平成十五年七月九日(水曜日) 午後一時開会
参考人
流通経済大学法学部教授 植村 秀樹君
帝京大学法学部教授 志方 俊之君
財団法人平和・安全保障研究所理事長 渡辺 昭夫君
本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
(平和主義と安全保障―憲法と自衛権、自衛隊)
○会長(野沢太三君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
日本国憲法に関する調査を議題といたします。
本日は、「平和主義と安全保障」のうち、「憲法と自衛権、自衛隊」について、流通経済大学法学部教授の植村秀樹参考人、帝京大学法学部教授の志方俊之参考人及び財団法人平和・安全保障研究所理事長の渡辺昭夫参考人から御意見をお伺いした後、質疑を行います。
この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多忙中のところ本調査会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
忌憚のない御意見を承り、今後の調査に生かしてまいりたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
議事の進め方でございますが、植村参考人、志方参考人、渡辺参考人の順にお一人二十分程度御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
それでは、まず植村参考人にお願いいたします。植村参考人。
○参考人(植村秀樹君) 本調査会で意見を述べる機会を与えていただきましたことに感謝申し上げます。
私は、これまで、戦後の再軍備過程とその後の防衛政策及び日米安保体制の展開について実証的な研究を試みてまいりました。研究成果はいまだ乏しいものではありますが、それに基づいて私の意見を述べさせていただきます。
まず初めに、憲法についての私の考えを簡単に述べておきたいと思います。
ただし、前文と九条については既に本調査会で論じられておると聞いておりますので、私は法律の専門家ではありませんので、あくまで一政治学徒の考えであるということを御承知おきいただきたいと思います。
お手元に私の著書の一部が資料として配付されているかと思いますが、そこに簡単に書きましたように、もはや私は文理解釈で九条を考えるということは限界に達しているのではないかというふうに思っております。最高裁判所もいわゆる統治行為論ということで判断を回避しておりますけれども、こうなりますと、結局はこの国の主権者である国民の判断にまつよりないと私は考えます。
今日では、自衛隊は憲法違反ではないという声が多数派であることに議論の余地はないと思います。国家には自衛権があり、それを実行する手段として軍事的手段を完全に封じているわけではなく、それを実行する部隊として自衛隊を認めるという考え方です。
ただ、こう考える場合に一つ問題が生じますのは、憲法が緊急事態に関する条項を何ら用意していないという点であります。そのために、自衛隊を合憲と考える場合には、それをどのような手続を経て用いるか、その限度をどこまでとするかといったような点が全く白紙になってしまうという問題を生じます。
ただ、この点につきましては来週の本調査会で論議されると聞いておりますので、これは問題点の指摘だけにとどめておきたいと思います。
次に、少し歴史をさかのぼって、戦後の防衛政策を簡単に振り返りながら主要な問題点について考えてみることにいたします。
最近の研究になって明らかになってきたことの一つに、警察予備隊は、当初は軍ではなく、あくまで警察力を補完する部隊として創設されたということがあります。日本にはなじみのないものですけれども、アメリカはコンスタビュラリー、日本語では警察軍とかあるいは武装警察隊などと言えば言えるかと思いますが、そういうものとして創設をしました。それがやがて、情勢の変化などによってアメリカが政策を変更し、軍事的組織へと転換、発展していったわけです。
つまり、私が言いたいのは、現在からさかのぼってここに至るべくいろいろなものが用意されていたというふうに過去を解釈したり、あるいはその当時の状況を理解しないままに批判するような姿勢は慎むべきであるというふうに、そういうことを申し上げたいわけであります。
吉田茂の国会答弁などを見ますと、憲法九条の解釈や、あるいは再軍備問題につきまして相当に揺れておりました。旧軍関係者や保守派の政治家からは軍の復活を、平和主義者からは非武装政策をという圧力を受けての政権運営であったわけですけれども、一つ、吉田が断固として貫いたことは旧軍の復活にはならない再軍備という路線です。
そのために、保安庁、後の防衛庁の官僚、いわゆる背広組に制服組を管理させるということを吉田は許してきました、あるいはそういうことを積極的に推進してきました。事実上、文官統制というふうな言い方をすることがありますが、これが戦後のシビリアンコントロールの中核を担っていたというのが事実であります。吉田がこのように旧軍の再現にならないように慎重に再軍備を進めたという点については、私は高く評価されるべきだというふうに考えております。
戦後の論議を見ますと、再軍備をめぐって大きく三つの立場があったわけです。軍備を持つには憲法を改正しなければならないという改憲派、それから社会党左派に代表されるような非武装派、そして憲法に反しない範囲で小規模な軍備を持ち、それを徐々に増強していくという立場、吉田はこの三番目の立場になるわけですが、結局この三つの立場が解消しないままに、保守合同で自民党が生まれ、左右統一の社会党が生まれて、いわゆる五五年体制が誕生したわけです。
自民党も社会党も経済成長とその分け前をめぐる争いが中心になっておりまして、結局、政党は二つ、再軍備問題では三つという状況が解消しないままに五五年体制は進んできたというふうに評価することができるかと思います。つまり、安全保障の面からいいますと、五五年体制というのは、ある種の膠着状態あるいは停滞の時代であったというふうに総括することができるのではないかと思います。
吉田自身は後に憲法改正を考えていたんですが、結局それはできず、吉田の言わば弟子である池田勇人、佐藤栄作の政権においてもそれはできませんでした。その理由はいろいろあろうかと思いますけれども、やはり無視してならないのは、憲法の平和主義が国民の間にかなり根付いていたという点は十分に理解をするべきだと思います。にもかかわらず、そうした考え方が国民の多数派にまでならなかったという点、この点もまた同時に考えなければならないわけです。
その非武装派が、結局はその現実を見据えた上で、その理想である非武装国家というものを実現する、そういう具体的で説得力のある道筋を示すことができなかったということが、結局、平和主義が国民の間に広まりつつも、政治の場ではそれが多数派にならなかった最大の理由だろうと思います。これは単に、例えば社会党だけの責任というわけではなく、平和主義を掲げ、非武装を主張した知識人の責任でもあろうかというふうに思います。
そうした中で、防衛力に対する歯止めとして幾つかのものがありました。非核三原則、専守防衛といったものは、いずれも自衛権の行使ということについて抑制と慎重さを求めるものであり、言わば平和主義を掲げる国家としての方針といいますか、一つの哲学を表すという意味で評価することができるかと思います。ただし、防衛費一%枠、いわゆるGNP一%枠のように、合理的な根拠という点からするとやや乏しいと思われるようなものもありました。しかしながら、自衛隊は地道な努力によって次第に国民の支持を得てきたというふうに評価をすることはできるだろうと思います。
次に、戦力として、つまり外敵と戦う力として自衛隊はいかなるものだったのかということについて、これを日米安保体制との関係で考えてみたいと思います。
アメリカ政府やアメリカの軍部の公文書などを子細に検討してみますと、一九五〇年代の後半から日米安保条約が改定された六〇年にかけて、自衛隊への期待が失望に変わるという経緯がよく分かります。日本を太平洋地域における信頼できる同盟国にするというのが、当時のアイゼンハワー政権の対日政策の目標でした。しかし、その目標は達成できていないというのがアイゼンハワー政権の評価でありました。安保条約の改定によって、条文にも武力攻撃に抵抗する能力を維持し発展させるという文言が入りましたけれども、実際にはこのころにはアメリカ軍部はもはや自衛隊にはほとんど期待をしていないという状況でした。安保改定の直後に決定した国家安全保障会議の新しい対日政策文書がありますが、そこでもはっきりと日本は兵たん施設と軍事基地を提供するという点で軍事的な貢献が評価されているだけでありました。これは続くケネディ政権でも同じです。
こうした状況に変化が現れるのは一九七〇年代の後半、いわゆる日米防衛協力が始まってからです。この辺りから日米安保体制は言わば軍事同盟という色彩が濃くなり、自衛隊も実際に戦う力として期待されるようになってきたと言えるわけです。この状態が冷戦の終結まで続いたということになります。そこで、冷戦が終わってどうするかということにつきまして、当然大きな転換が期待もされたわけですが、その結果どうなったかということにつきましては、やはりアメリカ主導の下で進められてきたというふうに言わざるを得ないと思います。
その象徴とでも言うべきものが一九九六年四月の、当時の橋本首相とクリントン大統領の日米安全保障共同宣言です。これは実質上、一九六〇年の安保改定に匹敵する大きな転機であったというふうに考えられるかと思います。この共同宣言には、アジア太平洋という言葉が十二回出てきます。日米安保の意義はアジア太平洋の安定に寄与することにあるというふうに宣言したわけです。その半年前の九五年十一月に新しい防衛計画の大綱が決定されましたけれども、その大綱には日米安全保障体制という言葉が同じく十二回出てきます。
私は、このともに十二回という数字は単なる偶然ではないのではないかというふうに思っております。実を言いますと、大綱ではもう一回日米安保に触れたくだりがございますが、そこは米国との安全保障体制という文言にしてあります。これは十三回になるのを避けたんだろうと私は思います。つまり、クリントン大統領は元々九五年の十一月に訪日する予定で、それはアメリカの国内事情で半年遅れたわけです。つまり、九五年の十一月に日米安保共同宣言も新しい防衛計画の大綱もともに発表する予定であったわけです。そこに同じく十二回ということで、アジア太平洋と日米安保体制が出てくる。そういう文言が出てくるということは、すなわちこれから日米安保というものはアジア太平洋の安定に寄与するものである、自衛隊はその日米安保のためにあるというメッセージを発しようとしたのだというふうに理解することができます。
その後の日本の防衛政策は、この新しく定義された日米安保によるアメリカの要求に日本がこたえるという形で進んでまいりました。しかも、その内容を見てまいりますと、一昨年、九月十一日のテロ事件を契機に、再定義から更に再々定義と言うべき事態に進んでいるという感がいたします。といいますのは、海上自衛隊がアラビア海に現在も派遣されておりますが、それ自体既にアジア太平洋という地域さえ超えているからです。
日米安保の再定義の後も、アジア太平洋地域の安定をどう作っていくのかということに関して、残念ながら日本が主体性を持って構想を示したことも、あるいは行動を起こしたこともなかったと言わざるを得ないと思います。今回のイラク戦争に対する事態、あるいはその前のアフガニスタンもそうですけれども、日本が主体性を持って行動したということは言えないかというふうに私は考えております。その一方で、アフガニスタンを始めイスラムや中東の人々の間で日本の評判が著しく落ちたという点は、国益という観点からいっても憂慮すべきことではないかというふうに思っております。
こうした論議はさておきまして、平和主義と戦争放棄をうたった憲法の下で、それに合致する防衛力として専守防衛をその戦略として発展してきた自衛隊が、ここに来てアメリカの要求にこたえることを第一義に考える政府にやや振り回されているという感じを受けております。
以上のように、冷戦後、防衛政策は大きく転換をしてきています。その実態は、理屈はどうであれ、元々日本国憲法が目指していた方向とは違うものであると言わざるを得ません。自国を防衛する組織を持つことは憲法に合致する、これはいいとしても、しかし、自衛権があり、それを実行する部隊を持つことが許されるからといって何でも許されるかというと、そうではないと思います。限りなく侵略戦争に近い武力行使が自衛の名で行われることもあります。
日本国憲法の規定を一切の武力を持てないと解釈するのは非現実的で極端な解釈だと思いますが、その反対に、侵略戦争以外なら何でも許されるというのもまた、現実に存在する憲法を無視する極端な態度と言うべきではないでしょうか。日本国憲法は、少なくともぎりぎりまで非軍事的な努力をし、自衛権を行使する場合にも武力は最後の手段であり、それを行使する場合も最小限の行使に抑えるということを要求していると思われるからです。
最後に、少し歴史を長く見てまいりますと、力と独善が支配する世界から相互理解に基づく世界に変えようというのが二十世紀の大きな流れであったと言えるかと思います。必ずしも成功しているとは言えませんが。
しかし、ここへ来てまた、アメリカを中心として、まるで世界史の時計の針を逆に回そうとするかのような動きが見られます。圧倒的な軍事力によってその試みは一時的には成功しているように見えますが、長く続くことはないと私は考えております。こうした大きな時代の流れに逆行するアメリカの動きに乗ることは、一時的にワシントンから評価されることはあっても、長い目で見れば、日本国憲法の前文にある文言を用いますと、国際社会において名誉ある地位を得ることにはつながらないと思います。
これまで、平和主義といいますと、とかく平和ぼけだとか、あるいは思考停止だとかというような批判がありました。確かにそういう面は否定できませんが、他方で、ならず者国家などという言葉も私には同じように聞こえます。米英を鬼畜と呼んだ戦前と同じように、そのようなレッテルを張った瞬間に思考停止をしてしまうのではないかというふうに思います。
憲法は、言うまでもなく国民のものであります。国民がこの国をどういう国にするのかということを決めたものが憲法です。明治維新から明治体制が固まるまで三十年近くを要しております。戦後、いわゆる五五年体制ができるまで十年掛かっております。その五五年体制が崩壊して今年でちょうど十年になります。
私は、この辺りで新しいこの国の方向というものをしっかりと定めるべきときであろうというふうに考えておりますが、その際には、目先の利益などにとらわれることなく、広い視野に立って長期的な展望を切り開くべきだと思います。過ぎ去った百年を振り返り、この先の百年を見通す、そういう議論の中で憲法に関する議論が深まることを期待しております。
以上で私の意見陳述を終わります。
ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
次に、志方参考人にお願いいたします。志方参考人。
○参考人(志方俊之君) 本日、このような席で意見を述べさせていただきまして、大変ありがとうございます。
私はどの政党にも属しておりません。三十五年間自衛隊におりましたので、どの政党に属するということもございませんでしたし、したがってどの立場で話しているわけでもございませんが、自衛官として現場にいた、そこから憲法というものを見た、そのときのことを述べさせていただきたいと思います。
現役の自衛官がこのような席でしゃべる機会がほとんど日本の場合は少なくて、アメリカなどではもう現役の軍人がどんどんこういうところで公述しているわけでありますが、日本はなぜかそういうことがありませんので、本日は、そういう、私は現役ではございません、もう十年も前にリタイアしております、しかし、自衛隊にいましたときの感覚で述べさせていただきたいと思います。
自衛隊というのは我が国の平和と独立を守る集団でありまして、五十年間我が国が大変な冷戦の時代とその後の混乱の時代に平和を貫いてくることができたということは、自衛隊がしっかりとその任務の一部を遂行してきたということで、私は、自衛隊員には非常に平和を守ったという誇りがあると思います。そういう意味で、自衛隊は、戦闘する集団ではありますけれども、平和を守るという意味ではその一翼を担ってきた集団であるということが言えると思います。
本日、レジュメが皆様のお手元にございますが、私の手違いで一つだけミスプリがありまして、皆様のレジュメの二ページ目のところの一番下のところに(3)国家改造の難しさとありますが、その中のAのところでございます。「規制の構造」という、この「規制」という字が間違っておりまして、既成の事実というあっちの方の既成でありまして、レギュレートする方の規制ではございません。直していただきたいと思います。不注意をおわびいたします。
まず、レジュメの一ページ目に戻りまして、セクション1のところに「わが国の安全保障を考える場合の与件」、いわゆるギブンコンディションズというのがありますが、九つ指摘してあります。
まず第一は、我が国の領土はこれ以上にはならないと。それから二番目は、その上に一億二千万の人口が、人間が住むと。そして、かつ資源の大部分、これを海外に依存している。エネルギーの場合は九〇%近く、食料は六〇%。最後に水は五〇%というのがございますが、これは今年、水フォーラムというのがございまして、そのときにバーチャルウオーターですか、そういうような概念が示されました。
要するに、日本はトウモロコシとか大豆とか小麦を輸入しておりますけれども、あるいは牛肉もそうですが、その牛肉一キログラムを作るために牛にどのぐらいのトウモロコシを与えているか、そのトウモロコシを作るためにどのぐらいの水が消費されているかということを考えますと、日本は約一千億トンの食料を輸入しているだけで一千億トン年間水を輸入している、これをバーチャルウオーターと言っているわけです。
実際、日本の上に降った雨は一千億トン、それを使っている。ですから、日本は五〇%ぐらいを海外から水を依存していると言っても過言ではないと、そういう意味で書いたものでございます。
それから五番目は、我が国は戦略的な通常兵器を持たないということであります。──四番目が核兵器を持たないですね。これは我が国にあるコンセンサスであります。
それから五番目は、通常兵器といえども戦略的なものを持たない。航空母艦とか弾道弾ミサイルだとか、それから戦略爆撃機等を持たない。そして、米国が矛、我が国が盾だと、こういう役割分担で成り立っております。
それから六番目は、我が国は化学兵器、生物兵器、それから対人地雷を持たない。これについては、それを抑止する力、化学兵器は化学兵器で抑止する、あるいは対人地雷は対人地雷で抑止するという、そういう抑止力ではなくて、我が国は守る力だけで安全保障を全うしようという、そういうようなコンセプトでやっている。
それから七番目、我が国の戦略情報収集能力には限界がある。戦略情報の多くをアメリカからもらっております。私は防衛駐在官としてワシントンに駐在しておりましたけれども、重要な情報のほとんどはアメリカからもらっておりました。
それから八番目、我が国の軍事技術開発能力には限界がある。これは、軍事技術の基本的な部分はアメリカに依存している。日本でもライセンス国産はしておりますけれども、基本的な部分は対米依存であります。
それから九番目、我が国のエネルギー輸送路の防護能力には限界がある。我が国の海上自衛隊が直接防護できるのはせいぜいフィリピンから日本までの間であって、それ以遠は米海軍に依存している。
この九つの与件のうち、四、五、六、七、八、九というのはほとんどが、黒丸が付いておりますが、アメリカに依存していると。要するに今、日本が対米依存体質であると言われるゆえんであります。これは五十年掛けてできました体制でありますから、これをにわかに対米依存しないでいくということになりますと大変な努力が要るわけであります。
したがいまして、小麦、トウモロコシ、大豆、日本でいうと、豆腐から、しょうゆから、納豆から、こういうものも全部アメリカから来ているということを考えますと、我が国が対米依存度を下げるということであれば、少しずつでも資源の輸入先を分散する。しかしながら、ほとんどそれが言うはやすくて実際にできないと。
例えば、我が国の軍事技術開発能力を対米依存度を減らすとなると、我が国の防衛予算のうち、もっともっと多くを研究開発に入れなきゃならない。そういうことを考えますと、この四から九までのことはよほどの革命的な変化をしないとできないということであります。
したがいまして、対米依存度が大き過ぎるということを言われる場合には、どうすれば下げれるかということをはっきりと政治の中で提言されないと、単なる遊びになる、言葉の遊びになってしまう。
したがって、私は、我が国においては、各政党ともどうすれば対米依存度を下げることができるかという具体的な提案を出して国民に示すべきであろうと思います。それでなくて、やたらと対米依存の体質を非難することは政治ではありません。
それから二番目、我が国が存立する上での四つの必須条件というのがあります。
これは四つありまして、一番目は、資源保有国が我が国に喜んで資源を供給してくれること。これは年間八億トンであります。
それから二番目は、資源保有国から我が国に至る長大なシーレーンに沿って紛争がないこと。これは、湾岸はホルムズ海峡、それからインド洋ですね、それから東南アジア、すべてが安定しているということが非常に重要であります。特に、尖閣列島とかスプラトリーアイランドとかバシー海峡とか、こういうところが平和であるということが重要であります。
それから三番目は、我が国は八億トンの資源を持ってきて、それに付加価値を付けて約一億トンの工業製品としてそれをまた売り出しているということから考えますと、付加価値を付ける能力が我が国になければならないと。付加価値を付ける能力の基本は高い科学技術と勤勉な労働力でありますが、この二つが今、我が国では非常に危機に瀕しておる。
それから四番目は、その製品をまた我が国から買ってくれるという、この四つがなければ生きていけないのであって、自衛力が大きいとか小さいということよりも、この四つのことを重要に考える必要がある。
そこに、黒丸が三つあります。
結論的に申しますと、我が国ほど世界じゅうが平和であることを必要とする国はないということであります。したがって、二番目、我が国だけが平和であっても、それだけでは十分ではない。もちろん、我が国が平和であることが基本でありますが。それから三番目、したがいまして、我が国は世界の平和のため、全力を挙げて責務を果たさなければならない。これは憲法の前文にちゃんと書いてありますので、我々が今やっていることは正しいんだと思うんですね。
それで、じゃ、まず、我が国の平和というものを維持するときにはどうするかということでありますが、それはお手元の四ページの下の図ですね。図4というものを見ていただければ分かると思います。我が国の安全保障の、安保の基本四原則というのがございます。
まず、一、非核三原則、これは非常にいいことであります。これは将棋でいうと飛車抜きということであります。それから専守防衛、これもコンセンサスでありまして、これは角抜きであります。非化学・非生物兵器・非対人地雷という、これもコンセンサスであると、これは金抜きであります。それから四番目、武器輸出をしないと。事実上ほとんどしておりませんが、これは銀抜きであります。
ということは、我が国の防衛は飛車角金銀抜きで相手と対峙するということでありまして、将棋でいいますと、相当の指し手でなければできないということであります。相手が十手先まで読むならばこちらは二十手先まで読んで、そして相手を倒すという攻撃的なことではなくて、負けないようにするという、そういうようなことが我が国に課せられたことで、私は、三十五年間それをやってきたわけであります。
こうなりますと、相手が十手、こちらが二十手先を読むとなると、我が国は情報依存大国であってはならないということであります。
アメリカの倍ぐらいの情報収集能力があってこそ対米依存をせずに済むことでありますが、悲しいかな、我が国は、何年間も情報収集衛星を上げることをためらってまいりまして、やっと本年、二つ上げて、秋にはもう二つということでありますが、四つ上げ、しかも、その分解能を見ても、ぼやっとしか見えないというようでは、相手に情報を依存する以外に方法はないのであります。そういうことで、その辺に対する投資といいますか、そういうことをしっかりしないと、ただ依存度が高いと言われても自衛隊としては非常に困るということであります。
それから、セクション3のところに入りますと、我が国が分担すべき責務、要するに、我が国だけが平和であってもならないのならば、世界の平和のために我が国は何ができるかということを考えますと、一、二、三とあります。
これは、一はリスク分担、二、負担の分担、三、価値観の共有ということがございます。これは、五ページにある図を見ていただきますとはっきりいたします。
我が国がなすべきことは、この図のように、まずバリューシェアリング、共通の価値観を持つ。これについてはほとんど問題はございません。我が国は国際社会の普遍的な価値観を共有していると思います。
それから、バーデンシェアリングというのは、汗をかきお金も使うということで、我が国のODA、我が国のPKO活動、あるいはNGOの人たちの活動、こういうものはもう世界に誇れるぐらいのことをやっております。
ただし、一番上の、リスクの分担になりますと、それはなかなか実施することが難しい。したがいまして、俗に言えば、総論賛成、各論賛成、実施はできない、これでは国際社会から孤立する以外に方法はありません。
そういう意味で、我が国が国際社会から孤立すること自身が我が国にとっての最大の脅威であるとすれば、我が国は、総論も賛成、各論も賛成、リスクの分担もちゃんとやらなければ国際社会で発言力が非常に極小、局限されてしまうということであります。
それから、五番、次のページに行っていただきまして、セクション5、我が国の防衛の構造改革であります。これは学生が、先生、どうですかと言って質問したので書いたものでありますが、なかなか、文章がちょっと違っているもの等もあるかもしれませんが。
基本法というのは、国政に重要なウエートを占める分野について、国の制度、政策、対策に関する基本方針を明示した法律と定義されておりますが、我が国には一から十六まで基本法というものがございます。これも、どれも非常に大切な基本法でございます。
教育基本法から始まって、障害者基本法、ものづくり基盤技術振興基本、少子化社会とかできましたけれども、なぜ安全保障の基本法がないのかと。安全保障というのは、国家に、国政に重要なウエートを占めることではないのかということであります。
そして、じゃ、どうすればいいかといいますと、その(2)のところで、基本法と憲法との関係であります。これは、図の4を見ていただければ分かります。四ページの図の3ですね、一番上の図です。
四階に陸海空自衛隊、防衛庁という実動集団がございまして、三階はその手続を決めた自衛隊法及び防衛庁設置法、二階部分が先般作っていただきました有事法制関連のものでございます。しかし、一階がないわけであります。なぜ一階がないかというと、憲法の中に我が国の安全を守るということが明示されていない、自衛隊という文言すらありません。
そういうことで、やはり安全保障基本法というのをしっかりと作っていただく、これが大切なことかと思います。我が国は法治国家でありますから、法律によって自衛隊を動かすということが大事であります。したがって、安全保障基本法というのを作っていただくということが何よりも大切であります。
これは、先ほど、我が国が防衛力を行使する場合はどういう場合か。何か国際紛争が起こった場合には、まず政治的な対話でやる。それも駄目なときには、更に外交的な交渉もする。それも駄目なときには、経済支援とか経済力で説得をする。それも、その三つのどれも通用しない相手の場合には、我が国は防衛力を行使せざるを得ないということを明示したものが、どういう場合に我が国は防衛力を使うかということが基本法に明示されることであります。
そういう意味で、外国から我が国の自衛隊を見ますと、取扱説明書がない軍事力というように見えて、我が国が平和主義を唱えるこの平和憲法に反していると思いますね。我が国がそういう、自分のどういうときに使うかということをはっきりするということが平和につながっていくのではないかということであります。
それで、二ページの最後に、(3)国家改造の改革の難しさということが書いてありますが、やはり今、我々は大きな軍事的動乱もなく我が国の構造改革をしようとしているわけでありますが、今まで、大化の改新に始まり、明治維新それから昭和の改革、こういうものの場合にやはり四つあると。
一つは、国際的条件といいますか、外圧という言葉も適切かどうか分かりませんが、そういう外からの要件ですね、それも一つありましたし、それから、今まである構造の大きな破壊がありました。明治維新も大きな破壊がありましたし、それから昭和もそうでございました。
それは、どういう国家にするかという目標があって、破壊しなければ意味が、単なる破壊でありまして、やはり既存のものを破壊するためには次の目標というものが要る。明治維新のときには近代的な西欧の国家というのもありましたし、昭和二十年のときには、アメリカのように、お金があって、そして民主主義の国になろうという目標がありました。今、我々がやろうとしている平成の国家改造というのは、国際的条件というのはほとんどありません。
それから、既成の構造を破壊しようと思っても、どのような国にするかという目標を明示しているところが余りないと。
そして四番目に、傑出した指導者の輩出ということであります。
この四つの条件のどれかが欠けるとできません。特に、我が国は今、大きな破壊を伴わないで自分たちの構造を変えようとしているわけですから、これは、我が国は日本の歴史の中で最も難しいことに挑戦しているんだということで、ここに出ておられる先生方に是非これをお願いしたいと思います。
大変失礼なこともお話ししたかと思いますが、お許しください。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
次に、渡辺参考人にお願いいたします。渡辺参考人。
○参考人(渡辺昭夫君) 渡辺でございます。
野沢会長以下、参議院の憲法調査会の皆さん方が大事な問題に取り組んでいらっしゃることに心から敬意を表します。そして、その御議論に多少ともお役に立てるお話ができれば大変幸いだと存じます。
一枚物のレジュメを用意してございますので、それに沿ってお話をいたします。
私のお話の角度といいましょうか、言わば国際関係的な文脈の中で自衛権と憲法の問題について考えるというやり方を取りたいと存じます。
憲法九条というのが、どういう政治的な環境の中でどういう経緯でできたかということについてはよく知られていることだと存じます。憲法九条の文言というのは、ほとんど同じような文言が一九二八年のケロッグ・ブリアン協定、いわゆる不戦条約に書かれております。それが後で申し上げる国連憲章の中にも引き継がれるということになっているので、私の考えでは、そういう一九二八年の不戦条約に、もちろん先立ってそういう考え方がなかったわけじゃございませんが、かなりはっきりした形で出てくるのは一九二八年の不戦条約だと思います。それ以後の大きな流れの中にある問題として憲法九条というものを考えるべきだというふうに思います。
そこで言われていることは、要するに国家の政策の手段として戦争というものはなくしていこうということで、これは言うまでもなく、第一次世界大戦の非常に大きな惨害を経験した人類がというか、その第一次大戦のそういう経験が背景になっていることでございますが、したがって、そのような国家の政策の手段としての戦争を放棄すると、そして一切の国際紛争の平和的な解決を原則とするという、そういう考え方がここではっきりと示されたわけでございます。
ただし、自衛のための戦争はその限りにあらずということは、自衛のために行う戦争というものはこの中に含まれないと、そういう了解の下に各国がそれに調印したわけでございます。日本も原署名国の一つとしてそれに署名したわけでありますね。
同じような考え方が、この不戦条約というのは実際には言わば精神規定であって、その実現を保障するような手段といいましょうか、制度というんでしょうか、そういうものがなかったということで現実には余り大きな役割を果たさなかったということになっております。確かにそうだろうと思いますが、しかし思想というのは生き残るわけでありまして、現に、第二次世界大戦で再び大きな戦争というものを経験した人類が戦後の秩序を作っていくときに、その柱にしようとした国際連合というものの憲章を作るときにその言葉が再び生きてくるわけでありまして、その前文に、国連憲章の前文には共通の利益を除くほかは武力を用いないということを原則とするというふうに書いてあります。
それが何を意味しているかというと、第一章、国連憲章の第一章に、平和に対する脅威があった場合は有効な集団的な措置を取ると、こういうのが国連のメンバーのやるべきことであるということがあるわけですね。これが言わば原則になっているわけでありまして、第一章のその次の要素は、国際関係において武力の威嚇又は武力の行使を慎むということになっているわけです。これがセットになっているところが大変大事なところであるわけですね。武力の行使の、あるいは威嚇を慎むということを実効あらしめるためには、もしそれが破られた場合に、平和に対する脅威があった場合には集団的に有効な措置を取るということが伴わなければいけないということでありますね。それが言わば基本的な理念であって、そのための具体的な制度として、第六章に、国際紛争は平和的に解決するということがうたわれていて、それに関するいろいろな規定がございます。
第二章は、さらばそのような平和的な今申し上げたような原則が破られて平和に対する脅威とか平和の破壊があった場合、あるいは侵略行為というものがあった場合にどうするかということが書かれているわけでありまして、それが憲章の前文にある共通の利益のためには武力を用いるという場合があるということになるわけでありますね。
ここでも、ただし個別的、集団的自衛の固有の権利を各国が持っているということはこれによって損なわれないという有名な第五十一条の規定があるということになるわけであります。平たく言えば、要するに個々の国家が自分の自衛のために武力を行使するという機会をできるだけ少なくしていこうということですね。そのためには国際社会が協力してそのような事態に対処するという仕方が発達しなければいけないということですが、これは、表と裏の二つ組み合わさったセットになっているということがここで一番大事なことだと思います。
それで、そこで、そういう文脈の中で、自衛権の行使の在り方についてさまざまな考え方が二十世紀を通じて発展してきたというふうに言えると思います。つまり、不当な攻撃が、不法な攻撃があった場合には、それに対する自衛の措置として武力が行使されるということがその第一のケースであります。
ただし、この場合も、ちょうど刑法で言うところの正当防衛というのに非常に近い考え方だと思うんですね。つまり、急迫不正の侵害があった場合に、自己又は他人の権利を守る、防衛するためにやむを得ない場合にはその実力を行使するということがあって、これは罰せられないというのが刑法の考え方だと思いますが、それとほぼ、そのアナロジーで考えることができると思います。
したがって、これはどんな場合でも正当防衛になるわけではないということは言うまでもないわけであって、したがって、ここに国際法学者の議論をかりると、緊急性と均衡性と必要性と違法性という四つの要件によって自衛権の行使が制約されるという言い方をよくしております。
その不法性、違法性というのは、自分の方が違法性じゃなくて、相手側に違法の行為があった場合ということでありますね。それから、ほかに方法がないというのが必要性でありまして、緊急の場合、急迫不正の場合という、急迫した事態というのが緊急性ということになる。均衡性というのは、今日はここでは余り入りませんが、いわゆる過剰防衛になってはいけないということでありますが。
ところで、一番難しいのが緊急性だと思います。現在の国際関係の中で考えるときには、緊急性という問題がかなり難しくなってきていると思います。
つまり、武力攻撃が現に発生した場合に自衛権の発動の事由が生じるというのは、これは余り議論がないところでありますが、発生した場合に初めてそのような自衛権の発動の事由が生じるのかということでありますね。そうすると、切迫した脅威がある場合というのはどうなるだろうかということになるわけで、これは刑法のアナロジーでいけば緊急避難ということに相当するような事態であります。これについては、現在、最近のイラク戦争なんかの関連でアメリカが議論している仕方の中では予防的な自衛権というふうな考え方が使われたりするわけで、非常に大きな議論を呼んでいるところでございます。
ちなみに、その集団的自衛というのは、他国の自衛に対する支援だというふうに言っていいと思うのでありますが、これはしばしば言葉が似ているのでよく混同されるわけですが、後に申し上げる集団的な措置、国際社会が集団的な措置を取るというのとは概念的には区別しなきゃいけない問題だろうと思います。つまり、他国への脅威を自国への脅威とみなすということであって、非が間違い、攻撃されたという被害の被でありますが、被攻撃国のこの場合に、要請があった場合にだけそれが当てはまるかどうかというのはかなり議論が専門家の間でもあるようでありますが、いずれにしろ、他国への加えられた脅威と自国に加えられた脅威とが密接不可分の関係にあるという状況判断がその背景にあると思います。
そこで、先ほども申し上げましたように、このような自衛権の行使ということが、非常に古く歴史をたどれば、言わば国家主権の当然のものとして、国際法学者が使う言葉で言うと自然法的なものとして考えられていた。それがいわゆる固有の権利というときの固有ということですね。これは、国際法学者の議論なんかを見ますと、固有というのは何だというときに、別の言語、フランス語なんかで言うと自然の権利というふうな言い方をしているようでありまして、言わば自然法的な考え方になっているわけですね。ところが、それについて具体的にそれが明確な形になったのは、先ほども申しました二八年、一九二八年の不戦条約における例外規定として意識されるようになってくると。
そういう経緯を見ますと、自衛権ということが一つの概念として定着していく過程というのは、正にそのような自衛権を、できるだけ自衛権の名前で何でもできるというような状態はまずいという考え方があって、したがって自衛権の行使について、自制ないし相互抑制というふうにしていかなきゃいけないという考え方の中で自衛権という言葉が定着していくんだろうと思うんですね。
ということは、先ほども申しましたように、そういうふうな、つまり自衛権というものが最後の手段として訴えなきゃならないわけでありますが、その最後の手段を取り上げては非常に危ないんですが、しかしそれをあくまで最後の手段としてとどめておくためには、その最後の手段、伝家の宝刀を抜かなくてもいいようなふうに国際社会というものを変えていかなきゃいけないということがあるわけであります。
それが、その第四の項目でありまして、つまり平和に対する脅威があった場合、それに対して有効な集団的な措置というものを取るような仕組みがなければならないということでありまして、その仕組みが効果的でなければないほど自衛権に訴えなきゃならないという場面が増えると、こういう関係にあるというように考えていいんだろうと思います。
そこで、問題は、憲法九条というのはこれも禁止しているのかと。武力の行使がいけないという場合、国際関係における武力行使がいけないという場合には、今言ったような平和に対する脅威があった場合の有効な集団的な措置に日本が参加するという場合も、これもいけないというふうに言っているのかどうかということが大きな議論になっているわけであります。私、国際法の専門家の中にも意見が分かれているように思いますが、私はこれは禁じているわけではないと思っております。
つまり、国際社会のあるメンバーがその反社会的な行為をした場合に、それに対して社会的な制裁を加えると、これを集団的な制裁措置と呼んでいるわけでありますね。もちろん、現在までの国連の制度的な状況から言えば、いわゆる国連軍というのがそういう場合に直ちに有効な形で行動するという条件がないわけでありますから、実際にその集団的な制裁措置を取るのは、言わば有志国家であるということになると思います。最近よくはやりの言葉で言うと、英語で言うと、ア・コアリション・オブ・ジ・ウイリング、アンド・エーブルという言葉が付くのが必要だと思うんですが、そのような意思があり、かつ能力があるという国家が集まってそれを実行するということになると思うんですね。
ただし、その場合、名目は国際社会というものがその主体であるということになる。したがって、最近よく英語でも日本語でも出てくるのは、国際社会がどうこうする、あるいは国際社会にとってだれだれが悪いことをしたという、そういうふうな表現がよく出てくるわけですね。あたかも国際社会という主体がそこにあるかのごとく言っている。実際にあるのかということは大きな議論になるわけでありまして、実際問題としては、私はそこに書きましたように、国際社会の名において志を同じくし、能力を出せる国家が集まってそれをやっているということになると思うんですね。これが国際社会が反社会的な行為を行った行為を処罰する集団的な措置ということになると思います。
そこで、最後に残る問題は、今までのような議論は、つまり、およそ半世紀ほど前にこのような考え方が国連という制度の中で議論された場合は、そのような不法な攻撃をする主体もそれから反社会的な行動をする主体も一人前の主権国家だと、あるいは領域を持った領土国家だという前提であったわけでありますが、最近の、九・一一後よく言われるようになったのは、こういう現象が九・一一後突然現れたとは思いませんけれども、非常に明確な形で現れたのは、そういう不法攻撃や反社会的行為の主体が国家ではなくて非国家的な場合どうするのかと。これは非常にややこしい、面倒くさいわけですね。
つまり、領域国家というのは、いかに括弧付き、ならず者国家であっても、領域を持っているわけですから、言わばそれが人質になるわけですね。そこを攻撃されれば自分もつぶれちゃうということがあるわけですが、この非国家主体というのはどこにも移動できるわけでありますから、どこをたたけばそれが参ったということになるのかということが分からない。大変厄介なものだと思うんですね。そういう種類の非国家的な主体が、非常に大きな平和を乱す行為を行うことができるような条件が次第にできてきているというのが現状だと思うんですね。
そうしますと、これに対してどういうふうに行動すべきかということが問題になるわけで、そうしますと、これは今までに申しましたような考え方ですんなりと対処できるのかどうかと。うまく対処できないというのが現実だろうと思うんですね。そこで、この問題をめぐっていろいろ今議論がなされているというふうに私は思います。
アメリカで非常に強い考え方は、これは個別国家、つまりアメリカが自衛のために戦うという議論の仕方だと思います。これはアメリカの立場にあえて立ってみれば、いや、国際社会があるいは国連がどうこうするといったって一向にうまくいかないじゃないかということになると、それはもう自分のために自分が守るという、言わば伝家の宝刀を抜く以外ないじゃないかという、こういう議論になっていくんだろうと思うんですけれども。
ということで、先ほど申しましたように、この問題でも国際社会が果たして有効にこういう問題に対処できるのかどうかという、そういう制度の完成・未完成度というものと自衛権行使ということとが私はセットになって出てくるように思います。
私自身は、アルカイダのような反社会的な集団を処罰するのは、国際社会が言わば社会的な制裁として行うべき問題ではないかと、将来の方向としてはそちらの方に議論を発展させていくべきではないかというふうに考えているわけでありますが、いずれにしろ、今まで我々が議論に慣れていたような文脈での自衛権の行使とか、あるいは国連その他の制度を通じての社会的な制裁、あるいは集団的な措置というのと少し違った角度から問題を考えなければならなくなってきているのが現状ではないかというふうに考えます。
以上で私の陳述を終わらせていただきます。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
以上で参考人の意見陳述は終了いたしました。
これより参考人に対する質疑に入ります。
質疑のある方は順次御発言願います。
なお、質疑の際は、最初にどなたに対する質問かお述べください。また、時間が限られておりますので、質疑、答弁とも簡潔に願います。
椎名一保君。
○椎名一保君 お許しをいただきまして、発言をさせていただきます。
ただいまは、参考人の先生方、大変貴重な御意見を聞かせていただきましてありがとうございます。私からは、憲法九条と自衛権、自衛隊全般について三人の参考人の皆様方にお伺いをしたいと思います。
近年の国際情勢におきまして、我が国国民が安全保障に現実的脅威を感じるようになっていることは新聞の世論調査でも明らかでございます。国の主権を守り、同時に国民の生命、自由、財産を守ることは国家としての当然の責務であることをかんがみれば、主権国家が自衛のための戦力を持つことは当然の権利だと考えられます。
ところが、これまで我が国では、憲法九条をめぐり、我が国が自衛権を保持しているのか、保持しているとしてもその発動に当たってどの範囲まで認められるのかというような議論が繰り返されてまいりました。もちろん、政府は、九条によっても自衛権が放棄されるものではなく、またその発動に当たって、自衛のための必要最小限の武力を行使することは認められると述べております。しかし、この国家の根本問題につき国民の間での完全なコンセンサスはいまだありません。個人的には異常な状況だと思います。
この最大の原因は、憲法九条、特に第二項にあることは明らかであります。一項の方は、一九二八年の不戦条約、これは我が国も原加盟国でありますが、その後の国連憲章等により国際法上も定着した侵略戦争放棄の理念を明らかにしたものであって、この理念は当然我が国も堅持すべきものであります。しかしながら、二項を文面どおり素直に読むならば、中学生の国語力でも、自衛権もなく、自衛隊もあり得ないとしか受け取れません。憲法規定とその解釈運用がこれほど隔たっている法規を私はほかに知りません。
そこで、三参考人にそれぞれお伺いしたいと思いますが、二項の規定文言と現実の解釈運用との隔たりをどのように考えておられますか。
続きまして、特にそれに関連して加えたいのが、内閣法制局の解釈権の問題です。
憲法解釈というものは、内閣、政府、すなわち内閣総理大臣及び国務大臣がその責任において示すべきものと考えているのですが、現状は、内閣法制局が解釈権を独占し、政治はそれに服従しているかのようです。
内閣法制局が解釈の整合性を保つため無理に無理を重ね、木に竹を接ぐような解釈実態になっていることにつきましてどのように考えているか、この点についても三参考人にお伺いしたいと思います。
さらに、私は、無理な解釈による不誠実な対応が国民の法に対する信頼を失わせている一つの原因ではないかとさえ思っております。解釈には現実の法規の文言による限界が当然あるはずですが、それが無視されているのではないでしょうか。したがって、国家として当然保有している自衛権、そしてその防衛活動を担う主体の自衛隊を憲法上明確に位置付ける必要性を強調したいと存じます。
その上で参考になるのが、ドイツが戦後再軍備されたときの議論であります。ナチス時代の真摯な反省を踏まえながら、勇気を持って民主主義国家における安全保障、軍事体制の在り方を議論し、それを基本法改正に結実させたことを高く評価するものであります。この点につきましても三参考人の御意見をお伺いしたいと思います。
よろしくお願いいたします。
○会長(野沢太三君) それでは、植村参考人からお願いいたしますか。よろしくお願いします。
○参考人(植村秀樹君) 国民のコンセンサスがないのは異常な事態であるという委員の御指摘については、私もそのとおりであるというふうに思っております。
それから、憲法九条の二項に問題があるのではないかという御趣旨でございましたが、これはやはり憲法制定のときの問題があります。元々こういう条文ではなかったものを帝国議会で審議をしているうちに修正が加えられてこのような形になったわけですが、それをどのように解釈するかというのは非常に難しい問題で、私は、この文言からどのような結論が得られるかということを断定的に述べることは大変難しいというふうに考えております。
そこで、先ほども私申しましたように、文理解釈でこれをどうこうである、この文言がこうだからこうだというのはもう既に不可能であると、それで国民の合意が得られるかというのは恐らくあり得ないだろうと思います。
したがいまして、さっき防衛の主体を明確に位置付けるというお話もございましたけれども、それと併せて私の考えを述べますと、やはりそうしたお考えに立って明確に位置付ける、その権限と限度も同時に明確にするという形で憲法にきちっと規定をするということは今必要になっているのではないかというふうに思います。ただ、それが、ではこういうふうにしようということが簡単に国民の合意が得られるかどうかということについては甚だ難しいという印象を持っております。
簡単ですが、以上で終わります。
○椎名一保君 内閣法制局の解釈の問題は。
○参考人(植村秀樹君) これについては、私はどう考えたらいいか分かりません。申し訳ございませんが、お答えできません。お許しください。
○椎名一保君 ドイツの例につきましての御感想を。
○参考人(植村秀樹君) ドイツの場合も、再軍備に関しましては非常に大きな議論がありました。その中で相当な議論をし、そしていわゆる政軍関係といいますか、それをきちんとするということを踏まえて再軍備を認めたという経緯があります。
それを踏まえるということになりますと、先ほども言いましたけれども、どのようなものにするのか、それをどういう言わば制限を付けるのか、限度をどこまでとするのか、それをどのようにシビリアンコントロールの下に、国民の管理の下に置くのかということについてのかなりの議論をしなければならないと思いますが、そうした上で憲法に位置付けるということは、私は望ましい方法の一つであるというふうに考えています。
○椎名一保君 ありがとうございました。
志方参考人、三点につきましてよろしゅうございましょうか。
○参考人(志方俊之君) まず、第一項でございますが、この九条の第二項を入れたいきさつというのは、芦田修正とかケーディス大佐発言とか、もう今までに万巻の書がありまして、議論されております。
私が現場にいたことから考えますと、自衛隊という文言が憲法の中にないということ自身に非常に学生、私が今教えている学生なんかも質問してくるんですが、憲法ができた後といいますかね、憲法の方が自衛隊より先にできているわけですから、その憲法の中に自衛隊という文言がないのは当たり前であって、やはり後から入れればいいと思うんですね。それを入れていなかったというのが怠慢であるというだけのことであります。
それと、もう一つは、この憲法九条に関して本当にもう万巻の書が出ているということは、哲学者が論じ、学者が論じ、政治家が論じ、国民が論じてもこの九条の意味が分からないということ自身が、国語的に私はこの憲法というのは考え直す必要があるのではないか。憲法に保障する義務教育ですか、この義務教育を終わった者ならば、それを読んだら、そのほとんどの者が同じ結論に達するような文言にすべきだと思います。
したがって、もし将来修正するようなことがございますれば、立派な学者だけではなくて、中学校の国語の先生などを草案の委員に入れていただきたいということであります。
それと、もう一つは、憲法の中に自衛隊という言葉がなくてもいいんでありますが、やはり自衛隊という武力集団をだれが指揮し、だれがコントロールするかという、このやっぱり文民統制というのは一番重要なことでありますが、その文民統制のメカニズムすら入っていません。やはり、我が国が防衛力を持つ以上、文民統制というのは一番大切なことでありますから、じゃ、どうやって文民統制をするかといえば、我が国は法治国家でありますから、その最高法規の中にそういうことをちゃんと明示していただくのが一番いいのではないかと思います。
それからもう一つは、二番目、内閣法制局の答申といいますか、解釈、解釈権の問題でありますが、これは内閣法制局が諮問をされて、どのような解釈をするかというのはそれは法制局のとおりでいいと思うんですが、それをどう取り上げるかということに、それをずっと認めてきたということは、相手が悪いんではなくて認めてきたものに問題があると思うんですね。ですから、ちゃんと政治が内閣法制局の意見を採用しないならば、採用しないだけの理論武装と勇気を持って対応すればいいことであって、内閣法制局が悪いのではないと思います。
それから三番目、ドイツの問題でありますが、これは恐らくドイツの基本法の百十五条のことを申しておるのと思いますが、ドイツも簡単に基本法を改正したんではなくて、いろいろな、今、日本がやっているような有事法制ですね、こういう場合には土地の借り上げはどうするんだとか避難誘導はどうするんだ、水はどうやって統制するんだと、そういうことをずっと一つ一つ小さな法制をやっていったわけですね。そして、その結果、幾つもの非常時立法というものができまして、しかし、よくそれを連ねてみると、どうもドイツの基本法の中にその根拠がないということで、非常に理論的なドイツ人は、これはどっちが悪いんだと。必要に応じて作った法律が悪いのか、あるいはその法律が支えていない基本法の中にボイドがあるんではないか、空白があるんではないかということでやった結果、この基本法の改正に踏み切ったわけであります。
したがって、基本法から改正したというよりも、その前に幾つもの緊急時立法というのがありまして、それを最後にくし刺しにした。しかし最後に、それでもなお国民の基本的な人権とかそういうことを担保するというのが添えられてあの十五条というのは挿入されたわけであります。
したがって、我が国も少し時間を失したようでありますけれども、今からでも遅くないので、しっかりとした文言を憲法の中に入れていただくのがいいのではないかと思います。
○参考人(渡辺昭夫君) 第一の第九条の第二項については、私は今正直言って付け加えるべきことは余りございませんが、世の中に言うところの芦田修正という問題で、芦田さんが本当にそう考えたかどうかというのは歴史学者の間でも実は議論があるようでありまして、ですが、半ばは後知恵なのかもしれませんが、第二項の前項の目的のためには云々というのは、入れたのは、それによって初めてその自衛のためには一定の軍事力を持つということは当然であるということがその背景にある、込められた意味だと。
そういうことがあったりしたわけですから、そうすると、非常にどう言っていいんでしょうか、皮肉な結果でありますが、言うまでもなく表向きは一切の武力を持たないということでスタートしたのが、それは何ぼ何でも不自然であるということで、何とか言わば潜り込ませるためにああいう規定になったし、それから憲法の第何条でしたか、文民の統制というようなことになるわけですね。文民が統制するという以上は、やっぱり文民でない軍隊というものがあると、軍事力というものがあるということが前提になると、そういうふうな議論がございましたね、当初からあるわけで。つまり、そういう非常に中途半端な形で、ぬえのようなことで入ったんだけれども、なぜ入ったかというのは当時の事情だと思います。ですから、今になってみると、いかにも無理であるというのは、そう考える方がかなりいても不思議ではないと思います。
ですから、解釈、これは第三点ともかかわるわけですけれども、そういうふうな無理な解釈を続けていると、国民の間に憲法に対する不信とかあるいは政治に対する不信ということにつながるんじゃないかという危惧をおっしゃったわけですが、そういう議論が十分私も成り立つと思います。
第二点ですが、これは、参考文献で私が付けさせていただいた文章は、実は一九九四年の細川内閣から羽田内閣、そして村山内閣と、あの大変な政治的に激動の時期に防衛問題懇談会という、通称樋口レポートというものの作業がなされたわけですが、それに私、参加した者として文章を書いているんですけれども、そこでは、例えば集団的自衛権というような話を出すとこれはなかなか議論が難しいだろうということで、それは直接には議論しないということで、具体的に問題にしたのは、つまり、今の憲法の文章を変えなくてもその中に十分に入るだろうという問題として、先ほど私が申し上げた、国際社会が集団的に平和を破ったものに対して行動するという、それに参加すると、当時のコンテクストでいうとPKO的なものですけれども。そういうものであってさえも日本が武力を持って参加するというのはいけないというふうになっているのは、これはおかしいんではないかという論点だったわけですね。
そのときに、もう今申し上げてもいいんだろうと思うんですけれども、最初の草案はかなりはっきりとそこが書いてあったんですけれども、これは内閣法制局の方から待ったが掛かったわけですね。そこで、大いに議論いたしまして、それは内閣法制局として今までそのように解釈してきたというのはそれは分かると。それは内閣法制局は法制局の立場としておっしゃるのは分かる。しかし、それを一歩も出ないというのであれば、何もわざわざこんな諮問委員会を作る必要があるかと。今までの政府の解釈を一歩も出ないものを書けというのだったら、そもそも諮問委員会を作る意味がないわけでありますね。
ということで頑張りまして、その樋口レポートが主張する立場を取るのかどうかということは、それはそれを受け取る内閣の総理大臣の判断であって、それを事前に、法制局の意見と違うからそれを引っ込めろというのは、それは法制局の権限ではないというふうに私は頑張りました。私たちは頑張りました。多少文言の上で柔らかくはしてありますが、その精神は貫いたというふうに私は思っております。それが内閣法制局の役割、それと政治的なリーダーシップとの役割との関係というふうに私は考えております。
最後の点は、これはどういうふうに考えて、ドイツのように非常に合理的というのか何というのか、非常にきっちり制度を作っていくというやり方と比べると、日本は良く言えばイギリス風ですね。イギリスは別に憲法なんかなくても実際に運用でやっていくということですから、日本の解釈運用は若干それに近いんですけれども、中途半端ですよね。ドイツ的であるかイギリス的であるかということなんですが、半分ドイツ的で半分イギリス的であるもので、一応書かれた文面には何とか忠実にしようとしながら、しかし解釈するという、そういうところが非常にあいまいになる例であるので、憲法はなくていいというふうに言うとこれは極端になるわけでありますが、何というんですか、少なくとも書かれた憲法を我々としては持っていることは否定できないわけでありますから、それは私も、いろいろなこれだけ議論を重ねてきて、かついろいろな経験を重ねてきた現在の時点に立ってこれは無理だということで、もう少し率直にその事実を認めて、このような無理な文言は多分なくした方がいいんだろうと私も思います。
○会長(野沢太三君) 椎名一保君、時間が参っておりますので、簡潔にお願いします。
○椎名一保君 三参考人にはありがとうございました。
あと一点、シビリアンコントロールのことにつきまして志方参考人にお伺いいたそうと思ったんですけれども、先ほど、これは極めて重要なことであるというお話をちょうだいいたしましたので、これで終わりにさせていただきます。
ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) 堀利和君。
○堀利和君 民主党・新緑風会の堀利和でございます。よろしくお願いします。
三人の参考人の先生方、大変貴重な御意見、ありがとうございます。時間の制約もありますので、早速質問に入らせていただきます。
まず、三人の参考人に伺いたいと思います。
米ソ対立の冷戦時代、これが終えんして冷戦後という時代に入るわけですけれども、ベルリンの壁も崩れた八〇年代から九〇年代初頭にかけて日本の防衛政策、自衛隊がどうなるかということと、またどうあるべきかということを当時どのようにお考えになったか、お聞かせ願いたいと思います。
○参考人(植村秀樹君) ベルリンの壁が崩壊し、冷戦が終わったとき、多くの人と同じように、私も世界はもっと安全なものになるだろうというふうに考えました。そうなりますと、自衛隊もそれまでほどの大きな部隊は必要なくなるだろうというふうにまず一つは思った記憶があります。
それと、世界がどう変わるか、冷戦が終わったからといって直ちに平和で安定した世界になるとは限らなかったわけですから、その情勢を見ながらでありますけれども、冷戦下とは全く違う発想で自衛隊を利用する道も開けるのではないかというふうにも考えました。
そしてもし、そう近い将来ではないと思いましたけれども、可能であるならば、憲法の文言にあるような方向で自衛隊を縮小していく、そういう道も開けることを多少は期待をしました。すぐに打ち砕かれたわけでありますけれども、そんなことを記憶しております。
○会長(野沢太三君) 次に、志方参考人お願いします。
○参考人(志方俊之君) ちょうどこの冷戦が終わるとき、私は自衛隊の北部方面総監として北海道の防衛の任に就いておりました。
冷戦が終わる直前にリタイアしたわけでありますが、当時は、やはり冷戦が終わって平和の配当という言葉が出たように、みんなが平和になるだろうと思っておりました。私も、自衛隊というのは平和を維持するということですから、任務を達成したと、自分たちが持っている防衛力を使わないで済んだということで、一つの任務の達成感を感じました。私は、今でもそれを誇りに思っております。自衛官が培った力を使わないで済むということが国家の一番平和になるということであれば、これほどいいことはないということであります。
しかしながら、それと同時に、この先、必ず世界というのはこの平和の配当というようなのにはならない、むしろ非常に脅威が多様化するということを感じておりましたので、やはり当時の自衛隊の編成、装備、兵力、こういうものは見直す必要があろうというように感じました。恐らく、この脅威の多様化に準じて自衛隊もそれぞれトランスフォーメーションをしていった、変革していったのだろうと思います。私は、その方向は間違っていないのではないかと思います。
以上です。
○会長(野沢太三君) それでは、渡辺参考人お願いします。
○参考人(渡辺昭夫君) 度々同じことに言及して申し訳ございませんが、先ほどの機会に申し上げた一九九四年に私が参画したいわゆる樋口レポートというのは、正に冷戦後の状況をどうとらえるか、その中で日米安保をどう再定義するか、その中で日本の防衛力の在り方をどう考えるかという宿題が、当時の細川総理大臣から与えられた課題だというふうに考えて私などは作業に当たったわけであります。
この問題は非常に大きな話なので、また申し上げ残したことは後で補足させていただくかもしれませんが、ごくごく要点だけを申しますと、冷戦時代は言うまでもなくソ連というものの脅威に対してどう対処するかということであり、当然その対処するこちら側にいるのはアメリカであるということで、こういう言わば大きなもの同士がぶつかっているという感じですね。そういうものがなくなった後どうするのかということで、それが、ソ連の脅威がなくなればすべて世は事もなしになるんだと。ここからいわゆる平和の配当論ということになってきて、そして、日本の防衛力というものももう少し切り下げてほかに国家の予算を向けたらいいんじゃないかというのが平和の配当論だったと思うんですが、その樋口レポートは少なくともそうは考えなかったですね。
なぜかというと、二つ理由があって、一つは、むしろソ連というような明確な形での脅威がなくなった後の国際安全保障というのは、もっと非常に読みにくく、また難しいし、いろんなことを考えなきゃいけないよと。そして、それに伴って、そういう新しいタイプの脅威に対しては、ここはちょっと皮肉なことですけれども、むしろ冷戦時代よりも日本がやるべきことが増える、あるいは日本の自衛隊がやらなきゃいけないことが増えるというふうに考えたわけで、再び先ほどの私の発言に戻れば、国際社会が全体として協力していろんなことに対処していくという場面が増えてくるだろうと。
それは、国連という枠の中なのか、あるいは日米が二国でやるのか、あるいは地域的には何らかの仕組みという中でやるのか、それはいろんな形があるけれども、いずれにしろ、今までと違って、そういうより広い観点の中での安全保障上の役割に対して日本はもっと積極的にやっていかなきゃいけないだろうということで、先ほどもお話が出たように、例えば橋本・クリントン共同宣言辺りにはアジア太平洋という言葉が何度も出てくるというふうに、より広い文脈の中で日本の安全保障上の役割は増えるだろうというのが第一の理由でありますね。
それから、第二の理由は、これは全く私の個人的な言い方になってしまうかもしれませんが、皮肉、まあ皮肉という言葉は良くないですね、結果的に見れば、冷戦時代に日本は、当時、三木内閣のころでしょうか、久保さんという方が防衛庁にいらっしゃって、平和時における何でしたか、平和時における防衛でしたか、という形でいわゆる基盤的防衛力というような考え方が出てくるわけですが、言わばその冷戦時代のコンテクストで言うとちょっと不思議だなと思われた考え方が実は冷戦後にむしろぴったりするような考え方になってくるということになって、言わば先取りしていたような形になっているわけですね。
それをもう一遍裏返して言うと、そんなに大層な防衛力を実は持っていたわけではないのであって、基本的にはこの程度の防衛力でもって新しく日本が求められる役割をやっていくということの少なくとも基礎にはなるだろうと、いろんな部分的な修正はしなきゃいかぬ、そういうふうに我々は考えました。
○堀利和君 それでは、植村参考人にお伺いしたいと思います。
冷戦後、自衛隊はむしろ海外派遣が頻繁に行われるようになりました。しかし、自衛隊法第八章の雑則の百条では、五項までは土木工事や教育訓練の受託あるいは南極観測への協力と、こういうことが規定されておりまして、六項から国際協力などの規定が加わって今日に至っているわけですけれども、そもそも自衛隊法は、自衛権としての自衛隊、最小限の武力を持った部隊の我が国の防衛ということが目的であるわけですけれども、こういうことをかんがみたとき、そこに問題がないのか、矛盾を受けないのかと思うんですが、いかがにお考えでしょうか。
○参考人(植村秀樹君) 確かに、自衛のための最小限度の実力ということで自衛隊があるわけでありまして、今日のように頻繁に海外に派遣をするということは非常に現場を見ても大きな問題を生じているというふうに思います。
例えば、海上自衛隊がテロ特措法に基づいて今アラビア海に派遣をされております。元々、専守防衛ということで整備され運用されてきた海上自衛隊は、そのような長期間にわたる、遠いところに派遣をする、そういう仕組みになってはいないわけですね。そういうことからくる問題がもう既に幾つか生じております。
先日も、許可された時間外での飲酒というような事件が発覚いたしましたけれども、これも私は、規律が緩んでいるとか、そういうことではなくて、かなり規律の高い自衛隊であるにもかかわらずそれを踏み外す、そういうほどの強いストレスを自衛官に与えているということだろうというふうに思います。
それから、もっと大きな問題といたしまして、この派遣される護衛艦の中には護衛隊群の旗艦が三隻含まれております。それから、昨年の夏には、たしか四人いる護衛艦隊の司令のうち、一人しか日本にいないというような状態が生まれたりしております。つまり、四個隊群があって、それをローテーションで回して国土を守るというのが海上自衛隊の仕組みになっておりますので、あのような過大な負担を与えることによって、むしろ本務の方が、おろそかにとは言いませんけれども相当に無理が来ている、本務に支障を来しかねない状態を生んでいるというふうに思います。
その辺りも、憲法があり、それに基づいて専守防衛といった戦略、政策を持ち、そういう形で組織され運用されている自衛隊に、このような頻繁な、しかも難しい、大規模な派遣ということがもたらす問題といいますか、矛盾というのは非常に大きいものがあると思います。
さらに、これは例えば航空自衛隊では既に時々新聞にも出ておりますけれども、海外のいわゆる敵の基地を攻撃する能力ということですが、爆撃装置を付けた戦闘機、それから空中管制警戒機、空中給油機も取得しております。もう少しで言わば少なくとも能力を身に付けるまでに至ろうとしております。そういう点も含めて、現在の政策というものがこれまでの枠を踏み出しつつあるということは一つ憂慮すべき問題ではないかというふうに考えております。
本務に支障を来しかねないような事態を招いても対米関係、対米配慮を優先するのかという問題が一つ生じますし、あるいは、逆に、専守防衛をかなぐり捨てて海外派兵海軍に変身を図るのかといった問題も、論議としてではなく事実として提起されているのではないかと。つまり、事実が先行して、政策論議がそれに後れて、憲法が一番後れているという本末転倒した事態を生み出しかねない危険があるように私は思っております。
以上です。
○堀利和君 続けて、植村参考人にもう一問お伺いしたいんですけれども、自衛権、自衛隊、防衛政策に対して我が国固有の政策、歯止めといいますか、専守防衛、海外派兵禁止、防衛費GDP一%枠、非核三原則なり武器輸出禁止、こういう歯止め策についてどういう評価をなさっているか改めてもう一度お伺いしたいし、今後新たに何らかな歯止め政策が必要かどうか、この辺についてもお伺いしたいと思います。
○参考人(植村秀樹君) 先ほど陳述の中でも少し触れましたけれども、こうした歯止めには私は積極的な意味のあるものと必ずしもそれは疑わしいものとあるように考えております。専守防衛もそれから非核三原則も、これは言わば国家の根本でありまして、言わばこの国はこういう国なんだと、こうやって生きていくんだという国家の哲学を具体的な政策の形で示したものというふうに考えてよかろうかと思います。それによって、同時に憲法の九条の枠内でやっていると、しかし固有の自衛権はこういう形で行使するという意思表示でありますから、非常に大きな意味があったというふうに思います。
ただ、GNPあるいはGDP一%枠というようなものについては、私は余り大きな意味があったようには思ってはおりません。と申しますのは、総額がこの枠ならば何でもいいのかと、この枠なら好きにやっていいよというふうな安易な考えに結び付きやすいという危険があるからであります。そうではなくて、具体的にこの国はこういうやり方でいく、そのためにこうする、ここまでしかしないということをはっきりさせるという意味で、意味のある歯止めと必ずしもそうでなかったものとあるように思います。
○堀利和君 次に、志方、渡辺両参考人にお伺いしたいと思います。
自衛隊の海外派遣には二つの考え方が私はあると思うんですね。一つは、直接的に国際社会の一員として国際平和を安寧して国際秩序を守るということで海外派遣するということがあると思います。もう一つは、我が国の独立と国民の生命と財産の安全を守るということで、いわゆる国益の延長線上として、そのための国際平和の秩序が必要であるということで国際協力として海外派遣する。両方の意味は持つんですけれども、あえて分ければ二通りの見方があるのかなと。どちらを、前者を、後者を、どちらを優先するかでそこはかなり変わってくるんではないのかなと思っておりまして、その点どのようにお考えなのかと思うんですね。
戦前と比較することはいかがかと思いますが、戦前は自衛の名の下に大陸に侵攻、侵略したわけですから、国際協力の名の下にどんどん自衛隊が海外に、どこにでも出ていってしまうということが起こりかねないのではないかという私は懸念を持っておりますし、同時に、国益という観点が強過ぎると、イラク戦争を支持したのも日米安保条約の下で北朝鮮の脅威をはねのけるという国益から言わば国際協力という方向に流れていってしまうんじゃないかという懸念もありまして、そういう意味では、国益としての海外派遣の国際平和を守るのか、国際社会の一員として世界の平和を守ろうとするのか。この辺についてどうお考えか、お伺いしたいと思います。
○参考人(志方俊之君) 私のレジュメの第二項のところに「わが国が存立する上での四つの必須要件」というのがありますが、その中に説明してあるように、我が国ほど世界じゅうが平和であることを必要とする国はないということからしますと、我が国の領土の、領域の独立、生命、そういうものを守っておればそれで済むわけではないと。やはり国際的な一員としてその責務を果たす。よく国際貢献という言葉がございますが、私は貢献というのは何かサウンドが違うと思うんですね。何かしてあげるという言葉がありますけれども、私は、日本はやる義務があると、責務があるんだと思います。
そういう意味では、今、先生がおっしゃられた二つの意味、どちらもあるんでございますが、どちらかといえば第一項の国際社会の一員としてその責務、秩序を守る責務を自分たちの憲法の中でやるということが大切かと思います。
○会長(野沢太三君) 渡辺参考人、お願いします。
○参考人(渡辺昭夫君) 実際の議論ではなかなか難しいということを承知ですが、あえて申し上げると、国際社会の一員としての責務ということと日本自身の独立や平和や国民の財産を守るという言わば国益のためというのとは、その間のバランスを取るということが正解だというふうに私は考えているわけであります。
最初の陳述のときにも申し上げたように、つまり、自衛ということと国際社会が協力して何か国際社会を脅かすものに対して対処するというのとは二つで一つというセットになっているわけであって、どっちかというふうには考えられない。それをどうやってうまくそのバランスを取っていくかというのが我々が取り組まなきゃいけない問題だと思うんですよね。
片一方がなければとにかく自衛という方が限りなく拡大していくということで、自衛のために限りなく広がっていくという危険が常に隠されているわけでありますが、そうならないためには、国際社会が協力して平和な秩序を保っていくという制度が必要であり、そのために日本が有効な貢献をすると、義務を果たすという、この二つがセットになっているんじゃないかと私は思うんですけれどもね。というのが私の答えであります。
○会長(野沢太三君) 時間です。
○堀利和君 ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) それでは、高野博師君お願いします。
○高野博師君 まず最初に、植村参考人に二つほどお伺いいたします。
参考人の「自衛隊は誰のものか」という著書の抜粋を読ませていただきまして、かなりの部分共鳴をしたわけでありますが、これの関係でお伺いいたしますが、九・一一のテロは、アメリカの経済のシンボルである、経済力のシンボルであるワールド・トレード・センターが攻撃された。それから、軍事力の総本山であるペンタゴンが攻撃されたと。これは明らかにアメリカをターゲットにしたものだと、そして、この国際社会とテロリズムという構図は焦点をぼやけさせてしまうと、これはテロの根絶を遠ざけるものだと、日本人の犠牲が出たというのは日本がねらわれたというのとは全然意味が違うと、なぜアメリカがターゲットになったかということを九・一一以前にもさかのぼって見極める必要があるというような論調だったかと思うんですが、当事者はアメリカ一国だと、こう言われているかと思うんですが。
それでは、テロの根源というか原因はどの辺にあるとお考えで、このテロを根絶するためにはどういうお考えを持っておられるのか、お伺いしたいと思います。
○参考人(植村秀樹君) テロの根源がどこにあるのかというのは大変難しい問題で、それは簡単に答えられることではないと思います。
今回のテロというか、今回のテロ事件に限って、私は、当事者はアメリカだと言ったのは今回の事件に限ってのことでありますけれども、今回の事件に限っても根源がどこにあるということを見極めるのは非常に難しいというふうに思います。
ただ、伝えられるところを事実とするならばでありますけれども、オサマ・ビンラディンは、彼が首謀者であるとするならばですけれども、湾岸戦争辺りからアメリカに対する不信といいますか恨みを持つようになったというふうに言われております。しかし、そこでも今回のテロの根源とは言い難いと思います。
ですから、根源にさかのぼるというのは非常に難しい話でありまして、恐らく、現在起こっているテロも何十年もさかのぼらないと根源というところに行き着かないであろうというふうに言わざるを得ないかと思います。
○高野博師君 九七年に日米安保の再定義をやったと。これは、アジア太平洋の平和と安定に寄与するという、そういう再定義をしたんですが、アフガンの戦争あるいはイラクの戦争から、日米安保の再々定義が必要だというアメリカ側の考えがあると。
自衛隊はだれのものかと、これは、先生の論文によりますと自衛隊はアメリカのものだと言えるのかと思うんですが、アメリカが日本の自衛隊をどこまで連れていこうとしているのかと、こういう表現もありますが、この同盟と軍事力が安全をもたらすという考え方は余りにも短絡的ではないかと、短期的な国益のためにアメリカと一体化していくというのはいかがなものかと、こういう考え方かと思うんですが。
それでは、イラクの復興あるいはその戦争にさかのぼって日本は何をすべきなのか、すべきだったのかということについての先生のお考えを伺いたいと思います。
私は、イラク戦争の大義は大量破壊兵器が見付からないからないと、そういうことではないという理解をしておりまして、イラク戦争の大義というのは対テロリズムだ、大量破壊兵器の廃棄そのものではないと、私はそう思っているんですが、したがって、今いろんな議論がされているのは私はおかしいんではないかと、こう思っておりますが、これは参考までに。
先生はこのイラクについてはどういうお考えでしょうか。
○参考人(植村秀樹君) 私は、今回のイラク戦争には大義はないというふうに考えております。
それは、アメリカは初めテロとの関係を口にしましたけれども、しかし、その証拠はありません。大量破壊兵器についても、現在アメリカでもイギリスでも問題になっておりますけれども、様々な文書の捏造、情報の歪曲等があります。そして、実際にも大量破壊兵器は見付かっておりません。たしか四十五分で装着可能というふうな話も戦争前にありましたけれども、それも実際には到底そのようなことは事実とは考えられない状況が起こっております。したがいまして、テロとの関係で考えても、今回のイラク戦争に大義はないと私は考えております。
ただし、実際にもう既にあのようなことが起こってしまったわけですから、その後をどうするかということは、日本も当事者である、国際社会の一員として当事者であるということは間違いないと思います。その意味で、何らかの形でイラクの復興に参加をするということは大いにすべきであるというふうに思います。
例えば、どういいますか、日本はアメリカと同盟関係にあるわけですが、つまり日本がアメリカを実際に支持したわけですけれども、私はむしろ止められなかったというふうに考えたいと思います。ある意味では、アメリカの暴走を止められなかった責任の一端を負うというようなつもりでイラクの復興に参加をするということがこの国にふさわしいと私は思います。
○高野博師君 ありがとうございます。
それでは、志方参考人にお伺いいたします。
先ほど、日本の情報収集能力、これがもう対米依存だというか、アメリカから情報はみんなもらっている、もっとこの情報収集能力を高めるためにもっと投資をすべきだと、こういうようなお話だったんですが、防衛庁の中に作った情報本部、これも相当厳しい管理がされているんですが、実際にはアメリカが深く介入していると。これは植村参考人の資料の中にも書いてあったんですが、あの情報本部にはアメリカ人が十数名出入りをしているというようなこともありまして、この対米依存を脱却するために情報収集能力を高めるというのはアメリカも望んでいないことではないか、あるいは日米同盟の根本にかかわる問題ではないかと思うんですが、それについていかがお考えでしょうか。
○参考人(志方俊之君) 米国の軍人が、DIAといいますか、情報本部に入っているというのは、そのことは私は、米軍から情報ももらいます、それから、こちらはほとんど上げません。そういうことで、もらうときに来ているのであろうと思うんですね。ですから、何かアメリカとつるんで何かやっているというのは正しい見方ではないと思います。今の日本の情報本部の中には、アメリカが欲しくてたまらないような情報はあり得ません。むしろ、もらう一方でございます。そういう意味で入ってきているのであろうと思います。
それで、やはり日本が情報収集能力を持たなければこれはアメリカはそれは日本を情報操作することだってできるという、そういうことから考えればアメリカは好まないかもしれません。私が防衛駐在官でいたころは、確かにそういう面がありましたですね、冷戦時代。そういう情報はすべて我々がプロバイドするんだから、あなたたちは日本の防衛をやっていなさいと。確かに冷戦時代は、我が国自身が西側の陣営の一つのくさびの、まあ鎖ですね、その一つとして弱くあっては困りますから、我が国の防衛だけを考えていればそれでいいんだと。そのほかのことにまで手を伸ばす必要はないという、そういうことがありました。
今は、やはり情報の世界というのはギブ・アンド・テークですから、アメリカが日本から少しでも情報をもらえばその何倍かの情報をくれるような、そういうメカニズムになっています。我が国は今上げるものは何もないということは、やはり向こうからももらえないと、適時適切なものをもらえないということですから、我が国が取った情報だけで我が国が政策を決めれるということはあり得ません。そういうことで、我が国もちゃんと自助努力をして、そして米国の取った情報も機微なところまでもらえるような状態にして安全保障に利する方がいいのではないかと思います。
○高野博師君 もう一つだけ簡単にお伺いいたしますが、日本の防衛の構造は四階建ての建物だと、こういうお考えですが、基礎になる憲法の中に国家緊急事態条項というのがないままに、有事法制はもう既にできている、あるいは自衛隊法、あるいは防衛庁設置法、その上に自衛隊そのものがもう存在している。したがって、安全保障基本法というものを作るには憲法の中にこういう条項が必要だというお考えですから、それはすなわち憲法改正と。
全面的に憲法を作るというなら別ですが、今の憲法を前提にして改正するといった場合に、この第九条とそれから国家緊急事態条項との関係はどうするのか、あるいは前文との、精神との関係をどうするのか。簡単で結構ですのでお願いします。
○参考人(志方俊之君) 先ほどドイツの基本法の話が出ましたが、ドイツの基本法では国家緊急事態とはどういうことかということを定義で、基本法の、日本で言う憲法の中で定義してあるわけです。そして、そういう場合には大統領から運用権は首相に移るとか、どうやってコマンドをするかということも微に入り細に入り基本法の中に入っている。日本の憲法はドイツのほど大陸系ではございませんから、渡辺先生が御指摘されたように。そうであれば、文言が入れる入れないというのは検討の余地はあるかもしれませんが、私はやはりこれほど五十年間ももめるということであれば、憲法の中にこういうことを国家緊急事態と言うべきだということを言っていただきたいと思います。
それで、そうでないとやはり自然権として自衛権を行使するということが、何も文言がなければそっちに逃げ込むわけですね。それほど危険なことはないと思うんですね。自分の国だけで、何かを危険だと思ったら自分で行使できるということこそ危ない。ですから私は、集団的自衛権を行使する方が個別的自衛権を行使するよりもむしろ安全だと思うんですね。少なくとも国際社会で議論をして、そしてやっていけるということがございます。
○高野博師君 ありがとうございました。
それでは、渡辺参考人に、余り時間がないんですが、一点だけお伺いしたいと思います。
この参考資料の中で「朝鮮半島有事への対処は政治問題」だと、こういう表題で書かれてあるんですが、朝鮮半島有事に日本はどのようにかかわるべきか、これは日本が慎重に判断して決定しなくてはならない第一級の政治問題であって、憲法問題ではないという、こういう、ここに書かれておりますが、この半島有事というのを前提にした書き方が若干気になるのでありますが。実は、今朝中国のある要人と会いまして、北朝鮮問題についての日本の対応というのは余り大局観あるいは長期的な展望に立っていないのではないかと、北朝鮮をどんどんどんどん追い詰める方向に、あるいは刺激するやり方をしているのではないかというような見方もしていたんですが。韓国の盧武鉉大統領も訪中しまして、中韓では、中国と韓国は対話あるいは平和的解決に重点を置くというような合意がされていますが、今の朝鮮半島、北朝鮮問題、日本の側としてはかなり行き詰まっている感じがするんですが、先生はどういうふうに今この北朝鮮問題をとらえておられるのか、ちょっと漠然とした御質問ですが、考えがあればお伺いしたいと思います。
○参考人(渡辺昭夫君) 大問題で大変困っておりますが、前半が必ずしも質問の御意思じゃなかったかもしれませんが、言及なさったので、ごくごく何秒かで申し上げますと、朝鮮半島有事というのは例として挙げたわけで、いわゆるこれは集団的自衛権に引っ掛かるとか引っ掛からないとかという、そういう法律問題ではないだろうということであって、自衛権であれ、個別であれ、集団的であれ、つまり他国と一緒にやる形であれ、どういうときに、どういう程度に日本が一定の形で軍事行動、武力行使というものに参加するかというのは、すぐれて政治的な問題、判断の問題だと、だから憲法であるとかないとかという形で白か黒かというふうに一刀両断できる話ではないだろうという例として挙げたわけであります。
ところで今の問題、たまたま今日出ている中央公論に私、文章を書いていまして、参考文献に挙げようと思ったんですけれども、今日の時点で出ているか出ていないか分からなかったものですから挙げてございませんでしたけれども、後ほどお読みいただければ有り難いと思います。その最後の方に朝鮮半島問題についても、非常に短い一節ですけれども触れておりまして、基本的には私は、いわゆるアメリカを中心にした多国間協議という中に中国をうまく取り込んでいくという形で攻めていくべき問題であろうと思いますね。そこで、ある程度、こわもてに出るのと柔らかく出るのとのその使い分けというのはそれぞれありますし、その中で日本がどの役割をするかというような問題あるわけですけれども、というのが私の基本的な立場であります。
○高野博師君 ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) 宮本岳志君。
○宮本岳志君 日本共産党の宮本岳志です。
まず、三人の参考人の皆さんに私からもお礼を申し上げます。
まず、植村参考人にお伺いをしたいと思います。
先ほども、イラクへのアメリカの戦争等々の話、それからイラク支援の立法の議論が交わされました。それで、アメリカの軍事行動を日本が支援する根拠として、憲法前文の「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」という、これを持ち出す議論というのがあるわけであります。憲法前文は全体として平和主義を基調としておるわけで、こういうふうに理解するのは非常に問題があると先生も資料でお述べになっておりましたけれども、是非この点について植村参考人のお考えをお聞かせ願いたいと思います。
○参考人(植村秀樹君) 私、実はそのように著書に書いた記憶は確かにございますし、そのように思っております。
日本はアメリカと密接な関係がある同盟国であります。そのことはもちろん重要なことですから、日本がアメリカを言わば友人として大切にすることは論をまたないというふうに考えております。しかし、だからこそ、そのほかの国に対する理解ということもより重要になるのだというふうに、特にこういう危機的な状況とか悲劇的な事件が起こった場合などには余計にそういうことを慎重に考えるべきではないかというふうに考えております。
最近、アメリカの元国防長官のマクナマラ氏の本が、翻訳が出ておりますけれども、ベトナム戦争について書いた本ですが、その中でも、相手を理解していなかったということを率直にマクナマラ氏は認めております。それが、相手を理解していなかったということが戦争の惨禍を大きくしたというふうに述べております。もう少し相手を理解する姿勢があればあんな戦争にはならなかっただろうと、そういうふうなことを書いてあります。
それは、私、先ほど、ならず者国家というような言い方はすべきでないと言ったのはそういうわけでありまして、憲法前文のことに戻りますけれども、他国のことを無視してはならないというのは、アメリカも無視してはならないわけですがイラクも無視してはならないということであります。そういうことをしないで独善的な姿勢で国際社会に臨んだことが、日本があのような戦争をし大きな悲劇を生んだことにつながっているわけでありますから、そういうことを戒める、独善的な態度を戒めるのがあの憲法の趣旨だというふうに考えることができるかと思います。
そういう意味で、武力を行使するというのは一番最後の手段でありますし、一番最小で済ませなければいけない。最近のアメリカを見ておりますと、むしろ最初に武力を用い、最大限に用いるという傾向が見られますので、その点について日本としても注意をすべきではないかと、そういうふうに考えております。
○宮本岳志君 やはりこういったアメリカの行動の背後にいわゆる一国主義、ユニラテラリズムというものがあるということが議論されてまいりました。それで、こういったアメリカの行動様式についてどう見るかということがあると思うんですね。
先ほど、これは渡辺参考人もアルカイダのような集団は社会的な制裁として行うべきだという御意見もお述べになったと思います。前回のアフガニスタンに対するテロ報復戦争、それから今回のイラクに対する戦争、ここに示されたアメリカの一国主義というふうなものについてどう見るのかということについて、これは植村参考人と渡辺参考人、お二人にお聞かせいただきたいと思います。
○会長(野沢太三君) それでは、最初に渡辺参考人からお願いします。
○参考人(渡辺昭夫君) これも実は今日出たばかりの「中央公論」に私、書いているところでありますが、確かに今のブッシュ政権、アメリカというかブッシュ政権ですね、ブッシュ政権の中にはかなり、どう言ったらいいんでしょうか、バランスを欠いた考え方をする人が、勢力があるということは確かだと思うんですが、より基底にあるのは、まず第一に、アメリカが軍事力という点で、能力という点において圧倒的な存在であるという事実を否定するわけにいかないだろうと。
したがって、私が再三先ほどから申し上げているように、国際社会が全体としてまとまって何かをすべきだというときに、アメリカを排除しては意味がないだろうと。別の言い方をすると、アメリカが、おれは知らないよと言って決め込んだら何もできないだろうと。しかし、もう一方、アメリカが余りやる気になって突っ走ってもらっても困るというのも、これも事実ですね。
したがって、そういうふうに今は確かに九・一一後のアメリカは一種のある特殊な精神状態にあって、我々はついていけないなと思うことはしばしばあるんですが、そこは友人として我々がいろいろアドバイスしなきゃいけないところがあると思うんですが、そのときに、いろいろなやり方があると思うんですね。この間のイラク戦争に関してフランスやドイツがやったようなやり方でやるのか、日本やイギリスがやったようなやり方でやるのかという選択の道はあると思っております。
先日、私、イギリスのある研究所に行って、日英の安全保障上の協力というテーマの会議に参加いたしましたけれども、もちろんイラク戦争後です、ごく最近です。そのとき非常に面白かったのは、日英会議ですけれども、そこに参加した人が、表現は違うけれども、みんなアメリカが独りで突っ走ろうとする気持ちは分かるんだけれども、それをどうやってよりバランスの取れたものにするのかということが我々共通の課題だねという話をいろんな人が表現を変えながらやったわけです。その点では共通の認識があるわけで、先日、フランス大使が私のところに会いに来たものですから、その話をしたら大変喜んでおりまして、そうか、おまえたちもそう考えているのかと、こういうふうに言っておりました。
○会長(野沢太三君) 植村参考人、お願いします。
○参考人(植村秀樹君) 渡辺先生がおっしゃったように、アメリカが張り切り過ぎても困るし、アメリカのいない世界も困るというジレンマに我々、立たされているというふうに思います。
アメリカの一国主義ということでありますけれども、やはり今のブッシュ政権がやや特殊であって、これをもってアメリカというふうに言ってしまうのは少し行き過ぎる可能性、危険性があるかと思います。その点は少し慎重に考えるべきかというふうに思います。
確かに、アメリカは世界の軍事費の四割を一国で持っておりまして、軍事力としては質、量ともに圧倒的であります。
ただ、今のようなやり方で果たしていつまでもつのかということを考えたときに、そのアメリカのやり方に乗って、日本がいわゆる日本の国益を増す方向を考えるというのは余りに近視眼的であって、最終的にはそれは世界にとっても日本にとってもいい結果をもたらさないというふうに思っております。ただ、私はその点は慎重であるべきだと思います。
今回の件につきましても、イギリス、まあブレア首相は、言わばアメリカを支持することで、ある程度ブッシュ政権の意思決定に影響力を持とうとしたのかもしれませんけれども、結局それはできなかったというふうに言うべきだろうと思います。日本の中でも、いや、アメリカは国際社会を十分重視していると、半年も待ったじゃないかと、国連で論議もしたじゃないかという声もありますけれども、しかしアメリカの軍の動きをずっと見ておりますと、アメリカの軍の戦闘の準備が整ったのはやはり三月ごろですから、結局、初めからそのころやるつもりでいて、それまではお芝居をしていたというふうに考えるべきだろうと思います。したがって、私はブレア首相の考えたことはうまくいかなかったと思いますし、日本が、じゃ一緒にやっても何かいい結果が得られるかということに関しても非常に私は否定的、悲観的です。
ですから、別の道を何か考えなければいけないところでありますけれども、フランス、ドイツ、あるいはロシア、中国などが幾ら頑張ってもこのような結果になったわけでありますから、そういう道が簡単かと言われると、それも非常に難しいと言わざるを得ません。
ちょっとはっきりしない答えですけれども、以上です。
○宮本岳志君 志方参考人、なかなか志方参考人と私と意見が一致するということはなかろうと思いながら質問するわけですけれども、九条二項が先ほど国語的に分からないとおっしゃいました。九条二項はお読みいただければ極めて明瞭でありまして、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と、国語的には私は明瞭な言葉だと思っております。自民党委員も先ほどそういうふうにも、中学生にも分かるというふうにも触れられました。
問題は、この九条二項の下で今や世界有数の軍事予算をつぎ込む自衛隊という存在があると。この現実とこの九条二項との矛盾というものは、これは中学生どころか、大人や最高裁でさえ統治行為だと言って逃げざるを得ない、なるほど分かりにくい現状があるわけですね。志方参考人は自衛隊の、現役自衛官だったときのことを思い出してというお立場でお話が今日ございましたから、自衛隊の立場から憲法を眺めれば、なるほど九条二項というものがそう見えるでしょうけれども、これは同じように憲法の側から自衛隊を眺めても同じように見えるわけであります。
それで、我が党はその矛盾をどうするかといったときに、やはり憲法九条、憲法の平和主義を貫くべきであると。つまり、自衛隊を解消すべきであるという立場を取っておりますけれども、ただ、それはあくまで国民的合意を得て進めるべきものであって、私どもが仮に政権参加ということがあったとしても、その時期とこの自衛隊の解消という時期との間には時間的な違いがあることは当然だと。そうなりますと、一定期間、私たちが政権に参加した場合でも自衛隊が存在するということを私たちも想定しつつ政治に取り組むということになります。
自衛隊が憲法違反かどうかということは別として、しかし現時点で自衛隊も憲法をしっかり守らなければならないことは九十九条の公務員の憲法遵守義務からも当然のことだと思うんですけれども。
そういった、つまり政権が今後替わっていく、例えば野党の政権が誕生する、場合によったら日本共産党が加わる政権が生まれ得るといった場合に、自衛隊がこの憲法というものをしっかり守りながら自衛隊の活動を進めるということが、九条の精神に立ってといったらちょっと分かりにくい話ですが、そういう平和主義ということを自衛隊がしっかり歯止めにしていくということはあり得る話だと私たちは思っているわけですけれども、この辺りについて志方参考人はどのように考えるか、お聞かせいただけますでしょうか。
○参考人(志方俊之君) まず、九条二項のことでありますが、陸海空軍と陸海空自衛隊との違いというのは、これはなかなか、これも説明するのが非常に難しいということであります。しかし、我が国の政府はずっと違うと言ってきているわけですから、違うのだと思います。
交戦権というのは、これも定義によりますけれども、戦いを交えるという、単純に考えれば、例えば我が国の船舶が領海内において相手から撃たれた場合にはこれと交戦せざるを得ません。これをしないでいいというのならば、しないでいいとちゃんと政党で言明していただきたいと思います。
それから、平和主義を貫くということは私も大賛成でありますし、貫いてきたからこそ我が国は戦争せずに済んできた。しかし、平和主義を貫くというのにはいろんな態様がございまして、街頭に出て旗を振って平和を叫ぶということも重要なことであります。これも必要なことでありますけれども、やはり自衛隊というものを作って、厳然とそこに我が国が主権を守るということを内外に示すということも平和主義を貫く一つであると思います。
したがいまして、我が国の自衛隊員は憲法を遵守するという宣誓をして入ってきます。それと、命を懸けるということも宣誓しております。我が国の独立と平和を守るということも宣誓しておりますから、その道から外れることはありませんが、我が国の独立と平和を守るためには我が国の海岸にいては駄目だということであります。
我が国の国益はもう世界じゅうに行っているわけでありますし、我が国はいろんな国に資源を依存しているわけでありますから、例えば今のイラクの問題でも、イラクの国民が困っているとすれば、当然、行ってそこに新鮮な水を、清潔な水を供給するということは、その国のためでもあるし、イラクと日本が仲良くして平和でいくための重要な一つのツールであるということを考えますと、これは一に、憲法の条文よりも、政治が何をするかということを自分でお決めになることが大切なのであると思います。
○宮本岳志君 終わります。
○会長(野沢太三君) 次は、平野貞夫君。
○平野貞夫君 国会改革連絡会という会派がございまして、自由党と無所属の会で構成していますが、私は自由党の所属でございます。
三人の参考人の方々に同じ質問を最初にしたいと思いますが、特殊な状況の下で特殊な憲法が作られて、特殊な解釈、運用、運営が行われているという状況は、各党各派は皆同じ共通の認識をされると思いますが、それでもやっぱり、憲法がある以上、憲法が改正されない以上、その憲法の原理、原則、精神は私は守られるべきだ、守るべきだという考え方でございます。
そういう精神を体して憲法を、新しい憲法を作ろうというのが私たち自由党の考え方なんでございますが、私は十年昔は自由民主党に所属した国会議員でございますので決して反体制運動などをやっていませんが、それにしても、新ガイドライン以降の軍事政策といいますか日本の軍事法制、すなわち、周辺事態法以降、テロ法も、それから事態法も、それから今審議していますイラク法も、これは常識的に考えて、やっぱり戦争放棄の憲法九条に著しく反しているといいますか、従来の政府の解釈、運用を変えずにして、ずるずるずるずると、まるで満州事変、中国事変を起こしに行った昭和初期のような形で、日本が大変な方向に向いているという実感を持っておるんです。
したがって、私どもは早々から、憲法を変えることができなければ、新しい憲法を作ることができなければ、これだってあれですよ、別に、再軍備、戦争をするという憲法じゃないんです。自衛権を自然権のままほうっていたら信用されない、国際的にも。国民も信用しない。自衛権の行使に当たっての制約を作るための憲法ですよ。その代わり、やはり国際社会で当たり前のことはしていきましょうという、そういう憲法改正を主張していますが、これ、なかなか通らない。
やはり基本的に、今のような立法をやるなら、今のような軍事立法を作るならば、憲法の解釈を明確にここまで広げる、ここから先はやらないという基本法を作ってからイラク特措法も、あるいは事態法もテロ法も作るべきである、あるいは周辺事態法もその中の私は一部だと思っておりますが、そうでないと、これ、日本の国どこへ行くのか、国民もいらいらしますし、周辺の国も不信感を持つだけだという、私は今の日本、小泉政治の方向を非常に危惧しておりますが、その点についてお三人の参考人の方々の御意見をいただきたいと思います。
○会長(野沢太三君) まず、植村参考人からお願いします。
○参考人(植村秀樹君) 私も、基本的には平野委員と同じような危惧を抱いております。
先ほど、高野委員が私の著書にお触れになりましたけれども、その私の著書は、昨年出したのは「自衛隊は誰のものか」というタイトルなんですが、初め、書き始めるときは、自衛隊の、防衛政策のことを国民の人になるべく広く知ってもらいたいと思って書き始めたわけです。
そのとき、一つはシビリアンコントロールということを念頭に置いたので、だれのものかと、これは国民のものですよと、そういう意味でそういうタイトルを考えつつ書き始めたわけです。そして、これは国民のもの、皆さんのものだから、自分たちで考えましょうと、そういう問題提起をしようと思って書き始めたわけですが、最後、もう書き終えるころになりまして九月十一日の事件が起こりました。その後に今のあのインド洋の派遣というふうなことが、テロ特措法ですね、できたわけです。
そのころから非常に、最後の章を書き直したり、書き足したりしているときに、別の意味で、「自衛隊は誰のものか」というタイトルは意味があるだろうというふうに思い始めたわけです。それが、今、平野委員が御指摘になったような点でありまして、新ガイドライン以降、誠に一体だれのものなのかということを問わなければならないような事態になっていると思います。
そうした中で、先ほど堀委員の質問に答えた中で海上自衛隊のことを触れましたけれども、これまで専守防衛ということで憲法九条の枠内でということで組織も作られ運用されてきたものが、とてもそれではもたないような任務を負わされているというふうな事態になっております。
そういう、現実は先に進み、後からそれを追認するというのは、まさしく今お触れになった満州事変以降の事態を思い起こさせるようなことにもなるわけですから、ここは少し踏みとどまって、しっかり考えるべきであると思います。
その点で、これはもうこうしたこと、今行っているようなことを日本国民として認めるんだと、こういう方向でやっていくということに合意ができるならば速やかに憲法改正をすべきでありますし、そこまでの合意ができない限りは、やはり憲法の範囲内で、現在の憲法を守ってその範囲内でやるべきだと思います。
もう一点だけ追加したいんですが、集団的自衛権の問題があります。
日米安保条約は、既に集団的自衛権を日本が持っていることを前提に書かれております。米軍基地が攻撃されたときに自衛隊がその防衛に行くということを、これはもう既に私は集団的自衛権の行使であるというふうに考えざるを得ないと思います。そのことを私は否定するものではありません。
しかし、集団的自衛権というのは国連憲章で初めて登場したものでありまして、その内容もきちんとこれまで議論されているわけでもありませんし、確定しているわけでもありません。ですから、非常に狭い解釈も広い解釈も可能であります。
日本政府は集団的自衛権を行使しないと、できないと言っておるのは、米軍基地を守るのもそれは個別的自衛権であるという、非常に無理な、白馬は馬にあらずという式の解釈でやっているというふうに私は考えております。ですから、既に集団的自衛権は行使していると。しかし、集団的自衛権をだからといってこれ以上拡大していくと、友達の友達は皆友達になってしまいますから、どこまでも歯止めがなくなってしまうと。これは、そのような行使の仕方は正に憲法に違反するものになるということで、その間にどこかしかるべき歯止めを付けるべきであるというふうに思います。
○会長(野沢太三君) 志方参考人、お願いします。
○参考人(志方俊之君) 私は、やはり基本法というのを作るべきだと思います。やはり、我が国がどういうときに限って我が国が防衛力を使うかということを明示しておくということは、近隣諸国も日本を信頼すると思うんですね。あるいは、そういうことがあるから、ここまでは恫喝してもいいかもしれませんけれども、これ以上になると駄目だという、そういう抑止力にもなると思うんです。
したがいまして、私は基本法を作るべきだと思うんですが、何といっても、我が国の歴史を見ますと、戦後、まず自衛隊を作って、そして自衛隊法を作って、それから有事法制を作ってと、四階から作ってきたわけです。私は元々土木の専門家ですから、基礎がないのにどうして四階から先にできるかと不思議に思うんですが、地下鉄を造っている場合だと思えばいいと思うんですね、上から造っていって最後に穴を掘るということですから。
そういう意味で、ドイツも結局はそうなわけですね、連邦軍が先にできて、基本法が最後に直ったということを考えますと。やはり、もう上からこう三階、二階まで来たわけですから、一階の基本法をしっかり作る。これは抑止力にもなるし、信頼感にもなると思うんですね。我が国のように、かなりの自衛力を持っていながらその使い方が明示されていないということは、近隣諸国は非常に不安に思うと思うんです。
それで、先ほど、新ガイドライン以下、周辺事態安全確保法、対テロ特措法、今回の武力攻撃事態法、こういう一連の立法に、じゃ外国、近隣諸国、中国や韓国はそれほど大きな不安を持たなかった、あるいはそれほどの強い表現でこれに反対の表明をしなかったのは、やはり我が国がメーク・イット・クリアにしてきたんだと思うんですね。こういうときはこうする、こういうときはこうすると言ってきたからこそ向こうは安心しているんだと思うんですね。
ですから、私は、この防衛基本法というのをしっかりしておれば、こういう一つ一つ適時法制を作ることの方が信頼されないだろうと。今度はどんな法律作るんだろうかというようなことをみんなが不思議に思うんですが、基本法があれば私はそういうことはないと。
例えば我が国は、憲法の中で我が国の国民はこういうしっかりとした環境の中で生きる権利があるという文言があるから環境基本法というのができて、そして環境庁は環境省になって一連の行政が行われると。しかし、憲法のどこを見ても我が国は自分たちで自分を守ると書いていないわけですから。それは当然ですね。できたことの時代を考えれば、連合軍が占領していて鉄壁の我が国の安全保障をしていたわけですから、我が国が自分で安全保障をする必要はなかった。
そのときの憲法を今まで使っていることが私はおかしいので、基本法を上から作っていくなら上からでもいいから作って、そしてやっぱりこの基本法というのは、憲法の中に何か文言が要るぞということで、賢明な先生方のお考えで憲法についても中学生が分かるようにしていただきたいと思います。
○会長(野沢太三君) 渡辺参考人、お願いします。
○参考人(渡辺昭夫君) この参考資料というのをお持ちであれば、私の、初めに、青い、緑の紙が入っていますが、ついでにこの機会に直させていただきます。間違いがある。東京大学文学部国文学科という、それほどエレガントなところではなくて、私は国史学科の出身でありまして、多少歴史を勉強した者でありますが、ここで満州事変が出てくるというのはどういう歴史感覚か、私は大変びっくりいたしましたんです。
質問の答えだと、これはまあほかの方が作った紙を利用するのは大変申し訳ないんですが、志方さんのこの三ページの紙は非常によくできておりまして、今挙がった一連の周辺事態法から対テロ支援特措法制定等々が書かれているわけですが、非常に頭の整理をするのにいいと思うんですね。
それで、私が申し上げたいのは、例えば一番我々にとって深刻な事態、それほど起こる確率は高くないかもしれないが起こったら大変な事態は、言うまでもなく日本有事なんですよ。したがって、何か物事を決めるんであれば、まず武力攻撃事態法ができなきゃおかしいんですね。ところが、それを作る前に周辺事態法を作っちゃったものだから、何で今ごろやというような話になるんでありますね。
そうすると、何でやらなかったかというと、あるいは何で周辺事態法が先になったかというと、これは外との関係があるから、外のお付き合いがあるからそこを先にしなきゃいけないということで、こちらの方は後でもいいだろうということになったんだろうと思うんですね。それが非常に私は象徴的だと思うんです。
つまり、私が何を申し上げたいかというと、日本有事と周辺事態というのは、周辺事態は、御記憶のように周辺で起こっても日本に関係ないという話じゃないんですね。周辺で起こったことが日本有事に極めて高い確率で起こるような事態を指しているわけです。したがって、これは日本に、二本で一本という感じで、いずれも日本自身の事態、危害にかかわるということを言っているわけですね。簡単に言えば国土防衛という、多分自衛隊の役割としてはまず第一に来なきゃいけない話だと思うんですね。
ところが、対テロ支援法とかイラク支援法というのはこれは少し違った話であると。いわゆる国際協力とか、余り私も表現は好きでないけれども国際貢献とか等々というものであって、国際社会全体を平和な方向へ持っていくために日本が応分の寄与をしなきゃいけないだろうと、それが巡り巡って日本の安全保障にもプラスになるだろうと、こういう話で、二つあるわけですね。我々は前者を必ずしも卒業しているわけではないんですね、残念ながら。朝鮮半島で何が起こるか分からないということを抱えているし、等々ということを考えればですね。
これは、ヨーロッパのNATO諸国、欧米諸国と、ヨーロッパ諸国と非常に違うところですね。あちらは基本的にはもうそういうのは終わったと、国土防衛というのは終わったということで、むしろ外へ出ていって何をやるかと。NATOの本来の任務からするとアウト・オブ・エリア、周辺事態だからそれはやっては、手を付けてはいけないというのが今までのNATOの考え方だったのが、今は逆になって、逆というか、自分たち自身の国土が他によって脅かされるということはもう二の次三の次になっていて、今まで周辺事態と言っていたところに対してどういうふうにNATOとして行動しなきゃいけないかというふうにウエートが変わっているわけですね。我が方は完全にはそこまで行けないんですね、やっぱりおひざ元も大事だと、あちらの方も大事だと。こういう二つのものが同時進行しているというのが日本の非常に特殊な事情だと思うんですね。
そのコンテクストで日米同盟というものの意味も考えなきゃいけないというのが私の考え方なんであって、何かインド洋に出ていったから、これはもう次はどこへ出ていくんだろうという、そういうふうに話が進むというふうに、私の歴史感覚が間違っているのかどうか、どうもその辺がよく分かりません。
○平野貞夫君 ちょっと一言。
衆議院には自由党から安全保障基本法というのを提出していますので、まだ会期がありますから、是非今国会中に成立させていただくよう自民党と民主党の方にお願いしておきます。
それから、志方先生なんかに指導されて作ったものなんですが、十年間私たちが政界再編をやろうと思ったのは、安全保障の面では基本法を作るためなんですよ。ですから、第一党と第二党にそこの基本方針が決まらぬところに我が国の安全保障のネックがあるということを申し上げて、終わります。
○会長(野沢太三君) 大脇雅子君。
○大脇雅子君 参考人の方々には貴重な御意見をありがとうございました。
〔会長退席、会長代理峰崎直樹君着席〕
さて、ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」という名著がありまして、敗戦をどのように日本が受け止めてきたのかという点で非常に様々魅力的なものを学んだわけですけれども、私も外交防衛部会とかあるいは国際問題調査会に所属しておりましたときに、ガイドラインの作成のときには、アメリカの国防省にも行き、真珠湾の軍港も見、あるいは北方の、日本の北方の構えなど現地見させていただいて、本当にもうこれだけ深くアメリカに抱き締められてしまった自衛隊ということについて、ほとんどその対米依存性に絶望的な感覚をずっと持ち続けております。
何かあったときに日本がノーということが言えるのか。一番言えないと考えているのが自衛隊の方々ではないかというふうにすら思いまして、どのように今アメリカと距離が置けるのか、なぜここまで抱き締められてしまって、更にまた深く深く抱き締められようとしているのかということについて、三人の方々の御意見をお伺いしたいと思います。
自衛隊というと、もちろん軍事力ですけれども、平和部隊とか災害救助とか非軍事の活動もあるわけですが、そうした自衛隊の非軍事の活動というものに何か希望があるんでしょうか。専守防衛との関係で御意見も伺いたいと思います。
○参考人(植村秀樹君) なぜここまでアメリカに抱き締められたかという問題を私もずっと考えておりまして、やはり結論は出ません。一番分かりやすい説明をするならば、それが一番簡単な方法だったということだろうと思います。
先ほど、志方参考人の方から、アメリカに情報ですとかいろんな面で依存をしているというお話がありました。ずっとこの戦後の防衛政策の歴史を見ておりますと、何らかの形で、そのいいか悪いかは評価はいろいろあるかと思いますけれども、何らかの形でアメリカからの自立をしようと、小さな部分ではあってもしたことは何度かあります。しかし、そのたびごとに結局アメリカに言わばつぶされてきたという面もあります。
それから、それはもうアメリカとの力関係であったと。先ほど衛星の話を志方参考人がされましたけれども、偵察衛星を打ち上げるときも、実はあれはアメリカは嫌がりまして、余りうれしくないという反応を示しました。それは何とか自前の衛星を打ち上げたわけですけれども、そういうふうなことが何度もあります。それは、具体的な話でそういうことが大きいということです、兵器の導入ですとか、そういうことですね。
それから、もっと大きな根本的な話でいいますと、やはり政治の方に言わば対案といいますか、アメリカに依存する以外に、以外の道というものを探ることができなかったというふうに言えるのではないかと思います。それは、一つは、日本の中の、いわゆるノーと言える日本というふうなことをおっしゃる人に多いのが非常に復古的なナショナリズムであったということであります。それはやはり国民からは支持を得られませんでした。
ですから、そういう形でのアメリカからの自立という方向には支持を得られない。逆に、非常に理想主義的な、平和主義的な立場から日米安保条約の解消といった形での自立も、やはり現実的にそんなことはできるのか、それで日本がやっていけるのかという問題にやはり答えることができなかったと。つまり、理想の山に登ろうと呼び掛けることはできますけれども、どうやればその山に登れるのかという具体的なプランがなければ途中で遭難するわけですから、それもやはり国民は選択しなかったと。
そうすると、まあまあそこそこやっていける道として、アメリカに依存しつつ日本の利益を拡大するという最も確実かつ安易な道を選んだというのが戦後の日本だったと思います。
ですから、これを脱却するには、非常に大きな勇気と非常に高い知性と、それに基づく政策という、非常に困難なものを我々が持たない限り、ここから脱却することは難しいのではないかと思います。
○参考人(志方俊之君) 大脇先生、よくぞ聞いていただきましたということでございますが。
やはり国家の四つの大きな要素は、政治、外交、経済、安全でございますが、この経済と安全においてアメリカとの依存関係がこれほど大きくなりますと、政治、外交のオプションといいますか、選択肢が非常に狭まってきているというのが現実だと思うんです。経済は専門でございませんが、安全については、先生は抱き締められているという表現を使われましたが、私は、抱き締めるほどアメリカは日本にフレンドリーではないと。日本がすがり付いているだけでございます。
私のレジュメの第一項の、一ページの一番上に黒い丸が六つございまして、この六つがアメリカ依存体質を作っているものであると。
アメリカに依存しないで済むためには、まず(4)からいきますと、非核政策を貫くためにはじゃどうすればいいかと。アメリカに核抑止力を依存しなければいいんだと。あるいは依存するにしても、ある程度ギブ・アンド・テークにするということが一つ。それから五番目。アメリカが矛、日本が盾でなくて、日本も小さな矛ぐらいは持つという、そういうオプションにいくのかということですね。それから、化学兵器、生物兵器、対人地雷を相手が使ったときに、我々どうするのかというようなことも決めなきゃいけない。これは、例えば相手が化学兵器を一トンぐらい東京でやれば、あっという間に何十万という人が死ぬわけですね。これを防護するためには、我が国がプリエンプティブといいますか、先制攻撃というようなオプションを持たざるを得ない。じゃ、それはどうするのだと。それから、七番目ですね。我が国が戦略情報収集能力をほとんどアメリカに頼っているならば、これは我が国の自前で取らなきゃいけない。それから、我が国の軍事技術の基本的なところももっと防衛予算を大きくしてやらにゃいかぬ。それから、我が国のエネルギー輸送路の防護をアメリカに依存しないならば、我が国はインド洋にも出ていかにゃいかぬ。そして、それには基地が要ると。
〔会長代理峰崎直樹君退席、会長着席〕
こういうことを考えますと、アメリカに抱き締められないためには(4)から(9)までのことをある程度自前でやれることが、やればかなり政治、外交での選択肢が広がると思うんですが、(4)から(9)が今までのとおりであれば抱き締められる以外に、あるいはすがり付く以外に方法はございません。
○参考人(渡辺昭夫君) 私、この三月まで、ある大学で教師をやっていまして、そのゼミで今お話しになったジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」という本を一緒に読みまして、「抱きしめて」という言葉をどういう感覚でこの人は使っていて、我々は受け取るべきかというようなことを議論したことを思い出したんですが。
それはさておいて、敗北を抱き締めたので平和憲法を我々は抱き締めたんだと思うんですけれども、私は、ダワーさんの言いたいのはそういうことだろうと思うんですね。いわゆるアメリカが持ち込んだ民主化というものを日本がここまで抱き締めてきたと。しかし、今や突き放そうとしているというのが彼の危機感だと思うんですけれども。
それはそれとして、私の考えでは、英語でコバインディングという言葉があると思うんですが、日米同盟もしかり、国連もしかり、国際的ないろいろな約束というのはお互いがお互いを縛ると、抱き締め合う関係だと思うんですね。一方が一方を抱き締めるというふうに我々は受け取るんですけれども、向こうも受け取っているんですね。その度合いの違いがあるかもしれない。それは、何といってもアメリカが持っている力が圧倒的に強いという現実がどうしてもそこに反映せざるを得ないからなんですが、元来、例えば同盟というのはお互いに抱き締め合う関係、コバインディングなものですね。やっぱりどうしても我々は抱き締められるというか、制約されるという面ばかり考えるんですが、これは相手も制約するんだというふうに考えていろいろな条約とか同盟とか国際機構というものを我々は考えるべきじゃないかというふうに思います。
例えば、アメリカと抱き締められるのは嫌だからアジア集団安保を作ろうじゃないかということをよく議論する人がいるんですね。本当ですかと。アジア諸国、中国、やがて統一するかもしれない朝鮮半島、そして東南アジア諸国とお互いに抱き合うというような気持ちでアジア集団安全保障をおっしゃるならばそれはいいんですけれども、そうするとそういうコンテクストで集団的自衛権を発動しなきゃいけないわけですよ、例えば。
そういう関係だと思うんですね。それがいいというのは、それは一つの選択なんですけれども、つまり抱き締め合うというのはそういうことだというふうに私は考えているわけですが、その相手としてアメリカというのはどうも扱いにくいと考えるのかどうかというところが分かれ目だと思います。
私も、正直言って時々困るなと思うことがあるわけで、いっそ離婚できたらせいせいするなと思うときが一瞬もないと言うとうそになると思うんですけれども、いろいろあるけれどもやっぱり一緒に行った方がいいかなという方にどっちかといえば傾く方であります。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
実は、自衛隊というものを、専守防衛に専念して、軍縮をしていくと。そして、平和的な外交とか信頼醸成の非軍事の力を発揮していくことが憲法九条を源泉とする日本の国際的なエネルギーではないかと私は常々考えているものですから。しかし、この現状を考えると、ともかく今、渡辺先生は離婚をしたいとおっしゃいましたし、植村先生は大きな勇気と高い知性と政策が要る、志方先生は現実的な自前でやるという方向はどうだとおっしゃったんですけれども、いずれにせよ、独自の日本、平和を創造する日本国家というものはどうしたらつくれるだろうかというのは私のもう本当に胸が痛いような課題だということを申し上げて、時間ですのでこれで終わりたいと思います。
○会長(野沢太三君) 以上で参考人に対する質疑は終了いたしました。
この際、一言申し上げます。
参考人の方々には大変貴重な御意見をお述べいただきまして、誠にありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)
速記を止めてください。
〔速記中止〕
○会長(野沢太三君) 速記を起こしてください。
ただいまの参考人質疑を踏まえて、一時間程度、委員相互間の意見交換を行いたいと存じます。
委員の一回の発言時間は五分以内でお願いいたします。
なお、御発言は着席のままで結構でございます。
それでは、御意見のある方は挙手をお願いいたします。
それじゃ、江田五月君。
○江田五月君 発言の機会を与えていただきありがとうございます。
私は、毎晩、自分のホームページに活動日誌を書き込みまして、週二回、これを張り付けて、資料サービスのほか、時々の問題についてショートコメントを付したメールマガジンを発行しております。最近の号に書いたものに対して、藤井富美子さん、覚えておられるでしょうか、ちょっと前に公聴会で公述人として来ていただいた大阪の主婦の方ですね。その彼女から今朝、感想のメールが届きました。そこでまず、その抜粋を読んでみます。
江田五月様。今回の派遣は、米軍のイラク占領を支援するためにすぎず、絶対反対。創設以来初めて戦闘で殺傷という事態に直面するのが、自国防衛でも国連活動でもなく、米軍の占領支援というのでは、自衛隊の皆さんにとっても気の毒だ。
もう一つ。小泉首相のイラク復興支援策は大間違いだ。一刻も早く、現在の米英軍による統治をイラク人自身による暫定統治政権に移行させるべきだ。そうすれば、国連PKO活動や人道支援活動が始まり、これに自衛隊も派遣できる。形式のことではなく、実質の話だ。今のイラク特措法では、自衛隊は米英占領軍のポチかパシリになってしまう。
びっくりされるかもしれませんが、これは私がショートコメントで書いた部分であって、これに対して御意見を寄せていただいたということです。
以上のコメントには私も全く同感です。ここまでは感想ですが、途中を省略しまして、彼女の意見が次に書いてあります。私は個人の尊重を国家を保持することよりも上位に置いています。でも、それを真に実現するために、自衛権の制限と、国際的に公正な警察軍の創設によって各国の独立を守るということの二本立てによって国家間の戦争が起きないシステムを作り上げ、人間の理性に任せて戦争が起きないようにするのではなく、世界に法の支配を推し進めることで戦争を違法としようというのが一番言いたかったことなのです。
ちょっと、間、省略して。国際警察軍というもののみが他国領に入って武力行使ができるということになれば、世界市民の一人一人がそれによって被った損害を国家賠償ならぬ国連賠償を要求できるようにする人権救済も考えています。
またちょっと省略して、次に時事問題に移ります。
今日の社説では、イラク特措法が参院で修正されることを望んでいるような内容でした。民主党が自衛隊派遣を駄目としたので、衆院では原案のまま通過してしまったと、半ば民主党の責任にしています。私はそれは筋が違うだろうと思いました。
またちょっと省略して。その後、確かに今のままイラク特措法が参院も通過するのでは最悪だなと思ってきました。数の力で、国民そっちのけで決まってしまう法って何だと改めて思ってしまいます。小泉首相が自衛隊派遣をブッシュに確約したかどうかは分かりませんが、少なくとも暗黙の了解があったのではないかと思います。小泉さんも首相でいる限りはその約束を果たさないわけにはいかないのでしょう。これは、小泉さんをいいように言い過ぎているかもしれませんが。そもそも、イラク特措法の出発点は小泉さんのイラク戦争支持声明からです。支持なんてするから、してはいけないことまで理屈をこね上げてやらなければならぬようになるのです。それはさておき、小泉さんのメンツも立てて、日本の進路を誤らせないようにするにはどうしたらいいか、これがこの問題のましな解決法を導くでしょう。無理なのかは分かりませんが、自衛隊の派遣を暫定政権樹立まで待つというのは提案できないことでしょうか。イラク人による民主的な政権ができ、その政権の依頼で行くという形式を取ることで人道援助の色彩が濃くなります。ある種、米軍が始めた戦争で、国連に戦後統治には関与させない姿勢で米国がいるんだから、暫定政権樹立までは責任を持たせてやらせればいい。その後、自衛隊を送ると言えば、アメリカとの間にも支障は出ないのではないでしょうか。考えが甘いかもしれませんが。藤井富美子。
こういうメールで、いや、あの日のときのことをもうほうふつとさせて、なかなか彼女は考えているなと思いました。
そこで、今朝、私は返事のメールを書いたんですが、前段は省略して後段だけ。
イラク人による暫定政府の要請が来るまで自衛隊派遣を待つというのは面白いのですが、問題があります。アメリカがかいらい政権を作ったらどうしますか。私は、やはりきちんとした政権ができ、国連の行うPKOが成立した後に、その活動として自衛隊を送る方法しかないと思います。その場合は特措法は不要です。その際の旗は国連旗です。私の意見は、自衛隊の中の陸海空とは違う別組織です。小泉さんの顔は立たないかもしれませんが、しようがないでしょう。ブッシュ支持が間違ったのだから。どうぞよろしく。江田五月。
公聴会を開いて、公募の公述人から直接国民の声を聞いて、その後このようなキャッチボールをすると。これは、余り我田引水になっちゃいけません、自画自賛になってもいけませんが、結構、国民との間で論憲をやるという私たちの活動の大方針に合致しているんじゃないかと思って、今日はその紹介をひとつさせていただきました。
実は、私は今、日本国憲法の国際協調主義が本当に大変な危機に直面をしていると思っております。国際協調主義というのは、何か一つの外国あるいは幾つかの外国の集団、これと協調するというんではなくて、やっぱり国際社会と協調するということ。国際社会というのは昔からあったんじゃなくて、次第次第にその主権国家というのが国際社会にいろんな権限を譲り渡して国際社会の一つの制度を作っていくという形でできてきているものですね。
今やっぱり国際社会というのを考えるときに、国連がいかによちよち歩きであろうとも、国連を無視して考えるというわけにはいかないんで、その国連が今本当に危殆に瀕しているということだと思いますね。もうアメリカが提供する軍事力による平和にみんな世界じゅうがゆだねてしまえ、日本もゆだねてしまえということにするのか。それとも、やっぱりここは、いかによちよち歩きの状態でも踏ん張って、国連というものをしっかりさせてこの国際社会が制度化されていく、その国際社会の中に法の支配が確立できる、そういうところへ行くのか。日本がどっちを取るのかという重要なところへ来ていると思います。
そんなことを考えながら、実は今日は安全保障基本法のお話が随分出ましたので、私自身の提案をひとつ御紹介をしておきたいんですが、私はそのようなことを考えながら、この個別の主権の拡張概念としての集団的自衛権ではなくて、やっぱり集団的自衛権、個別の主権を超える集団安全保障システムというものをしっかりさせる、そのために日本は役割を果たす、そんなことを考え、一九九三年の十一月に、実は当時、科学技術庁の長官当時だったんですが、安全保障基本法案要綱というものを提唱をしたことがございます。
もうそろそろ時間なので詳しくは申し上げられませんが、現在の日本国憲法第九条の解釈確定法のような性格を持っていて、まず、戦後五十年の憲法論争を踏まえて、自衛権の発動に必要な防衛力としての自衛隊の保有を認めると。そして第二に、第九条から生まれた平和八原則、八つぐらい原則があるんですね、これを守ると。第三に、国連の平和維持活動と集団安全保障措置に、私は別組織、国際公務員がいいと思うんですが、積極的に参加をし、協力をすると。そういう内容のものでございまして、先ほど平野さんのお話の自由党の安全保障基本法案、あると思いますが、多少違う部分もあるかもしれませんが、ひとつそういう方向でしっかりと議論をしていきたいと思っております。この内容は私のホームページに載っておりますので、是非ごらんいただきたいと思います。
ちょっと時間を過ぎました。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
手の挙がった順に、愛知治郎君、次に宮本君、それから吉岡君と、こんな順序でお願いします。
じゃ、愛知治郎君。
○愛知治郎君 ありがとうございます。
ここは良識の府である参議院の憲法調査会ですから、自分自身は政局的な話とか今の政権の政策的なこと、細かな話をするのはいかがなものかと思いますので、本質的な話、自分自身の考え方もちょっと述べさせていただきたいと思います。
それで、この憲法、特に九条の話なんですが、自分自身、この世界にかかわってもうすぐ二年なんですけれども、その前、学生時代から、小さいころからを踏まえた上で、この九条の解釈の問題というのは、友達の中でもそうですが、冷めた目で見ておりました。もっと正確に言えば、冷ややかな目でこの議論を見ておりました。ほとんど関心もなく、何でそんなことを言っているのか不思議に思った経緯があります。これはただ自分自身の感想でありますので、自分自身はその議論を今繰り返すつもりはございません。そして、現実的に今の本質的な話を、考え方をちょっと述べさせていただきたいと思います。
といいますのも、この世の中どういうふうな形になっているんだろうか。基本は家族、小さい単位、そして地域、国、世界と、そういうような形になっていると思うんですが、もう少し細かくすれば幾らでも細かくできますけれども、本質はみんな変わらないんじゃないか。家族の大きなのが近所であり地域であり、それがもっと大きくなって国であり、一つ、一番大きな単位というのは地球だと思いますけれども、本質的に同じ。
家族の場合、それ、しかもその小さいところから大きくなればなるほど複雑になる。だからこそルールが必要なんだというふうに考えております。家族であれば、おやじというか、お父さんがルールであったり、今はお母さんかもしれないですけれども、何となくのルールで済む。地域になったら、隣近所、いろんな人たちがその地域独特のルールを作っていく。法文化されているところも、条例とか、その各地域もありますけれども。国になれば、これはしっかりとした法律、どんどん制度がきっちりしてくる。
世界になって、基本的に言えば、なぜ戦争が起きるのかといったら、そのルールがちゃんとしていないからだと、複雑になっているのに明確なルールがないから、いい加減なルールの中でやって戦争になっちゃうんだろうというふうには思うんですが、いずれにせよその単位の延長である制度はしっかり作らなくちゃいけない。特に、国の単位の自衛隊というものは、先ほど基本法というのがありましたけれども、ルールはちゃんとしなくちゃいけない。
その前にさかのぼってみると、自衛隊が必要か必要じゃないかという話があったこと自体も不思議だったんですが、その一歩手前に来たときに、警察を考えて、国を考えたときに、果たして刑法があるから犯罪が起きないのか、それはちょっと違うかなと。本質的な議論としては同じだと思うんですね。刑法があるからというのはあるんですけれども、実際、一般の人たちが犯罪の抑止となっているのは警察の実効力だと思うんですけれども、同様に、国際社会でもやはり自衛隊のような実質的な力のある存在というのがあるから抑止ができるんだろう、法律が有効に機能するんだろうというふうに考えております。
ただ怖いのは、警察だけあって、実効力だけあってルールがちゃんとしていなければ、それはもう凶器になり得るものだと思います。だからこそ自衛隊も、武力、力というものが、軍隊というのはそういうものだと思いますけれども、力があるからこそ、しっかりとした明確なルールを作らなくちゃいけない。だからこそ基本法であるなり、憲法上もそれを明示していくべきだろうと、解釈の範囲の中でいい加減なことをするべきじゃないだろうというふうに私は考えております。
その本質的な部分は、憲法の本質がそうであるように制限規範だと。ある一定のルール、ここまで、これはしちゃいけないですね、基本的に限定的にして、あとはそのルールに違反しなければ自由に活動ができるような形というのが一番真っ当な形なのかな、基本の基本だと。これやっていい、これやっていけないということを一つ一つ決めていってしまうと、なかなかそれは継ぎはぎになって決まらないから、明確な基本的なことを制限的に、早急に制度をしっかりと確立すべきじゃないかと考えております。
ありがとうございました。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
続きまして、宮本岳志君。
○宮本岳志君 今、世界のルールという話が出されましたので、それにかみ合うかと心掛けながらお話をいたします。
歴史上初めて戦争を制限、禁止した法規というのは、フランスの一七九一年憲法までさかのぼることができます。この憲法は一七八九年に始まるフランス革命を背景に作られたわけであります。フランス国民は、征服を行う目的でいかなる戦争を企図することも放棄し、かついかなる人民の自由に対してもその武力を行使しない、こう宣言をいたしました。
個人の思想としては、もちろん、十六世紀に平和への訴えを著した哲学者エラスムスを始め、国際平和機構の設立を提唱したサン・ピエール、ルソー、カントなど、戦争の否認を訴えた思想家たちがいたわけですけれども、国家自らが自国の行う戦争を制限する立場に立つということは、さきに挙げたフランス九一年憲法以外には二十世紀初頭までまずあり得ないことでありました。
全体として、十八世紀、十九世紀には国家が戦争を開始する際に、それを正当化する理由を掲げることさえ全く必要とはされなかった。他国との間に紛争問題があれば戦争に訴えて解決するのは当然であり、宣戦布告や捕虜の扱いなどの戦争のルールを守ればよいと、こうされていたわけであります。
フランス一九七一年憲法が戦争を制限した初めての国内法であれば、同様の資格を持つ国際法は、言うまでもなく国際連盟規約であります。二十世紀に入り、第一次世界大戦の戦後処理を討議したベルサイユ会議で決定され、一九二〇年から実施をされました。
国際連盟規約は、戦争に訴えざることを加盟国の義務として定め、国交断絶に至るのおそれのある紛争が生じたら必ず裁判に付すべきことなどを定めました。そして、この国際連盟の下で一九二八年、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非とし、国家の政策の手段としての戦争を放棄することを宣言した不戦条約が締結された。こうして自衛に当たらない戦争、すなわち侵略戦争を違法とする国際法が成立したというのは皆さん御承知のとおりです。
しかしながら、歴史の事実が示すとおり、国際連盟は第二次世界大戦の勃発を防ぐことはできませんでした。ヨーロッパではドイツとイタリアが、アジアでは日本がそれぞれ侵略戦争を引き起こし、第二次世界大戦へと発展したわけであります。一億一千万の兵士が動員され、そのうち二千五百万人が戦死したと言われます。民間人の死者も二千五百万人、第一次世界大戦の民間人の死者五十万人と比べても、実に五十倍に上ったわけであります。
だからこそ、一九四五年六月、サンフランシスコ会議で採択された国連憲章は、冒頭から、二つの世界大戦の惨害を繰り返さないことを人類共通の決意といたしました。国連憲章のすべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使をいかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならないという武力不行使原則が戦争を違法化する世界の流れの中でいかに歴史的な意義を持つものであるかは、改めて言う必要もないと思うんです。
しかし、戦後、世界政治の実際は、残念ながら国連憲章に違反する武力の行使が絶えることはありませんでした。アメリカによるベトナム侵略戦争やグレナダなどへの軍事介入、ソ連によるアフガニスタンへの軍事介入などが繰り返されてまいりました。そして、超大国米ソの対立の下で、国連はこれらの大国の軍事介入に有効に対処し得ない状況に置かれてきたのも事実であります。あれほど反戦運動が盛り上がったベトナム侵略戦争でさえ、国連安保理も国連総会も侵略を抑制する何らの効果的措置を取ることもできなかったわけであります。
ソ連が崩壊し、二十一世紀に入った今でも、アメリカによるさきのイラク侵略戦争に見られるように、無法な戦争が繰り返されております。しかし、二十一世紀の世界は、こういった大国の横暴に対して無力なままではないということも大事な視点であると考えます。
イラク戦争に至る経過の中で、昨年九月から今年三月にかけて国連安保理を舞台に激しい外交的な戦いが行われ、超大国アメリカの戦争を半年にわたって食い止めたことは大きな歴史的意義を持つと考えるものです。国連が戦争を食い止めるための本来の機能と力を今回ほど発揮したことはないと私たちは考えます。
このような国際法に刻まれた戦争の違法化の歴史を振り返るとき、日本国憲法に示された平和主義の持つ世界史的な意義は明瞭だと思います。
憲法九条は、内容的に言っても、戦争の違法化を目指す長年の諸国民の闘いを受け継いで、二十一世紀の人類社会の進むべき方向を先駆的に指し示すものだというふうに考えるということを申し上げて、私の発言といたします。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
引き続きまして、吉岡吉典君。
○吉岡吉典君 先ほど平野先生から、現にある憲法は守らなければならないという発言がありましたので、それに釣られての発言です。私もその部分は全く賛成です。
日本にいるアメリカの商工人でビル・トッテンという人が書いた本の中に、自分の国の憲法をけなす国は世界から信用されないということを書いているのを私は印象深く読んだことがあります。そういうことがあったために、先ほど平野先生の発言も私はそのとおりだと思ったわけです。今、日本にある憲法を我々はそういう見地から見ればやはり守っていかなくちゃいけない。
将来についていろいろ意見が分かれていることは私も承知しております。じゃ、今の憲法をどう取るかという点で、私が憲法の条文を読み、また憲法制定議会の速記録を読み返してみる限りは、どうしても、まず自衛隊が持てるという答えはそこから私は持てませんし、自衛隊をイラクであれどこであれ派遣することが憲法上できるという答えは出てまいりません。
私、今、原本を持っておりません。記憶での発言ですけれども、憲法九条をめぐる論議の中で、九条に反対だという意見、また九条に疑問を呈する意見はありますが、憲法九条から将来自衛隊のようなものが持てるということを考えさせる、あるいは示唆するような論議というものは私は全くないと思います。
それから、海外派遣の問題ですけれども、これは軍隊を持たない憲法を作っているわけですから、軍隊を出すか出さないかという形での論議ではありませんが、しかし憲法制定議会の論議を読んでみると、将来、国連から日本も軍事力を出せということがあった場合にどうするのか、国連加盟国になった場合にその義務が果たせないじゃないかという論議はかなり行われております。
それに対する答弁は、私は幣原さんの答弁に一番はっきり表れていると思いますけれども、将来、日本が独立して国連加盟後の問題であるが、国連から命令が来ても軍事力を提供することはしないという答弁がはっきり行われております。それから、貴族院の本会議の論議を見ますと、貴族院の本会議への、当時たしか安倍能成氏が貴族院の憲法特別委員会の委員長だったと私、記憶していますけれども、安倍能成氏の本会議への委員会報告の中には幣原さんのその将来国連から命令があっても拒否するという趣旨の答弁をわざわざ紹介しながら、本会議での採決が行われているわけです。したがって、私は、少なくとも貴族院はそういう委員長報告を受けて憲法を採択しているわけですから、やはり国連から命令があっても軍事力による協力は拒否するということを前提として今の憲法を採択されたというように私は読んでおります。
そういう憲法から、どんな理屈を付けても、やはりイラクへ自衛隊を派遣するということの憲法上の合法性というのは私は出てこないと思っているところです。その憲法、そういう憲法を持っている国がそういうことを行うことは、やはり日本というのは憲法を尊重しない国だと、国の基本法を守らない国という批判は私は国際的に受けると、受けざるを得ないと思います。
その憲法をどうするか、これはまたここで意見が分かれておるところでありますが、私は、この憲法を守っていく、そのことがソ連崩壊して米ソ対決も終わった世界では可能だと。一九九一年のサミットの政治宣言では、国連憲章を作った当時の理想が実現する時代が来たということをわざわざうたっている。ですから、私は、国連を中心とする世界の安全保障体制ということへの努力を我々が重ねていけば、今、戦後六十年近く軍隊を持たないで、今の憲法を守ってきた日本、これを改めるまでもない時代に二十一世紀はなると私は思っております。
その将来の憲法論はいろいろ意見がここでも述べられていますけれども、今の憲法をどう取るかということに関しては、私は、条文からも憲法制定議会の論議からも、軍隊を作り増強する、あるいは海外に派遣するという答えは出てこない、それが今の憲法だというように思っているということを申し上げておきたいと思います。
○会長(野沢太三君) ほかに発言ありますか。
大脇雅子君。
○大脇雅子君 私ども社民党は、平和国家として、平和を創造する国家として積極的役割を日本は果たすべきだという立場に立っております。民生、非軍事の国際貢献と、平和的な外交と信頼醸成を柱にした政治というものを展開すべきだという考えに立っております。
さて、自衛隊をどのように考えるかということについて、一九九四年九月三日の社会党の第六十一回臨時全国大会で、これは村山政権下における党大会ではございましたが、ここで議論されたことは、非武装というものは党是を超える人類の理想である、中立非同盟というのは東西対立が消滅し歴史的役割を終えたとしております。そして、自衛のために必要最小限度の実力組織である自衛隊を認めております。現在の自衛隊は憲法の枠内にあるということをこの大会で問題にし、PKOには憲法の枠内で参加していくということであります。
さて、この自衛隊を違憲とする見解の転換というのは、村山政権によって一気になされたわけではありません。一九八〇年代の中ごろから、政権政党として他の野党との政策的整合性を追求する過程で徐々に進んでまいりました。
一九八四年の石橋構想では、違憲の自衛隊が法的に存在しているという運動方針を採択しておりますし、一九八七年八月の二十日に「党の基本政策に関して」を発表いたしまして、そこで、自衛隊については当面、専守防衛の範囲とし、また防衛費は凍結し、対GDP比一%枠の範囲に抑制するということを確認をしております。
一九八九年九月の社会党第五回全国政策研究会で、「新しい政治への挑戦」という土井提言がなされまして、日米安保条約は外交の継続性を尊重するが、欧州と同様の平和テーブルを作るという提案をしております。
そして、一九九四年八月の社会党中央執行委員会では、自衛隊の海外派兵を禁止するとともに、PKO協力法に基づく活動については参加を表明し、専守防衛に代わる限定防衛構想などが提案され、一九九四年九月の先ほど言いました社会党第六十一回の臨時全国大会につながっているわけであります。ただ、この村山政権によってこの過程が早まって、拙速のまま確認したことが問題を複雑にし、誤解を生んでいるということは否めないと思います。
武力によらない平和という社会党の理想はいささかも変わってはおりません。その中で私どもが追求していく憲法の理想というものは、非核、そして核の廃絶に向けての活動であります。被爆国として不拡散体制を維持しつつ、核の廃絶に向けての努力というものを追求する。それから、専守防衛と海外派兵に反対し、徴兵制は不採用。集団自衛権は認めず、化学兵器等は不所持。そして、武器の輸出はしない。そして、軍縮に向けての活動、営みをする。
したがって、私どもとしては、自衛隊の現状をそのまま認めているわけではなくて、自衛隊の必要最小限度の専守防衛のところまで軍縮を進めていくべきだという現実的な政策を村山政権では取って、実現していこうということでありました。
今、軍縮に向けてその国際的な環境も変わりつつあると思います。警察力を中心にして、刑事司法裁判所も制度化されまして、言わば国際環境として国境を越えた法治の世界秩序というのが形成されようとしている。その中で、私どもは憲法の理念の現実化を現在検討をしているということでございます。
抱き締められた自衛隊ということについて、先ほどの参考人の御意見は非常に興味のあるものでございました。そして、必ずしも愛情を持って抱き締められているわけではなくて、むしろ日本がすがり付いているのではないかという厳密な厳しい指摘というものを、私どもは、日米軍事同盟と自衛隊の在り方について、今後どのような形でこの力関係を変えていけるのか。大きな勇気と高い知性と政策と植村参考人は言われました。自前でやるという考え方、志方理論には私はくみするものではございませんが、こうした追求を与野党を超えて、日本の将来に向けてやっていかなければならないと考えるものであります。
終わります。
○会長(野沢太三君) ありがとうございました。
武見敬三君。
○武見敬三君 私は、やはりこうした自由討議というのは、やはり参議院の中で、できる限り議員個人の立場から見識に立ってそれぞれ自由濶達な議論が、しかも委員長の采配によって相互にかみ合うような形で行われるようになることができればということを切に願いながら、私の意見を述べさせていただきます。
この議論を聞かせていただきながら私が思い出したのは、アメリカの国務省で冷戦が始まる時期にあの封じ込め政策というものを策定したジョージ・F・ケナン、彼が書いた米国外交五十年という本であります。この米国外交五十年の中でジョージ・F・ケナンはアメリカ外交の特質として二点挙げているわけであります。一つは、これは法律家的アプローチ、リーガリスティックアプローチ。二つ目が道徳的アプローチ、モーラリスティックアプローチであります。そして、三つ目に、ジョージ・F・ケナンが米国外交に必要とされるアプローチとして指摘したものがリアリスティックアプローチ、現実主義的なアプローチであります。
私は、我々が今ここで議論している内容は、多分にこのリーガリスティックアプローチとモーラリスティックアプローチに余りにも偏り過ぎ、この現実主義的なアプローチという視点が今日においても我が国において十分に定着をしていないということを痛切に感ぜざるを得ません。
今、我が国が国際社会の中で置かれている立場は極めて特異なものであります。すなわち、ヨーロッパでは冷戦が終結をし、そして東西両ドイツが統一されたとはいえ、この北東アジアにおいては引き続き台湾海峡と朝鮮半島に分断国家が厳然として存在をし、そしてそれぞれの地域において実は極めて洗練された近代兵器というものが装備をされている。しかも、朝鮮半島においてはそれが極めて緊張した軍事的な状況下に置かれているということがあるわけであります。
すなわち、冷戦が終結したと言い得るのは実はヨーロッパのみにおいて、アジアの我が国の置かれている周辺情勢を見る限りにおいて、この地域においてまだ冷戦が終結し冷戦構造が解消したなどとはとても言えない状況下に我が国はあり、そうした状況下にあって、さらに、この朝鮮半島の北側に位置する政治体制は、自ら核兵器を保有していると宣言をし、そして更にミサイルを開発をし、その核弾道弾の搭載をも可能にする開発を今推進をし、そして我が国は、正にこのミサイルが固形燃料をも備えたものとなった場合には、おおよそ二十分から三十分以内に東京や大阪というそうした大都市が核攻撃を受け壊滅をするような状況に置かれると、こういう正に状況下に我が国は置かれているわけであります。
そうしたさなかにおいて、私は、多分に能力だけでその脅威を算定をし緊張をあおろうとは思いません。しかしながら、現実にこの北の体制というのは、我が国の国民を拉致し、そして不審船等を通じて密輸を行い、そして麻薬等を我が国の国内に流し込んでいる。このような政治体制が現実に存在をし、核まで保有し、我が国を攻撃するより高度な能力をも備え付けようとしているという現実を、国民の生命と財産を守るという責任を持つ我々がどのように受け止めるのかというリアルな現実主義抜きに、果たして私たちは本当に真剣な安全保障の議論ができるでしょうか。
そして、こうした状況に直面しつつも、実は、冷戦終結と同時に、人、物、金、情報というものが国境を行き交うグローバライゼーションというものが急速に進展をし、この北東アジアもその中で大きくのみ込まれ、地球社会の中の一員としてのその役割を果たすことが強く求められているわけであります。
そして、このグローバライゼーションは、ただ単にいい面だけではなくて悪い面もあって、その中には、例えばこの間、SARSのような新興感染症が出てきましたけれども、エイズ等も含めたこうした脅威というものが確実に国境を越えて広がってきている。そして、麻薬のみならず、組織犯罪も広がる、テロリズムもそれぞれ新しい形で大量破壊兵器などと結び付き、より深刻な脅威として国際社会の中の共有する脅威ともなりつつある。
こうした中において、我が国は国際社会の責任ある一員としてこれに適切に対処する必要がある。その際には、従来の安全保障の概念をはるかに超えた新しい概念でこれに対処する必要性があり、そのために、我が国の中でも、こうした状況下において改めて、国境を越えて、個々の人間を対象として人道的な立場から改めて安全保障というものを考え直す人間の安全保障という議論さえもが今、正に深刻に議論されるようになってきているわけであります。
このように、安全保障の概念が右サイドにも左サイドにも非常に広くこれから拡大をし、それを改めて整理し直して我が国の包括的な安全保障という概念を再構築をし、そして平和主義というものはその中できちんと確認をしつつも、いかにしてこうした深刻な国家的な安全保障の観点から対処しなければならない脅威に的確に対処するかということが同時に求められていると。これをいかに共存させて、我が国が憲法論議、そして安全保障基本法論議等をも行い、国民の中にしっかりとしたコンセンサスを確立をしながら、この国を的確にそうした特異な冷戦構造の残る地域情勢の中に対処せしめ、なおかつグローバライゼーションが進むこうした地球社会の中で責任ある国家としてその役割が果たし得るようにその方向を策定するか、正に大きな時代のかなめにあって私どもの果たす役割は極めて大きいということを改めて述べさせていただきたいと思います。
以上です。
○会長(野沢太三君) ほかに質問ありませんか。
峰崎直樹君。
○峰崎直樹君 議論をかみ合わせた方がいいというか、今のお話を聞いて少し、今日は発言しないかなと思っていたんですが、少しお話をさせていただきたいと思いますが。
武見先生の見解というのは、誠に一貫している面が私は非常にあると思っております。また勉強もさせていただきたい、これからも勉強させていただきたいと思うんですが。
私、つくづく我々のこのアジアの状況を見たときに、先日の周辺事態法以来の大きな流れの中で、どうもお隣の韓国、じゃ、一番、ソウルは正に火の海にするぞというふうに迫られている韓国の外交政策が一体、じゃ、どういう政策なのかというと、太陽政策を継続してやろうと。それに対してもいろいろ対応があったと思うんですが、むしろ韓国においては、最近の世論調査などを私どもが知る限りにおいて、むしろ日本のいわゆる外交政策というか、防衛力の増強だとか、あるいは今イラクの新法とかやられていると、そういうものに対する対応の仕方というのは違ったやはり見方を取っているんじゃないかなと。
私は、今、ブッシュ政権がネオコンと言われるものによって大きな一つの潮流ができていて、それは一つの大きな流れであることは間違いないんだけれども、そうではない、やはりアメリカの中にも民主党を中心とした大きな流れがもう一つできているんではないかなと。
そういう意味で、世界を私たちが見ていくときに、そういう新しい二十一世紀における平和を、ある意味では脅威の問題については絶えず認識をしながら、私も昨今の北朝鮮の動きを見ながら、改めて日本を取り巻いている脅威の問題というのは真剣に考えなきゃいけないというふうに思いながらも、もっとそれをやはり平和的な方法でどのように一つの会話の中に、対話の中に巻き込んでいくのかと、こういうやはり大きな外交戦略というものと安全保障というのをセットで私はやはり考えていかなきゃいけないのかなと。
そういう意味で、今お話しなさったことの一面、非常に一つの論理立てという点では私どもそう感ずるんですけれども、もう一つ、そういう安全保障観と外交戦略をしっかり組み立てていく必要があるのかなと。十分私も、そこのところが対論として一つの考え方を十分提起できているわけではないんですが、少し、今のお話を聞いて、もう少し、もっと別の日本の生きていく道というか、そういうものをやはり追求していく必要があるんではないかなというふうに思ったので、ちょっと感想めいたことを述べさせていただきました。
○会長(野沢太三君) ほかに御意見はございますか。
世耕君。
○世耕弘成君 自由民主党の世耕弘成でございますが、私も、リアリスティックアプローチという点で見た場合に、今日も事務局に各国の憲法の平和主義と安全保障の条項について配っていただいていますけれども、各国とも相当、安全保障に関してかなりの部分を割いて記述をしているということを私、感じております。
やはりこれは諸外国とも、軍隊を持っているということの意味を非常によく分かっている。やはり軍隊は必要だから持つけれども、しかし一方で、やはりちゃんとコントロールをする仕組みが憲法そのものにないと駄目なんだというスタンスに立って、非常に各国ともその軍隊に関する記述、それこそ最高司令官がだれであるかというところから始まって、かなり詳細に記述をしているんだろうなという気がしております。
転じて、我が国に目を転じた場合、今現実的な問題として、自衛隊がないと言う人はいないと思いますし、あるいは今、武見先生からお話があったようなそういう国際情勢の中で、自衛隊が要らないと言う人も私は現実的にはもうほとんどいないという状況の中で、ただ憲法だけがほとんどこの自衛隊に関する記述が明確にされていないということが私は逆に日本国憲法の今大きな欠陥になりつつあるんじゃないか。逆に諸外国から見た場合、現実問題として自衛隊という世界第四位の予算を使っている軍隊がありながら、それを制御する仕組みが憲法の中にビルトインされていないということ自体が、日本の国際的な信用というか、国際的な安心を受ける上で非常に私は問題だと思っていまして、私はそういう観点からもこの日本の憲法というのはもう一度見直すべきであるというふうに考えます。
以上でございます。
○大脇雅子君 武見先生の御提言に関しまして、私もアジアにおける我が国の問題というのは多国間協議から多国間の集団安全保障体制に向けて様々な可能性が求められるべきだと思います。それで、とりわけ軍事同盟から人間の安全保障というものを基軸とした、そうした今後の安全保障の概念の変更というものは、私どもがこれから探らなければならない道だという点について意見を申し上げておきたいと思います。
○会長(野沢太三君) ほかに御意見はございますか。他に御発言もないようですから、本日の意見交換はこの程度といたします。
本日はこれにて散会いたします。
午後四時三十一分散会