2011年法政大学大学院政治学講義 ホーム講義録目次前へ次へ

2011年12月2日  第12回「市民の政治参加」(ゲスト・辻元清美 衆議院議員)

【江田】
 12回目の講義となりました。前回は国会議員の政策への関わり方、司法制度改革の話をしました。また、主権国家がいかに変わっ てきたのかについて、私なりの世界観についてもお話ししました。この続きは来週にします。

 とにかく、現在は冷戦が終結した後、世界的な問題が平和や環境問題にシフトしてきました。これは国家という枠組みを超える問題です。そこで出てきたのが 地球市民という概念で、一人一人が自己決定権を持っていることをその基本にしています。

 一人一人が主役ということは、どのようにしてネットワークを作っていくのかということが課題になります。これについても重層的なシステムができつつあり ます。今回は3.11災害で、被災地のボランティア活動の取りまとめをしてくれた辻元清美衆議院議員に来て頂きました。国と自治体の関係や、当時どのよう な役割を果たしていたのかについてお話し頂こうと思います。それでは自己紹介を含めて、辻元さんお願いします。

【辻元】
(1)ピースボートは何を目指したのか
 ご紹介頂きました、衆議院議員の辻元清美です。江田さんとは古いつきあいをさせていただいています。江田さんは市民運動やNPO、NGOの活動 に理解が深く、私がピースボートをしているときから親しくさせていただいています。

 1983(昭和58)年、大学在学中にピースボートという国際交流の団体を設立し、アジアや世界を一周しながら戦争と平和のことを考えようという活動を してきました。仲間は早稲田大学の4人。当時の世界情勢を見てみると、日本では中曽根康弘政権で、日本列島不沈空母化とか、ソ連ではゴルバチョフさんも登 場しておらず、冷戦真っ最中でした。そんな中で、過去を見つめ未来を考えよう、市民政治を目指そうということで、みんなが主役で船を出そうというコンセプ トでピースボートをつくりました。

 船で各地を訪問しながら、一人一人が社会とコミットメントしていくことを目的にしていました。先ほど言ったように、1980年代の世界は冷戦時代、西側 と東側がはっきりしていました。私たちは1985年にベトナムとカンボジアへ行こうと計画していました。当時、ベトナムは渡航自粛の措置が出されていまし た。ある企業がベトナムに入っただけで渡航自粛要請が出る、そんな時代でした。まだあります。フィリピンは西側、ベトナムは東側でしたが、フィリピンの後 にベトナムに行こうとするとベトナムに入国拒否される、その逆もフィリピンに拒否されるような時代で、私たちはそういう壁を越えていこうとしていましたか ら、厳しい交渉をしました。外務省の人からは、「やめろ」とは言われませんでしたが、「ベトナムに行くのですか、やめることはできませんか」と言われまし たが、「法律に行ってはいけないと書いてありますか」と応酬しました。外務省の人はだんだん語気が強くなってきました。

 後日談ですが、私が議員になる前に冷戦は終結しました。日本政府は冷戦中にカンボジアとベトナムに関わらないようにしていたために、両国の情報がまった くない状態。政府機関の人が、私の所にカンボジアの写真をもらいに来るということもありました。また、私が議員になってから外務省のある方がきて、「ベト ナムへ行くなと毎日電話していたのは私です」と話してくれたこともありました。

 韓国と北朝鮮の両方に行こうと計画しました。まず韓国に行って、そのまま戻って新潟で一泊、その後に北朝鮮に行くということもやりました。「北朝鮮へ平 壌冷麺を食べに行こう」という企画を立てました。

 私たちの前の世代はスローガン闘争型。シュプレヒコールをあげ、集会に動員をかけて社会構造を変えていこうというスタイルでしたが、私たちは自分たちの 意思で参加して、みんなで進んでいかなければならない、旧世代の運動スタイルではできないことをやろうということでピースボートを始めたのです。ところ が、当時はNPOやNGOという言葉もなかった時代でしたから、自分たちをどのように定義づけていいのか、そして自分たちをどのように紹介すればいいのか ずいぶんなやみました。「ピースボートの辻元です」と挨拶したら、「ボートピープルの方ですね」と返されたこともあります。

 もう少し思い出話をすると、キューバの後にハワイに行こうとしたら、アメリカに拒否されてしまいました。日本の外務省から、私にどうにかしてくれという 電話がかかってきたこともあります。私は常々、言葉は乱暴ですけれども、「アホが世界を変える」ということを言ってきました。江田さんには色々手伝っても らいましたし、現地では弁護士さんを雇って対抗しました。あと、ハワイに行けないとなると、給水と給油ができない、大変な事になると言いました。

 当時、私たちは日本にとって「敵国」とされている国こそ、民間が行く、国際関係や政治を動かしていくのは、人々の力であるという気持ちを持って行動して いました。

(2)ピースボートの活動〜運動の資金的基盤
 とはいうものの、活動をするにはお金が必要です。当時本当にお金がありませんでしたから、バイトをしながら活動していました。世界をまわるため に1万トンの船をチャーターしようと計画しましたが、そんな大きな船は当時ほとんど持っているところはなかった、私が22歳の頃です。「企業が若者の交流 を応援することで社会的に良い評価を得ることができますよ」と交渉したものですが、かなりしぶとくやっていました。そのうち、お金を払ったら貸してやると いう会社が出てきましたが、20日で1億2000万円と言われました。本当にびっくりするような額でしたが、辞めようとは思いませんでした。私は商人の 街、大阪の出身ですから、すぐに計算すると、20万円の旅費で500人集めたら1億円、ということは600人でペイできるとソロバンをはじき、こういうイ ベントなら日本中を探せば600人くらいは興味を持ってくれる人がいるのではないかと思ったのです。そしてやっぱり私は大阪人だから、値切り倒して船の チャーター料も半額にしてもらいました。

 当時、アメリカなどではソーシャルビジネスのようなことをしている人も含めて、国際交流をおこなうNPOやNGO団体がたくさんありました。若者がたく さん働いていて、寄付の仕組みもあって、それをバックアップする法律もできていました。一方、日本で私たちが活動を始めたときに、事業的な側面をもって社 会変革を目指すと言うと、金もうけ集団だとか、宗教団体がバックについているのではないかといぶかしがられ、ネガティブなイメージを持たれていました。こうい うイメージは就職のときも変わらなくて、NPO活動や選挙活動をしていたというと、就職で不利になってしまう、もしくは不利になるのではないかという心配 をみんなもっている。ヨーロッパやアメリカでは就職の時に、社会活動を書く欄があります。選挙運動をしていたと言えば評価されるのです。

 経団連の人と話をしたときに、就職活動のときにボランティア活動を評価するような項目を入れた方がいいと話しました。しかし一方で、社会に参画していく とか、政治に参加するとか、日本に定着しないのではないかとも思います。

 当時ずっと考えていたのは、経済的に自立させながら、どのように市民運動をしていくのかということです。このような資金的な面のほかに、国際政治の壁に もずっとぶち当たっていました。日本政府とはやりあいになることもしばしばでした。イラクとかパレスチナとか、湾岸を船で突っ切ろうとした、まさにそのと きに湾岸戦争が始まったことがありました。日本政府からはすぐに船を引き返すように言われたのですが、実は引き返す方がリスクは高い。そして他の国の港に 逃げ込めたとしても500人も運べる飛行機を持っている国など当時は非常に少なかったから、これも危険になる。政府は現状を把握していない、「邦人保護」 のために動いたという証拠が欲しいばかりに的外れなことを言う、そのような状況でした。

(3)阪神・淡路大震災から国会議員へ
 1995年に阪神・淡路大震災が起きました。当時私は引き続きピースボートの活動をしていましたが、ボランティア活動に入ったときに行政の壁を 感じました。ボランティア活動と行政組織とうまく連携ができない、そのためになかなかうまく動けないと感じたのです。

 この講義を聴いている方はお分かりかと思いますが、この翌年に政治の大激動がありました。小さな民主党ができ、村山さんが退任、橋本政 権ができて社会党が割れ、衆議院議長だった土井たか子さんが議長を退任して党に帰ってきます。

 1996年の総選挙の時に土井さんから声をかけられて立候補することになりますが、旧社会党は労働組合の関係者が多く、はっきりと言えば、土井たか子さ んのことは知っていましたが、私は社会党のことをほとんど知らなかったのです。しかし、私に声をかけるくらいだから、余程社会党は逼迫しているのかなと感 じていました。土井さんから声をかけられて、最初は立候補を断りましたが、筑紫哲也さんに相談してみました。筑紫さんも止めるかなと思いましたが、むしろ やれとアドバイスされました。筑紫さんからは、女性議員が少ない中、政治を変えるために、そしてこれからはNPOなどのセクターが大事になるから絶対に立 候補しろと、そう言われたのです。10月2日に土井さんに立候補承諾の返事をして、8日には大阪に帰り選挙運動を開始、20日に当選しました。本当に短期 間での運動でしたが、まさか国会議員になるとは思いませんでした。

 人生は思い切りが大事になります。何かをしたいと思ったときに、やらない理由を探さないということが私の行動規範になっています。ピースボートをしてい た時からもそうですが、国会議員になってからも、逮捕され、留置場にも入り、本当に紆余曲折を経ています。議員になってから行政の人と話し合うことが増え ましたが、できない理由をたくさん言ってきます。国土交通省で仕事をしていた時は、「できない理由を先に言うのはやめて、できる理由を10話してから、で きない理由を言って欲しい」と常々話していました。
 
(4)国会議員となって
 立候補したときに私は公約として3つのことを約束しました。NPO法を作ること、情報公開法を作ること、被災者生活再建支援法を作る、この3つで す。

 当選翌日からNPO法を作ろうと走り始めました。当時社会党は与党でしたから、やる気になれば作れると思ったのですが、国会でNPO法を作りたいと言っ ても理解してくれる人はいませんでした。江田さんは数少ない理解者の一人でした。

【江田】
 1996年、辻元さんが初当選したとき、私は岡山県知事選に出ていたから、残念ながら当時は一緒に活動することはできませんでした。

【辻元】
 そうでした。江田さんとはご一緒することはできませんでしたけれども、菅さんや鳩山さんは理解してくれました。他の方々、とくに保守の人から は、市民運動=反政府運動すなわち反自民だと言われたものです。しかし、市民運動には介護や子育てのこと、このことは行政とパートナーシップをもたなけれ ば解決しない、また、市民運動と市民活動は違うとまで言わなければ理解してもらえなかったのです。こんな状態でしたから、2年くらい法律ができなかった。 法案作成の段階で、市民という言葉に対する抵抗が非常に強いのを感じました。

 中曽根康弘さんからは、市民という言葉はけしからん、市民では無く国民であると言われてしまいます。私としては、例えば介護や子育ての問題は日本に住ん でいる人全員の問題ですから、国民だけではその範囲に含まれない人も出てくると反論、すると国民がダメなら庶民だと言い返されました。もう一人の反対は村 上正邦さん、参議院のドンと言われていました。こんな名前の法案など通さないと、村上さんに言われ、「奉仕活動促進法」にしろと、変なことも言われたので す。ここでも紆余曲折あって、「特定非営利活動促進法」という変な名前に落ち着きます。1998年にやっと、いわゆるNPO法が成立することになったので す。

 阪神・淡路大震災が起きた年はボランティア元年と言われました。被災者生活再建支援法も成立しましたが、これは被災者の方々が国会を取り囲むように徹夜 で座り込みを行い、国会議員とつながってできた法律です。私は市民議員立法ということを強調したい。市民と一緒になって議員が法律をつくるということが大 事なのだということを皆さんに言いたいのです。

 何故このようなことを言うかというと、国会議員になった当初、立法府は立法する所だと思っていましたから、法制局を呼んで法案の作成をしていました。あ る時に自民党の橋本龍太郎さんや加藤紘一さん、山崎拓さんに会って、こんな法律を作りたい、皆さんはどんな法律を作ったことがありますかと聞いたら、「な い」と返されてしまいました。特に山崎さんからは「私たちは立つことが仕事だ」と言われるような始末です。法律を国会で通すために起立することが国会議員 の仕事だと、そういう状態でした。

 とにかく、NPO法と被災者生活再建支援法は、市民議員立法のモデルだと言われました。作りたい法律があるなら、要請行動をするのではなく、議会の中に ロビー活動をかけて、議員と一緒になって作ってしまえばいい、その方が効果的に物事を動かすことができるということが分かりました。協働という言葉があり ますが、まさにこれが市民の政治参加であると思います。

(5)NPO活動への支援
 NPO法では、市民活動をする団体に対する寄付に税の優遇をしたいと考えましたが、当時の大蔵省が大反対します。行政に関わるお金はすべて、税 金として国が集めて配分する、公益性がある団体に補助金を渡すという発想からは、NPOへの寄付に税の優遇をする、つまりお金を縦ではなく横に流すことな ど絶対に許せないことです。

 当時私は1年生議員でした。なぜここまで効果的に動けたのかというと、私は1年生議員でも、与党の議員であり、何よりも社民党はキャスティングボートを 握っていたのです。当時の政治情勢では、自民党は国会で過半数を持っていませんでした。私は与党議員でしたが、はっきり言ってしまえば、自民党と一緒に組 むのは嫌でした。しかし、せっかく自民党と組んで与党にいるのだから、取れるものは取ってしまおうと考え直します。結果、情報公開法、環境アセスメント、 男女共同参画、児童売春禁止、児童ポルノ禁止などを自民党に要求しました。自民党だけだったら絶対にできない法律です。

 私は取れるだけ取ろうという精神でしたから、造反議員とも言われていました。自民党だけでは法律を成立させることはできない。私たちが賛成しなければ動 かないのです。だから議席以上にすごい影響力がありました。政治の世界では、キャスティングボートをどの党が握るかによって政治が変わってくるということ をぜひ理解して欲しい。昔のように、自民党と社会党がいて、どちらかの党が格好良く批判して終わりということではありません。小さな政党であっても、キャ スティングボートを握って、政治を動かすことが大切になってきているのです。

 さて、NPOへの寄付に対する税額控除に話を戻しましょう。大蔵省が大反対していた、だったら大蔵省のドンは誰だということになって、竹下登さんに会っ て直談判しようと考えました。でも会う方法がありません。秘書に電話してみてもアポをとってもらえない。調べてみたら、竹下さんも早稲田大学の出身でした から、同窓会に来ているかと思って同窓会に参加してみたら、来ているじゃありませんか。まさにお代官様に村娘が直訴するように、私が「竹下先生、NPO法 という法律を…」と言いかけたら、竹下さんは本当にたった一言、「税はあかんよ(税金の仕組みを変更することは許さない)」と私に言ったのです。竹下さん は官僚の生年月日まで知って覚えていると言われていましたが、本当にこの方はすごい人だ、NPO法の何が肝なのかちゃんと知っていると思いました。また、 とても怖い人だとも思いました。たった一言の返事でしたが、私は1998年までNPO法をあきらめました。

(6)3.11とボランティア
 2009年、政権交代がありました。どういうことが起きたのか、皆さんそれぞれ考えるところがあると思いますが、私が強調したいのは、NPOを 中心にした新しいセクターを育てる、一人一人の居場所・出番があり、絆のある社会にしようという機運が非常に高まったと思います。

 鳩山内閣では「新しい公共円卓会議」、菅内閣ではそれを受け継いで「新しい公共推進会議」ができました。私は総理大臣補佐官としてここに入ったわけです が、このメンバーがすごい。「ビッグイシュー」の発起人の方が入ったり、NPOの人も総理大臣と一緒に官邸で活動することになったのです。かつてNPO法 を作った仲間から、「本当にすごいところに来た」と言われましたが、私もそう思います。

 今、政権交代のネガティブな面を思い知る毎日ですが、これからお話しする大きな変化は政権交代が無ければできないことばかりでした。震災直後に菅さん が、ボランティアが大事ということで、総理直轄の補佐官を新設することにしました。首相補佐官とは、その時々の政権で特に大事なテーマの統括をおこなう役 割を果たしますが、3月13日に私がその任に就くことになったのです。

 震災直後は、道路が無い、ガソリンも無い、そういう中で、いかにして食料を現地の方に届けるのかということが大変な問題でした。やっとの思いで現地にた どり着いたとしても、町が消滅しているので役場が機能していない。誰がどこに避難しているのかも分からない。こんな状態だったのです。道路に関しては、国 交省の地方整備局や自衛隊の方に頑張ってもらいましたが、港は津波でやられてしまったため船もダメです。燃料をどのようにして届けるのか大変でした。

 現地にはいち早くボランティアの方が入っていました。私たちは先遣隊を出して調査に入り、基地を建てるためにプレハブから始めました。資料の地図で星 マークがついているところがありますが、これは最初の一ヶ月半でつくりあげた支援の基地です。食料などは労働組合連合や生協、JC、農協などの組織に協力 してもらいました。生協との関わりでは、宮城県は生協に加盟している家が7割でしたので、非常にスムーズにいきました。また、私は阪神・淡路大震災の際に できたネットワークがあったので、その方達に大阪へ集結してもらい、ベテランの方にボランティアに入ってもらいました。

 ボランティアセンターに登録、活動してもらった人は845,600人、他にも団体として入った方もいますから、恐らく100万人くらいになるのではない でしょうか。このボランティアについては、私たちは震災連携支援室というのをつくりましたが、直接出向くのではなく、黒子に徹することを心がけていまし た。私自身、ボランティアにいかないのかと聞かれましたが、私は個人として自発的に動きました。なぜこのようなことをしたのかというと、政府が音頭をとる と、動員と思われてしまう、これは私の経験がもとになっています。

 政府の側は黒子に徹する、後方支援に全力を挙げました。ボランティア団体の車両を緊急車両として扱う、個人でボランティアにいくときには高速道路の通行 を無料にする、大学生がボランティア活動をする場合は単位認定してもらう、会社員が休暇を取りやすいように、ボランティア休暇を取得できるよう経団連と交 渉する、本当に基盤整備に徹することにしたのです。初めての経験ということもありましたが、2ヶ月くらいはうまく機能しませんでした。5月に入ったあたり からスムーズに流れるようになり、政府内の空気ががらっと変わったのです。ボランティアのみんなが力を発揮できる環境をある程度整えられたのかな、と思い ます。

 阪神・淡路大震災と今回の震災では、被害を受けた範囲が全く違います。阪神であれば、大阪から260円で行ける範囲でした。被害が大きかったのは神戸、 地域がはっきりとしていました。また、3ヶ月という期間である程度復興の道筋が見えました。

 東北はどうでしょうか。岩手県から宮城県、福島県など非常に範囲が広く、ボランティアの方もどこに入っていいのか分からない。また、期間も震災から半年 が経つのに未だに終わりません。

 また、今回は国、県と自衛隊、NPOの連携団体ができたことも非常に大きかったことが特徴です。自衛隊の東北方面隊幕僚副長にも参加してもらい、会議を 持ちました。現地では一緒に炊き出しや泥かきなどを行いました。今は自衛隊が撤収し、被災者支援連絡調整会議として機能しています。ここでの原則は、最終 的な支援は地元のNPOに任せる、ということです。

 例えば、岩手県ではもとから活動していた岩手のNPOが連携組織をつくって、そのセンターがNPO登録をして認定NPOになりました。岩手県全部の仮設 住宅建設のために、県と一緒になってアセスメントをするということを現在に至るまで継続しています。福島や宮城も同様です。

 私が議員になった時とは、状況が本当に変化したと思います。当時、私は市民と一緒にNPO法を作りました。竹下さんにダメと言われた税制改正も大きく進 みました。認定NPO法人では、そこにした寄付の半分の額が返ってくるようになったのです。

 しかし、NPO制度について、日本はまだ立ち後れています。日本のNPOが約4万、うち232団体しか寄付の優遇税制をうけられない、寄付額は総額1兆 円未満です。アメリカと比較してみると、NPOは196万団体、寄付控除は128万団体で受けることができます。また寄付額は24兆円ものお金が流れてい るのです。とはいえ、今回の税制改正では、欧米の制度と引けを取らないものをつくりました。今後いっそうお金を集めやすくできるように条件整備を行いま す。

 震災での対応も阪神・淡路大震災の時と変化しました。社会で信頼を得た団体が活動できるようになったことは大きいと思います。今後さらに、この流れを強 めていかなければなりません。私自身もっと活動していきます。国会では、江田さんが共同会長をしているNPO議連の活動もあります。

【江田】
 ちょっとだけ訂正です。NPO議連はもともと休眠状態であったものを再興しました。自民党の加藤紘一さんと私が共同代表でしたが、私が政権に 入ってしまったので、現在は加藤さんが代表になっています。

 補足説明もさせてください。阪神・淡路大震災の際に、被災者生活支援の考え方が大きく変わりました。このことは特記されても良い。それまでは、災害とい うものは誰の責任でも無く、運が悪かった、また頑張って下さいという態度でしたから、生活再建は政府の役割ではないという態度でした。しかし、復興のため にはコミュニティを再建しなければなりません。コミュニティ再建は私有財産の復興とは違うのです。コミュニティ再建のために政府が支援する、という考えに 変化しました。

 辻元さんが市民議員立法と言いました。市民が立法するために、議員を押すという方法です。議員立法という形は意外と多くあります。例えば、この講義を傍 聴している社会保険労務士の方がいますが、社会保険労務士法は、実は議員立法で作られたのです。ただ、これまでは、労働組合や業界の立法意欲が実って法律 となった事例が多かったのです。生活支援法は、利益団体が利益を確保するために法律をつくったのではありません。これが大きな変化なのです。

 それでは、質疑応答に移りましょう。

【質】NPO法のお話しの中で、中間法人法が成立して消えたという一連の流れがありましたが、その経緯で何かご存じのことはありますか。

【辻元】公益法人改革のなかで、一般社団法人と公益社団法人などの分類の中に、NPOも組み込んで一本化しようという話がありました。しかし、NPOは市 民活動から派生したものであって、性質が違います。結果的にNPO法を残すことになりましたが、その時点で私は辞職中だったために、詳細は江田さんに話し て頂いた方が。

【江田】これも辻元さんとすれ違いで、私はこの話に関わっていました。辻元さんが言ったように、NPO法人は公益法人とは違う流れでした。また他にも、町 内会などがあり民法法人の中身がめちゃめちゃでした。また、実はお金を儲けているのにも関わらず税金を取れないということで、財務省が一旦整理した上で税 金を取りたいと一所懸命になっていました。このような流れがあって公益財団法人改革を行ったのです。社団法人と一般法人を別にして、一般法人には税の優遇 をなくしました。また、辻元さんが言ったように、NPOは違う流れからできたので、それを切り分け、今回の優遇税制につながったわけです。

【質】もう少し質問したいのですが、今の流れを発展させると、社団や財団の法人はNPO法人として吸収させることも可能では無いのでしょうか。教育や医療 はNPOの精神でやらないとおかしくなると考えるのですが、NPOを発展させて、他の法人を片付けることも理論的に可能と考えますが、いかがですか。

【辻元】全部NPOでということにはならないと思います。NPO活動というものは、法人格を取得しなくてもできるものです。一方で法人格を取得した方が活 動しやすいという団体は取得してもいいと思います。例えば、一般社団であっても、NPO法人格を持っている団体はあります。NPO法人の審査には4ヶ月の 期間がかかりますから、例えば石巻の法人は一般社団で法人格を取得し、NPO的な活動をしています。どちらかが一方を包含するということにはならないと考 えます。

【江田】法律論の話をしますが、民法はドイツ法だと思います。民法の中にはドイツ法の精神が流れているのです。今は、それを変えています。一方でNPO法 は英米法です。

 アメリカへNPO活動の視察に行きましたが、アメリカなどでは、教会活動のようなNPOが先にあって、国家が後から税金を取りに来たという考え方をして います。だからNPOの活動は認められて当然ということなのです。日本ではドイツ法的なもの、フランス法、英米法的なものが混在していますが、私自身はそ れで良いと思っています。今は両方の性格をした法人があって、自分が使いやすいものを使えば良いと思います。

 ただ、財産の管理は必要です。活動が多くなってくると、必然的にお金の流れも大きくなってきます。そうすると法人格が必要になってきます。NPOは現 在、活動できる分野が決まっていて、それに当てはまらないと活動できません。今は分野が20になっていますが、今後増えていくのではないでしょうか。

【辻元】おっしゃるように、NPOは非営利活動の他、医療や保健など活動できる範囲が限られていましたが、今回の改正で農山漁村や中山間地の振興、そして IT分野での活動も増やしました。

【江田】もう一つ言いたい。NPOの問題点として、NPOの政治活動が禁止されているけれども、これはばかばかしい話です。例えば地域の振興にしても、必 然的に政治活動に関わってくるものです。

【辻元】 そうですね。緑の党はこの分野から出てきた政党ですから。

【質】ワーカーズコレクティブ法について質問します。辻元さんの話を聞いて、私たちが活動し始めたころのことを思い出しました。今回、寄付税制の範囲が広 がりましたが、日本の中で寄付概念が根付くことを期待します。
 しかし実際に事業をするとなると、事業に必要な出資を集められないなどの問題が出てきています。事業として自立していけるようにするためには今一歩だと 思いますが、どのようにお考えですか。

【辻元】おっしゃる話は、新しい公共推進会議でも出ました。これからどうしていけばいいのか、質問のような問題意識は会議で提示されています。例えば NPOバンクが各地で設立されてきています。環境関係のNPOに対して立ち上がり資金を出しています。しかしNPOバンクができるのはあくまで融資であっ て、業としては貸金業で登録されています。これは問題で、新しい法律を作る、または法律改正の検討もはじめています。あと、新しい公共推進会議を今後どの ようにしていくのか、野田さんからまだ話が出ていません。これは注視していきます。

 行政との関係でいうと、契約関係が問題になります。現在、行政とNPOの契約関係があいまいです。行政側からすると、単価が安いから、財政再建の観点か らNPOと契約するという事態に陥っています。イギリスでは公契約法がありますが、日本でも法律をきちんと作らなければなりません。

【質】阪神・淡路大震災はボランティア元年と言われましたが、今回の震災では何の転換点になったとお考えですか。まだそのようなことを考える段階になって いないかもしれませんが。

【辻元】敢えて言えば、今回は寄付元年と言われています。

 あと、国との連携の場がたくさん立ち上がったということは、今までに無かったことです。私は政府で、自衛隊との連携をしなければいけないと防衛省に言お うと思っていました。しかし政府レベルでは、それはできないという話でした。だから現場でどんどんやってもらいました。

【江田】何が変わったのか、ということはもう少し時間がかかると思います。世界全体で見た時に、日本のような経済大国が脆くも麻痺状態になるとは考えてい なかったのではないでしょうか。

 自然の前に人間が無力であるという発想が出てくるきっかけになったのではないかと思う。脱原発の流れはそういうことが背景にあります。これを思想として 昇華するためにはもうすこし時間がかかえるでしょう。

【質】今後はNPOが社会を支える力になると思います。しかし、NPOで仕事をしている立場からいうと、基本的にNPOの活動領域はニッチな分野であるこ とが多いために、お金が回らない。

 特に人件費が問題で、欧米であれば、人件費が認められています。

【辻元】言いたいことはとてもよく分かります。私自身、ピースボートをしていたときは本当にお金がありませんでした。事務所もなかったから、ある子の下宿 に電話を一本ひいて事務所にしていたくらいです。NPOが全体として、資金的に苦しいことも承知しています。

 その上で、この状態を打破するのも自分たちなのです。補助金を増やすことも求められますが、補助金は使い道が規制されてしまいます。公的な支援を受ける ときには受ける、その上できちんと事業を展開して、寄付を集めることが大切であると思います。

 私が常々言っているのは、3000円を100人から集めたら認定NPO団体になるのです。お金を集めるという事は、自分たちの活動を必死に説明すると云 う事です。アメリカのNPOを見ても、マネジメント、特に情報公開ということを一所懸命にやっています。会う人会う人に自分たちの活動を必死に説明して 3000円もらう、このことをやる。

 今回の改正では、税額控除を入れました。しかしその効果が出てくるのは10年くらいかかるかもしれません。世の中をじわじわ変えていくのです。そして誰 が変えるのかというと、自分たちなのです。

 その点で言うと、政治の中身は国政だけではないのです。自分たちの地域の議員構成や予算規模を知っている方はどれほどいますか。政治は地域からの積み重 ねだと思います。例えば、今回の震災で立ち上げが早かった避難所は、地域問題について意識の高い人がいる地域でした。地方の政治をどのようにしていくのか ということがあっての国政であることを十分に意識して欲しい。

 また、民主党には自治体の議員が少ない上に、下半身は自民党、頭は民主党という人が多い。本当の意味での政権交代をしていないと考えます。

 みなさんぜひ、市議会などの傍聴をしてください。

【江田】NPO税制について補足説明すると、地方自治体や都道府県が条例で認めた場合に認定NPO法人になれるようにする基準(条例個別指定基準)がもう けられました。地方を動かせば認定NPOを作ることができるのです。

【辻元】NPOの税制改正は革命だと言った人がいます。この改正は全会一致だったのですが、自民党の人はこの条項に気づかなかったのでしょうか。今頃歯ぎ しりしていると聞きます。この一件だけでも、政治とは地方があってこそ、ということがお分かりになると思います。

【江田】辻元さんありがとうございました。それでは本日の講義を終わります。


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