構造改革論の思想的意義と現実的課題 | 目次/次へ |
(3)―現代日本資本主義論争と『構造改革論』―
イタリアにおいて、『構造改革路線』が形成されたのは、社会主義への多様な道の実践として、旧来のマルクス主義公式理論だけにとらわれず、イタリアの社会構造の特殊性を明確に捕らえた点にあったことはすでに何度も述べた。そこで、我が国における『構造改革論』の問題の根本も、日本の現実をいかに捉え、日本の社会的条件の特殊性をどのように考えるかということにあった。したがって、そこでは現代日本資本主義構造の分析に最も力点がおかれたことは当然であった。これは、先に見た通り、日本における『構造改革論』の形成が、客観的条件、即ち日本の資本主義構造の変化に対応するとらえ方にあることと相関関係をもっている。
ところで、日本の資本主義構造をいかにとらえるかという問題は、『構造改革論』の導入によって始めて提起された問題ではない。それは、すでに戦前戦後を通じて、日本の左翼陣営の間で、さまざまな「日本資本主義論争」という形で発展してきた。そのことは、日本資本主義構造の分析が、我が国の階級関係の特質についての科学的把握を意味し、社会主義革命への展望を切り開く最も重要な前提となったからである。日本資本主義構造の分析をめぐる論争は、そのまま我が国左翼陣営において、最も重大な「革命論争」をも意味した。そこで、日本における『構造改革論』をこうした論争の観点からとらえるために、戦前戦後を通じて繰り広げられた、そして今もなおくり広げられている、日本資本主義論争について歴史的に分析してみることが必要である。
一般に「日本資本主義論争」という場合、それは、1927年(昭和2年)頃から37年頃にかけての約10年間に亘って、日本のマルクス主義理論戦線の上で、当面する革命の戦略とそれを規定する諸要因(例えば、国家権力の性質や農業の封建制、日本資本主義の歴史的、構造的特質)をめぐって、大規模に行われた論争を指して言うが、戦後においても、1946年(昭和21年)頃から現在に至るまで、色々な形でひきつがれ、常に古くて新しい重大なテーマとして提起され続けている。戦前における論争は、第一期と第二期とに分かれ、第一期は、その重点がとりわけ戦略問題すなわち、当面する革命の性格の問題であったので、一般に「民主革命(又は戦略)論争」と言われている。そして、この論争の展開は専ら『マルクス主義』、『プロレタリア科学』、『労農』、『日本経済研究』などの党機関誌或いは準機関誌を通じて行われた。しかし、その後、戦争と弾圧が激しくなり、革命の戦略問題を公然と論議することが困難となったため、論争は第二段階に入り、その重点は次第に革命戦略の方針を基礎付ける日本資本主義の構造や農業生産関係の特質、さらに幕末=維新史の問題、日本資本主義分析の方法論へと移り、論争も『歴史化学』、『経済評論』、『改造』、『中央公論』などの合法的理論誌、総合雑誌を通じて行われた。
論争の一方の当事者は、日本共産党ないしその系統の学者、理論家であり、その主張が1932年(昭和7年)から翌33年にかけて岩波書店から刊行された『日本資本主義発達史講座』に網羅されたことから、「講座派」と呼ばれる。他方は、はじめ日本共産党内の分派的存在であったが、後に党から分離して、社会民主主義左派となり、雑誌『労農』を機関誌としていたことから、「労農派」と呼ばれる。「講座派」を構成した主要な論陣は、野呂栄太郎、山田盛太郎、平野義太郎、山田勝次郎、服部之総、小林良正らであり、「労農派」は猪俣津南雄、櫛田民蔵、向坂逸郎、大内兵衛、土屋喬雄、岡崎三郎らであった。
論争の第一期と言われる「民主革命論争」においては、「講座派」が日本における「封建制」の残存を重視し、日本農業における半封建的地主制の支配とそれを基礎とする絶対主義天皇制の権力支配を認め、ここから当面の革命を「社会主義革命へと急速に転化するブルジョア民主主義革命」(いわゆる「二段階革命論」)を強調したのに対し、「労農派」は「封建制」の残存を軽視し、農業の近代化と天皇制のブルジョア化を認め、ここから革命の性質を「民主主義の任務を伴う社会主義革命」(いわゆる「一段階革命論」)と規定した。この論争は、1932年、コミンテルン(注)が「三二テーゼ」として、「二段階革命論」を明確に打ち出したことによって、さらに活発化したが、戦争と弾圧の相次ぐ激化によって、公然たる革命論争はやや下火となり、論争の第二期と言われる「日本資本主義論争」へとひきつがれるに至った。(注)コミンテルン=共産主義インターナショナル(第三インターナショナル)の略称。第一次大戦の勃発に際し、第二インターが事実上消滅したのを見たレーニンは、《戦争を革命へ》をスローガンに各国共産主義者の国際組織化を指導し、1919年、3月モスクワにロシアのボルシェヴィキ党を中心とする30カ国の共産党と左派社会民主主義者の代議員を集め、ここにコミンテルンが創設された。 第二期の日本資本主義論争においては、『日本資本主義発達史講座』が論争の主要な対象となり、日本資本主義の歴史的、構造的特質の問題、小作料と小作制度の規定を含む農業生産関係の特質の問題、土地問題とマニュファクチュア問題を含む幕末=維新史の問題、日本資本主義分析に関する方法論の問題など広範多岐に亘る論争が展開された。その根底には、日本における封建制が日本資本主義の政治、経済構造の全面に亘ってどのような形で横たわっているかの把握、すなわち日本資本主義における「半封建制」の評価がかかっていた。しかし、この論争は、日本軍国主義の嵐の中で、1936年夏の“講座派検挙”(いわゆる「コム・アカデミー事件」)、38年はじめの“労農派検挙”(いわゆる「教授グループ事件」)の二つの弾圧事件を契機に事実上終了せざるを得なくなった。
こうして、「講座派」と「労農派」との間で活発に展開された日本資本主義論争は、太平洋戦争への突入とファシズムによる弾圧の激化によって、ついに一時的に終止符を打たれることとなった。 この論争の意義は、日本資本主義の構造的特質をマルクス主義経済学の立場を通じて歴史的に把握し、そこから革命の方向を規定することによって、日本における社会主義思想の発展に大きく貢献した点にあった。しかし、その反面、この論争の前提には、両派による政治方針と労農運動の展開における明確な対立点があり、しかも、論争の後期においては、それが書斎的、経済主義的性格に陥ったため、単なる教条主義、公式主義の応酬による論争のための論争という不毛な方向を辿ったことも事実であった。だからこそ、この論争が、その理論分析においてはきわめて高度な内容をもっていたにもかかわらず、それを社会主義の思想、或いは運動として広範な一般大衆を含む、具体的、実践的運動へと転化することが出来ず、戦争の進行と軍部ファシズムの抬頭を許す結果となったのである。このことは、その後の社会主義思想及び運動の発展にとって、ほとんど致命的なマイナス効果となった。
戦後における日本資本主義論争は、戦前派のような「講座派」−「労農派」という明確な見解対立の形ではなく、その影響と成果を受け継ぎながらも、その批判の上に立って、新しい水準のもとに再び展開された。それは、今日に至って「現代日本資本主義論争」という名で呼ばれ、敗戦後の新段階を迎えて、その論争の内容もきわめて広範多岐に亘っており、より一層複雑化している。そこで、現代日本資本主義論争といわれる戦後の論争は『構造改革論争』まで含めて、きわめて広範多岐に亘っているが、ここでは、とりわけ『構造改革論』とも関連の深い「自立―従属論争」、「日本帝国主義復活論争」の二つについて、その展開過程を見ることによって、『構造改革論争』登場の背景をさぐってみることが必要である。
すでに述べたように、現代日本資本主義をいかにとらえるか、という重要な問題は、日本の社会主義運動の方向を決定する上での最も重要な課題である。それは、日本の現実をとらえることによって体制変革への方向を見出し、社会主義革命への主要な闘争のほこ先を規定する。従って、それは日本の革新政党の革命路線を方向づける党の綱領に具体化され、或いは革新勢力における常に古くて新しいしかも最大の論争点ともなっている。
戦後行われた主要な論争の一つに「自立―従属論争」がある。これは、1957年秋に発表された日本共産党の党章草案が、「現在、日本を基本的に支配しているのは、アメリカ帝国主義とそれと従属的に同盟している日本の独占資本であり、我が国は高度な資本主義国でありながら、半ば占領された事実上の従属国となっている。」と規定したことによって、日本が対米従属の立場にあるかどうかの評価をめぐって争われた論争である。そのように規定した共産党の党章草案は要旨次のように述べている。「敗戦によって、我が国はアメリカ帝国主義の事実上の単独支配下におかれ、隷属状態に陥った。アメリカ帝国主義は、戦後の“民主的改革”を彼らの対日支配に必要な範囲に制限し、対日支配に適するように日本を再編成しつつ民主主義革命を流産させようとした。又、それは社会主義世界に対する戦争準備とアジア諸国民族支配のため、日本を軍事基地として固め、日本人民の解放闘争を弾圧するとともに日本独占資本を目下の同盟者とする政策を取りながら、日本の支配勢力をより積極的にアメリカ帝国主義に同調させ、日本の軍国主義を復活させようとしている。」(日本共産党党章、「政治綱領」部分、『前衛』57年11月号)。 このような現状分析によって出てくる結論として、さらにこれは、「日本の社会主義への道はアメリカ帝国主義と日本の独占資本を中心とする勢力の反民族的、反人民的な支配体制を立て直し、人民の民主主義国家体制を確立する革命を通じて、初めて確実に切り開くことが出来る。」と規定している。このように規定する共産党の党章草案は、まず日本をアメリカの“従属国”であるとみなし、そこから、民族民主統一戦線による民族民主革命(「二段階革命論」)を唱えたことにその特徴があった。
しかし、以上のような現状規定を行った党章草案に対して、たちまち、党の内外から批判、反論が加えられた。それも日本の〈対米従属〉という現状規定と革命の性格の問題に集中された。党章草案に対する批判者は中西功、川崎己三郎、春日庄次郎、小林正和、後に『構造改革』を唱えるに至った大森誠人、安東仁兵衛氏など主に共産党内の論客であったが、旧「労農派」の向坂逸郎氏など社会党の論陣も加わり、「自立―従属論争」はますます激化した。論争の重点は、党章草案が、日本の「対米従属」を規定し、「アメリカ帝国主義」の存在を重視しているのに対し、その批判者は、1951年のサンフランシスコ講和―占領終結に伴う「質的変化」を強調し、日本の国家権力を握るものはあくまで日本の「独占資本」であると見なし、「「アメリカ帝国主義」の支配は、日本独占資本の対米従属政策からきているにすぎない。」という見解に基礎をおくものであった。
革命の性格をめぐる論争においては、党章草案の「民族民主二段階革命論」に対して、その批判者は、当面する革命の性格を社会主義革命(「一段階革命論」)であると規定し、革命への戦略目標を日本の「独占資本主義体制」であることを強調した。こうして、当面する革命の基本的性格は民族民主統一戦線による民族解放闘争ではなくて、反独占の社会主義への闘争であり、樹立されるべき革命権力は当然社会主義権力として規定されなければならないというのが、批判者の共通した見解であった。しかし、いずれにしても、このような日本の「対米従属」の評価をめぐる「自立―従属論争」は、活発な論争を展開したにもかかわらず、この段階では結局、結論は見られず、論争の重点を次第に日本資本主義の分析、その帝国主義復活の性格と時点、その方法論的妥当性といった問題をめぐる、いわゆる「日本帝国主義復活論争」へ移してゆくこととなった。
もともと、「自立―従属論争」は経済的側面から見れば、日本資本主義の“従属性”と“自立性”の評価をめぐる論争であったが、やがて、後者の自立的側面の評価が高まるにつれ、「日本帝国主義復活論」と直接結びつき、「自立―従属論争」は、「帝国主義復活論争」へと発展していった。そして、この論争において、自立論を展開し、「従属経済論」の批判を行ったのは、関西系マルクス主義研究学者で、後に『構造改革論』を積極的にとり上げるに至った小野義彦氏、同じ立場に至る佐藤昇氏、さらに旧「講座派」の内田穣吉氏などであった。
「日本帝国主義復活論争」は、『経済評論』1957年、6月号に、小野氏が『「従属経済論」への批判』と題する論文を発表したことによって事実上開始された。この論文で小野氏は次のように述べている。「日本は、戦後全面的な対米従属に陥ったが、日本の独占資本主義経済が復活する諸条件の下では、この従属は一時的性格のものである。したがって、独占の復活はその初期において、アメリカの対日援助に大きく依存したが、その後の蓄積の強化は、主として国内的源泉―国内市場の拡大と国内勤労大衆の搾取によっていた。又、現在なお維持されている占領制度と対米依存の諸関係は、日米独占の“階級同盟”と同時に、それを利用しうる日本独占自らの利益を考慮したものである。そして、日本独占の国内的基礎の復活は、ほぼ1953年頃に完了し、その後のデフレ期と56〜7年のブーム期を通じての自己の装備改善と競争力強化を土台として、再び対外膨張に主力を注ぐ帝国主義復活の段階に入った。」
このように、経済学的分析によって大胆な「従属経済論」の否定を行った小野氏に対しては、直ちに今井則義(後に『構造改革論』を推進)、豊田四郎、上田耕一郎、守屋典郎氏など、「従属経済論」の立場をとる共産党中央指導部に組みする論者から反論が加えられた。その批判には、今井氏のように、「小野氏の批判は、「従属経済論」の弱点を指摘しているが、その問題提起には、注目に値するものが少なくない。」として或る程度の評価を与えるものもあったが、守屋氏の批判は、「日本の独占資本は、アメリカ帝国主義への従属によってその権力を強化しながら、帝国主義への復活を示している。しかし、この帝国主義的復活は、アメリカの利益と結び、その侵略政策に従属し、道具となっていることが特徴であり、日本の主権が侵害され、アメリカ帝国主義が公然と日本人民の上にのさばっている現状のもとでは、反独占の闘争は、民族独立の闘争と結合し、平和と民主主義の闘いは必然的に独立の闘いとなる。従って今の段階では、日本の独占には、“独立”の道はなく、彼らの“自立”のポーズも、“従属”の形態変化に過ぎない。」として、日本の「独占資本」の「帝国主義的復活」傾向は認めながらも、その「自立」の可能性については完全に否定する、という見解をとった。
こうして展開された「日本帝国主義復活論争」はその後も論争の第二段階と言われる1960年の安保条約改定の時期に至って、いよいよ白熱化した。安保改定問題は、とりわけ日米関係を規定し、「自立―従属」、「帝国主義復活」という論争点の当否を決める一つの実質的な指針となった点で大きな意義があった。又、この過程で安保改定に対決する革新陣営の政治スローガンとして「中立主義」の問題がにわかに登場し、新しい論争のテーマとなった。この時期に至ると、旧来のままの「対米従属論」は次第に衰退し、「日本帝国主義」の復活を否定する論者は最早ほとんど存在しなくなった。しかし、それは復活の「完了」を認めるというのではなく、「日本帝国主義」の復活は、「しつつある」といういわば「現在進行形」であり、「過程」として存在するという見解であったため、基本的認識上の対立は依然として続いたのである。たとえば、日本共産党第8回大会に提出された「綱領草案」は次のように述べている。
「日本独占資本は、引き続き勤労者への搾取を強め、海外市場への商品、資本のより一層の進出を目指して、アメリカ帝国主義の原子戦争計画に我が国を結びつけ、経済的には帝国主義的特徴をそなえつつ、軍国主義的帝国主義復活の道を進んでいる。」こうした見解は、そのまま安保条約改定問題に対しては、次のような評価となる。「安保条約は、アメリカ帝国主義と日本の売国的独占資本の共同の陰謀による侵略的軍事同盟であると共に、依然として対米従属の屈辱的条約である。そして、これはサンフランシスコ体制の補強であり、日本は依然としてアメリカの半占領状態のもとにおかれている。」ここから、さらに「反帝(民族独立)闘争」と「反独占闘争」−いわゆる「二つの敵」に対する闘争が必要であるにもかかわらず、我が国の現在の民主勢力の基本的弱点は、全体としてアメリカ帝国主義との闘争の関連が不明確にされ、このことから民族独立の任務が大衆のものとなりきれず、サンフランシスコ体制打破のための統一戦線と強化を遅らせてきたことにある。」という統一見解が生まれてくる。ここに至って、革命の方向における主要な敵は、「アメリカ帝国主義」か、それとも「日本独占資本」か、という新たに重要な論争点が提起され、この「二つの敵」をめぐる論争は、安保改定問題、帝国主義復活論争と絡んで高度に政治的性格を帯びて展開されることとなった。
ところで、安保条約改定を対米従属の屈辱的・売国的行為であるとみなした共産党の見解に対して、日本帝国主義復活論者の理論的リーダーである小野氏は、1959年10月号の『世界』、「安保改定の政治と経済」と題する論文の中で、次のように述べている。「安保条約改定は、本質的には新しい一つの軍事同盟条約の締結を目指すものであり、核武装と海外派兵に道を開くものである。又、それは旧安保体制における日本の敗戦帝国主義或いは四流帝国主義を、三流或いは二流の抵抗主義にまでのし上げたいと望む日本独占資本の“固有の計画”、その“野望”に基礎をおいている。この交渉はまず日本側から持ち出されたという点に特徴があり、岸政府が積極的に持ちかけたという点に改定へのイニシアティブが主として日本側にあった、ことを察知できる。しかも、この計画は、アメリカ帝国主義との同盟の強化を求めながら同時に帝国主義ブルジョアジーに特有なきわめて利己的な性格に貫かれている。というのは、つまり、そこから自分自身に最大の獲物を得ようと努めているからであり、それは、アジアにおけるアメリカ帝国主義の後退と孤立化の深まりに積極的に手をさしのべ(これは、彼の別の表現によると、「世界的な帝国主義体制の危機の中で、この危機がまずアメリカ帝国主義の危機として現れている点を利用し、アメリカの陥っている困難に手をさしのべて、その譲歩を促し・・」(『講座、戦後日本の経済と政治』第四巻、大月書店刊 )となっている。)前者( アメリカ )への軍事的、政治的支援を約束することとひきかえに、日本と極東アジア地域におけるアメリカの一層の大きな譲歩と援助を引き出し、そうすることによって、すでにある程度経済的に強化されてきた日本をさらに政治的、軍事的にもアジアにおける帝国主義戦線の最も重要な要素に押し上げようとするものである。」と。大胆に提起された、この小野氏の安保改定論は、それを日本の「独占資本」の「帝国主義的膨張プログラムの一環として」とらえ、アメリカ側による「押しつけ」や「外圧」をむしろ否定的に評価した点に特徴がある。
この見解は、さらに安保改定問題から提起される「中立主義」の問題にも及び、次のような見解へと発展する。「帝国主義的自立を目指す日本支配層の進出は、世界の勢力関係を通じて、社会主義及びアジア平和地域との接近、平和共存の形をとらざるを得なくなりつつあり、この日本資本主義の平和的共存=中立政策への傾斜の可能性の重要な一要因となっているのは、日本帝国主義の復活そのものが必然的にもたらす米日間の矛盾の増大であり(この論理的帰結として、レーニンの「資本主義不均等発展の法則」=(『帝国主義論』)…(注)を取り上げている。)、さらに決定的な要因として社会主義陣営の偉大な発展と平和運動の世界的な発展とによって、両体制の平和的共存の方向が次第に強固となり、資本主義諸国の中立化政策は強まらざるを得ない展望をもつこととなる。(前掲『講座戦後日本の経済と政治』第三巻)」。この結果、革命の方向としては、「中立の問題は、革命の平和的移行を現実的に可能なものとするための客観的条件としてあらわれている。(『同講座』、第三巻)」という結論が導き出されてくる。そして、このような大胆な見解に若干の批判的立場をとりながら、さらに別の形で発展させたのが佐藤昇氏であった。(注)資本主義不均等発展の法則とは、レーニンの『帝国主義論』の骨子となるもので、それは、「資本主義生産は無政府的生産であり、それぞれ個人的利益を追求する資本家相互の競争を通じてのみ技術的進歩がはかられる。そのため、あらゆる企業・産業部門・国々が不均等に発展することはさけられない。」とする考え方である。レーニンはさらにこの法則に基づいて、「帝国主義時代には資本主義国の矛盾は鋭くなり、帝国主義戦争は不可避となる。従って、プロレタリアはブルジョアジーの対立を利用し、その弱い環で帝国主義の鎖を断ちきることが出来る。」と述べている。(『帝国主義論』) 佐藤昇氏は、『経済評論』の60年9月号で、「新安保条約と日本帝国主義」と題するシンポジウム(参加者は他に、大橋周治、川崎己三郎、塩田庄兵衛、広沢賢一の各氏)において次のように述べている。「安保改定が、日米間の本格的な軍事同盟の締結であり、安保改定闘争がそのほこ先をアメリカ帝国主義に向けていることはいうまでもない。しかし、主敵はあくまで日本の独占資本であり、共産党の言うようにはじめからアメリカを主敵として戦っていくことは誤りである。又、安保改定阻止闘争について言えば、その基本的なものは岸政府とそれを支える独占資本との闘争であったにもかかわらず、それを明らかにして、独占資本の支配を下から震撼させて行く闘争を充分強力に展開しえなかった。即ち、反独占闘争の一環として安保闘争をとらえていく点が弱かった。そして、このような指導上の誤りも手伝って、闘争を通じて労働者階級の本当の意味のヘゲモニーに取り組むことがおろそかとなったのは、単に指導の適否に解消できない日本の労働組合運動の体質的な弱さからもきている。」 このように展開された佐藤氏の見解は、「主要な敵」を日本の独占資本に向け、労働者階級のヘゲモニーによる反独占闘争(=『構造改革論』的発想)の意義を強調し、同時に日本の労働運動の体質的弱さをするどく指摘した点に特徴があり、これがさらに明確な『構造改革論』の提唱へと引き継がれるのである。
こうして、小野氏の「従属経済論」批判をきっかけとして活発な展開を行った「日本帝国主義復活論争」は、「岩戸景気」と言われる日本経済の高度成長を見る中で、岸内閣から池田内閣への転換期をピークに、安保改定問題、中立の問題、「二つの敵」問題、などを論争点に加えながら行われた。しかし、「新安保体制の成立」を契機に、次第に共産党内の主流派をも含めて、「日本帝国主義復活完了」を唱えるものが多数を占め、次に「日本帝国主義」の性格の解明、それとの「対決路線」の規定をめぐる論争へと発展し、ここにようやく『構造改革論争』の開始を見るに至った。こうして、『構造改革論争』は、ある意味では、「自立―従属論争」から「日本帝国主義論争へと発展してきた、戦後における「現代資本主義論争」の論理的帰結と言えるものであった。
ところが、「現代日本資本主義論争」の一環としての『構造改革論争』は、その点で大きな意義をもっているにもかかわらず、まず共産党内においては、「現代マルクス主義派」、「経済分析派」として、かねてから「自立論=日本帝国主義復活論」の立場から、『構造改革論』を積極的に取り上げていた小野義彦、佐藤昇、杉田正夫、大橋周治、石堂清倫氏らすでに述べた『構造改革派』の見解が、依然としてアメリカの支配を重視して「二段階革命論」をとる主流派の見解と真正面から衝突し、有効な論争を展開する以前の段階で、「『構造改革論は"修正主義"であり、"改良主義"である。』として、ついに『構造改革派』は組織的に排除されてしまうことになる。こうして、共産党内で完全に拒否された『構造改革論』は、やがて社会党の中に浸透してゆき、すでに見た通り、三段跳びに社会党の新路線として取り上げられるに至るのである。ここに、『構造改革論』をめぐる論争は社会党を中心にして行われることとなった。その経過は、すでに見た通りである。
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