新しい政治をめざして 目次次「国際民主主義の確立をめざして」

3 社会主義神話の崩壊と社会民主主義の再生

 一体、右派、左派という表現は、具体的にどういう内容があるのか、私には分らない。誰もが正確に定義することなく、右は堕落し不潔であり無原則に妥協する、左は苦難にたじろがないで正しい路線を毅然として貫きとおすという漠然たる印象をあたえるような使い方がされているのではないか。左こそが情熱をもやし、命をかける道であるかのようにもちいられ、右派という言葉には多分に軽蔑がつきまとってきた。それにしても左右のメルクマールはどこにあるのか。共産主義が左であり、資本主義、帝国主義が右であり、その間に、左より、日和見、右より等々が位置づけられるというのか。そして、共産主義を代表するソ連が、最も高く評価さるべきお手本だというのか。ソ連を批判し、距離をおきつつある西欧共産党は堕落したのか。また社会党は共産党の右として、コンプレックスを持たねはならないのか。右左の言葉が単なる位置づけではなく、ある種の価値観を伴って投げあわれ、不毛な混乱をひきおこしているのである。そう思うのは、古い運動家の意識過剰であり、世間一般、ことに若い人達は、別の角度なり価値観にたってこの言葉を使うのかも知れない。「左」と呼ばれる人々がしばしば思想的にきわめて保守的であったり、権威主義的であったりして、革新性に欠けているのが事実であることに、もっと多くの人々が気付いてくれることを望みたい。

 私が学生時代の昭和初期、来る日も来る日も新しく出版される社会主義の文献が積みあげられた。目をとおすことが一日おくれても、肩身が狭い思いがした。そのほとんどはマルクス・レーニン主義のものであり、社会民主主義については、その立場からのまとまったものが出版されず、裏切りであり、階級の敵であると断定するマルクス・レーニン主義の側からの批判が大部分であった。そして、革新政党、労働運動の面で、社会民主主義にたつものは、ダラ幹とののしられた。

 私が参加した農民運動では、「合法派」の本部に対し、地下の共産党にどこかでつながる「全国会議派」の反本部運動があった。私は、たとえわずかでも農民の具体的利益をかちとることに重点をおいたが、会議派は闘争を通じて組合員を社会の矛盾に開眼させ、意識水準をたかめ、革命の戦士に育てることを目標とした。したがって、犠牲者が多く、運動はのびなかった。私は学生時代から堺利彦氏や山川均氏の労農派に傾き、全国大衆党に入党したのも、山川氏の「共同戦線党論」にたってのことであった。したがって、マルクス・レーニン主義には一歩距離をおいていたが、農民運動の実践を通じて、距離はさらに大きくなった。右左のレッテルはりに、さして神経質ではなかったが、運動全体の空気は、戦後になっても、右と烙印をおされることは、有利でなく、影響力を弱める傾向がつづいてきた。戦前の出版物がマルクス・レーニン主義の洪水であったと同様、戦後も出版界の大勢は同様であり、党でも組合でも活動家たちは、あわてて薄っぺらなパンフレットで理論武装したのである。社会党に参加した者のなかにも、共産党にコンプレックスを持った者がすくなくないし、ソ連礼讃であり、科学的社会主義を唱えて、どの点が共産党と異なるのか、極めてあいまいな立場をとる傾向があったし、いまものこっている。

 しかし、世間一般は、既存の社会主義体制に対し、漸次批判的になってきた。情報化時代となり、カーテンの向う側の実体が伝わるとともに、神話や伝説が力を失ってきたのである。こうした批判的な世論に同調だけしていたのでは、もともとマルクス・レーニン主義に批判的であったわれわれ自身も、社会主義として一括され、ともに埋没させられてしまうことになる。これが現代における社会主義だというものを、積極的に提示することを迫られているのである。私は党内の同志や親しい学者諸君とともに、そのことに努力してきた。

 現代における社会主義とは何か、という問題はひとり日本だけで問われているのではない。もともとロシア革命は、国民の過半数が抑圧された無学文盲の農民だという後進社会で達成されたことであり、発展した工業社会に適用できるものではない。西欧、とくに南部地域においては、共産党は無視できない大衆組織となってきたが、政権担当の至近距離に到達するにつれて、後進国革命の理論をすて、先進国にふさわしい路線に転換しつつある。代表的なイタリアとフランスの共産党は、マルクス・レーニン主義やプロレタリア独裁をすて、ソ連とは一枚岩ではなく、距離をおこうとし、ユーロ・コンミュニズムと呼ばれている。

 私は近代における社会主義は、社会民主主義運動として出発したものと思う。資本主義が発展した段階で社会主義に到達するというマルクスの見解に反して、後進国ロシアで革命を達成したレーニンとその後継者たちは、ロシア革命こそが正統であるとし、マルクス・レーニン主義として理論づけ、社会民主主義の主流に徹底的に攻撃を加えた。ソ連共産党の指導のもとに社会民主党を分裂させて結成された各国共産党も、当然のことながら同じ立場をとってきた。しかし、いま、ソ連圏の東欧諸国でも、チェコの「人間の顔をした社会主義」以来、ソ連体制に対する批判が無視できないものになりつつあり、西欧でユーロ・コンミュニズムが叫ばれてきたのは、社会民主主義を足げりにしてマルクス・レーニン主義にたってきた諸勢力が、自由の尊厳を改めて直視し、社会民主主義に回帰しつつあることを意味していると私は思うのである。

 ちょうど十年前の昭和四十二年、私は『日本の社会主義』を日本評論社から出版したが、そのはしがきで、次のように書いた。

「『神聖家族』(一八四五年)という本のなかに出てくるマルクスのつぎのような言葉を、私は いつも噛みしめる。

 『共産主義はわれわれにとって、作り出されるべき一つの状態ではない。また、現実がそれに準じなければならないような一つの理想でもない。われわれが共産主義とよぶのは、現在の状態を廃棄させる現実的な運動のことである。この運動の諸条件は現実に存在する前提から生ずる。』」

 私にとって、社会主義はご神符ではない。社会主義運動とは、人間優先の理念にたって、現実の不合理・不公正の一つ一つをたたき直してゆく、終着駅のない運動のトータルなのであり、そのことを国民の同意のもとに行おうというのであり、右だ左だというのはつまらない観念の遊びであり、大切なことは、現実の改革に有効なのか否かである。

 私はマルクス・レーニン主義が社会民主主義に回帰しつつあるといったが、社会民主主義も固定したものではなく、私のいう終着駅のない改革の思想である。政権担当の経験をもつスエーデンや西独においての実績をみると、社会民主主義も、困難とたたかいながら、絶え間なく前進し、深められつつあるといえる。日本においては、民社党が社会民主主義の本流を名乗ってきたが、民社党はこの思想を矮小化し、無気力化し、むしろこの思想の欠陥として指摘されたところにおちこみ、脱皮する積極的努力がないようにみえてしかたがない。と同時に、北欧や西独の社民党と積極的な交流をもたず、ソ連国との友好でこと足れりとしている社会党の姿勢も批判せざるをえない。


新しい政治をめざして 目次次「国際民主主義の確立をめざして」