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一. 社会主義とナショナリズム


『共産党宣言』のなかの一句に、「プロレタリアは祖国を持たない(注)」というのがある。

もともとマルクスは、思想的にはフランス啓蒙思想の血統をひいており、人間はすべて生まれながらにして自由且つ平等である、と考えるから既成の国家とは、人間の類似本質に対する外的束縛以外の何ものでもない、とした。従って、いずれかの国家に属する「国民」としての人間ではなく、類的存在の一員としての人間こそ「至高の存在」であると考えたのであり、国家とは、ごく少数の、人類の非本質的な部分である「有産者」が搾取のために創出した上部構造的機関である、と考えたのであった。そして、この上部構造としての国家の「底辺」とも言うべき各国プロレタリアが相互に連携し、超国家的な"地下水脈"を形づくることによって、やがて来たるべき超国籍的な社会主義の社会を構成するための母胎が準備される、というのがマルクスの構想であった。従って、マルクスの着眼点は、プロレタリアの超国家性(国際性)にあったといってよい。

しかし、他面、マルクスは「プロレタリアはまず政治的支配を奪取して、自己を国民的階級の地位にまで高め、自己を国民(ナチオン)としなげればならないのであるから、それ自身やはり国民的(ナチオナル)である」(「共産党宣言」)と述べて、少なくとも戦術的には「国民」としての使命を帯びていることを認めている。要するにマルクスは、長期的・戦術的には「国際主義」を、短期的・戦術的には、いわば「ナショナリズム」をプロレタリアの使命として示唆したといえよう。

社会主義思想におけるナショナリズムの問題に明確な解答を与えたのは、やはりレーニンの社会主義国家論であった。そして、その理論的根拠をなすものは、社会主義的「前衛の論理」であり、プロレタリア国際主義の「橋頭堡」としてのソヴィエト・コミュニズムの一党独裁(プロレタリア独裁)ということであった。即ち、ソヴィエト・ロシアは社会主義の史上最初の国家として、諸外国による革命への干渉や国内における反革命勢力の反撃など、さまざまな抵抗に遭遇せねばならなかった。しかし、レーニンとボルシェヴィキ党は国際関係の問題についても、社会主義的「前衛の論理」に基づき、ソヴィエト国家の「国家的利益」(ナショナル・インタレスト)と、それに即した諸民族の反帝国主義独立運動は、そのまま全世界のプロレタリアの利害を意味するという見地に立ち、これに対抗しようとする他のすべての資本主義国家やその国家観、或いはそれに追従する植民地諸国の従属的行動は反価値的なもの、或いは「異端」としてしりぞけた。"ブルジョア・ナショナリズム"とプロレタリア国際主義とは、それぞれ「前資本主義世界の二つの大きな階級的陣営に対応して、民族問題におけるこの主の政策、二つの世界観を表現する」ところのスローガンである(レーニン「民族問題に関する批判的論評」1913年)という見地に立って、ソヴィエト新政府は激しい「異端」追放を行った。

ところで、ソヴィエト・コミュニズムの成立によって最も大きな衝撃を受けたのは、西欧の社会主義者たちであった。西欧の伝統的な精神的風土とは全く異なったロシアの土地に形成されたソヴィエト・マルクス主義は西欧的マルクス主義にとってはかなり異質のものであった。そして、ここにソヴィエト・マルキシズムと西欧的マルキシズムとの間に対立が生じた。かつては西欧における修正主義のチャンピオンであったカウツキー(1854〜1938)はソヴィエト社会主義政権を「一党独裁」であると非難し、西欧ではむしろ、民主主義を通じて社会主義を実現すべきである、と主張した。(「プロレタリアートの独裁」1918年)これに対して、レーニンは「プロレタリア革命と背教者カウツキー」(1918年)によって、彼に反駁し、激しい非難を加えた。

こうして、ソヴィエト新政権は、次第にその足場を固めて行ったのであるが、それと並行して、共産主義インターナショナル(コミンテルン)も次第に形をととのえていった。第一次大戦直後の1919年春、モスクワで第一回の大会が開かれて発足したコミンテルンは翌20年の第二回大会において具体的な活動方式を決定し、第三インターとして、「正統」をもって任じ、各国のメンバーに対して、大会と委員会との決定には無条件的に"服従"すべきことを要求したのであった。こうして、ソヴィエト・コミュニズムは文字どうり国際共産主義革命の「前衛」ないし、「橋頭堡」として、指導と統合の役割を果すこととなったのである。

しかし、こうしてソヴィエト国家をそのままプロレタリア国際主義の中核とみなし、ソヴィエトの国是に即さないプロレタリア運動を「異端」とみなすことには、種々の問題が含まれていることは言うまでもない。何故なら、それぞれの国民(ネーション・民族)は、それぞれ異なる歴史的条件を抱えており、ソヴィエト・コミュニズム或いはコミンテルンの方針にそいえないものを持っているからである。ここにマルクス主義とナショナリズムとの重要な問題が潜んでいる。カウツキー、ベルンシュタイン(1850〜1932)に代表される西欧の修正主義は、早くからマルクス主義理論の修正を行って、「正統」から離脱していったのであるが、レーニンは、西欧では「正統」をもって目されていたカウツキーやローザ・ルクセンブルグ(1870〜1919)に対しても、その民族理論が、全面的にはプロレタリアの利害に一致しないという理由をもって、「日和見主義」の名のもとに、これを非難した。その理由としてレーニンはこう述べている。「プロレタリアは、民族の同権、民族国家に対する平等の権利を認めるが、その場合、あらゆる民族のプロレタリアの同盟を最も高く評価して優先せしめ、民族的要求や分離はすべて労働者の階級闘争の観点から評定する」からである。(『民族自決について』1914)

民族問題に関するスターリンの発言はほぼレーニンの原則に沿って行われている。しかし、スターリンによって特に強く批判されたのは、民族自治を説いたオーストリア・マルキシズムの理論家オットー・バウァー(1881〜1938)やカール・レンナー(1870〜1951)の民族理論であった。彼らは文化的見地に立って、東欧の弱小諸民族は、文化的には西欧的キリスト教文化圏に属するから、それぞれの主体的条件に従い、民族自決の上に立って社会主義化の道を進むべきである、としたが、スターリンはこれを"ブルジョア民族主義"の代弁をする「ショーヴィニズム」(排外主義)であるとして排除したのであった。(『マルクス主義と民族問題』1913)

革命後、スターリンは実に徹底したソヴィエト一元化主義の路線を貫いた。スターリンによる一国社会主義の建設と防衛は国内的には1928年に発表される第一次五ヶ年計画による、工業化(特に重工業化)と農業集団化を通じて、国際的にはコミンテルンに結集した各国共産党を、「ソヴィエト連邦は国際的プロレタリアの唯一の祖国であり……資本主義諸国の攻撃からソヴィエト連邦を全力をあげて守ることが国際的プロレタリアの義務である。」という綱領(1928年、コミンテルン第六回大会)の線で戦わせることによって推し進められた。この祖国擁護のイデオロギーによって、「前衛の論理」は「祖国の論理」へと発展せしめられ、「革命は輸出できない」というレーニンの原則の枠は踏み越えられてしまうことになる。特に彼は、十月革命は「社会主義的西欧と奴隷的東洋との間の架け橋である」(『十月革命と民族問題』1918)として、全世界的規模における反帝国主義・社会主義革命運動の「指導者としてのソヴィエト」を強調したのであった。第二次大戦後もスターリンはこの論理に従って、東欧の諸民族をソヴィエトの支配下に置くことになったが、彼の一元的支配からの解放は、スターリンの死後に至ってようやくその兆しを見せることとなった。

もともとマルクスの唯物史観によれば、最も先進的な資本主義国(西欧やアメリカ)がまず社会主義革命を完成し、後進地域はその後に次第に社会主義革命への道をたどる、とされていた。例えば、マルクスによれば、ロシアは保守と反動の牙城であり、「コンスタンチノープルは、西と東の間にかけられた黄金の橋であり、西方の文明は、この橋を渡らずしては、太陽のように世界をめぐることは出来ない。西方の文明はロシアと戦わずしては、この橋を渡ることは出来ない。」(ニューヨーク・デイリー・トリビューン,1853年8月12日号)と述べて、社会主義革命の波及の方向として、先進国→後進国という順序を動かしがたいものとして念頭においていた。

しかし、このマルクスの予想とは逆に、マルクスの生前においてすら、すでに西欧の先進地域(イギリス、オランダなど)では、社会主義革命の可能性は減少の一途をたどっていた。こうした現実が、ついにマルクスの晩年には、後進地域における民衆の経済的窮乏が、かえって社会主義革命への発火点になるのではないか、という純「戦術的」な観点に彼をして立たせるほどであった。(いわゆる「窮乏化革命論」)この問題は、経済発展段階における先進性・後進性(即ち、今日「南北問題」といわれるもの)と、社会主義革命の可能性との連関の問題につながるものである。

マルクス主義を革命によって実践化したレーニンは、その『帝国主義論』において、資本主義発展の「不均等性」の理論を提示したのであるが、彼はむしろ後進的な地域(植民地や従属国)こそ革命に向かって、ラディカルに進みうる可能性を持つものであるとした。後進国であったロシアの革命方式をもって、来たるべき社会主義革命の「典型」であり、「正統」であるとしたのであった。その意味で、レーニンに於いては、マルクスのヴィジョン的な側面よりはむしろ、戦術的な側面が重視されていることは否定できない。いわゆる"マルクス=レーニン主義"としての「正統」の成立の根拠も、一つにはこのような事情から由来しているのである。

1917年の10月革命と「正統」の形成以後、マルクス主義とは何か、それをどのように現実に適応したら良いのか、ということに関して、大きな試練に遭遇しなければならなかったのは、むしろ、先進的な西欧の中での後進国、別の言葉で言えば、いわば「中進国」にあたる地域(具体的には、ソヴィエトに隣接する東欧諸国やイタリアをさす。)であった。特に、この問題について独自の思考を展開したのが、実にほかならぬイタリアの社会主義指導者アントニオ・グラムシであった。


(注)マルクスが「プロレタリアは祖国を持たない」と述べているのは、プロレタリアには祖国は不要だ、という意味ではなく、プロレタリアの「国際性」を強調しているのであって、それは、有名な"万国の労働者よ団結せよ"という名文句に示されているのと同様の意味をもつ。

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