構造改革論の思想的意義と現実的課題 目次次へ

七、 日本における『構造改革論』


はじめに

これまで、『構造改革論』を、まずはじめに「社会主義とナショナリズム」の観点からとらえ、グラムシの思想にその源流を見出し、次にその理論発祥の地であるイタリアにおける『構造改革論』、及びその問題点をレーニンの革命理論と比較しながら考案し、イタリアの特殊な社会構造を分析することによって、その理論形成の背景となったさまざまな条件をみつめてみた。そこで、ここでは我が国における『構造改革論』の特性とその問題点を、導入―展開―退潮の流れの中から探ってみることにする。

すでに序論で述べたように、我が国における『構造改革論』は、その導入から展開に至るまで、その理論のもつ重大性、新鮮さにもかかわらず、専ら低い次元での不毛な論争として展開し、単に革新勢力内の動揺と分裂をもたらす結果となった。我が国における『構造改革論』は、その意味で、「不幸な出発」(成田社会党書記長)をしたとみなければならない。


(1)◇日本社会党と『構造改革論』◇

― その導入から敗走まで ―

もともとイタリアで生まれ、イタリア共産党の手によってはじめて具体的、実践的方法として形成された『構造改革論』を、日本に紹介し、その普及に力のあったのは、日本共産党系のマルクス主義理論家であり、「現代マルクス主義派」或いは「経済分析派」と呼ばれる人々であった。これらの主な論者は、佐藤昇、小野義彦、杉田正夫、石堂清倫、大橋周治などである。そして、このような形で『構造改革論』がまず理論戦線の面に導入され、ついでこの理論は、社会党の内部にも浸透してゆき、江田三郎氏らの支持を得て、ついに構造改革派(江田派グループ)が形成されるに至った。

我が国において『構造改革論』が、はじめて実践的プログラムとして採り入れられたのは1960年(昭和35年)10月11日に開かれた社会党中央執行委員会においてである。「総選挙の勝利と党の前進のために」と題するその闘争方針の中で、「池田改革と対決し、その姿勢としての長期政治経済計画の一環として、独占資本の支配と対決し、国民諸階層の生活向上を中心目標とするよう経済構造を変革する」という方針をはじめて明確に打ち出した。これが『構造改革論』を社会党の新路線として公式に提起した最初である。こうして、華々しく登場した『構造改革論』は、単に社会党や革新勢力内のみならず、広く言論界を通じて大きな社会的反響を巻き起こした。

はじめて『構造改革論』を世に問うた斗争方針は、戦いの重点方向として、要旨次のように述べている。「保守党政権は、大資本に奉仕し、高い経済成長を遂げてきたが、これは低賃金、企業格差の拡大をテコとした。しかし、問題は高度成長は誰のためにあるかであり、単なる経済成長ではなく、国民の福祉、生活向上が第一目標とされなければならない。そこで、我々の中心目標は何よりも「国民諸階層の生活向上」であり、第二の目標は、これを実現するため、独占支配構造を変革し、「独占の政策を制限すること」である。さらに賃金上昇を前提として輸出確保のため、「貿易構造の変革」が第三の目標となる。そのためには安保体制の解消、中立政策の実現がその背景となる。生活向上、反独占、中立の三要求は現在の資本主義経済体制の枠内で実現されうる変革であり、保守党が採り上げえない独占的経済構造に対する国民による制限の問題である。日本では、国民が生活と政治を自分の手で変えてゆく民主主義の伝統が弱いため、欧米では常識化されている独占の規制が放任され、高い独占価格や資本優遇の租税構造が維持され、社会保障や住宅投資が著しく低い。我々はこれに反対し、反独占、構造改革の国民連合によって、独占資本に苦しめられている農、漁民、中小企業をも統合しながら、この闘いを推し進めて行かなければならない。」と。こうして、中央執行委員会決議という形で『構造改革論』をはじめて正式に採り上げた社会党の新路線が実践的プログラムとして登場した。

社会党は、二日後の13日、臨時党大会を開いて、この理論を党大会という公の舞台で決定し、新路線として明確に打ち出す予定であった。ところが、12日、日比谷公会堂で開かれた自民、社会、民社の三党首立会い演説会で、浅沼(当時)社会党委員長が右翼少年に刺殺されるというショッキングな事件が起きてしまった。このため、党大会はたちまちにして浅沼委員長追悼大会、右翼暴力への怒りの抗議集会の様相に急変した。そのため、新たなる転換を打ち出す、『構造改革論』を採りいれた新路線も大会ではほとんど議論されぬまま可決決定を見るに至った。

社会党における『構造改革論』の研究は、すでに1958年の中頃から当時書記長であった江田氏や成田政策審議会長などを中心に党中堅書記グループの間で行われ、真剣な討議を繰り返してきたが、そこには『構造改革論』の取り上げ方に対して、三つの異なった底流があった。第一は、当時の社会党内で主導権を握っていた鈴木派と結びつく書記局グループ(くれない会、後に「社会主義研究所」と改称)で、彼らはこれまで党内左派のよりどころであった旧左社綱領を実践的に豊富なものにしたい、という意図から『構造改革論』がイタリア共産党によって正式に採用されている政策であるということから、これは左翼的理論であるはずだ、という信頼を先見的に抱いていた。第二は、後に江田派の書記局グループを形成する流れで、彼らはイデオロギー的に旧左社綱領の思想のうち、とりわけ「戦争と恐慌を革命の基本条件とするような考え方」とは訣別し、この『構造改革理論』によって新たな党内革新を行い、もって党の主導権を握ろうと意図していた。第三の流れは、党の議員次元からくる『構造改革論』への傾斜であった。当時、社会党に対するマスコミからの、「社会主義圏への一辺倒」、「何でも反対の社会党」などという批判は、民社党が成立(1960年1月24日党創立。構成は衆院41名、参院18名・合計59名)して以来、ますます強まっていた。そのため、議員たちは、『構造改革論』とは党の政策に何らかの“現実性”を与え、マスコミの批判を和らげ、自らの議会活動に合理的な裏ずけや方向性を与えてくれるものだ、と素朴に考えていた。

1960年10月の臨時党大会で、十分な論議を経ないままに承認された『構造改革』の路線は、その後江田書記長、成田政策審議会長などの、江田―成田ラインを中心に活発に推進された。しかし、もとより社会党内において、『構造改革論』が組織的、総合的に党全体の見地から検討されたのではなく、江田氏を中心とする“構造改革派”といわれる一つの政策派閥が中心となって提起したのであり、又、党そのものも思想的、体質的にいろいろ異なった流れをもつ派閥連合政党であるために、『構造改革』の理論及び路線は、社会党全体に亘って、正しい形で浸透していった訳ではなかった。そのため、『構造改革論』は、やがて、奇妙な内容と方向づけを与えられ、その本来の軌道からも、又下からの正しい要求の反映からも明らかにずれていった。そして、一方で、『構造改革論』は、社会党の現代的路線を厳密に追求する革命理論との関係においてよりも、むしろムード的な「社会党の姿勢論」としての形で一般化されていった。例えば、「階級闘争一点張りでない社会党」、「アメリカとも仲良くする社会党」、「池田内閣のもとでも実行可能な政策を作る社会党」、「現実的で国民も十分納得できる社会党」…総選挙を前にして、こうしたソフトなイメージやムード作りに力が入れられた。あたかもそれが『構造改革論』の具体化であるかのような印象が与えられた。このようなソフトな「お茶の間ムード」を積極的に作り出したのは、江田氏自身であった。しかし、それが社会党内において『構造改革路線』の本質であるかのような印象を与え、とりわけ党内左派を強く刺激したことに大きな問題があった。とはいえ、党内の"構造改革派"といわれるグループ(最初は派閥反対の立場から理論ないし、政策グループの建て前を強く押し出していたが、その後の『構造改革論争』の過程で、社会党的体質によって逆の形、つまり派閥次元的に浸透されていったために、「江田―成田派」という新しい派閥を形成する。)は、党の機関紙局を足場にして、『社会新報』や『月刊社会党』を通して大々的な『構造改革路線』のキャンペーンにのり出した。

江田―成田ラインが『構造改革路線』を提起するに至った理由の一つは、安保闘争と三井三池闘争の「敗北」に対する反省からであった。即ち、安保闘争においては、社会党を中心に「安保反対・反岸内閣運動」を盛り上げ、結局岸内閣を退陣に追い込んだが、「新安保条約」は成立し、戦後史上空前と言われた大闘争も、実質的には「敗北」という形で終わった。その結果、岸内閣の後継には「所得倍増」、「高度経済成長」を唱える同じ自民党の池田低姿勢内閣が生まれ、社会党政権実現への気運は期待に反して盛り上がらなかった。これは、社会党に深刻な反省をもたらし、社会党の勢力が労組だけのもので、広く国民各階層へ浸透していなかったためではないか、という自己批判を提起した。そして、社会党による社会主義政権実現のためには、『一般の民主主義闘争―平和を守る闘争や基本的人権を守る闘争、生活条件や労働条件を改善する闘争などを通じて、広く国民各階層を味方に引き入れ、これらの闘争を労働者階級がリードしてゆくことによって保守陣営の砦を一つ一つ打ちこわしてゆかなければならないこと、又三井三池におけるような炭鉱の人員整理に対する闘争は、労組の抵抗闘争だけでなく、政府や独占資本の石炭政策そのものを改革する闘争でなければならない。』という『構造改革論』を採りいれた、新しい方針が是非とも必要であるとする見解に達し、すでに見た通り、新路線として正式に提起されるに至ったのである。しかし、『構造改革論』が提起されるに至った理由は、そのような「安保と三井三池の敗北」という深刻な事態だけではなく、より大きく社会党の党内事情に起因していた。

1961年1月1日号の『社会新報』に発表された「構造改革の闘い」と題するシンポジウムの中で、『構造改革論』を提起するに至った理由および内容について、「これまでの社会党の政策は、政権獲得後の在り方に重点がおかれており、政権を獲得するまでの過程が明らかではなかった。その結果、戦争や恐慌を客観的条件とすることによって革命が可能だとする、いわゆる「窮乏革命論」や、或いは改良の積み重ねによって革命が達成されるという、「なしくずし革命論」が生まれる余地があったが、『構造改革路線』は政権獲得に至る過程を明らかにするものである」と説明している。

『構造改革路線』とは、一口に言えば、独占資本をバックとする政府及びそれとつながる権力が独占資本の利益のための経済構造を維持、強化させようとするのに対し、独占資本の被害を受ける勢力を統合して、その政策転換を図ってゆく。つまり、独占資本からだされた政策に反対するにとどまらず、これをよりどころにして積極的に権力支配を制限し、政策転換要求闘争を行ってゆくものである。」 そして、このように説明された『構造改革』を可能にする条件として、さらに“政治的民主主義”、“労働者階級、民主勢力の力の増大”、“社会党の主体性”、の三つをあげ、次のように述べている。「(1) 『構造改革路線』の闘いを可能にし、保証している条件は、日本の民主憲法であり、それに基づいて作られた諸々の民主的諸制度であり、広い意味での政治的民主主義である。これらの民主的諸制度ならびに政治的民主主義をさらに拡充し、勤労国民大衆のために活用しなければならない。(2) 戦後、資本主義の新しい発展の特徴は、生産諸力の飛躍的な発展である。ここから生産手段の私的所有と生産力の社会化の矛盾はさらに深まった。これは一方で、国家の経済への干渉、介入を必然化させると共に、他方で労働者階級、勤労国民大衆の力と発言力を大きくした。ここから、国家の経済への干渉、介入を独占本位のものから、勤労国民大衆の利益を守るためのものへ変更させることが可能となり、又、下部構造である生産関係の中で、労働者の要求と発言力によってこれを部分的に変革させることも可能となった。(3) 社会党は、これまで多くの困難や危機を乗り越え、組織活動の面でまだ多くの欠点を持っているが、全体としてようやく日本において社会主義を実現することの出来る党としての自信と確信を持つことができるようになってきた。又、拳党体制のもとで安保闘争という激しく且つ深刻な闘争と取り組んだ党は、その過程で行動性を高め、理論を深めた。『構造改革』というこれからの高度な闘いを押し進めるにあたって、社会党の得たこの貴重な経験は今後十分に生かされ、その政治的指導部としての任を果すことができるであろう。」 こうして、『構造改革論』は「日本における社会主義への道」としての理論的根拠を与えられ、その提起される理由、内容、それを可能にする条件が指摘された訳である。そこで、次にこのような『構造改革路線』を具体的にどのように実践化していくのかという問題が出てくる。それについては、さらに同じ論文、「構造改革をどう闘うか」で、「構造改革の闘いを押し進めるにあたっては、まず第一に、社会党の革新、即ち党の組織の革新をはからなければならない。それは党の機構改革実施以来一貫して進めてきた労組機関への依存主義からの脱却、議員偏重傾向の是正を一層徹底させることである。又、『構造改革』の闘いに社会党が政治的指導制を確立するためには、全党が速やかにこの新しい政治路線の思想を自らのものとして消化し、その理論を主体的に受け止め、運動の実践の中でそれを発展させることが必要である」と述べている。

この『構造改革』の闘いを具体化し、それを成功させるためには、労働者階級の組織を中心にした広範な勤労大衆の強固な同盟による統一組織が必要である。さらに又、労働者、農民、漁民、中小企業者及び独占の支配に反対し、現実的な要求と利益を獲得しようと望むすべての市民の闘う大衆組織をそれぞれの分野で組織し、強化しなければならない。そして、労働運動については、これまでの独占の政策が生み出す結果に対する闘いから、その原因である政策そのものの変更を迫る闘いへの質的変化、企業意識を克服し、企業内での経営主に対する闘いから、階級全体の政策課題を掲げて、独占資本とその権力の政策変更、ないし制限を迫る闘いへと転換させなければならない。さらに、独占の支配に苦しめられいる農民、漁民、零細、中小企業をも含めての独占とその権力の政策を変更させる闘いと同時に、住民の要求とそれを実現するための自治体闘争を、『構造改革』の路線の上ではっきりと意識的、体系的に具体化し、大衆闘争の最も重要な基底としてゆかなければならない。」

こうして、『構造改革論』が、次第にその輪郭を明らかにしてゆくにつれて、これに対する批判、反論もあちこちから起こってきた。その先頭を切ったのが、1960年12月の太田薫前総評議長による見解発表である。労働運動の立場から自らの見解を述べた太田氏は、まず、「これからの政策転換闘争は三井三池闘争のように徹底した抵抗の上に組みたてられなければならない。」と前置きし、「このような総評の考えから言って、社会党の『構造改革』の方針には、次のような疑問がある。」として、要旨次のように述べている。「総評の政策転換要求が労働者の徹底した抵抗闘争を基礎としなければならないように、『構造改革』の方針は、組織論から切り離されて論ぜられては空論となる。特に今日の社会党の組織が逆ピラミッドの状態であることは、『構造改革』にとって、大きな或いは基本的な欠陥となる。又、社会党に明確な革命綱領がないのに、『構造改革論』が出てくると、"改良主義"に陥る危険が極めて大きい。」さらに、太田氏は、この問題提起に続けて、翌1961年1月の『月刊社会党』に、「社会党の構造改革論に対する七つの疑問」と題する論文を発表、先に提出した問題点の上に、次のような疑問点を付け加えた。「(1) 『構造改革論』は国家独占資本主義(これは、具体的には、「国家が経済へ直接介入することによって、独占資本にテコ入れし、独占体の一層の搾取と支配を助けること」と説明されている。)の現段階に対する分析を欠いているのではないか。(2)統一戦線政府から社会主義政権への移行をどのように考えるのか。(3)統一戦線論としては共産党と一線を画する社会党としてどうするのか。」 そして、これに追い討ちをかけるように、積極的な批判論を展開したのが、社会党左派に強い影響力をもつ向坂逸郎氏であった。向坂氏『社会主義』61年2月号に、「構造改革論と社会党の課題」を発表、太田氏とはほぼ同じ立場から、反論を展開した。その中で、向坂氏は、まず「構造改革論者の掲げる政策は、これまで我々が主張してきたものを含んでいる。」として、その「革新性」を否定し、次に「もし、革命の客観的条件を軽視し、労働者階級の組織された力を積み上げる努力をせずに政策をかたれば、それは“改良主義”に陥る。社会党は元来“改良主義”に陥りやすい体質を持っており、これに対する警戒をきびしくすることが必要である。」と主張し、「革命の精神」の高揚を強調した。、こうして、社会党の『構造改革論』に対する批判論が公然と現われてくるようになり、それをめぐる論争も俄然活発化した。しかし、こうして活発に展開された論争も、もとよりその具体的内容に関する党全体の検討が不足している上、派閥連合政党の特殊な体質が次第に露呈されてきたため、論争は不統一的に派閥の次元に還元され、歪められながら発展していった。そのため、かつて『構造改革論』を提起した際のするどい問題意識も徐々に色褪せていった。

1961年、3月、空前の論争の展開を受けて、第20回社会党大会が開かれた。この大会は、『構造改革論』が、ようやく正式な形で党全体による評価を受けるという点で大きな意義を持っていた。大会は、まず江田氏の指導のあり方と内容に論議が集中し、とくに『ムード的構造改革論』に対して、厳しい批判が向けられ、さらに、具体的な『構造改革路線』をめぐる評価へと移っていった。特に松本治一郎、岡田春夫氏らを中心とする社会党内の最左翼勢力・平和同志会は江田書記長ら党執行部に対して、「構造改革路線は反独占を打ち出すだけで、"反米帝国主義闘争"に積極的でない。」として、『構造改革路線』への強い不満と批判の論陣を張った。こうして、『構造改革路線』をめぐって激しい論戦を展開したこの大会は、「社会党の主体的な力を強化することが何よりも必要である。」という大義名文論が全体に亘って受け入れられたため、派閥間抗争による『構造改革論』の替否をめぐる正面きった激突と言う事態はなく、ひとまず、『構造改革路線』は全体の承認を受けた。

こうして、激しい論議の末、『構造改革路線』は、ようやく党全体の承認を経て、河上新委員長を表看板とする江田―成田体制のもとに再出発することとなった。しかし、党内にはこの頃から、鈴木―佐々木派、平和同志会など、『構造改革論』に対して批判的立場をとるものが現われ、やがてこれが派閥問題ともからみ、『構造改革路線』をめぐる論争はその後一段と激化し、社会党内を激しく揺さぶることとなった。

論争の第二段階において、再び『構造改革論』批判を真正面から取り上げたのが、先に述べたと同様、いずれも社会党に対して強い影響力をもつ太田、向坂の両氏であった。1962年(昭和37年)1月、両氏は連名による『構造改革論』批判を発表し、社会党内に大きな衝撃を与えた。これは、「江田書記長が主張する『構造改革論』は“改良主義”である。」と決めつけ、さらに、次の党大会での書記長選には、『構造改革路線』に批判的立場をとる佐々木更三氏を支持することを明らかにしたものであった。このように、正面きって『構造改革論』に反対した太田、向坂両氏の見解は、要旨次の通りである。「構造改革論は、独占資本の支配する資本主義社会のもとで、あたかも労働者のヘゲモニーのもとに民主主義的、進歩的国有化がありうるかのような幻想を振りまいているが、これは全くの誤りであり、本質的には“改良主義”そのものである。社会党に欠けているものは政策の考案や口先の論議ではなく行動である。したがって、社会党は運動の常道に沿って、日常闘争を強化し、党勢を拡大する以外に道はない。又、党運営の近代化は、一貫した方針のもとに偏見を去って、適材を適所に配置し、献身的な党活動家の意向を尊重することによってのみ可能である。構造改革論者のような左に揺れ右に揺れる定見のない言動は、いたずらに党内の混乱を助長するのみで、党の近代化とは無縁である。」

このような、太田、向坂両氏によるかつてない厳しい批判的見解に対して、江田氏ら党執行部は、「太田、向坂両氏は、『構造改革論』を故意に曲解しており、『構造改革』こそ社会党の平和革命を具体的に明らかにしたものであって、両氏の見解には平和革命への具体的プログラムが何ら見られない。」として、直ちに反論した。ここに至って、『構造改革路線』をめぐる論争は、最早これまでのあいまいな模索の段階から、是非をめぐる論争の段階へと発展し、党内には左派を中心に「反構造改革派」が堂々と形成されることとなった。そして、同じ年の1月20日から開かれた第21回党大会では、こうした派閥にからんでの党内対立がそのまま反映され、ここでは『構造改革路線』の評価だけでなく、書記長の対立候補として佐々木氏みずからが名乗りを上げたことによって、「構造改革派」対「反構造改革派」の派閥争いと人事争いが急に大きな焦点となってきた。『構造改革論』は、最早純粋に党の方針上の問題としてではなく、新しい派閥次元での人事争いと党内主導権争いの道具と化するに至った。『構造改革路線』をめぐる社会党の論争は、こうして、ますます、最初の提起を促した清新な革新的感覚や鋭い問題意識の線上から大きく外れてゆき、専ら党の戦略・戦術路線として「是か非か」という一面的論議に陥っていった。それは、さらに議員派閥の低い次元での主導権争いに巻き込まれるに至って、まったく本来の方向からはずれてしまったのである。

大会は、多数を維持しようとする主流派(「構造改革派」)とこれに反対する反主流派(「反構造改革派」)とが真正面から対決した。さらに、舞台裏での派閥間の作戦とかけひきは熾烈を極め、一方、それに反比例して、『構造改革路線』をめぐる論議の内容はいよいよ薄まり、地に落ちていった。前に開かれた第20回党大会では、まだ『構造改革路線』を当面の闘争に位置づけることによって、『構造改革論争』を前向きにとらえようとする姿勢があった。しかし、ここでは、最早『構造改革論』そのものが単に派閥争い、人事争いの恰好の材料となり、それに対する賛否はそのまま派閥勢力の分布をさぐるバロメーターの役割を果した。

注目の書記長ポストをめぐる人選は、江田氏の323票に対して、佐々木氏の260票で、結局江田氏の勝利となり、『構造改革路線』は再びそれを維持することになった。しかし、これを党の戦略路線として定着させようとした江田―成田派の意見は、「反構造改革派」の強い反対によってしりぞけられ、『構造改革路線』は“戦略”とはせず、“戦術”とすべきである、という修正案が可決された。その内容は、『構造改革』とは、「平和革命を日本において達成するための闘いの戦術を多様に展開するもので、戦略路線として、直ちに党の基本方針としてはならない。」というものであった。この大会は、こうして、『構造改革論争』を派閥と人事の低い次元に引きずり落とし、しかも、『構造改革』は「“戦略”ではなく、“戦術”である。」と規定して、いよいよその性格と内容をあいまいなものにした。『構造改革』はもとより長期的な展望のもとで、広範な大衆組織を動員して行う一貫した闘争方針であり、イタリアの『構造改革路線』もあくまで長期的基本戦略として打ち出されたものであって、それは決して“戦術”とは違った性格のものである。社会党がこれを“戦術”と規定したことは、『構造改革路線』そのものを最早"否定"することであった。

同じ年の7月27日、日光で開かれた社会党全国地方オルグ会議において、江田書記長は、社会主義の目的は、人類の可能性を最大限に花開かせることだと思う。」と前置きして、「人類がこれまで到達した大きな成果は、(1)アメリカの平均した生活水準の高さ、(2)ソ連の徹底した社会保障、(3)イギリスと議会制民主主義、(4)日本の平和憲法という四つである。これらを総合調整して進む時、大衆と結んだ社会主義が生まれる。」と述べた。(これが、いわゆる「江田ヴィジョン」の骨子となるものである。)その後、江田書記長は、これをさらに発展させて、『エコノミスト』九月十九日号に「社会主義の新しいヴィジョン」と題する論文を発表、日光発言の趣旨をさらにくわしく展開し、社会主義の新しい「ヴィジョン」の必要な理由を四点に亘って説明し、先の四つの例示についても、それが、「勤労者階級の歴史的な闘いの成果である」ことを強調し、「衆知を結集して、国民の心をふるい立たせるような社会主義の新しいヴィジョンを作ろう。」と論じた。

ところが、『エコノミスト』に江田氏の見解が発表されると同時に、党内には、「反構造改革派」を中心に、この「江田ヴィジョン」は、“右寄りムード”だとする意見があらわれた。とりわけ「反構造改革派」のリーダーである佐々木氏は、「江田書記長の社会主義のヴィジョンは、我が党が綱領に基づいて実現しようとする社会主義制度とどう異なるのか。又、社会主義は確固とした原則の上に打ち建てられるべきもので、米・英・ソ・日など相違なる雑多な社会制度や政策の便宜的寄せ集めで作られるものではないと思うがどうか。」とする質問状を執行部に提出した。これをきっかけとして、以後11月末の第22回党大会にかけて、いわゆる「江田ヴィジョン論争」が展開されることとなった。

「江田ヴィジョン」をめぐる論争は、こうして、第22回党大会を前にして、俄かに活発化し、派閥争いとからんで社会党全体を論争の渦の中に巻き込んだ。「江田ヴィジョン」に対する批判は、党内の「反構造改革派」ばかりでなく、太田氏、向坂氏など、かねてから『構造改革路線』に批判的立場をとる人々からも積極的に展開され、批判論文が、『社会新報』、『エコノミスト』、『社会主義』などに続々と発表された。これらの批判点の主なものは「(1)書記長が党機関にはからず、党外の雑誌(『エコノミスト』)などに個人的見解を発表するのは、機関無視である。(2)社会主義は人類の未来を切り開くものである、という見解は空想社会主義への逆転で、党の綱領からはずれている。(3)アメリカの生活水準、イギリスの議会主義、日本の平和憲法などのブルジョア的本質を無視し、資本主義を美化している。(4)社会主義を実現する道程を無視し、現実の厳しい闘争から遊離している。」などであった。

こうした批判に対し、江田氏は、『社会新報』10月28日号で、「日本の社会主義」と題して、「社会主義の問題は、(1)社会主義の体制論、(2)戦略戦術論、(3)日本社会主義の特殊性、(4)人類史の成果の継承としての社会主義の四つの側面で論じうるが、『エコノミスト』論文は、(1)と(2)を前提とした上で、(3)と(4)に重点をおいたもので綱領に違反するものではない。日本の社会主義は高い生産力と生活水準、徹底した社会主義的民主主義、非武装中立を特徴とするもので、人類の成果としてとり上げた四つの柱はその例証にすぎない。国民に納得されるヴィジョンを掲げることと日常闘争の先頭にたつこととは矛盾せず、両者を統一させるべきだ。」と述べて反論した。しかし、いずれにせよ「江田ヴィジョン」は、党内では決して高く評価されず、それは「ムード的構造改革論」だとして、批判的空気が強まった。「反構造改革派」は、これに便乗して、「江田ヴィジョン」を攻撃し、同じように『構造改革論』を攻撃した。大会を前にして、「江田ヴィジョン」問題が出てきたことは、「構造改革派にとってマイナスであった。

「江田ヴィジョン」とこれに対して、「江田ヴィジョン」を"右寄りムード"だとする「反江田派」、「反構造改革派」との論争は、そのまま、11月27日から開かれた第22回党大会に持ち込まれることとなった。そして、大会第一日、江田書記長の提唱した「社会主義のヴィジョン」について、鈴木―佐々木派をはじめ、反主流派からするどいつき上げがあり、主流三派(江田―成田、河上、和田派)との間に激しい論議の応酬が行われた。鈴木―佐々木派を中心とする反主流派は、「書記長自ら党機関の意志を無視して、社会主義の理論に混迷を与える疑いのあるヴィジョン論を党外に発表し、ひいては指導体制の不統一を招き、党の混乱と闘う体制に対する不安と動揺をもたらした。」−という書記長非難の決議案を提出した。その結果、この「書記長非難―江田ヴィジョン批判」の決議案は22票の差で可決され、ここに実質的な江田書記長に対する不信任案が可決成立したこととなり、江田書記長は直ちに辞意を表明、「書記長選挙には出馬しない」旨を明らかにした。「江田ヴィジョン」の敗北は主流派、とりわけ「構造改革派」に大きな動揺と衝撃をもたらした。しかも、江田氏が書記長のポストから去るということは、これまで『構造改革路線』を推進してきた江田―成田体制の崩壊を意味するものであった。

江田書記長の辞任という非常事態を呼び起こした「ヴィジョン論争」はこうした形で一応終止符を打った。注目された江田氏無きあとの書記長ポストには、成田氏が選ばれ、新たに組織局長のポストに書記長を辞任した江田氏がおさまり、全体としては、依然主流派が主導権を保持した。こうして、主流派は、大会冒頭の「ヴィジョン論争」では敗れたが、人事面での優勢を保ち、江田―成田体制は事実上崩れたものの、政策審議会長に勝間田清一氏(『構造改革路線』推進者の一人)が選ばれて、成田―勝間田ラインがひかれ、『構造改革路線』は、維持された。しかし、成田―勝間田ラインの新体制のもとに、依然として『構造改革路線』が押し進められることになったとはいえ、この大会で、「江田ヴィジョン」をめぐって、『構造改革路線』推進の柱である江田氏に対する不信任案が可決されたことは、事実上『構造改革路線』の退潮を促進することとなった。それと同時に、「江田ヴィジョン」が敗れたということは、それが単なる江田氏の『ムード的構造改革論』の行き過ぎに対する反発ということだけでなく、江田氏のもつムードそのものを『構造改革論』の本質であるかのように受け取り、『構造改革論』が本来もっている創造的、実践的意義を評価する以前に、人事的、派閥的次元で理論を論争へとすりかえようとする社会党の根本的体質の弱さを示すものであった。しかも、「江田ヴィジョン」が敗れて、同じ「構造改革派」の成田氏が書記長に選ばれたという、いわば、人事と政策との大きな“ずれ”は、社会党が依然として議員派閥の力学によって支配されていることを示している。

すでに、先の第21回党大会で、『構造改革路線』を「“戦略”ではなく、“戦術”である。」と規定し、今度の大会で、「江田ヴィジョン」が敗れ、江田―成田体制が崩れたことは、『構造改革路線』が、最早その実践的意義を失ったことを示すものであった。安保・三井三池闘争の直後の深刻な反省期に、党内のするどい問題意識と、党の思想体質、組織体質改善への強い革新的要望によって、はじめて実践的プログラムとして登場した『構造改革路線』は、結局、社会党の体質的弱体性の前に、もろくも崩れ去ることとなった。『構造改革路線』の目標の一つである、党の革新、党組織の改善はついに果たされず、逆に党内対立を激化させ、派閥的保守主義を横行させる結果となった。組織改善への方向として、提起された『構造改革路線』は、結局、組織そのものの弱体性によって、目的を果すことなく敗れ去ることとなった。"組織"にはじまって、"組織"に敗れたのが、社会党の『構造改革論』であった。

現在、社会党の綱領には、『構造改革』という言葉は一つも見当たらない。現佐々木体制は明らかに『構造改革路線』とは違った方向を歩んでいる。しかし、社会党における『構造改革論』が、それで、完全に失墜したというわけではない。「構造改革派」として、根強い力をもっている。『構造改革』をめぐる党内対立は続いている。しかし、悲しむべきことは、それが依然として、派閥的次元によって争われていることである。派閥的セクショナリズムは理論の発展を促すどころか、いよいよそれを偏執にするだけである。又、それは、党の組織体質改善に逆行し、派閥的保守主義を残存させ、結局、悪循環を助長するだけである。社会党が一日も早く、ここから脱却しない限り、社会党における『構造改革論』の建設的な発展は、到底望めそうにない。健全で堅固な組織のないところには、『構造改革』が、根を下ろすことが出来ないからである。


構造改革論の思想的意義と現実的課題 目次次へ