1999年3月22日 |
中村法相辞任報道について
中村法相の件について、多くの皆さまから激励をいただきましたが、一部の人から批判も受けているので、私の考え方を要約してみます。
私の目にとまったご批判は、お手紙ひとり、週刊ポスト(3月26日号)の記事および週刊文春(3月25日号)の猪瀬直樹さんの「ニュースの考古学」です。「法曹業界」(猪瀬さん)は、市民の批判を許さない「ギルドの世界」(同)であり、中村法相は政治のリーダーシップでこれを改革しようとしたが、恐れをなした「法曹マフィア」(ポスト)が腕を組んで、これを追い落としたというのが、その要旨だと思います。
私も、司法や法務の世界が官僚的で、市民の近寄りがたいものになっているとの批判は、当たっているところがあると思います。
しかし、司法改革は、法務大臣が鶴の一声で断行できるものではありません。それでは逆に、「司法の独立」を侵し、「角を矯めて牛を殺す」ことになりかねません。司法改革は内部努力が基本で、これと高い志をもった政治家の努力がいい形で結びつくことが必要です。中村法相の第一の誤りは、以上のとおり、志の低い横紙破りの手法にあります。
第二の誤りは、改革の方向です。彼の憲法軽視の発言、弁護士に対するピントはずれの批判、指揮権発動についての無理解などを見ると、彼のめざす改革の方向は、市民に開かれた質の高い司法をめざすものとは逆方向です。
法務大臣は独任制の行政庁であり、法務省の組織と職員はすべて彼の補助者なのです。だから法務大臣が具体的事件について刑事局長に指示をすれば、大臣の手足の立場にある刑事局長は、検事総長にその旨を伝えざるを得ず、こうして指揮権が発動されるのです。中村さんは、自分は指揮権発動はしていないと言い張られますが、彼の場合には、こうして誤解に基づく無意識の指揮権発動が起こりうるのです。こんなことも理解できないようでは、法務大臣だけでなく、どの行政機構のトップにも座ってもらっては困ります。本人に自覚のないまま、とんでもない権限の行使をされてしまうことになりますから。「改革の旗手」を自認する人の場合には、それだけ余計に怖いですね。誤解されては困りますが、私は指揮権発動を否定しているのではありません。これは、検事総長が職を賭して抵抗することさえ予定した、極めて緊張度の高い調整の制度なのだから、軽々に扱ってはならないということなのです。第三は、中村法相の軽率さです。すでに辞任されたのでいちいち例は上げませんが、公私混同を疑われるだけで、「公正らしさ」が揺らぐのです。これでは、「法の権威」とか「法の支配」とか、法を体現する資格はありません。
こんな人を法務大臣に任命し、更迭するときも本人から辞表が出されたからと、すべて他人事のように済ませる小渕総理大臣の責任は重大です。猪瀬さんの言われるような改革は、もっと徹底的に、もっと賢明に、私たちも取り組みます。「法制審議会の委員に市民代表をいれよう」という富嶋克子さんの提案など、面白いですよ。
中村法相辞任報道について 1999年3月22日 |