2009年9月4日

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河原太郎先生弔辞


弔辞

 昨日の朝早く、河原昭文さんからの電話で、その日の日付が変わったところで太郎先生が息を引き取られたことを知りました。入院されたことは聞いていましたが、昭文さんとは他にも相談する案件があったので、太郎先生のこととは思わず、全く突然の訃報でした。

 昭文さんと私とは、中学以来の親友で、家もすぐ近くだったので、しょっちゅう家に遊びに行き、太郎先生にはずいぶん可愛がっていただきました。悪がき仲間でまわりをはらはらさせましたが、太郎先生は常に笑顔を絶やさず、怒られた思い出は一度もありません。

 高校3年生の秋、受験一本槍の学校の指導方針に反発し、運動会終了後にファイアストームをしようと生徒会で企画したことがあります。もちろん昭文さんも仲間です。学校側は絶対に許さず、生徒側も絶対に降りず、私は責任者として教員室の裏の小部屋に呼ばれ、先生から強行すれば退学だと、その代わり先生も辞めると、通告されました。思いがけない事故があり企画は中止となったのですが、そういうときに太郎先生は、PTA会長として常に生徒の側に立ち、生徒の気持ちを大切にして笑顔で私たちを庇ってくれました。どんな時でも、決して怒らないのです。これは、弁護士として先生にお世話になった人が皆言うことです。この頃から、先生は終生、私にとっての人生の師でした。

 私が政治家人生を歩むようになり、岡山で政治活動を開始したとき、私はもちろん先生に後援会長をお願いしました。先生は快く引き受けて下さり、地元後援会「江田五月会」の初代会長に就任してくれました。今は、ご子息の昭文さんが2代目会長を務めてくれています。時には先生の意に反する行動もあったと思いますが、先生の穏やかで的確なアドバイスで、数々の試練を乗り越えてきました。一昨年の参議院選挙で、私たちは鈴木宗男さんに応援を頼みました。先生は、刑事被告人に頼むのは絶対反対とのご意見でしたが、私が「彼は今は反省で評価されているんです」とご理解をお願いし、渋々認めてもらいました。

 長い先生の経歴を顕彰するために、先生に肖像画を贈呈しようということがありました。絵は出来たのですが、先生は賑々しい贈呈式は嫌がられ、お宅に届けただけとなりました。今春、法曹70年表彰を受けられましたが、今は私どものお祝いも叶わぬこととなりました。この夏は、気候は不順でしたが、政治的にはこれまでにない暑い夏でした。30日は投票日でした。先生はしっかりと投票され、午後8時過ぎの開票速報で、全国で第一番に岡山の柚木道義さんと津村啓介さんの当確が報じられ、政権交代確実の趨勢となったのをご覧になりました。そして、「高井君は…」と尋ねられたのが、最後の言葉となったそうです。先生、高井崇志さんも花咲宏基さんも、ちゃんと当選しましたよ。そして、みんなが望み私が人生を掛けた政権交代が、実現の運びとなりました。先生は、この歴史的なときの流れの中で、その結果を横目で見ながら、人生の最後の幕を引かれ神に召されました。堂々たる人生の達人で、最後まで私たちみんなの師でした。

 先生の教えは、決して私たちの記憶からも精神からも、消え去ることはありません。改めて、先生のご指導に感謝し、天国から私たちをご指導下さることをお願いして、お別れの言葉とします。河原太郎先生、さようなら。

 参議院議長 江田五月


2009年9月4日

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