1985/11/13 |
103 衆議院・文教委員会
○江田委員 参考人の先生方、本当にどうも御苦労さんでございます。四時までお許しをいただいておると伺っておるのですが、私自身が委員会で許されております質問時間わずか十分ですので、もしよろしければ質問を続けさせていただきたいと思います。
先日、実は私、郷里で教育についていろんな皆さんと懇談をしておりましたら、ある人からこんな質問を受けたのですね。一体臨教審というのは、臨時教育審議会なんですか、臨時教育制度審議会なんですかと言うのですね。これはその人が正式の名前を知らないというのではないので、どうも臨教審が何か制度のことばかりに偏っていっておるのではないか。ところが、今この制度をどういじってみてもそれでどうなるわけでもないというような、大変なある意味の不信感、ある意味の挫折感が国民の中にあって、もっと何か教育の根本にメスを入れてほしいのだ、教育とは一体何なのだろうというところにまで突っ込んだメスを臨教審というのはぜひ入れてほしいという、そんな国民の、何といいますか、悲しい願いみたいなものがあってそういう質問が出てきているのだと思うのです。
今もお話しの、例えば共通一次を共通テストに。岡本会長のおっしゃることよくわかります、共通一次が出てくる前の実情が共通一次を生んだわけですから。しかし、共通一次がそれでは事態を改善したのかというと、また別のいろいろな問題を生んできている。そこで共通テスト。となると、今度は共通テストは、いや問題をつくる側のためにあれがいいんですと。これではやはり解決にならぬわけですね。
何か教育というのが、牛馬を調教するのと違うんだ、牛馬を調教するというのは、これはある競走という目的が単一に定まっておって、その中で速い素質を持った馬を選び出して、これをさらに速くさらに速くとやればいいのですが、人間の教育なんというものはそんなものじゃないわけですね。一人一人の子供が人間として持っている何かきらっと光る魂をどれだけ大切に慈しみながらこれを完成させてやるかという、完成させてやるというある意味の不遜な気持ちじゃなくて、自分自身もそういう玉を磨くことによって完成をしていくというような、そんな極めて人間的な営みだろうと思うのですが、そうした仕事をぜひ臨教審は国民と一緒に悩みながらやっていただきたいというような願いがあると思うのです。
そこで、一体そうしたことが今臨教審にできるのかどうか。そうではなくて、先ほどの会長の言葉で言えば小教育者があれこれといじるだけというようなことになってしまうのか、そのあたりのことをちょっと聞いてみたいと思うのです。
先日、十月の二十九日に新制作座という劇団の創立三十五周年の祝賀の集いがありましたね。岡本会長もお出になっていらっしゃって、私ちょっとおくれて行ったのですが、ちょうど会長がお祝いの言葉を述べられておるときに入りまして、すばらしいお祝辞を聞かしていただいた。その後、真山美保さんがあいさつをされまして、そのあいさつの中で私は大変に感動的な言葉を聞きました。本当にうかつにも涙がこぼれそうになったわけですが、今の少年たちがいかにふびんであるかを私たちはもう一度考えきわめて、みずからを律し、俗悪なものと闘っていかなければならない。ということは、これは後でもう一度新制作座に確認をしてこの言葉を聞いてきたのですが、会長、この言葉をどうお聞きになりましたか。
○岡本参考人 初めのお話でございますけれども、施策に堕しておるということでございますが、私もこの点は十分考えておりまして、この諮問そのものが「教育の実現を期して各般にわたる施策に関し必要な改革を図るための基本的方策」ということでございますので、やはり具体的には施策を示すということが大事だと思っておりますけれども、先生のおっしゃいますように、やはりそれの背後にあるというか基礎になる理念というものが大変大事でございまして、それを国民が納得するといいますか、そういうものに共感を得て初めて施策も生きるものだと思っておりまして、その点、大変大事だと思っております。したがって、私が最近申しておりますのは、各施策をするに当たっても、その一つ一つについてよく議論を深めて、そしてそれは恐らく「審議経過の概要」にはそういうものが出るようにしようじゃないかというようなことを申したりしております。
それと、最前の新制作座の話でございますが、実は私も先生と同じように大変感動いたしました。
それで、私は実はこの問題が一番関心事でございまして、心の回復といいますか、私が申します場合には、近代西洋の科学技術が本当に理性というものだけに注目して、そして人間の温かい心というか、そういうものを失っておるということ、それの回復が大事だと思っております。この点に関しまして、近代の科学技術と人間そのものですけれどもいわゆる二十一世紀のときに送り出します子供について、私はやはり、今日まで近代科学技術文明を築いてきた我々は、二十一世紀に送り出す子供に対してそれの救いを可能性だけでも示すということが大事だと思っておりまして、この間の、心というものを中心にして子供がふびんだとおっしゃったあの話は大変感動したしております。
それで、この問題を、臨教審としてもこれが極めて中心的な問題と思っておりますので、果たしてこれがいかなる施策で実現できるかということにっきましては、ある意味で私はこれは国民運動というようなものじゃないかと思っておりますので、ああいう劇団そのものがああいうところに注目してあれをはっきり鮮明にしておっしゃることについては、大変評価して聞かしてもらった次第でございます。
○江田委員 今のおっしゃる国民運動というような、国民運動と言うと言葉はいろいろなニュアンスを持っていますが、いずれにしても臨教審が、臨教審の会議の席だけでいろいろな知恵を煮詰めて、それで模範答案を書いて、これを国民に実行しなさいというようなことで教育改革ができると思ったら、実はそれはとんでもない間違い、ある意味の思い上がりでして、そうではなくて、諸施策を検討してくれと言われたからはい諸施策の検討だけですよというのでなくて、教育について今国民みんなが本当にもう深い深い悩みの中にいるのだと思うのですね。ですから、その悩みを共有するところからでなければ、諸施策だって何だって出てはこないわけで、その意味で、子供たちの魂が病んでいるのだ、これがふびんなんだ、しかしそのふびんな子供たちのことを考えるときに、みずからも律しなければいけないのだ、大人の社会が実は非常に病んで、俗悪なものに――俗悪というのは何も俗悪週刊誌とかいうようなことではなくて、もっと本質的な意味で俗悪なものになってしまっているから子供たちの魂がふびんなんだという、そのあたりのところをしっかりと押さえないと、教育の改革なんというのはそういう遠回りをしなければとてもできることじゃないのじゃないかということをどれほどおわかりいただいているかなということを聞きたいのです。
○岡本参考人 実は私は、科学技術会議で今後日本の科学技術の行く方向というものに人間との問題を一番大きな三本の柱の一つに掲げておりまして、その意味で、最前申しましたように、子供に対して今日科学技術というものが大きな恩恵も与えていますけれども、同時に心の問題で大きな破綻と申しますか、そういうものを及ぼしておるということを痛感いたしておりまして、この点は先生の御意思と全く同じような気持ちで今後努力していきたいと思っておりますので、よろしくお願いしたいと思います。
○江田委員 どうぞひとつ、子供たちというのは決して悪餓鬼でもなければ、あん畜生でもなければ、どうしようもないくそ餓鬼でもないので、一人一人がどんなにゆがんでおっても、どんなに問題行動を起こしておっても、やはりふびんな魂、きらっと光る魂を持っておるものだ、そういうことを基礎に置いて検討を進めていただきたいと思います。
時間が来ましたので、終わります。
1985/11/13 |