役からの自由を保障しておりますが、この人身の自由は特に国家刑罰権との関係で重要な意味を持っております。国家刑罰権の行使は必然的に自由の束縛を伴うため、人身の自由の保障は刑罰権行使に対する制約と相即不離の関係に立つことになるからであります。

 この意味での人身の自由、いま少し広く被疑者、被告人の権利を軸とする刑事人権を手続法の観点から簡単に述べてみたいと思います。

 日本国憲法におきます刑事人権に関する中心的な規定は主に三十一条から四十条であります。

 三十一条の適正手続の保障規定以下、個別に裁判を受ける権利、逮捕に関する保障、抑留・拘禁に関する保障、住居等の不可侵、捜索・押収等に関する保障、拷問及び残虐な刑罰の禁止、公平な裁判所による公開裁判、迅速裁判を受ける権利、証人審問権・喚問権、弁護人依頼権、自己負罪拒否特権、自白に関する法的規制、遡及処罰の禁止、一事不再理効、刑事補償等がそれらであります。

 中でも、憲法三十一条は、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」と規定しており、これはアメリカ合衆国憲法修正五条及び十四条を受けて導入されたという沿革にも照らしますと、単に処罰の手続が法律で定められている必要があるというだけでなく、実質上その手続内容が適正であることを要求したものと理解され、一般に適正手続条項と呼ばれております。したがって、この三十一条は、三十二条以下の刑事人権に関する個別的規定を総括すると同時に、個別の定めにはないものの、三十二条以下と同等の重要性を有する刑事人権を補充的に保障する役割をも果たしております。

 このように、刑事人権に関して、日本国憲法は他領域には類例を見ないほど言わば総則、各則がそろった詳細な規定を設けております。それは、憲法全体の条文数の一割、第三章の人権規定の三分の一に及んでおります。比較法的にも、刑事上の人身の自由に関する条項は一から数か条程度が普通であるところ、国家基本法としては不釣合い、不整合なほどの数に上っているわけであります。

 これは、旧憲法と対比しますとその違いは一層際立ちます。帝国憲法におけます刑事上の人権に関する規定は、わずか三か条でありました。裁判を受ける権利のほか、不当な逮捕、監禁、審問、処罰からの保障及び住居の不可侵、不当な捜索からの保障がそれであります。しかも、それらは、法律によるにあらずして、あるいは法律に定めたる場合を除くほかなど、いずれも法律の留保を伴ったものでありました。

 日本国憲法が豊富な刑事人権規定を新設したことにつきましては、例えば牧野英一博士などは、その大部分は実は憲法をまつまでもないところである、それは、あるは無用なものであり、あるはむしろ邪魔なものであるおそれがあるという厳しい見方もありました。しかし、大方は、戦前の人権侵害多発の実態に対する反省の表れとして積極的にこれを受け止めたといってよいかと思います。例えば、団藤重光元最高判事はこのように言っております。新憲法は、人身の自由の保障のために多くの規定を設けた、それは第十八世紀末の憲法であるかのような錯覚を我々に与える、しかしそういう憲法を必要とするのが我々の現在の社会状態であることを考えなければならないのであるということでございます。

 日本国憲法の刑事人権に関するこのような豊富な規定の登場は、殊更、刑事訴訟法に影響を及ぼしました。刑事訴訟法は、法典は全面改正を余儀なくされました。全面改正に際しまして刑事訴訟法は、憲法の理念を体して全く新しく生まれ変わることが要請されたのであります。

 憲法を基盤とするという思想は、上位法、下位法との関係上、当然の事理ではありますが、先ほど述べましたように、法律の留保を伴った帝国憲法においてはその持つ意味が乏しかっただけに、刑事訴訟法の場合、格別の意味を持ったわけであります。他の法律とは異なり、刑事訴訟法について往々、憲法的刑事訴訟法とか応用憲法といった形で憲法の語が冠されるのはこのような理由からであります。

 日本国憲法の登場、それは価値、理念の転換を意味しましたが、それに伴って法典自体が全面的に改められたのは、結局、いわゆる六法の中では、憲法を別にすれば刑事訴訟法典のみでありました。ここに刑事訴訟法の性格は端的に示されていると思われます。

 新しい刑事訴訟法は、明文上、刑事人権に関する個別規定を具現化するとともに、予審の廃止、起訴状一本主義の採用、訴因制度の導入、控訴審の事後審化、不利益再審の廃止など重要な改革を実現したのであります。

 以上のように、刑事訴訟法はその中に憲法の人権条項を織り込んでおります。それだけでなく、憲法は刑事人権に関する最低限の保障ですから、これを超えて刑事訴訟法をどこまでその保障を広げるかは刑事訴訟法に任されていたといってよいかと思います。

 その典型例は、身柄不拘束の被疑者にも弁護人選任権を与える、あるいは判例上は一定の重い事件に関する必要的弁護制度を設けるとか、あるいは公判廷の自白に関しても補強証拠が必要だとか、こういったたぐいのものは憲法の保障をより広げたものと理解されております。それだけでもなく、見方によっては、家族等弁護人以外の者と被疑者が接見する交通権、証拠保全請求権など、刑事訴訟法が定める被疑者、被告人の権利の多くはこの拡大例に数えることができるかもしれません。

 このように法規解釈が憲法上の権利を拡張する方向でとらえられる場合には、憲法三十一条の精神の敷衍とも解されますので、特に大きな問題はないかに思われます。しかし、中には憲法の要請を刑事訴訟法が満たしていない条項があるのではないかというふうに指摘されるものもあります。例えば、緊急逮捕の規定あるいは検察官面前調書に関する刑事訴訟法三百二十一条一項二号の伝聞例外規定、あるいは無罪判決等に対する検察官上訴の規定、さらには、弁護人と被疑者との接見交通に対する指定を規定する刑事訴訟法三十九条三項の規定などであります。しかし、これらに対しては、判例はいずれも違憲ではないと判断いたしております。最後の接見指定に関しましては、平成十一年の三月に最高裁大法廷がその趣旨のことを明言いたしました。

 また、憲法には定めているけれども刑事訴訟法には定められていないんではないかと指摘されているものとして、起訴前国選弁護制度というものがありましたが、この点についても、判例はあるいは実務上は違憲だとは解されていないということであります。運用違憲等の問題は生じるかもしれませんけれども、制度自体を違憲と解するのは確かに難しい面もあるかというふうに私自身は考えております。

 ということで、憲法の刑事人権規定につきましては、特段に大きな改正等の問題というのはないかと思われますが、すると、問題は、憲法の刑事人権規定に沿った刑事訴訟法の運用あるいは刑事司法の運用が行われているのかというのが次の問題になります。すなわち、憲法の刑事人権規定の運用状況がどうかという問題であります。これについては、次の三つの型を御説明したいと思います。

 それは、立案者が想定していた刑事司法像はどうであったかということであります。立案者が想定していた刑事司法像は、ほぼ次のようでありました。

 第一に、旧法下の自白獲得中心の被疑者取調べには問題が多く、現行法はこれを制度上規制するために種々の制約を定めたので、捜査においては被疑者取調べを中心に行うことができなくなるだろう。二番目に、しかも被疑者の身柄拘束には時間的制約が課せられたので、おのずと証拠を十分に固めた起訴は困難となるであろう。第三に、その結果、公判でクロシロを決する公判中心主義が実質的にも要請されることになるであろう。伝聞法則が徹底し、証人尋問の手続の活用が図られるだろう。迅速な裁判の趣旨に基づいて裁判が迅速化するであろう。現に、刑事訴訟法規則には、その後、裁判所は審理に二日以上を要する事件についてはできる限り連日開廷し、継続して審理を行わなければならないという規定を置きました。第四に、有罪率はこれまでのような高率を確保することは困難になるであろう。第五に、起訴後の被告人は保釈により身柄不拘束のまま審理を受けるのが常態となるであろう。第六に、被疑者段階にも私選弁護制度が認められましたので、起訴前段階における弁護も充実するであろうと、こういうことであります。

 これに対して、現実の五十年たちました刑事司法の実態はどうであるかといいますと、かなり違った姿となっております。これが第二の型であります。

 指摘しますと、第一は、捜査における活動は依然、被疑者取調べがその中心を占めております。第二に、公訴の提起は、通例、徹底した証拠固めを経た上で行われます。第三に、その結果、公判中心主義は十分には実質化せず、しかも、いわゆる自白事件が九割を超えるために、公判は書面審理が中心となります。審理期間は短縮化傾向にありますが、地裁における開廷の間隔は平均一・一か月ということであります。第四に、無罪率は一部無罪を含めて地裁において〇・〇九%であります。第五に、地裁における保釈率は約二六%であります。第六に、起訴後は九割、十割近くの被告人に弁護人が付いておりますが、起訴前段階は、正確な数は出ておりませんが、二割程度ではなかろうかというふうに指摘されているということであります。

 この二つの型をどのように見ていくかということであります。

 この二つの型の対比というのはここではさておくとして、新たな第三の型として、今般、司法制度改革審議会の提案する刑事司法の像が示されることになりました。それは、次のような内容であります。

 第一に、不適正な身柄拘束の防止、是正を図り、被疑者取調べの重要性を認めながらも、不適正な取調べを防止する方策を講じていこう。組織的犯罪への対処等、新たな時代に対応できるよう、刑事免責制度、参考人の協力確保、保護の方策、国際捜査を充実強化させよう。

 第二に、現在の訴追制度運用を是としながら、検察官の資質、能力の向上を図るとともに、より民意を反映させるため、検察審査会の一定の議決に法的拘束力を付与しよう。

 第三に、公判手続では、まず新たな準備手続を新設し、証拠開示等によって事前の争点整理を十分に行おう。公判は連日的開廷によって迅速性を図ろう。また、争いのある事件とそうでない事件とを区別し、争いのある事件につき直接主義、口頭主義を実質化しよう。

 第四に、刑事訴訟手続において、広く一般の国民が裁判官とともに、責任を分担しつつ協働し、裁判内容の決定に主体的、実質的に関与することができる新たな制度、すなわち裁判員制度を導入しよう。裁判員は裁判官と協働して事実認定と量刑を行うことにしよう。

 第五に、刑事司法の公正さを確保するために、被疑者、被告人の公的弁護制度の整備を図ろうということであります。

 以上示しましたのが、司法制度改革審議会の提案する型であります。

 この三つの憲法の運用に基づく刑事司法の型をどのように見ていくかということであります。細かなことを紹介する、御説明する時間はございませんけれども、恐らく現在の刑事司法制度についての問題点というのは四つに整理できるのではなかろうか。

 第一は、刑事司法を民主化する、あるいは国民の司法への主体的参加を積極的に行うということであります。

 第二は、より弁護の充実化を図るということであります。一九九二年に当番弁護士制度が図られ、起訴前段階の弁護はかなり充実しましたけれども、これ、依然、勾留者の二五%にとどまり、なおこれについては限界がございます。

 第三は、公正、迅速な裁判の実現に向けて、もう少しめり張りのある刑事裁判の実現というのが図られてよろしいだろうということであります。

 第四は、捜査手続に、捜査段階がやや依然重く、その適正化というものが図られるべきであろうということであります。

 この四点が仮に現在の刑事司法の問題点だとしますと、現在提示されております司法制度改革審議会の提案というのはかなり私が申します問題点に対応したものだというふうに指摘することができるかと思われます。

 個別の問題点につきましては後の議論に譲るとしまして、特にこの四点につきまして、なお司法制度改革審議会の提案を進めてほしいと思われますのは、やはり捜査手続の適正化の問題でございます。これにつきましては、かなり被疑者取調べにつきましても記録の整備等の改革は提案されておりますけれども、取調べ過程の録画等を含めた客観化、可視化の方向がなお一段進められていいのではないかと個人的には考えております。

 最後に、簡単にまとめておきたいと思います。

 一般的に言いますと、憲法三十一条以下の刑事人権規定の改正につきましては、一方で、憲法上、起訴前国公選弁護制度、起訴前保釈制度、検察官上訴の禁止などを明確にせよという意見は見られるかと思います。逆に、現在は憲法制定時に問題視されました社会状態とは異なるから、他の国と同様、刑事人権規定をもっとスリムにしてもよいのではないかという意見があるかもしれません。

 確かに、憲法の刑事人権規定は不磨不朽ではありません。事実、整備を望みたい箇所は幾つかあります。文言、表現の明確化が望まれるものもあります。しかし、他の人権規定の動きと切り離して言えば、当面、刑事人権規定はこのまま維持されてよいし、維持されるべきであろうと考えており、あとは憲法のこれらの規定に基づく刑事司法の運用をどのように考えていくのかというのが中心課題になるのではないかと考えている次第であります。

 以上で私の意見を終えさせていただきます。
 ありがとうございました。

○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
 以上で参考人の意見陳述は終了いたしました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。
 なお、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に願います。
 世耕弘成君。

○世耕弘成君 常本参考人から理性と熟慮の府と言われた後に質問をするのは大変なプレッシャーでございますけれども、一生懸命私なりに今考えていること、勉強していることを少し質問をさせていただきたいと思います。
 今、司法改革の流れについて常本参考人の方から御説明がありました。私も今、いろんな観点からこの司法改革というものに取り組ませていただいています。基本的な考え方としては、やはり規制緩和を行ってできる限り事前の規制をなくしていく、その代わり、その後、事後で、いろいろなもめ事が起きたときに司法の場で事後的にしっかりと解決をしていくというのが、常本参考人もおっしゃったとおり、基本的な司法改革の考え方ではないかなというふうに思っています。その中で、ロースクールの問題だとか、いろんなテーマに取り組んでいるわけですけれども。
 しかし、私自身、最近少し、特に行政訴訟という問題を研究していく中で、今の裁判所というか裁判官の意識というか、人権救済に対する意識がもうほとんどないんじゃないかなという気持ちになりつつあります。はっきり言って、私自身、裁判官に関して不信感を持ちつつありまして、その辺について少しお考えを伺いたいんですけれども。
 行政訴訟は、ほとんどのケースが当然人権救済、権利救済を求めて国民が提訴してくるわけですけれども、結局それに対して裁判官はほとんど権利救済の判断まで行かないで、結局門前払いをやっているケースがかなり多い。
 例えば、被告としてだれを訴えるべきかが間違っているからこの裁判は無効ですとか、あるいは出訴期間、これはそもそも行政訴訟手続法で三か月となっていること自体、私は非常に一般の個人が行政を訴えるときに準備期間としては短過ぎると思いますけれども、そういう出訴期間がもう既に過ぎているから駄目ですよというような形で棄却するとか、あるいはそもそも原告としての適性、適格性がないとか、そもそも当該の法律が原告の権利保護をうたっていないとか、時間が経過したからもう訴えの利益が喪失しているとか、そういう形で結局実質その人の権利について審査をすることなく却下をしているというケースが多い。
 例えば、大阪空港訴訟なんというのは、これは私は中身の是非はともかくとして、騒音を何とかしてくれという人たちが訴え出てきた、それに対して十二年間掛けて最高裁まで行って結局裁判になじまないという判断で却下してしまっているというような、こういうケースもある。
 実質、今の裁判所が、痛いから助けてくれと言ってきた人に対して、普通であればその人を見て、いや、大した痛みじゃないから我慢しなさいと言うのか、あるいは、ああ、そう、これは大変だから何とかしてあげようというのが私は基本的に裁判所の仕事だと思っているんですが、現実に今、行政訴訟で行われている裁判のスタイルというのは、痛いと言って目の前でのたうち回っている人がいるんですが、その人に手も触れずにその人が果たして痛いと言う資格があるのかどうかという議論を行っているというのが今の行政訴訟の現状ではないかというふうに思っています。
 私は、これは正に憲法上、そういう手続が正しいのかどうかという議論を行政訴訟手続法の中でやる以前の問題として、やっぱり憲法にさかのぼって人権救済をどうすべきかという議論をまずやるべきだと思っているんですけれども、この辺について常本参考人からまずお考えをお伺いしたいと思います。

○参考人(常本照樹君) ありがとうございます。大変正鵠を得た御意見、御質問だと拝聴しておりました。三点ほどお答え申し上げればと思っております。
 一つは、一番最初にお話ございました司法改革の流れにかかわることでございますけれども、司法改革の基本にある考え方と申しますのは、私の理解するところでは、従来、ともすると国民が統治の客体に追いやられていたというところを改めて統治の主体にするのだという考え方かと思いますけれども、しかし実際には社会の中には様々な理由でもって主体たり得ない、あるいは主体たろうとしてもなかなかそれが難しいという方々がおいでになるだろうと思います。ですから、そういった方々に対する目配りというものも必要になってくるのだろうというふうに考えているわけでございます。
 例えば、今日私が御紹介いたしました人権委員会、あるいはそれに類する機関というものも、これは先ほど私の最初のお話でも申し上げましたように、そういった言わばまず自分でイニシアチブを取って行動して、何か問題があったら裁判所の救済を受けるという、言わば余裕がない人々についての目配りということも考慮した組織であるべきだという趣旨でございました。
 二番目の行政訴訟については、正に御指摘のとおりであろうかと思います。これについては、やはり裁判官の方々というのは、これは大変多くの問題を一手に、民事、刑事を含め引き受けておられるわけであって、その中で、言わば行政訴訟に限らず人権問題についても過不足なく十分な対処ができるかと、これはやはりなかなか難しい問題があろうかと思います。
 例えば、諸外国におきましては、人権委員会のみならず人権審判所というものを設けて、人権問題はそちらの方で扱うというふうにしているところもございますけれども、その背景にある考え方は、やはり裁判官はゼネラリストであるけれども人権問題のスペシャリストではないと、人権問題は、申し上げるまでもなく、人の置かれている様々な苦しさ、様々な悩みというのはあるわけであって、それについて非常に専門的な知識あるいは経験を持ったスペシャリストでなければ十分な対処ができないのではないかという考え方が背景にあるんだというふうに考えております。
 そういった意味では、我が国も、直ちに人権審判所まで行くかどうかはともかく、人権委員会的なところでそういう配慮をして、裁判所の仮に足らないところがあるとすればそれを補っていくということが必要かと考えております。
 三番目は、そうとはいえ、やはり裁判官にも人権意識というものをできるだけ持っていただくということは重要なわけであって、これは先ほど世耕委員もおっしゃいましたように、現在、大学におきましてはいわゆるロースクールを準備しているわけでございますけれども、その中で考えていることは、やはり人権意識を持った法律家、人権意識を持った法曹を育成したいということであります。
 そういった意味では、現在考えられているロースクールのカリキュラムというものが、憲法あるいは行政法を含む公法関係のカリキュラムがあれで十分かという問題も具体にはあるかもしれませんが、そういった問題も含めながら、ロースクールにおける人権意識を持った法曹の育成というものに努めてまいりたいというふうに考えております。
 以上でございます。

○世耕弘成君 ありがとうございました。
 今御指摘がありましたように、やっぱり裁判官自身がちょっと忙し過ぎるのかなという面も私自身いろいろリサーチをして感じているわけですけれども。また、その忙しさが私はいろいろ刑事手続上いろんな問題を生んでいるんではないかと思っております。
 この政治の世界にいると、割と身近な人が逮捕されることが多いものですから、いろいろ身柄の拘束ということについて意識をかなり持っているんですけれども、刑事訴訟法でいろいろ手続は規定されているわけですけれども、今、保釈率が地裁段階で二六%というお話がありましたけれども、どうも保釈される人とされない人というのがある程度種類分けができるんじゃないかなという気がしています。
 本来は、これ保釈するかしないか、そのまま勾留するかどうかというのは、罪を犯したと疑うに足りる相当の理由が認められる場合とか、あるいは証拠隠滅、逃亡といったおそれがあるという場合が、それが基本的に理由になるはずですけれども、現実には、はっきり言いますと、捜査当局の言い分に従った人は保釈をされると、そうでない人はなかなか保釈をされない。あるいは、世間的に物すごく注目を集めている大疑獄事件のような被告は保釈はされないけれども、小さな事件、特に経済犯なんかは保釈をされるというような部分があるんではないかなという気がしているわけでございます。
 特に、この辺の判断は最終的に裁判官が行うわけですけれども、じゃ実際に、刑事訴訟法八十二条で勾留する場合の基本的な理由の開示をしなきゃいけないわけですけれども、その開示の仕方自体が十分その被告の人権を守るような形になっているのかどうか。やっぱり、身体を拘束をされるというからには相当踏み込んだ理由の説明があって裁判官の判断が示されるべきだと思うんですけれども、現実には、そういう人権よりも実際には捜査の事情というか、そういったところの方が優先されているんじゃないかなという気がするんですけれども、その辺に関して三井参考人の御意見をお伺いしたいと思います。

○参考人(三井誠君) 今、具体的には二つの事項を挙げられました。一つは保釈の問題であり、もう一つは勾留理由開示の点であります。背景には、裁判官の人権意識というものがやや弱いのではないかということがあったかと思います。
 御指摘のとおり、保釈につきましては、弁護人の、弁護士の方からよく指摘されるんですが、否認している場合にはなかなか保釈されない、人質司法だと、こういう指摘がございます。ただ、保釈については、保釈請求をして却下されているのかどうかということで、保釈請求との関係がありますので、必ずしも保釈率が著しく従前と比べて低くなったというわけではありませんけれども、若干低下の傾向にあることは否定できないように思います。
 もう一点の理由開示につきましては、これは確かに理由開示につきまして、世耕議員がおっしゃいましたように、もう少し丁寧な理由開示が行われてもいいのではないかということというのは、そのような指摘は確かな面もありはします。
 しかし、二つの点につきましては、保釈につきましては、事例との関係ですので、具体的に私自身が裁判官の人権意識が低下しているから保釈率が下がったというふうに評価するということは、現段階で言えるかといいますと、やや難しい面もあるかというふうには考えております。理由開示の方につきましては、御指摘のとおりの面というのはありますが、この理由開示というのは現実には起訴後段階も起訴前段階も請求される例というのが余り多くないんです。
 したがって、もう少し被疑者、被告人、あるいは弁護人の方で理由開示を積極的に活用し、今おっしゃったような形で、なぜ自分が身柄拘束されているのかという点をより具体的に明らかにするような手続を積極的に取られるという方法の方がなお重要な、現段階では重要なことではなかろうかというふうに理解しております。

○世耕弘成君 ありがとうございます。
 それと、もう一つお伺いしたい。
 最近、たしかおとといも一つ事件がありましたけれども、裁判所で被害者の遺族の方が被告に殴り掛かるというような事件がちょっとこの一週間ほどの間に二つほどあったと思うんですけれども、非常に痛ましい、痛ましいというか遺族の心情を考えると理解できるところもあるかなと思うんですけれども、やっぱり根本には、刑事裁判において要するに被害者あるいはその遺族、家族がどういう形で参加できるかということにやっぱり懸かっているんだろう。まだ被害者、遺族の方にとって納得のできる裁判への参加の仕方が担保されていないんじゃないか。
 二〇〇〇年の五月に犯罪被害者保護法が成立をして、また刑事訴訟法が改正をされて、一応その公判記録の閲覧だとか法廷での意見陳述といったことが可能となって、随分意見陳述をする方も増えてきているというふうに聞いているんですけれども、まだまだ、結局何かお情けで意見を言わせてあげているとか、お情けで遺影を法廷内に持ち込ませてあげているとか、お情けで亡くなったお子さんが着ていたサッカーのユニホームを親が着て裁判所へ来ることを認めてあげるとか、そういうイメージになっていて、まだまだ、被害者の裁判所、法廷における一つの役割というものがまだまだ後れているんではないかなという気がしております。
 もちろん、もう釈迦に説法になっちゃうんですけれども、ドイツやフランスでは、やはり被害者あるいは被害者の家族に対していろいろ重い地位が与えられていまして、例えば被害者自身が訴追をできるとか、あるいは被害者自身が求刑をできるなんていうような制度も出ております。あるいは、刑事裁判において、逆に民事も一本にしたような形で被害者の損害請求が刑事裁判の中でやれるというような仕組みも導入されているというふうに聞いておりますけれども、こういったところを日本国憲法の中で入れていくことができないのかということについて、三井参考人からお伺いをしたいと思います。

○参考人(三井誠君) 被害者は当事者ではありません。また、被害者に今、世耕議員がおっしゃったような権利があるとしますと、時にそれが被疑者、被告人の権利とぶつかることがございます。しかし、刑事司法の民主化、あるいは国民が司法を主体的に支配するというような視点とか、先ほど申しましたもう一点の公正な裁判の実現というような観点からしますと、これまで被害者の地位あるいは被害者の権利というものが刑事司法においてなおざりにされていた、あるいは弱いものと位置付けられていたということは否定できないように思われます。
 そこで、今般、ここ数年、被害者の権利を充実させるために立法化の動きというものが行われ、現実に立法も行われ、その運用が今注目されているところであります。確かに、運用上、その点についての改善というものはより積極的になされていくべきかとは思われます。
 それでは、最終的に、憲法上、被害者の権利というものを第三章の人権のところで定めるべきかといいますと、恐らくこの点については公正な裁判の実現とかあるいは適正手続の保障の枠内で解釈すべき問題であって、現に被害者の権利というものを直接的に基本的人権の中に定めるのが妥当かと言われますと、ちょっと現段階では私のところは、意見としては留保したいというふうに考えているということでございます。

○世耕弘成君 時間もわずかでございますが、最後の質問を常本参考人にさせていただきたいと思いますが、実は私、インターネットのいろんな規律を整えるという意味での、自分も議員立法を一つやりましたし、いろいろ今取り組んでいるわけなんですけれども、今ネット上での人権侵害なんかが非常に深刻になってきています。
 しかも、この人権侵害を裁判でやっていたんでは、もう時間がはっきり言って間に合わない。恐らく、もう情報の広まるスピードも速いし、また技術の進歩も速いし、結局裁判で判決が出るころにはもう技術が陳腐化してしまっているというようなこともあるので、これは正に法律である程度事前の規制をしていかなきゃいけないんじゃないかと私は思って今そういう法体系を一生懸命考えているわけですが、必ずそこでぶつかってくるのが、やはり、じゃ事前に今度規制するとなると必ず表現の自由とか報道の自由といった非常に憲法上のテーマと、正にまたもう一つの人権とぶつかってくるわけですが、この辺のバランス、整合について常本参考人はどのようにお考えでしょうか、最後にお伺いしたいと思います。

○参考人(常本照樹君) ありがとうございます。
 これも大変重要な問題でございまして、私も大変悩んでいるところでございますけれども、インターネット上の例えば表現の自由に関しましては、申し上げるまでもなく、これは憲法の原理から申しますと、従来は御承知のように表現の自由については、例えばマスメディアが実際上の表現手段を独占していて一般市民にはその表現手段がない、いわゆる思想の自由市場というものが実現していないということがかねてから言われていたわけでございますけれども、そういった中にあって、インターネットというのは非常に参入障壁の低い、安いコストでもってだれでも利用できる表現手段として、文字どおり思想の自由市場というものを具現化したものというふうに憲法上は評価されるものであろうかと思います。そういった意味では、それに対する法規制というのは極力これは避けるべきだというのがやはり筋だろうとは思います。
 あるいは、例えば、表現の自由に限らず、知的財産の問題でもインターネット上は多々ございますけれども、これについても今アメリカ等でいろいろ議論があるのは御承知のとおりでございまして、これもただ法的な規制をかぶせた方がいいのか、あるいは技術の発展という点を考えればできるだけ自由にして市場に任せておいた方がいいのか、これもまた大変議論の分かれるところであろうかと思います。
 そういった意味では、ただ一方で、御指摘のとおり様々な社会的問題が生じているのは事実でございますから、ここでも私は直ちにすぱっとしたお答えを申し上げられないので大変苦しいところでございますけれども、先ほど最初に申し上げたような憲法の基本的な理念というものを踏まえながら、具体的な法制というものを考えていく必要があるのかなというふうに思っております。

○世耕弘成君 終わります。

○会長(野沢太三君) 江田五月君。

○江田五月君 今日は、両参考人、大変ありがとうございます。
 何か学生時代に戻ったような精緻な議論でリフレッシュされておりますが、最初に判決と社会改革ということについて伺ってみたいと思うんですが、もちろん司法過程というのは社会の改革が目的となった制度ではなくて、個別の案件の処理、紛争の解決ではありますが、しかしその解決を通じて社会が改革されるということは当然ある。しかし、先ほどの常本参考人のお話ですと、なかなか社会は判決では変わらないよというような、ある意味では我々立法府にいる者に対するエンカレッジであるかもしれませんが、司法の部におる者には大変ディスカレッジングなことかなという気もするんですが。しかし、必ずしもそうばかりでもないと。
 例えば、最近のことで言うと、私は、ハンセン病の判決ですね、一審の判決なのに、あれほど大きな社会的なインパクトを持った判決というのはいまだかつて日本の司法の中で経験したことがないと。これに対して、じゃ、ハンセン病というものに対して、あの偏見はなくさなきゃならぬという社会の支援がずっと大きくあったかというと、必ずしもそうではなかった。
 しかし、あの判決、一つの判決とそれが報道される報道ぶり、これによって世の中が揺り動かされて、そしてもちろん立法府との、あるいは政治とのいろんな共同作業もありました、我々も立法もいたしました。これによってある取っ掛かりは作れたかなと。ハンセン病の差別、偏見はいまだなくなっておりませんが、そのために、なくすために判決というのが大きな役割を果たしたということはあるんじゃないかという感じがするんですが、その辺は常本参考人、どういうふうにお考えでしょうか。

○参考人(常本照樹君) ありがとうございます。その点は御指摘のとおりだと思います。
 ただ、今、例として挙げられましたハンセン氏病判決につきましては、熊本地裁の判決が出た後、それに対して控訴をしないという国の側の決定があったかと思いますけれども、それによってあの判決は言わば社会的に大変大きな意味合いを持つということになったのだと思うわけです、一つはですね。
 であるとすると、先ほど私が申し上げましたように、裁判所による社会改革といいますか、社会変革と申しますか、その中の言わば二つ目の条件、すなわち立法府又は行政府によるサポートというものがあって、裁判所の判決というものは具現化していくんだということの一つの表れ、あるいは例というふうにも見ることができるのではないかというふうに思うわけでございます。

○江田五月君 それも一つの見方ですが、ただ、私ども現にあのときにかかわっていた者からすると、内閣総理大臣があの判決に対してとても控訴できないような事態が生じたと。テレビは毎晩のようにその実態を報道し、これで控訴をしたら飛ぶ鳥を落とす勢いの総理大臣の人気が一気に下がるのではないかなどというような状態が起きたということもあって、世の中を変えていくのには判決というものも一つの重要な素材で、もちろんそれだけで世の中変わるわけじゃないけれどもということかと思います。
 同じような観点から三井参考人に伺いたいんですが、今日のテーマに触れられてはいませんが、違法収集の証拠の証拠能力というテーマがありますね。
 つい最近、これはどこの判決でしたか、違法に収集した尿からでしたか、覚せい剤が検出をされたと。しかし、そのことを証拠にして覚せい剤の使用に有罪判決を出すことはできない、それはなぜなら証拠が違法であるからと。これは、私は裁判過程、判決というものがそうした違法収集の証拠禁止原則というのを厳守していくと、そのことが刑事捜査の実態を変えていくという力を持っているというように思うし、そうでなきゃならないと。それは、現に尿から覚せい剤が出ているんだから、違法であろうが何であろうがこいつは打ったに違いないんだから、とにかく罰しろというのも一つの考え方ですが、それをやったら、取り締まる方はもうとにかくやり得ですから何でもやることになって世の中むちゃくちゃになっちゃうというので、あえてそこはもう泣いて馬謖を斬るといいますか、世の中における権力の濫用を防ぐために、あえて司法が役割を果たそうと頑張る場面だと思うんですけれども。
 さらに、もう一つ質問続けますと、それに続いて、しかしその事件をきっかけに、たしかこれは自動車の中を捜索をした。そうすると、そこに覚せい剤が出てきたと。これは、最初のきっかけとなった証拠の収集方法は違法であるんだから、その後もそのきっかけとなった証拠を材料に使って捜索などをして得られたものも証拠能力を否定しないと、それでないと最初のところだけ起訴しなきゃ後はもう免責ということになってしまうんで徹底していないというふうに考えますが、どうお考えでしょうか。

○参考人(三井誠君) 違法収集証拠の証拠能力の問題についての御質問でした。
 最高裁は昭和五十三年に、違法収集証拠の証拠能力について初めて否定される場合があるということを認めました。その後、一件も違法収集証拠の証拠能力を否定するという具体的な事例で判示したものはありませんでした。このたび、今、江田委員が御発言されましたように、初めて最高裁において違法収集証拠の証拠能力を否定する事例が出てきたということであります。
 この違法収集証拠の証拠能力は、いろんな理由があるんですが、適正手続に反するとか、あるいは司法の廉潔性に反するとか違法捜査の抑制といったような、そういう観点から排除されるもので、恐らく、今、江田委員が言われましたように、この種の事例が出ることによって違法な捜査を規制するという役割を判決が示すということが可能になっていくのだろうと思われます。したがって、どの事例でもと言いませんけれども、適切な事例があれば最高裁は証拠の排除に勇断を持ってほしいと私も個人的には思っております。
 ただ、派生証拠についてどのように考えるのかというのがもう一つの点でした。
 この事例は、確かに、一方では使用の方を排除し、所持の方については有罪だという事例だったかと思いますけれども、この派生証拠については、この事例を細かに承知しておりませんので一概に示すことはできないんですけれども、これはどの程度元の証拠とのつながりがあるかという問題ですので、事案をもう少し検討しないと、私自身、この所持についてまで排除すべきでなかったかというふうに問われて、そのとおりだとお答えすることはちょっと現段階では難しいと。しかし、もちろん事例によっては妥当でないという判断を私がするかもしれませんという程度のことでお許しいただけますでしょうか。

○江田五月君 分かりました。
 私も細かく判決の一言一句まで読んでいるわけじゃないんですが、ただ、やはり基本的には、裁判手続そしてその結論である判決というのが、捜査過程はもちろんのこと、社会に対する影響というものもそれぞれの場面であると。そのことを考えたときに、ただ目の前にいる犯人を逃してはならないというだけでなくて、もっと大きな正義の観点から裁判所が役割を果たさなきゃならぬときがあると。
 私は、やはりこの一連の捜査過程におけるある段階での違法性が次の段階にいかに承継されるかと、違法性の承継というのはかなり厳格に考えた方が本当はいいんじゃないかと思っておるということだけ申し上げておきたいと……

○参考人(三井誠君) 一言だけ、それじゃ付け加えさせていただいてよろしいでしょうか。

○会長(野沢太三君) 三井参考人。

○参考人(三井誠君) この違法収集証拠の証拠能力の問題というのは、刑事手続のところで最も根幹的な問題を提起している面があります。それは、実体的真実主義対適正手続ということで刑事司法が対比されることがあります。
 そうすると、本件の場合ですと、恐らく使用については、この人は使用していたのは疑いないだろうと。そうすると、実体的真実主義の観点からしますと、そちらの方は後退して、手続は適正でなければならないということを優先させたということなんですね。こういう何か価値についての転換が幾らか図られている面があるということを先生方の方、御理解いただければというふうに思っております。

○江田五月君 じゃ、ついでといいますか、関連して今の問題に触れたいと思いますが、三井参考人、先ほど刑事手続が第一類型、第二類型、第三類型と。第一類型が、戦後、今の刑事訴訟制度を発案したときの発案者のイメージ、第二類型が現在の姿、第三に今の司法制度改革本部が目指している方向ということを言われたんですが、これは私の理解では、第一がどっちかといえば当事者主義、第二が実体的真実主義ということですよね。ただ、第一の当事者主義もそれでは実体的真実はまるで考えていなかったかというと、それはそんなことはない。実体的真実の方も当事者主義ということを全く考えていないわけでもないんだけれども、ただ、どうも当事者主義がかなり弱くなってしまっておるということが現実で、したがって、今のいろんな司法制度改革の試みは、もう少し当事者主義的色彩を強めようという、そういう方向だと見ていいでしょうかね。

○参考人(三井誠君) 最初に立案者が提案したのが当事者主義型で現実は実体真実主義型だ、新しく提案している司法制度審議会の提案というのも当事者主義化を目指したものだと、こういうふうな理解でよろしいかと、こういう御質問だったですね。

○江田五月君 はい。

○参考人(三井誠君) 恐らく、今の当事者主義あるいは実体真実主義の言葉が何を意味するかということによって内容が変わってくるかと思うんです。
 形として名付けるとすれば、第一の型、立案者の提案はアメリカ司法型、二番目が、現実の司法は精密司法型、そして第三の司法制度審議会が提案している提案というのは刑事司法を民主化しようという提案かなと、中心になるのはですね、というふうな気がいたします。
 ただ、現在の司法に比して当事者主義化をより強めようという側面があることは否定できないだろうというふうに考えてはおります。

○江田五月君 そこで、大変悩ましい課題が最近出てきていて、それが例の被害者の問題でして、先ほどの三井参考人のように被害者は当事者ではありませんと、こう言い切ると我々は大変な糾弾にさらされるのが実際のところなんですね、今。
 だって犯罪の当事者じゃないか、被害者なんですから、それがなぜ裁判に関与できないんですかと言われると、なかなかこれは難しい。しかし、被害者が当事者として裁判にかかわると、これは裁判手続が糾弾手続になってしまうという悩ましい課題で、それにもかかわらず何かいい解決策はないかと、これも我々悩んでいるわけですが、基本的に被害者の救済というのは、国連にも被害者人権宣言でしたか、というようなものもあったり、それはそういう場でしっかりと社会の支えを被害者は得るべきものであって、そういう意味では、今、我が国の憲法には第三章に被害者の人権というものは書いてありませんが、機会があれば書き込むということはあっていいんじゃないかと私は思いますが、いかがですか。

○参考人(三井誠君) 先ほど当事者ではありませんと申しましたのは、厳格な意味で刑事訴訟法上の当事者というふうに位置付けすることはできませんというだけのことでありまして、広い意味での訴訟関係人であることというのは疑いないところであろうと思います。
 そしてまた、先ほども申しましたように、刑事司法というものを国民主体のものにしていこうということであれば、被害者というものがその一員として加わってくるということは十分に予想されることですし、また、公正な裁判の実現というような観点からも、被害者の視点というのをこれまで以上に大幅に入れなければいけないということは疑いないであろうと。
 これらの点については、これまで十分に検討されていなかった、あるいはなおざりにされていたというような観点で見直しを図らなければならない、あるいは現在新しく立法されたものの運用というのは厳格に注目していかなければならないと、こういうふうに申したものでありまして、それ以上に憲法上被害者の権利というものを定めよというふうに言われた場合に、確かに、いずれかの段階でそのようなことが可能になる時期というのはできるのかもしれませんけれども、今のところは、恐らく、先ほど申しましたような視点から、被害者というもの、被害者についての視座というものを十分に固めていくという段階が必要であって、それを踏まえて次に立法といったような段階が出てくるのではないかと、このように理解しているということであります。

○江田五月君 憲法に実定法的に被害者の権利が規定されるかどうかは別として、いずれにせよ、被害者というのが社会的なサポートをしっかり受けなきゃならぬということは事実だと言っておきたいと思います。
 常本参考人に伺いますが、人権の保障、裁判所による保障もある、裁判所ではない簡易迅速な保障もあるということで、今一番人権侵害極まれりという事案というのが我々の目の前にあると。それが刑務所ですね。名古屋刑務所でホース殺人事件なんという何かホラー映画みたいな事件が起きたりして、今、これに対して一体どうするんだ、刑務所の在り方というのを制度の仕組みから見直さなきゃいけないときが来ているんじゃないかというようなことも感ずるんですが、まず第一に、今、人権擁護法案が出て人権委員会を作ろうとしておると。
 この人権擁護法案について、常本参考人のおっしゃった積極的な側面というのは私どもも認めるにやぶさかでないんですが、ないんですが、大変残念なことに、法務省に縁やゆかりをちょっとでも持った機関が人権擁護を語る資格があるのかというのが今問われている状態だと思うので、その点で、どうも法務省の外局である人権委員会ということでは、この名古屋刑務所の事案などを見ると、とても世間の是認は得られないんじゃないかという気がしておりますが、参考人の御感想を伺います。

○参考人(常本照樹君) 現在議論されております人権擁護法案の詳細については、私もこの場でお答えするのがいいかどうか分かりませんが、ただ、今御指摘があった点、特に人権委員会として構想されているものの独立性というものが大変大きな論点であるということは承知しております。
 特に、法務省とその関連を持つということは、恐らく一番大きな問題があるとすると、それは実際にその委員会を動かす事務局の方々の問題かという気がするわけです。もちろん、五人の人権委員の方々は大変優れた方々がその運営に当たられる。しかも、日常的な組織の運営というのは、私などが大学でそういった仕事をしていても日々感じるわけでございますけれども、事務局の方々の力というのは非常に大きいわけでございます。
 そういった方々がどういうふうにスタッフィングされるかということが一つはその問題になってくる、かかわってくると思うわけでございまして、そういった意味では、例えば一部で主張がございますように、人権委員会に独自の職員採用権限を認めるといったようなことをも含めて考える必要があるかもしれませんし、あるいは、これはちょっと思い付きみたいなことでございますが、例えば内閣法制局という機関がございますけれども、こちらの参事官の方はそれぞれの省庁から出向で法制局にいらっしゃって、そしてそこで出身省庁、要するに母体から出た法案の審査等をなさる、非常に厳しくなさるというふうに聞いておりますけれども、しかし、だからといって出身母体の省庁に戻られてもそれが当然マイナスにはならない、かえって厳しく見た方が良いというふうに考えられる。
 そういった、言わば仕事の在り方に対するカルチャーみたいなものが仮に確立するならば、仮に法務省出身の方が人権擁護委員会の事務局に入ったとしても、同じようなカルチャーが確立すればあるいはいいのかもしれませんけれども、ここら辺はなかなか難しい問題があるんだろうという気がしております。

○江田五月君 最後の質問になりますが、今の正にカルチャーなんですが、法務省カルチャー、私も法務省に近いところにいる人間ですから法務省のことを悪く言うと嫌なんですけれども、しかし、どうも法務省カルチャーというのが余りよろしくないと。人権意識というのが本当に希薄なんじゃないかなと最近ますますそう思うので、その点で、例えば今度の事件なんかは正に拷問ですよね。
 拷問禁止条約というのがある。ところが、コスタリカ辺りが主導した拷問禁止条約の選択議定書で、拘禁施設に対して外部の監視を制度化しようというそういう選択議定書が国連で議論になったら、日本は社会経済理事会では反対に回って総会では棄権をしたというようなことなんですが、そういう今の、法務省を含め政府の人権カルチャーについてどうお感じでしょうか。

○参考人(常本照樹君) これについて、誠に残念ながら、私、判断すべき資料を持っておりませんので何とも申し上げづらいところでございますけれども、そういった問題を指摘する声が多々上がっているということだけは承知しております。

○会長(野沢太三君) 時間です。

○江田五月君 最後に、同じ問題、三井参考人。

○参考人(三井誠君) 今のカルチャーの問題というのも私今すぐに答えられませんが、最低限この名古屋刑務所事件との関連では、監獄法というのが明治四十一年に制定、施行されていますものなんですが、非常に古くて、やはり受刑者の人権尊重のような基本規定とか、あるいは不服申立て制度の整備とか、その種の全面改正が早急に必要な事柄ではないかというように感じているということだけ付加させていただきます。

○江田五月君 ありがとうございました。

○会長(野沢太三君) 魚住裕一郎君。

○魚住裕一郎君 公明党の魚住裕一郎でございます。
 お二人の参考人、今日は貴重な意見をいただきまして心から感謝を申し上げます。
 今、江田委員のお話を伺っておりまして、継続案件である人権擁護法案の思わぬところで参考人質疑ができているななんというふうに勝手に思っておったところでございますけれども、人権保障の在り方という点から常本先生にお聞かせいただきたいんですけれども、昨年の九月にこの憲法調査会でイタリア、ベルギー、フランスと憲法事情調査というふうに伺ったわけでございますが、憲法院とかあるいは仲裁院というのがございまして、それは各国家機関の権限争議等も対応したりするわけでございますが、この人権問題についてもかなり高い観点から救済の判断を行うと。
 我々からこの位置付けが、かつ位置付けが立法府、行政府あるいは司法府、その上にあるというような位置付けでございまして、考えてみれば、三権分立自体が人権保障のためにあると思えば、その人権保障を実質化、実効化させるためにこの三権分立を更に乗り越えたような形の制度というか立論があってもいいのかなというふうに考えるところでございますが、そこまで行きますと憲法上の位置付けになるものですから、法務省にどこにあるのみたいな、そんな議論もなくなるというふうに思うところでございますが、こういうような、人権を本当に保障、実効性あって保障する制度というものを憲法上作るというようなもの、今の司法府とは別にですよ、そういうようなお考えはどのようにお考えになりますか。

○参考人(常本照樹君) 確かに御指摘のとおり、近代国家において三権分立という制度を取り入れた最も根本の理由というのは人権保障にあるということから言えば、その人権保障をよりよく実現するためには、場合によっては三権分立というものの考え方も変える必要があるかもしれないという御指摘は、確かに考え方としては大変説得力のある御指摘かと思います。
 ただ、それを具体の制度化する場合にどのような形があり得るのか。これは、諸外国の場合には確かに、それぞれ立法、司法、行政の三権に厳密にはいずれも属さないような人権救済機関があるという指摘がある、国もあるかに聞いておりますけれども、それが実際に実効力を持った機関として機能し得るのかどうか。つまり、従来から様々な人的あるいは資源的様々な裏付けをもって活動している三権から離れて、十分な人権保障をなし得る機関として成立し得るのかどうか、これは具体の制度を考える際になかなか検討すべき点も多いのかなという感じはしております。

○魚住裕一郎君 今の参考人の御指摘、そのとおりだと思うんですね。具体的に憲法の歴史上といいますか、積み上げの中で各仲裁院とか憲法院の権威が高まって、そこから人権救済というような制度が取られているものですからそのとおりではありますけれども、体制としてはそういうことも考えられるなと。
 それにしても、もしそういう制度を作る場合には事務局が大切であるし、また先ほど御示唆いただいたような内閣法制局みたいな、カルチャーみたいなものを本当にやっていけば十分成り立ち得る考え方ではないかと、私の考えをここで申し上げておきたいというふうに思います。
 それと、三井参考人にお聞かせをいただきたいんですが、先ほどまとめの中で、現行の憲法における刑事上の人権手続の規定、スリム化すべきかどうかという観点で、現在のところ当面このまま維持すべきではないかと、このような意見のお考え、開陳がございましたが、それはちょっと理由がおっしゃらなかったわけでございますが、先ほど三井参考人からお話出た、アメリカ型から精密型、民主化をしていく動き、そういう動向を見てからというようなお考えになるんでしょうか。

○参考人(三井誠君) 先ほど最後のまとめのところで、御指摘のとおり、三十一条から四十条の刑事人権規定というのは基本的にはこのまま維持しておいてよいだろうということを申し上げました。
 これは、その理由については特に述べませんでしたけれども、それは基本的には、憲法が制定された時点とは確かに社会状態というのは変わっている面がございます。しかし、まだ正直に申しまして、たかが五十年あるいはたかが五十数年という状況であり、刑事人権の定着という意味では完全にまだなされているわけでもないだろうから、これからもこれらの規定というのは、いずれかまたスリム化する、スリム化が望ましい状況になるかもしれませんけれども、今の段階ではこのままで維持していくのが妥当な状況ではなかろうか、こういうふうに判断しているということでございます。

○魚住裕一郎君 確かに人権規定自体は私たちが選び取った価値を掲げているものですから、御指摘のとおりアメリカ型な価値かもしれませんけれども、現時点でもそれは維持すべき価値があるというお考えだというふうに理解をいたします。
 今、司法制度の分野においては改革を進めているところでございますが、迅速化というのが大きなポイントになってきたな、憲法上も迅速で公正な裁判を受ける権利というふうにあるわけでございますけれども、司法、裁判官あるいは検事あるいは弁護人においても迅速のためにかなり運用面あるいは法制度面でも整備をしてきて、かなり迅速になってきたなというふうには思うわけでございますが、ただ、どんどん社会が複雑化あるいは発展をしてきて、あるいは多数当事者等なってきて、やはり長期化する裁判もあろうかというふうに思っておりますが、例えば刑事事件の場合において、迅速化といってもやはり刑事上の人権保障をしっかり守らなきゃいけないし、そこでやっぱり何が迅速化を推進するポイントになるのか。
 先ほど捜査機関の捜査手続の可視化というような表現ございました。それを録画しておけば、例えばいろんな検面調書も、検察官の面前調書も、大体その録画を見れば、不同意というような形でなくして、そのまま裁判所の方で使えるというふうになってくるんだろうというふうに思うわけでありますが、そんなことも含めて、この迅速化につきまして先生のお考えについてお聞かせをいただきたいと思います。

○参考人(三井誠君) 迅速化というのが、民事だけではなく刑事についても中心課題の一つとして挙げられております。
 多分、日本の場合の迅速化の問題というのは二つありまして、一つは、最近短くはなっておりますけれども、依然開廷間隔が先ほど申しましたように長いんですね。一月たって次というふうになっておりますものですから、そういう観点での迅速化というのを図らなければならないというのが一点と、もう一つは、形式的に時間を二年以内なら二年以内というふうに区切りますと、御指摘のように複雑な事件あるいは大規模な事件の場合ですと、被疑者、被告人の権利とのぶつかり合いというものが生じるわけですね。この二つの点というのを何らかの形で対応しなければいけないんではなかろうかというふうに思われるわけです。
 ただ、もう少し一般的な問題、指摘していきますと、恐らくめり張りの利いた事件というんでしょうか、自白事件と否認事件の場合、自白事件でもかなり丁寧にやり過ぎているがために時間を要している面があるんですね。だから、この種のことというのは、これからはもっと整備していくことで、そしてまた開廷間隔の、裁判員制度が伴うことによって迅速化が図れるのではなかろうかというふうに考えております。
 ただ、先ほど申しましたような被疑者、被告人の権利が複雑あるいは重大な事件でぶつかり合うような場合につきましては、この対応というのは恐らく形式的な問題では対応できないだろうと思われますので、これはもっと別個の形での考慮というのが必要になるということになるのではないかと考えております。

○魚住裕一郎君 また常本先生にお願いをしたいんですけれども、先ほど世耕委員からの質疑の中で、思想の自由市場の具体化だというような話がございましたけれども。
 ただ、確かに一市民とマスコミみたいな、そこには実際の自由市場はないという部分もありますが、しかしやはり社会的な批判あるいは裁判等を通じて、このマスコミ人の人権感覚といいますか、まだまだ立場によってはそこが中途半端だよというそういう意見もあろうかと思いますけれども、それなりに例えば報道機関あるいは新聞社の方々、あるいはそういうマスコミ関係者、やはりその人権ということについて配慮をしてきていると思うんですね。
 ところが、一個人がネット上において発信できるというようになってくると、そのマスコミ人のような職業としての人権意識向上みたいな部分、それを磨くといいますか啓発する場所がないままネット上でいろんな情報発信できる。場合によってはもう敵討ちのような、ヘイトサイトみたいなものもできてしまうと。やはりそこの部分を何とかしなきゃいけないんではないのかなと。
 だから、やはり何らかの機関を作って、そういう分野についてもう一人ではどうしようもできないような、例えば昔の彼女の裸をそのままネット上に流すような場合、じゃ彼女はどうやって保護されるのかと。その辺についてはどういうふうにお考えでしょうか。

○参考人(常本照樹君) 確かに、御指摘の問題というのはございまして、一番悩ましいところだと思います。これも、問題のある表現行為の類型によってやはり考え方を少しずつ変えていく必要があるかという気もしております。
 例えば、インターネットあるいはコンピューターというもののアーキテクチャーを考えて、そのアーキテクチャーの変更でもって対応できるような問題、例えばいわゆる性表現にかかわるようなものであると、これは法でもって規制するよりは、アメリカでも考えられておりますようなタギング等を利用した一定のアーキテクチャーを利用したコントロールと。これは政府によるコントロールではなくて、そういうやり方というものもあり得る場合もあるのかなという感じはしております。
 ただ一方で、言わば画像とかそういったものではなくて純粋な言葉だけという、中傷とかあるいは名誉毀損とかそういったものになってきた場合には、アーキテクチャーの変更によってそのすべての問題が解決されるかというと、これはなかなか難しい問題というのはやはりあるんだろうという気はしておりまして、これはやはり問題表現の類型ごとに細かく詰めて考えていくべき事柄であって、申し上げるまでもないことながら、一挙に問題があるから規制だ、あるいは全部自由であるべきだというようなことではなかろうというふうに思っております。

○魚住裕一郎君 終わります。

○会長(野沢太三君) 吉川春子君。

○吉川春子君 日本共産党の吉川春子です。
 今日は、お二人の参考人の皆さん、本当にありがとうございます。
 まず、三井参考人にお伺いいたします。
 捜査の可視化という点についてですけれども、日経新聞のコラムでも扱っていましたが、二月二十日は、共産党員作家小林多喜二が東京築地署で逮捕され、その日のうちに虐殺されて七十年たちます。戦前の日本は、治安維持法の下、被疑者に対する扱いは今日から想像を絶する残虐なものでした。
 日本国憲法三十一条以下の規定について「注釈日本国憲法」では、戦前の日本は、人身の実際上の侵害は顕著なものがあった。総司令部が司法上の人権について詳細な保障規定が絶対に必要と考えたのは十分な理由があったので、その意向が司令部案に示され、現行の諸規定となったのであると述べています。
 こうした歴史的な経緯もあって、日本国憲法においては、御指摘のように、被告人、被疑者の人権保障について詳しい規定があるんですが、しかし、だからといって万全に保障されているかというとそうではないという実情はあります。
 昨年十一月に横浜市の戸部署で、トベ署と読むんでしょうか、取調べ室で警察が、取調べ中にけん銃自殺したというふうに発表した事例で、横浜地裁では、けん銃が誤射されて被疑者が死亡したという判決を下して、警察の隠ぺい工作が指摘されました。密室である取調べ室は、適正に真実発見のための証拠が得られているのかどうか確証がないわけですね。
 それで、例えばイギリスで行われていますように、密室の取調べ室の様子を全部録音が義務付けられる、あるいは数年後にはビデオ録画が義務付けられるそうですけれども、そういう事例とか、あるいはアメリカは、州によって異なるんですが、弁護士の立会いの下に取調べを行う方法が取り入れられています。司法制度改革審議会は、取調べの書面による記録を義務付ける意見を出していますけれども、取調べ状況の録音、録画、弁護士の取調べ立会い等については消極的です。
 参考人は取調べの可視化についてはどのようなお考えをお持ちですか。

○参考人(三井誠君) 先ほど魚住委員の御質問について、ちょっと一言だけ付加しておいてもよろしいでしょうか。

○会長(野沢太三君) どうぞ。

○参考人(三井誠君) 被疑者、被告人の権利が複雑な事案の場合に迅速化を妨げることがあるのではないか、こういう話をいたしました。それについては、御存じのように、今回、準備手続の創設というものが設けられておりますので、証拠開示等の手続との関連でこの種のことというのをもう少し詰められなければならないということを付加しておきたいと思います。
 今、吉川委員の方から捜査の可視化についての御質問がございました。捜査、特に取調べの可視化、客観化については、前から私自身関心を抱いておりまして、今回の司法制度改革審議会の提案では、先ほど御指摘のとおり、記録等をできるだけ綿密に取ろうということが記されているわけですが、それだけでは必ずしも十分ではなく、これまでの経験からしても、取調べについては最低録音、録画の手法というのは取られるべきではなかろうかというふうに考えております。
 弁護人立会いにつきましては、弁護士の数等々との対応がありますので、どの程度弁護士会がこれに対応できるかという問題との絡みもあり、現段階で積極的な答えをすぐに出すことはできませんけれども、ほかの方法としては、例えば韓国では密室での取調べというのが警察段階では行えなくなって、十人、二十人ぐらいの取調べ室というものが、広い部屋で行われるようになっていると、こういったようなこともございます。
 したがって、可視化、客観化の方策というものは、日本の場合には密室ではありますけれども、もう少し他国の、今御指摘ありました国含めて、方策を考えていく道はあるのではないかと考えているところでございます。

○吉川春子君 自白の任意性について続いて三井参考人にお伺いしますが、私、内閣委員会でも取り上げたんですが、愛媛県宇和島で、犯行を否認している被疑者に脅かして自白をさせて、送検、起訴されたんですけれども、十一か月後に偶然にも真犯人が逮捕されて、三百八十六日の勾留後に無罪判決を得たわけです。警察の取調べはやくざに取り調べられているようで怖かったと、犯人にされた男性は弁護士会の聴取にこのように語っています。
 真犯人が偶然名乗り出るということがなければ有罪になっていたわけですが、この事件について警察庁の局長は私に対して、不適切な事案であり、捜査の在り方として不合格だったと、このようにおっしゃって答弁したんですけれども、愛媛県公安委員会はこの事件で関係者を処分していません。警察の内部の対応では、こうした事例への厳しい対処は不可能だと私は思うんですね。こういう場合に、やっぱり外部監査を取り入れることが憲法の人権保障規定を生かす上でも必要なのではないかと思うんですが、いかがですか。

○参考人(三井誠君) 具体的な外部監査という意味というのが、例えばこの事件の場合ですとどういうふうな意味合いを持つんでしょうか、どういうふうな内容を想定なさっているんでしょうか。

○吉川春子君 要するに、警察内部だけでこういう問題を処理しちゃうんではなくて、第三者も加わって、そういう事例をちゃんと的確に調査して、そして適切であったかなかったか、そういう結論を得るという、そういう、内部だけではなくて外部の人も加わって、外部の手による調査とかそういうシステムが必要なのではないかなと思うんですが、いかがでしょうか。

○参考人(三井誠君) 今おっしゃいましたのは、無罪判決後という意味でしょうか、無罪判決後にという意味ですか。それとも、依然、裁判が続いている段階でも被告人の方からその種の申立てがあったときにはという御趣旨でしょうか。

○吉川春子君 いや、裁判が係属中にそんなこととてもできるわけではありませんので、それはもう論外なんですけれども、やっぱりこういう非常に被疑者、被告人、国民の人権を侵害した後でも、警察はそれについてちゃんと自己批判したり、関係者を処分したりということが不十分なんですね。そういう事例が幾つか見受けられますので、外部監査という概括的な表現で申し上げましたけれども。

○参考人(三井誠君) 承知しました。
 それはそのとおりでして、先ほどの名古屋刑務所事件についての対応などと基本的には同じだろうと思うんですね。どういうふうな第三者人権擁護委員会あるいは機関といったようなものを設けるかということとかかわっていて、恐らくその問題と同列ではないでしょうか。もちろん、国家賠償とかそういう、この事例もそのようですけれども、そういう対応というのはありはしますが、恐らくそれだけでは済まない。今申し上げたような機関の設立等々の対応というのが必要になってくるように思われます。

○吉川春子君 先ほど魚住委員の方からも質問がありましたので、第三問目は省略したいと思いますが、三十一条以下の適正手続というプロセスの規定を、現段階で憲法を改正する必要はないんだと、こういうことを明確におっしゃいましたので、このことは確認しただけで質問にはいたしません。
 続きまして、常本参考人にお伺いいたします。
 参考人は、一九九七年三月二十七日、アイヌ民族に関する札幌地裁の判決は、先住民族の文化享有権を国連人権B規約二十七条によって保障されるという解釈を裁判所として初めて採用し、さらに憲法九十八条二項によって我が国の遵守義務を導いたことの意義は大きいと論文で指摘されております。
 それで、条約を判決にどこまで引用できるのか、基礎にして判決を下せるのかという点について伺いたいと思うのですが、日本が批准している条約でも、法的な整備が不十分な場合に、国民としては条約を根拠にして人権保障を裁判所に要求できるか。裁判所はそれを基礎にして判決を下せるのでしょうか。その点はいかがお考えですか。

○参考人(常本照樹君) ただいま御質問の御趣旨を正確に理解したかどうか分かりませんが、少なくとも憲法で従来論じられておりますのは、御承知のように、憲法九十八条二項でその条約を誠実に遵守するということの効果として、裁判所はその条約を国内法として適用できるということであろうかと思います。それから先は、また様々な問題が待っているかとは思いますけれども。

○吉川春子君 例えば、参考人の御専門じゃないかもしれないんですけれども、女性差別撤廃条約を日本は批准をしております。それで、多くの女性差別が存在する場合に、この条約を根拠に女性差別の是正ということを、断ずることができるのかどうかという点を併せて質問しますが、この条約は、例えば間接差別の禁止とか同一価値労働同一賃金を規定しているというふうに一般的に解釈されているんですけれども、日本の国内の法律では明文規定はないわけなんです。
 そうした場合に、条約によって権利の救済、具体的に言えば賃金差別是正ということになりますね、女性の。こういうものが求められるというふうに言えるのかどうか、伺います。

○参考人(常本照樹君) 既に御承知のとおり、私、この問題は全く素人でございますけれども、一般論としましては、条約が国内において裁判所により直ちに裁判規範として適用されるかどうか、これはその条約の性質によるわけでございまして、自動執行力があるかどうかを始めとして、常に直接適用ができるか、あるいはどうかという問題になるわけです。
 ただ、直接適用ができないような性質の条約であったとしても、例えば既にある国内法の解釈の際の一つの参考という形で、間接適用というような形で裁判に生かされるということは十分にあり得ることでありまして、御指摘のような条約の場合にもそれに当たるのかなという感じはしております。

○吉川春子君 全く違った質問を常本参考人にいたします。
 先ほど御指摘になりましたように、現在、幾つかの大学でロースクールの準備が非常に進んでおりまして、熾烈なる水面下の、何というんですか、そういう大学間の競争もあるように聞いております。
 将来の日本の法曹界はほとんどロースクール出身者で占められるような時代が来るのかどうか、その可能性もあるのかなというふうに思うんですけれども、その際に、先ほど参考人が言われましたような人権意識、人権感覚を持った法律家をいかにロースクールで育てるかということが非常に重要になってくると思うんですね。
 それで、国会で作りました児童買春・ポルノ処罰法の違反で裁判官が弾劾裁判所で罷免されるということがありましたけれども、要するに、この裁判官は女性差別撤廃条約もあるいは国連女性会議の北京の行動綱領も新聞の記事以外では御存じなかったということがはっきりしております。
 それで、やっぱり国際的な問題あるいは国内的な問題、その人権感覚をいかに法律家に身に付けていただくかということは、国民の人権保障でもう本当に重要な問題だと思うんです。ロースクールというのは、やっぱり国立もあるし私立もあるわけですけれども、こういうカリキュラムというのは各大学が独自にお考えになるとは思うんですけれども、人権感覚を育てる、身に付けた法律家を育てるためのロースクールのカリキュラムの在り方とか、そういうことについて参考人におかれましては何か御提言があるでしょうか。

○参考人(常本照樹君) 確かに、御指摘のとおり、これまでいわゆる国際人権諸条約というものがあり、理論上はそれが国内法として裁判で適用されると考えられておりながら、実際の裁判で生かされることが非常に少なかったというのは、これは、御指摘のように、裁判官あるいは実務法曹の方々が必ずしもその方面について十分な知識をお持ちではなかった場合があったのかもしれないというふうに考えております。
 その意味では、これからロースクールにおいては、憲法のみならず、国際人権法を含めて人権に関する十分なカリキュラムをそろえて、そのような問題を解決していきたいと考えておりますけれども、それに関連する問題があるとするならば、これから法曹養成にかかわって、ロースクールによらなくてもなお法曹になれるというルートがもし継続して存在するならば、その方があるいは問題かなというふうに考えております。

○会長(野沢太三君) 時間が来ていますが、じゃ、もう一問。

○吉川春子君 ロースクール以外に、よらずに法曹になり得る道というのは当然開かれていなきゃならないと思うんですけれども、ロースクールがかなり大部分を占めそうなので、そこにおける人権感覚が優れた裁判官を養成するためのカリキュラムの御提案という意味で御質問したんですけれども、もし何かあればお伺いして、終わりたいと思います。

○参考人(常本照樹君) これは、カリキュラムは御指摘のとおり、現在各大学で検討しているところでございますけれども、憲法あるいは国際人権法のカリキュラム内における位置付けのみならず、実際に社会において様々な人権にかかわる事案にかかわった実務家あるいはその当事者になった方々、そういった方をお招きしてそのような話を伺う、あるいは授業を担当していただく、そういうことも十分にあり得るし、あるいはいろんなインターンシップやエクスターンシップを通じて、実際にその人権の問題が起きている現場をそのロースクールの中で学生に体験させるということも大変重要ではないかというふうに考えております。

○吉川春子君 終わります。

○会長(野沢太三君) 平野貞夫君。

○平野貞夫君 大変素人っぽい質問というより教えていただきたいと思いますが、両参考人にお願いしたいと思いますが、この憲法調査会が両院にできた直後、私は、積極的な憲法見直し論といいますか、新しい憲法を作る、作ろうという立場で参加しているんですが、大変護憲の理論で有名な野党の女性党首と憲法問題について意見交換をしたことがあるんですが、長時間にわたってしたことがあるんですが、そこで宿題のようなものを出されておりまして、その方の意見をいまだに私、自分で回答できずに困っておるんですが、こういう話でございました。
 刑事裁判で一審で無罪になれば、もう上告ですか、これはさせないようにならないかと。ですから、有罪のときだけ被告側の控訴権を作ると、こういう方法が憲法の制度に導入できないかどうか、あるいは現行憲法でそれは可能かどうか、そういう質問を、質問というか、そういうことで勉強してくださいと、こう言われておりまして、またそういう制度が適正であるかどうかということですね。
 こういう宿題を抱えておるんですが、このことについて何か御意見がありましたら、お教えいただきたいと思いますが。

○会長(野沢太三君) それでは、まず常本参考人からお願いします。

○参考人(常本照樹君) 大変難しい御質問かと存じますが、私もこの方面、決して詳しくはないのですけれども、仄聞するところでは、一審で無罪判決が出た場合に上訴することができないというのは、典型的なのはアメリカあるいはイギリスにおけるような陪審員制の下で取られているシステムでございまして、その背景にある考え方というのは、言わば民衆の代表によって下された判決、判断、いわゆる無罪判決ですね、については、言わば職業裁判官だけで構成される上訴審、控訴審等においてそれを覆すことは、これはよろしくないというようなこともあるというような話を聞いたことがございます。それから言えば、例えば現在の日本のように、いまだまだ陪審あるいは参審といった国民の司法参加が実現されていない制度の下においては同様の問題はないのかもしれないという気はいたします。
 ただ、これは現在の司法制度改革の結果、裁判員制度が導入されますと、その問題というのはやはり表面化してくるという気がいたしますし、ただ仄聞するところでは、その場合でも日本でもなお、上訴審でなお無罪判決であっても上訴できるようにするという意見もあるようで、ただその場合には、じゃ控訴審、それをどう構成するか、そこにもやはり裁判員を入れる必要があるのではないかという議論も附帯して出るんだろうという気はしております。

○参考人(三井誠君) 現在の憲法の解釈を基にしても検察官上訴は違憲だという主張はございますし、また現にその種のことが訴訟で問題になったこともあり、先ほど申しましたように、しかしそれは憲法違反ではないという判断が下されているという状況です。学説では、もちろん検察官上訴は違法だという考え方というのは現在も存在しております。
 私自身は、現在の訴訟法の下で検察官上訴が違憲だとまでは考えておりません。ただ、政策的に刑訴法上、検察官上訴を禁止するといったような規定を制定することが可能かと言われれば、それはもちろん憲法に違反するわけではありませんので可能ではあります。
 ただ、この点につきましては、先ほど常本参考人の方からもお話ございましたように、陪審制の下でですと確かに無罪判決についての上訴を禁ずるということというのは考えられ得るわけですけれども、現在新しく作られようとしている裁判員制度の下で同じように検察官上訴を禁ずるのが政策的に妥当かということになりますと、現段階では、私自身はまだ政策的には検察官上訴を禁止する立法をするのが妥当だ、あるいはそういう解釈をするのが妥当だという立場まで踏み切れてはいません。

○平野貞夫君 ありがとうございました。
 次に、ちょっと具体的な問題を材料にしてお尋ねしたいんですが、先ほどもお話が出ていましたハンセン病の熊本の一審判決の問題なんですが、結論は控訴しなくてこういう展開になっておるんですが、実は、私はここでも何回か取り上げたんですが、あの判決そのものはだれが考えても、どの常識から考えても、どの論理から考えても、これ上訴、上告できる、告訴できる筋合いのものじゃなかったと思います。それをいかにも権力者、最高権力者である総理大臣の英断で控訴を、決めて人権を守ったというような一種の演出をしたというふうに私は見ております。結果において、私は、小泉さん、小泉総理に質問したんですよ。あなたは、法的判断で控訴しなかったのか、政治的判断で控訴しなかったのかということを聞きましたら、そんな難しいことを聞くなと言うんですよ、あの小泉総理は。
 そこで私は、ある意味であのやり方は一番やっぱり患者あるいは患者の家族の人権を最も侵害している、無視している結果になっておるんじゃないかという、私は今でも怒っているんですが。
 そういう意味で、やっぱり一審の判決というのは、私は最高裁の判決と法的な価値は別にしまして質においては変わらぬと認識すべきではないかと思っておりますが、その辺について常本参考人の御意見をお聞きしたいんですが。

○参考人(常本照樹君) 最後に御指摘になった一審判決の価値というものは最高裁判決に決して劣るものではないという御指摘は、正にそのとおりであろうと思います。
 確かに、私どもが例えば大学で憲法の講義などをします場合には、専ら最高裁の判決のみを扱って議論するわけでございますけれども、しかし実際に日々裁判とかかわって、あるいは裁判と向き合って、その裁判により様々な影響を受けている方々、国民の一般の方々というのは、これは正にほとんどの方々が一審判決によって言わば運命を決せられるわけでございますから、その意味では、一審判決の実際上の重要性というのは、これは幾ら強調してもし過ぎることはないというふうに考えておりますし、また一方で、理論的な面からいいましても、最高裁の判決を生み出すに当たって一審における非常に優れた法判断というものが与える影響というのは、これはしばしば見られるところでございますから、両方の意味からいって大変重要な意味があるというふうに考えております。

○平野貞夫君 ありがとうございました。
 三井参考人にお尋ねしますが、先ほどお話がありました名古屋刑務所の一連の問題で監獄法の問題を御指摘されました。そのとおりだと思いますが、実は私も昨年の秋の臨時国会であの問題が発覚したときに監獄法の問題を法務委員会で取り上げたことがあるんですが、私、その監獄法の、先生もおっしゃったとおり、多少の手続的な改正はなされておるんですけれども、根幹は全く明治四十一年のまま。私は、これは監獄法自身が違憲じゃないかという、これは乱暴な意見ですが、そういう考えも持っております。
 特に、先ほど問題に、この間、衆議院で問題になりました情願制度というのがございますね。これは法務省も、あれは情願権、いわゆる人権、受刑者の人権の一つだと、こういうふうに法務省も答弁をしたんですが、ところが、驚くことに、情願したものを法務大臣が開けていない、読んでいない。これは、法務大臣に対する情願だけは検閲しないということになっておるんですが、規則で。ところが、別の取扱いで矯正局の職員が開封すると。職員が読んでそこで判断して大臣まで一つも上げていないということが発覚していますが。
 こうなると、一体、日本の法務行政といいますか、特に人権問題なんというのは、受刑者なんかの人権をどうするかということが一番、人権がどうなっているかということを証明する場所だと思うんですが、もうこれはほとんど我が国においては、法務省においては人権なんて認めていないというように、私は非常に悲観的にとらえておるんですが、こういうやっぱり法務省の在り方についてもう一度、先ほども聞きましたんですが、三井参考人の総括的なお話を伺えれば有り難いんですが。

○参考人(三井誠君) 先ほど申しましたとおり、監獄法が明治四十一年にでき、受刑者の人権規定あるいは不服申立ての方法、あるいは情願などについてもそうかもしれませんが、この種の規定というのが整備されなければいけない。現在の監獄法が違憲かどうかというのは断言することはできませんけれども、留置施設法、刑事施設法、ずっと改正問題が続いておりました。ただ、これらの改正問題は、代用監獄の問題等々がございましたものですから実現しませんでした。
 しかし、現段階では、それらの問題も込めてではありますけれども、よほど法整備をきちんとして、そしてその法整備にのっとって法務省が動いてもらわなければ問題が解決しないのではないかというふうに、予測あるいは推測させるような事態ではないかというふうに私自身も理解しております。

○平野貞夫君 質問ではございませんが、刑事人権規定は現行法でいいではないかというお話で、私も分かりました。勉強させていただきました。ただ、法務省だけを悪口言ってもしようがないことでございまして、実は監獄法改正すべきは国会、我々の責任でございましてですね、そういう意味ではちょっと法務省にきついことを言いましたんですけれども、我々国会議員にも大きな責任があるということを申し上げて、終わります。

○会長(野沢太三君) 大脇雅子君。

○大脇雅子君 お二人の参考人の方々におかれましては、貴重な御意見をどうもありがとうございます。
 まず、常本先生にお尋ねをしたいのですが、いわゆる司法の判決が立法と言わば国民の人権意識の醸成にサポートされて初めて社会変革が行われるという御意見に対しては非常に啓発されるものがあります。我が国では、むしろ立法の契機となる司法の判決というのは長い間、例えば女性の差別の裁判においても、最高裁の判決があって初めて法律ができるというような、例えば日産自動車の定年差別裁判が最高裁で出て初めて男女雇用機会均等法の定年制において差別禁止が行われるというような形で、非常に立法が一歩後れながら、むしろ判例がそれを先導してきたというような体験を私はたくさん持っているわけですが、そして最高裁の判例があるとようやくにしてそうした立法の、改正もできる。しかし、立法不作為とかあるいは立法責任という形で判決が明言した事例に対しては、ある意味で非常に遅いというか、国会が動かないわけですよね。
 先生の方から見て、いわゆる判例の中身と、そうした立法責任を判決が言った場合における立法府の在り方について、何か御批判ございますでしょうか。

○参考人(常本照樹君) 確かに、今御指摘ございましたように、最高裁の判決が契機となって立法府がそれにこたえるという例はございます。また、のみならず、例えば一審の判決が契機となって立法が行われるということもやはり従来あったかと思います。とりわけ、例えば生存権の分野等においてはそういった例があったかと思います。
 ただ、生存権の分野、今申し上げましたが、一審の判決にこたえる形で立法が改められたけれども、最高裁の判決が出た結果、また元に戻るというような例もかつてあったような気もいたしまして、そこら辺、立法府自身の信念に基づいた人権保障に向けた活動というのがなお望まれるのかなということが思われる問題もあるわけでございます。
 ちょっと十分な答えになっておりませんが、差し当たりそれぐらいですが。

○大脇雅子君 今、人権保障の国際化ということが言われておりまして、例えば様々な人権規約や女子差別撤廃条約等、人権にかかわる条約におきましてはいわゆる選択議定書を批准ないしは締結をするということが国際的な社会における一つの求めだと思うんですが、我が国ではなかなかその選択議定書は採択をしないと。
 それは、やはり我が国の最高裁判所の上に国際裁判所を置くようなものだというような考え方もあって法務省は非常に後ろ向きなんですが、今後、選択議定書などに対する先生の御意見、常本先生の御意見、あるいはそうした今後の国境を越える人権保障の在り方について、先生はどのような展望を持っておられるでしょうか。

○参考人(常本照樹君) 確かに、これからの我が国の人権保障を考える場合に、その国際的人権保障の持つ意味というのは非常に大きくなってくるというふうに考えております。
 先ほど私の最初のお話の中で、国際人権規約、自由権規約の二十七条を用いて、二風谷ダム判決の中で文化享有権というものの保障が行われたということを例に一つ挙げましたけれども、これを一つ見ても、これから我が国の人権を考える上においてその国際人権保障というものを抜きに語ることはできないというふうに考えているわけでございます。
 更に言えば、その国際人権保障を考える場合に、その条約本体だけではなくて、その条約が設置している様々な機関、例えば規約人権委員会等があるわけでございますけれども、そこで出しているいわゆる一般的意見というものもございまして、そういったものが日本の裁判の中でどのように生かされていくべきかということも、これはやはり考えていかなくてはならない。
 単なる参考でいいのか、あるいはそういう規約人権委員会が一般的意見を出して、その条約の一種の公定解釈というのを定めるというシステムを持ったものとしてその条約を我が国は批准しており、そういった条約を我が国は誠実に遵守するというふうに憲法が命じているとするならば、そういった条約機関の意見というものにもやはりかなりの重みというものを裁判の中で認めるべきではないかという問題等をも含めて、これから様々に検討すべき問題があるというふうに考えております。

○大脇雅子君 ありがとうございました。
 確かに、委員会の一般的な勧告とか意見に対しては、ほとんどその裁判規範としての意味というのは実務家も余り考えていないということもあると思いますので、それは非常に貴重な御意見で、私も教えていただきましてありがとうございました。
 さて、三井先生にお尋ねをしたいのですが、今度、国際裁判所の条約ができまして発効いたしましたね。アメリカはそれに対して、アメリカの兵士の行為というようなものがそこに上るということを困るというようなことを言っているわけですが、刑事裁判所というものは、国際刑事裁判所ができることによって我が国の人権保障というものにどういう影響が及ぶとお考えでしょうか。

○参考人(三井誠君) 私自身、国際刑事裁判所のことを細かに承知しているわけではございません。したがって、正確な答えをすることができませんが、日本は既にこれも署名もしたんでしょうか。をしたとしますと、国際刑事裁判所の規定自身に基づいて、日本の場合には国際レベルでの何かこういう犯罪というのが直接に今問題になることが多くはないものですから、恐らくすぐに日本の刑事裁判に何か影響を及ぼすかと言われるとそれは余りないようにも思われるんですが。
 国際刑事裁判所のことを十分承知しておりませんので、正確な答えができずに申し訳ございません。

○大脇雅子君 ありがとうございました。
 先生の方は、先ほど、刑事司法の、立案者の想定した刑事司法像と刑事司法の現実と実態についてのそごについて述べていただきました。確かに、弁護士が起訴前においても参画をするという意味で最近の当番制の弁護士制度というのは非常に有益だと思うわけですが、しかし保釈率が非常に日本は低いということと、起訴前のいわゆる接見指定というものが弁護士の活動を随分妨害というか阻害しているように思うわけですが、この点についてはどのようにお考えでしょうか。

○参考人(三井誠君) 保釈につきましては、先ほど御質問があったとおりで、事件の性質もろもろが関係しておりますので、一概に保釈率の低下というものについて裁判官の判断が人権意識が低下したがためにそうなったというふうに申し上げることはできませんが、全体的には確かに当初立法に、立案者が想定していたのとは異なって、身柄拘束をしたまま裁判が続き、判決が言い渡されるというケースがやや依然多いかな、もう少し保釈の活用というものは図られてしかるべきかなというように考えております。
 もう一点の接見指定の問題ですが、接見指定につきましては、全体的に見ますと、ほとんどの事件は接見指定なく接見がなされております。取調べ中であっても現在、接見を認めるというのが一般的な運用ではないかと思われはします。
 ただ、ごく例外的に取調べ中で接見指定がなされるケースがございます。その問題をどう考えるかということなのだろうと思われます。
 その運用自身というのは、場合によっては私の目から見ましてももう少し緩やかでやってもいい。例えば初回の接見はもとより、接見回数というものが比較的限定化されているようなケースとか、あるいは被疑者の性質、事件の性質等から接見指定というのが場合によっては行き過ぎているかなというふうに思われるケースというのは確かに感じてはおります。ただ、三十九条三項がしたがって違憲かと言われますと、そこまでの判断というのは私にはできないということでございます。

○大脇雅子君 我が国における無罪率というのが先ほど〇・〇九%と言われまして、この無罪率が非常に我が国は低いということの実態というのはなかなか表に出てこない。これほどまでに捜査の問題点が多いにもかかわらず無罪率が低いと。
 この点については、先生はどのような御感想をお持ちでしょうか。

○参考人(三井誠君) 無罪率は先ほど〇・〇九%だと申しました。その理由というのは、一般に日本の場合には自白事件が多いということですし、同時にまた訴追段階で証拠固めがかなり厳格になされて、同時にまた起訴猶予制度というものが存在しているのがこの無罪率を低めている理由かとは思われます。
 ただ、今御指摘のとおり、事案によっては捜査段階での行き過ぎが無罪を、無罪というか、あるいは起訴後その種のことが発覚して無罪を引き出しているというケースもあるように受け取れます。
 潜在的にその種の事例がありながら有罪になっているんではないかという御指摘かと思われますけれども、その種の事例というのが全くないわけではないだろうと思われますので、先ほど申しましたように、捜査段階、特に取調べ段階の可視化、客観化というものが望まれるだろうというふうに指摘したわけでございます。

○大脇雅子君 ありがとうございました。
 終わります。

○会長(野沢太三君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
 この際、一言申し上げます。
 参考人の方々には大変貴重な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)
 本日はこれにて散会いたします。
   午後三時十六分散会


2003/02/26 戻るホーム憲法目次