戻るホーム著作目次

遠く朧ろな風景画― 転変の人生   江田 光子

 わが生涯で、まともに倖せを味はふ事のできたと思ふ神戸時代の記述に入る前に、感謝を以って心に刻んでゐるいく人かの人々について書いて置き度い。

 先づ筆頭、西崎喜平次氏。江田本人より先に、私自身の考えを引き出すべく、直接私に会って下さった。昔在った「大島屋」という、劇場吾妻座の隣りの飲食店に私を呼び出して。何と返事を申し上げたか二十才の自分には多分うやむやの応えしか出来なかったと思う。次に私の実父に話を持ち込んで来られた、江田の同志であり先輩であった大森伊三郎氏、私の家からは歩いてでも行ける浅越の農家の人。更には石井安六氏。彼は、江田ももう三十才も近くなったから、ぼちぼち連れ合いを見付けてやらねば、と最もやっきになって居られた様で、いつも膝とかお尻とかに大きな「つぎ」の当った様な誰かのお古の服を着てゐる彼に、せめて新しい背広を買って着せてやり度いと、その後江田の着てゐたグレーの背広は、そんな石井氏の骨折りで作って貰ったものの由であった。

 昭和十年二月一日夜。継母に連れられて私は財田村米田の某家を訪れた。当時「百間川耕作者同盟」といふ組合が、地元の有志と江田などの協力で作られ、大地主であった右の家が中心メンバーとなって活動をして居られた。ところがその某家が、私の女学校時代の友人の家でその友人はその頃は、朝鮮京城に棲んで居られた姉上のところに在住して居て、米田の生家には居られなかった。実はそのご両親が私を随分可愛がって下さり、今もそのご厚意を忘れることはできない。

 私の家は商売の関係上、父は警察署長さんなどとも交流があり、或日署に呼ばれて行った父が帰宅して、「署長がなあ……。」と、大事な娘を嫁にやるのに、先の苦労が目に見えてゐるところへやっていいのか、之は考えもんじゃと思ふがなあ、と、いろいろ話をきいてきた。と、父は、大森伊三郎氏からの申し込み話しに頭を抱えてゐた。勿論、私自身も政治とか農民運動とかについて、些かの知識も持ち合せてゐなかった。思想的にも全くゼロであった。

 仲良しだった某さんのおうちは、一町歩以上もの田地持ち、即ち当時の地主。百間川々床にも広い畑を持ち、蓮根畠もあり、邸うちには広い畑、そして筍の産地らしく広い竹薮もあった。大地主であり乍ら、農民運動にも理解を示され、会合の為に自ら自宅の座敷を解放もされた。江田の同志の石井安六氏は、「大地主でありながら、いつもあれ丈好意的だから、ひょつとして、娘さんを江田の連れ合いに――。いつも集りに顔を見せてゐるあの娘さんを頼んだら承諾して呉れるんじゃないかしら、一つ言うてみよう。」といふことになった。と、返事は「うちの娘は京城の姉のところへ行ってゐる、いつも顔を見せるあの若い人は、ご近所のお嫁さんでもう子持ち、丁度心当りの娘さんがゐるから言うてみて上げる。」といふ返事で、即ちその心当りの娘といふのが私のことであったわけ。「縁は異なもの味なもの。」といふ通りの結果となった次第。

 扨、この辺りで、いよいよ神戸時代に移らふ。二年七ケ月目に娑婆に姿を現した夫。私は街中で、回漕店を一人で引っ構えてやってゐた。入牢期間を終へた夫は、暫くは吉井川へ魚釣りに行ったり、友人に会いに出かけたり、朗かに長閑さうにしてゐたが、いつまでもこうしてはゐられないと少々焦ってゐたその矢先。同郷の先輩が、神戸で始められた「公詢社」といふ葬儀社の支配人にといふ事で迎えられた。従ってやがて私も神戸に移り住む事になった。そして私はサービス係となってそこで働き始めた。夫が獄中に在った間、私が勤めてゐた回漕店も本社が神戸で、当時のネッスルミルクの専属の商社であったから、何度か神戸の本社へも出向してゐた、その神戸。移り住んだ初め頃は、宇治川市場の近くのアパート、諏訪山も再度山も近くて、休日にはいそいそと山へ出かけた。緩やかな渓流の岩から岩に翔び移る鶺鴒の姿に見惚れ、又或時は、昔夫が通った六甲山へ――。ケーブルカーの窓から下を見下すと、傾斜地に咲く石楠花の花が見えた。夫にとっては懐しい学生時代の思ひ出の道であったであらふ。時には新開地へお食事に、又時には三の宮の駅前のおでん屋へ、中華街へ、港の波止場へと――。「プレヂデント・ドーマー」といふフランス船の中へも案内して貰った事を思ひ出す。

 何回かの転居のうち、須磨の衣掛町、月見山へと移り、宝塚へも近い上祇園へ。戦争は次第に激化し、市場には物が無くなり、食パン・バター・魚類・雑炊を並んで買う様になった。そのうち、江田と同時に反戦論者のレッテルを貼られて投獄されて居られた先輩の山上武雄氏が逝去され、夫はそのご葬儀に帰郷した。戦時色は益々濃くなり、国外追放を受ける同志も現れ始め、夫は自ら進んで中国大陸へと出国を決めた。山上先輩の葬儀を終ると間もなく、妻子を残して、知人を頼って北京へと旅立ったのであった。そして、四ケ月後の昭和十七年十二月、生後一年七ケ月の幼児を連れて私も後を追ったのである。中国大陸での終戦までの生活が始った次第。

(波光 Vol.8 1991/10 掲載)


江田光子 略歴

1915(大正 4)年
12月31日 岡山県西大寺に生まれる
西大寺高女卒
1935(昭和10)年
4月1日 江田三郎と結婚
社会党婦人部長として活躍
1977(昭和52)年 5月22日夫と死別
1979(昭和54)年 衆議院選出馬(旧岡山2区)
「龍」同人、日本歌人クラブ会員、野鳥の会会員
歌集「炉の辺にひとり」「草木有情」刊
1987(昭和62)年 「龍賞」受賞 「聖良寛文学賞」受賞
1996(平成 8)年 10月7日 永眠(享年81歳)

戻る著作目次