新しい政治をめざして 目次次「草地利用への提言」

墓と葬式と

 先頃、多磨墓地で行われた浅沼前社会党委員長の五年祭に参列した。道すがら、山下奉文将軍の堂々たる墓碑が目につき、興味がわいたので、そのあたりを一巡してみた。一株の草木も生える余地なく、敷地いっぱい石を敷きつめたのがある。大金を投じたのだろうが、親しみはわかない。

 一生を悪戦苦闘し往生の後々まで、威儀を正して坐らされているようである。手入れもなく、雑草の生い茂るにまかせたのがあるが、これだと、のんびり手足をのばせるだろう、などと想いながら記憶にある名前と結びつけて墓見物をするのは、なかなか面白かった。

 墓を建てるのは本人ではなく、遺族や知人であり、墓と本人の人柄とを、直接結びつけるのは無理があるが、故人の人柄を知りぬいているものたちが、つくるのだから、故人の意思と全然無関係とはいえないだろう。

 ビラミッドでも日本の御陵でも、大変な労力の結集であるが、およそ、封建色の強さと墓の大きさとは比例しているといえよう。近代化とともに、墓はちいさくなり、やがてなくなるであろう。

 世に特別の功労のあった人のためには、記念碑をたてるということになるであろう。すでに、一般市民にとっては、坪数万円という墓地は無縁であり、せいぜい納骨堂にぎっしりつめこまれてがまんしなければならないことになっている。

 葬式にしても同じことだ。戦前の朝鮮の金持ちの葬式は、二、三十人でかついだ棺を先頭に、延々たる行列がはるか何十キロも、途中の居酒屋で息をいれつつ、エイホウエイホウとうたって進んだ。近頃のわが国でも、有名政治家の告別式には、数千の人々が自動車でのりつけ、式場近辺はすっかり交通ストップになる。およそ、近代的とはいえない。私の先輩であり、わが国農民組合運動創始者の一人である山上武雄は、元気なとき、「時雨のなか、同志、家族一〇人ぐらいで墓場に送ってくれるのが望ましい」ともらしていた。戦時中、脳溢血のため監獄の独房で倒れたこの先輩の葬式は、きびしい弾圧のもと、時雨こそなかったが、淋しく送られた。これが革命家の最後にふさわしいと、棺の中でつぶやいていただろう。

 都会の交通難のなかを、造花をならべた式場に、忙がしい人達を大動員するのは、馬鹿げたことである。遺族たちとしては、立派な式をあげたいだろうが、逝去を知った知人同士が、自宅や職域で、静かに黙祷をささげて終りたいものである。近頃、有名人で、近親の密葬だけにとどめるのがあるが、見習いたいことだと思う。いっそのこと骨も捨て去って、墓に代うるに写真と遺愛の品一つを自宅にかざるようにしたら、なお好ましい。

 私は田舎の野辺のおくりが好きである。親族に知らせに出かけることも、墓の穴掘りにしても、諸道具にしても、一切を部落の講組が担当した。納棺は近親の手で行われた。姓名旗を先頭に、棺を近親がかつぎ、紙ののぼり、高張ちょうちん、天蓋、杖、仏飯、四花などの行列が、寺への田舎道を黙々と進むのは、いかにも人生の最後らしく、風情がある。

 そういってみても、現在の都会では実行不可能なことである。講組にかわって、葬式屋が万事をとりはこぶのは、やむをえないことであるが、形式にながれ、さらにこの職業がいやしめられることに問題がある。戦争中、近衛の新体制運動が捉唱されたが、神戸にいた友人から、葬儀の新体制運動をやろうという誘いをうけた。治安維持法違反の獄中生活をおえ、久しぶりにしゃばに帰ったが、毎日特高警察の訪問をうけていたときなので、直ちにはせ参じた。新体制運動がどちらにころんでもかまわないが、職業による差別は打破しなければならず、さらに、自分が葬式屋になることに、皮肉な興味を感じたわけである。資本金一〇万円の会社を設立し、私は支配人格になった。机に坐っていたのではせっかくのこの職業選択の意義がないので、現場へでかけてベテランの指導をうけ、やがて納棺でも骨拾いでも、一応こなせるようになった。

 どこの家庭だって、葬式はめったにないことだから、葬式屋のいうがままに、まかせてしまう。万事型通り、事務的に処理されることになる。しかし、私はこの仕事のなかで、坊さんより葬式屋の方が、大切なことをやっていると思うようになった。坊さんこそ、表面はともかく、実体はまことに職業意識むき出しであり、戒名にしても、お布施の高によって、院殿居士がかわってくる。死んだ人のことは坊さんの領域だが、遺族を成仏させる仕事は坊さんではなく、葬式屋だと気づいた。出棺前のお別れのしかた、棺に釘をうつ音、骨の拾い方、葬式屋のやり方如何で、遺族の心理は大きく左右される。どうせお経なんて、間違っていても、ほとんどの人は気がつかないが、葬式屋の取扱いが一つ粗雑であれば、儀式はぷちこわしになってしまう。

 もう一つ、儀式を左右するのは弔辞である。きまりきった文章を、代読でやらされたのでは、どうにもならない。故人を知りつくした友人が、いささか悪口もまぜながらやってくれると、式場がひきしまってくる。キリスト教や神式では、牧師や神官が故人の経歴をのべるが、これも面白くない。ことに神式になると、現代人の経歴を、やまとことばでやるのだから、途中で滑稽な気持にされてしまう.

 都会の葬式を田舎風にすることはできないが、改革の余地は多分にある。お供え物にしても、型通りでなく、故人の好みに従ってよい筈である。社会党の政策審議会長だった伊藤好道がなくなったとき、一切を私にまかされた。納棺のとき、好きなウイスキーにしめした花で、みんなが顔をかざった。のこったウイスキーは、棺一杯に、遺体にふりかけた。どうせ無宗教なのだから、式場の飾りつけも目録通りの道具だてでなく、生花を中心にした。近頃の大式場の告別式には、斬新な装置が見られるが、自宅の告別式も、故人の人柄にふさわしい様式がとられていいと思う。

 葬式屋に納棺をやらせる遺族があったが、非礼だと思う。こういう家庭に限って、心中葬式屋を蔑視しているのだ。私は納棺を注文されると、尊い遺体の扱いは遺族でおやりなさい、お分りならぬ点はお手伝いしますと答えた。一年半ほどの経験のなかで、今も忘れえないのは、台湾生れの若い婦人をなくした洋服職人のことである。立派な台湾服を着せ髪形も化粧も台湾風に美しく仕上げてあった。お別れのとき、間借りの部屋に咲いていた紅白二鉢のぼけを根元から切りとって、顔の両側を飾った。なんとなく『聊斎志異』にでもでてくる女人のような、あやしげな美しさだった。

 今一つ忘れえないのは、ポンビキ屋が自動車事故で亡くなったが、身よりがなく、仲間が葬式をたのんできた。金は、あとで払うからたのむという。面識のない人たちだが、粗末な式を引受けた。一ヵ月後、おそくなってといって出した金は、全部五十銭銀貨であった。彼らの仲間意識に胸をうたれるものがあった。簡素ななかに、心のこもった葬式を、創りださなければと思う。葬式は誰もがさけられない儀式だ。


(エコノミスト、昭和40年12月28日号) 目次次「草地利用への提言」