新しい政治をめざして 目次次「緑の町づくり」

旅を楽しむ

 これまでわたしは、半年を旅ですごした。心まかせの旅なら別だが、党務出張でこれだけ引っぱりだされるのでは、なにかの楽しみを見つけださないことには、やり切れない。

 行くさきざき、ぎっちりスケジュールが組まれているので、名所旧蹟を訪れることはない。それに、わたし自身そうしたところに興味もない。人かげのすくない山にでも登るのならいいが、観光客でこみあう場所へ、求めて訪れる気にはなれない。

 楽しみの第一は、地方色豊かな食べもの、飲みものである。かつて北海道によばれたとき、夕食はホテルだといわれた。とんでもない。ここまで来てホテルの食事なんか食べられるかい、炉ばたで焼いた北の海の魚をくわせろと注文をつけた。このことあって以来、北海道の同志は、黙っていても、魚と生ビールにさそってくれることになった。四国を遊説すると、街の小店の出窓にならべたいなりずしや小魚の煮つけが目をひく。せっかく、手ながたこの煮つけを見ながら、昼食にするチャンスをのがしたので、旅館におちついてから注文してみた。旅館の調理士は日頃取扱わないとみえ、砂糖をきかせていた。醤油だけの単純な味にこそ、真価があるのにと思ったが、心づかいに素直に礼をのべた。その次に同じ旅館に泊ったところ、おすきなたこを用意しておきましたと、同じ味つけのものを出され、また厚くお礼を申した。

 九州推葉の里に災害見舞にでかけたところ、村の有力者二十名あまりが歓迎宴をはってくれた。日本酒をだされたので、せっかくいただくのなら、この土地の名物のくましょうちゅうにしてくれと注文をつけた。夜半まで参加者全員の盃をうけ、翌朝五時に災害現場にかけつけたところ、実力のほどを見損っていましたとあいさつされ、土産に一升瓶三本をさしだされ、はるばる東京まで持ち帰ることになった。このことが伝わって以来、南九州にゆくと、しょうちゅう以外飲ましてもらえなくなったが、先頃長崎で、揚げたてのかまぼこを肴にのんだ壱岐産のものなど、舶来ウイスキーをはるかにしのぐ絶品だと思っている。

 亡き河上先生に同行したとき、君はどこへ行っても、うまいものを知っているとうらやましがられた。わたしはつねづね、飲み食いに情熱のない人は、玉の盃底なきがごとしと思っているが、俗物の自己弁護かも知れない。

 そこで趣味を高尚にして、写真機をぶらさげることを楽しむことにした。人物を写すと、引きのばして差上げねば相済まぬような気がするので、もっぱら風景や草木をカラーでとった。旅先のカラースライドを、わが奥方にお目にかけるという愛情豊かな楽しみである。その頃わたしは、党の農民部長として、長期農業政策をまとめた。写しためたスライドをもとにして、この政策を幻灯スライドにすることを思いついた。農業の写真は季節の制約がある。なんでもやみくもに写しておき、筋はあとからつくるという逆手でないと、短期に仕上げが出来ない。幻灯というのは、一枚のスライドで、どうでも説明ができるので便利である。二十四枚一組で、農業二編、畜産と林業を一編ずつまとめあげた。とたんにおっくうになって、愛用の写真機は息子にゆずってしまった。

 代ってとびついたのが、郷土玩具を集めることだ。旅の記念にと思って、一地方一個の原則で始めたところ、奥方によろこばれた。一個二、三百円で済むのだから、このくらい安上りのサービスはないと思って買い求めているうち、蒐集欲がでてきた。旅にたつ前、あらかじめ参考書を調べておく、というまでにとりつかれてしまった。駅の売店にはろくなのはない。深い楽しみは、人間文化財といわれるような老人の、街の片隅の作業場をさがしあて、茶話のうちに荷づくりしてもらうところにある。大きなもの、値のはるものは敬遠してきたが、それでも、もう六百点をこえ、置場にもこまるようになってきた。

 高松に宮内さんという老婆の紙はりこの玩具がある。かつて、その一つが年賀切手の図案につかわれたこともある。それがいかにも安い。取次いでいる店の主人に、二倍ぐらいに値をあげたらどうかと言ったところ、おばあさんが昔きめた値をかえようとしないので、私の店が暴利をとるわけにゆかないという。老先ながくない人なのだから、値上げした分だけ、石碑の資金に積立ててあげたらどうだといったが、それも相談すればことわられるし、無断でもやれないしということだった。いまも、そのままの値段なのだろう。

 わたしは、わが家の六百点を、六百万円のコレクションと呼んでいる。積算の根拠をきかれれば、倉敷の自宅から、一つ一つ買いにでかける旅費日当を計算するのだと答える。総じて、自分のもちものを過小評価するのは、日本的かも知れないが、現代の美徳ではないと思っている。

 この郷土玩具も、一通り集まったし、置場にもこまってきたし、そろそろ限界にきたようだ。先日、山形選出の代議士が、面白いものが見つかったといって、藁駒を持ってきてくれた。雄渾な男性が腹をたたいている駒である。こういう掘り出しものは、ちょいちょいあろうが、このへんで方針を転換したいと思った。そこで始めたのが木を集めることである。二年前、選挙区の関係で住居を倉敷に移した。山すその、あたりに住宅のない、馬鹿らしいほど地価の安いところなので、庭を広くとった。庭師をいれて本格的な庭つくりをするのには、余裕もないし、面白くもないので、山から掘ってきたり、田舎の同志に貰った苗木を、でまかせに植えてきたが、ここに、全国各地の「郷土の木」を集めることを思いついた。すでに、北海道のエゾ松、秋田のななかまど、鳥取のきゃら、広島の夏椿、宮崎のばくちの木といった具合に、旅先であれこれ貰い集めて、樹種百七十をこえてきた。

 種類は多いが、大部分が苗木なのだから、地肌はあらわである。友人が、これでは庭ではなく植物園だ。しかも十年もたつと踏みこむ余地もなくなると注意してくれた。やがて、ジャングルになるだろうが、その時はその時のこととし、なお全国各地から貰い集めることにしている。

 近頃、旅の車窓からも、木が目について仕方がない。つくづく感じることは年輪の尊さである。年を経たものは、別にせんていなどしていない。農家の庭の柿の木にしても、風雪が姿を整えるのであろう。堂々たる風格をそなえている。

 わたしの旅の楽しみも、変遷してゆく。写真機から玩具、そして樹木となると、次は石というのが常道かも知れない。しかし、最近の馬鹿げた石ブームをみると、抵抗を感ぜざるをえない。名もない駄石ならともかく、名石は一切拒否したい。

 それはともかく、木を植える楽しみは、都会の庶民には縁のないことになってきた。淋しいことだ。都会生活と自然とを結びつける新しい生活体系がつくりだされなければならないと思う。


(エコノミスト、昭和41年3月8日号) 目次次「緑の町づくり」