1986/04/09 |
104 衆議院・文教委員会
○江田委員 今、日本の教育というのが非常に難しい大変な状態に来ておることは言うまでもないと思いますが、こういう時期に、我が国で最も高い教育についての見識をお持ちの海部文部大臣を文部大臣にお迎えをいたしまして本当に期待をするところ大であります。どうぞひとつ大いに頑張っていただきたいと思うのですが、冒頭、ちょうど今新学期が始まったところ、きのう、きょう、あすあたり小中高の学校の入学式、けさ新聞で塾の問題なんかも取り上げられておりますが、こういう今、あるいはもっと具体的に、けさ学校の子供たちが一番話題にしたこと、これは何だというふうに文部大臣はお考えでしょうか。
○海部国務大臣 私は、けさからこの委員会に答弁のため来ておりましたので、学校現場でどんなことが話題になったか承知しておりませんけれども、恐らく、推測いたしますのに、日本一のアイドル歌手が飛びおり自殺をしたという大きな新聞記事がすべて載っておりましたので、あるいはそういうことに興味のある子供はそのことを話題にしたと、これは推測でございます。
○江田委員 私が冒頭、日本で教育について最も識見の高い大臣と申し上げて、それがうそでなかったということがわかってほっとしたのですが、子供たちが今何について興味と関心を持っておるかということ、子供社会というのがどういうふうにできているかということについて鋭い感受性を持ち、そういう子供たちの思いがすぐぱっと心で受けとめられるような者でなければやはり文部行政を扱う価値がないと私は思うので、突然大変失礼な質問をしたのですが、本当にぴたっと感性の合う答えが返ってきましてはっとしました。私の目は間違ってなかったと思っておるわけですが、やはりこれは私たちが想像する以上だと私は思うのですよ。
きょうも、サンミュージックですか、この芸能プロダクションの前は大勢の子供たちがアスファルトにぶっ倒れて、ダイインじゃないでしょうが、おるらしいですね。あるいは、ろうそくの炎を大切に手で消さないようにとしておる子供たちがたくさんいるとか、私、選挙区に電話しましたら、やはりうちの娘も息子もその話を話題にして学校へ行ったとか、それどころか、きのうは子供たちが皆電話にしがみついてお互いに情報交換をしたとか、そういう今の子供たちの状況。岡田有希子というアイドル歌手が自殺をした、大変痛ましいことでかわいそうなことでありますが、そのすぐ前には、今度はもう一人遠藤康子さんですか、やはりこれも十七歳の女の子が自殺をしているのですが、そういう状況について、大臣、どういう感想をお持ちですか。
○海部国務大臣 実は、きのうも夜帰りましたら私の家でも娘がそのことを話題にしましたのでいろいろと話をしたのですけれども、個々具体的なケースについては新聞報道等によりましても個別のいろいろな複雑な事情があったようですから、そのことについて論評するのは避けたいと思いますけれども、一般論として、やはり十七、十八というこれから人生に大きな可能性を持っておる人がみずからの命をみずから失ってしまうということは、まず率直に何ともったいないことかという気持ちがいたしますし、同時にまた、中学校現場におけるいじめによる自殺なんかのときも、もっと強く生きてください、もっと生命を大切にしてくださいということを大人の一人として願わずにはおれない私の心情からいきますと、特にアイドル歌手だとかいろいろな立場の人たちは多くの青少年に大変な夢を与えておると言っても言い過ぎではないわけですし、その一挙手一投足は多くの青少年の心の中に何物かを絶えず与えておるわけですから、強くたくましく生きてほしいなと願わずにはおれません。それが私の率直な今の感想でございます。
○江田委員 今の文部大臣の感想というのは、そのままきょうこの岡田有希子さんの死を悲しんでおる子供たちに対するメッセージということにぜひしていただきたいと思うのです。
もう少し子供文化のことについて聞いてみたいのですが、岡田有希子という女の子が遺書を書いているのですけれども、どういう文字で書かれておるか御存じですか。御存じないからといって責めるわけじゃないんで、どうぞそのままお答えください。
○海部国務大臣 恐らく日本語で書いておるんじゃないかと思いますが、形態その他についての御質問であるとするなれば、恐らく私の娘と同じように、図案化されたような、やや丸みを帯びた、我々が書いたころの字とは違うような字で、これはうちの娘が書いておりますので、そんな字がなということを今思うのですが、確たる自信はございません。
○江田委員 これまた子供文化に精通されたお答えで、本当に安心しました。私もどういう文字で書いてあるかは知りません。しかし、今子供たちがみんなくるくると丸い変体少女文字という字を使っておるということ、これは事実ですから、ひとつ大いに認識をしておいていただきたいのですが、この変体少女文字というのは文部大臣、どういうふうにお感じですか。
○海部国務大臣 これは学問的に御説明するだけの自信は全くありませんけれども、映像とか図案とか、そういったようなものに対して一つの価値を求めておるのでしょうか、何か娘のところへ来る手紙とかいろいろなものもそういった似通った特徴があるような感じがいたします。
○江田委員 これはいろいろな意見があると思いますけれども、こういう意見もあるのです。万葉時代に漢字ばかりが通用しておったときに女性が平仮名を書き始めた。初めは何というへんちょこりんな字だろうと言っておったのが、まさに今、平仮名として定着をして、当然男も全部使うようになっているわけですね。今またこの時代に少女たちが何だかへんちくりんな字を書き出して、しかし何か新しい文化を彼女たちがつくっているんじゃないかというような見方がある。それが当たっているかどうかよくわかりません。しかし、一方では今度は、そんなものはけしからぬ、丸文字で書いた試験の答案は採点をしないなどというような対応もあるようで、その辺の物の見方、例えば今の岡田有希子ちゃんというアイドル歌手が歌っております歌、あるいはその周辺の今の子供たちの芸能の所産、歌でも踊りでも何でもいいですが、こういうものをいかにも小学校の学芸会ぽくて幼稚で見るにたえぬという見方もある。しかし、子供たちは子供たちでそういう一つの文化をつくっていっているという見方もあると思うのですが、ひとつ子供の物の考え方、感じ方、子供の価値観、子供のお互いの情報交換のやり方、これは余り大人の目ですぐにだめだとかいうのじゃなくて、まずはそのままとしてそのままそのとおりに受け入れていくことが大切なんじゃないかと思うのですが、いかがですか。
○海部国務大臣 これも率直な私の意見ですから間違っておるかもしれませんが、うちの息子の書いておる字が乱れておったり、大きさなんかがばらばらで走りなぐり書きなんかするのよりは、娘の書いておる丸っこたい字の方が、大きさもそろっておりますし、妙だなとは思うけれども、それなりに素直に読めるし、最初にちょっと申し上げたように、図案とかポスターとか、そういったような規格的な美しさというものを取り入れて、少女は少女なりに自分に身につけておるのじゃなかろうかなという理解を私は示したつもりでおりましたので、どちらがいいとか、どちらが悪いとかいうような判定はちょっと私の学問、知識では下せませんけれども、そういったものがお友達同士の間でも使われておるということは、その世代にはそれが美しいものだ、それがいいんだという価値を認めておるんだなということは私も承知をし、認めておいてやりたい、こう思っております。
○江田委員 そのほかにも、子供世界、子供社会の中で大変に今興味と関心を集めているものは、例えば漫画、これはある特定の漫画雑誌が爆発的に売れているとか、あるいはファミコン、それから最近では芸能関係だとおニャン子クラブというのが大変なことになっているとか、そうした子供の今の生活実態というのは、塾の実態調査だけでなくてやはりきちんと把握をしておかなければならぬと思いますが、塾以外にそうした子供文化の実態調査というようなことをされるおつもりはありませんかね。
○高石政府委員 現在そこまで考えてはいませんけれども、十分検討させていただきたいと思います。
○江田委員 実態調査と言ったついでに、プロダクションの側に私は一度やっぱりメスを入れなければいけない現状があるんじゃないかという気がしておるのですが、今の岡田有希子ちゃんは十八歳で、ついこの間高校を卒業したばかりということ。しかしその前の遠藤康子という子供は十七歳だという。小学校、中学あるいは高校生の子供たちが芸能プロダクションに雇われて、岡田有希子の場合には三年間で三十億円稼いだとか言われておる。そして、その子供たちが一体どういう毎日を送っておるのか、親元を離れてどういう保護のもとにあるのかといった実態というのは、これはやはり教育の過程の中にある子供たちの状態として一度文部省としてお調べになった方がいいんじゃないかと思いますが、いかがですか。
○海部国務大臣 これは先生、かなり次元の違う御質問でございますので、今までの物差しとか従来の発想でここでできるとかできぬとかお答えしにくいことでございますけれども、やはり義務教育段階の子供については、そういった芸能プロダクションのいろいろなことについてもきちっと実態を調べて保護していかなければならぬ必要は確かにあろうと思いますが、そこを、義務教育を終わって自分の意思で入ってきている人がどのようなことをし、どれくらい所得を上げておるかというようなこと等を、どういう角度からどうやって調査したらいいのだろうか。ただ、最初お答えしましたように、多くの青少年に与える影響は非常に大きいわけですから、先生の今の御質問をいただいて少し勉強させていただきます。
○江田委員 このアイドル歌手の自殺もさることながら、子供たちの自殺が相次いでおる。その原因はさまざまですが、このアイドル歌手の自殺の場合にもやはり個別の事件はそれはいろんな原因が絡み合っているんだろうし、私たちがあれこれ言うことじゃありませんけれども、やはり何かのサインじゃないか。子供が自分自身の置かれている状況を、意識的にサインをそこから発しているわけじゃないけれども何かのサインを出している。あるいはそれは子供の置かれている状況についてのサインであると同時に、人間社会というものが一体どっちの方向へ向いていっているのかということについての子供たちからの警告であり、こんなでいいんだろうか、考え直してくれないかというサインじゃないかという気がするのですがね。岡田有希子さんのこの自殺がどういうサインであるかというのはわかりません。あこがれた芸能界、その中に大変な競争を乗り越えて入ってきて、しかし何でどうなったか、行き場を見失ってということかもしれないが、そういう大変な競争を乗り越えてみて、さあ自分は一体どこにいるのかというような一種の構造が子供の中にどこにもあるということはあると思うのですね。受験勉強をやってあこがれの何々大学に入って、さあこれからどうしようか、やることは何も見つからない。自殺ということにはならなくても全然勉強なんという方向には向かわない子供がたくさんふえてきているとか、それから、そうした自殺の原因以外にもいじめによる自殺というのは随分今ある。いじめも子供たちからの大人に対する何かのサインであり、警告であるという気がするのですがね。
そこで、文部大臣、約十年前に大臣に就任をされた。以来十年たってまたもう一度ということで、この十年の間隔を置いて二度の文部大臣の重責を担われるに当たっての御覚悟というものは一体どういうことなのかお知らせください。
○海部国務大臣 私は、教育を大切に考える政治家として日々一生懸命政策努力をしてきたつもりでございますが、この前の文部大臣のときの経験というのをきょう振り返ってみますと、世の中がどんどん変わってきて教育の場で取り組まなければならぬ問題点もまたいろいろ変わってきておる。ですから、余り今までの経験とかそんなことに頼っておらずに、やっぱり真っ白な気持ちで新しい問題に全力を挙げて取り組んでいかなければならない。教育全体として見れば、きょうまで社会の発展とか文化の向上とかに日本の教育の普及が随分大きな貢献をしてきたことは私は率直にお認めがいただけるだろうと思いますけれども、しかしながら、今日臨教審で問題点が指摘されておることだけを眺めてみてもわかりますように、いろいろまた改革しなければならぬ問題も出てきております。その中で最も象徴的なのが学校の場に平和な状態が今なくなっておるんじゃないか。国も平和でなければ経済の発展も文化の振興もあり得ませんように、学校のキャンパスが平和でなければ一人一人の資質や個性や能力を伸ばしてあげる教育といってもそれはできないわけですので、学校教育の現場を覆っておりますいじめとか集団的暴力とか、ああいった非行のようなものを、これは難しい問題だ、原因は絡み合っておるとだけ言わないで、できるところからひとつ改革をし改善をしていかなければならぬ。児童生徒の持っておるエネルギーをいい方向に、健全な方向に導いていくにはどうしたらいいか、これをまず当面の宿題として取り入れまして、中長期的にはたくさんほかに問題がありますけれども、今一生懸命努力を続けておるさなかでございます。
○江田委員 十年前に文部大臣に就任をされたときには今のいじめというのは、なかったわけじゃないと思いますが、しかし、今のような急性症状ではなかった。あるいはその端緒はあったかもしれないが。十年前はむしろどちらかというと、乱塾あるいは教育の過熱でもう少しゆとりが欲しいんじゃないかというようなこと、それから少年のゆがんだ行動で言えばどっちかというと非行でしたね。それが、この間、非行が家庭内暴力、校内暴力になり、これを全部一生懸命抑えつけてきた。何とかそういう方向に行かないようにと抑えつけたら、今度はそれがぶわっと下で広がっちゃっていじめになっちゃったというようなことが言えるんじゃないか。なぜ一体、本来平和であるべき学校が平和でなくなったんだろうか。一体どこにその原因があるんだろうか。根本的な原因というのは一体何だとお考えでしょうか。
○海部国務大臣 先生がおっしゃったことも私は大きな理由の一つだと思います。けれども、ちょっと私も違う角度から物を考えますのでお許しをいただいて率直に申し上げると、根本的な原因の一つは、社会の人口構造の変化というのが家庭における教育的な機能というものを麻痺させてしまったあるいは低下させてしまった。
昔、家庭に、これは言葉が適切かどうか知りませんが、兄弟げんかというものが日常的に行われておりました。僕らも六人兄弟で育っておりますから適正規模があったのでしょっちゅうやりました。けれども、あの兄弟げんかの中を通じて我々が身につけたものは、ほうり投げるときは机や柱のある方へ投げてはいけない、物のない方へ投げろということぐらいの思いやりの気持ちはやっぱり身につけたと思いますし、それが切磋琢磨という言葉で、人間関係、我が身をつねって人の痛さを知れというような人間にとって一番大切な思いやりの気持ちというものを家庭の中で兄弟同士で身につけたが、今はそれが全くなくなりつつある。いい悪いの評価はちょっと別の問題でございます。
それから、学校の現場を取り巻く雰囲気ですと、先生ぐっと抑えつけてとおっしゃいましたが、僕らもこの前の在任中は、間違っても先生やお父さんやお母さんにみんなで暴力を振るうことはいけないことであるということぐらいは身につけろと言って、赤信号みんなで渡れば怖くないなんという風潮はよくないというようなことを一生懸命言って、確かに暴力はいけない、いけないと抑えつけるような指導もしたかもしれません。
それよりも、学校全体の雰囲気の中で、どうでしょうか、人間の尊厳とか生きることのとうとさ、あるいは親とか兄弟に対する思いやりの気持ち、かたい言葉かもしれませんが、道徳教育といったような心の教育の面がおろそかになってきて、それはなぜなってきたかというと、点数中心の偏差値による進路指導というのが幅をきかせ過ぎたがために、ややもするとそちらへいってしまうのではないだろうか。ですから、ゆとり教育という言葉もお出し願いましたが、確かにこの前は、現場にもう少しゆとりを差し上げよう、現場の先生の創意工夫でもうちょっと人間教育もしていただいたらいいんじゃないか、三十三時間の標準時間も二十九時間にして、教えなきゃならぬ内容も少なくして、ゆとりとしてどうぞと言って差し上げたつもりでございましたが、どうもそうはいかなくなっちゃって、上の方の天井が片づかなければ、もらったゆとりだけではどうにもならぬではないか。上のレベルを変えろ、例えば入学試験とか、その上にある有名校とか学歴社会とか、天井には雲がいっぱいあるんだというような状況ですと、そこを突破していかなければなかなかゆとりある教育、心の教育といってもできにくいのではないだろうかという反省等もいたします。
ですから、家庭の問題や、学校における教育内容の問題や、あるいは社会や入学試験という制度、仕組みの問題といったものがずっと合わさってまいりますと、今度は児童生徒がだんだん社会の変化に伴って、この十年間の社会の変化で大きなもののもう一つは、先生もお触れいただいたが、パソコンとかファミコンとかいうのが家庭にずっと浸透しちゃって、近所の子供同士遊ばないで、テレビのゲームとだけ熱中して時間を費やす、機械とだけ向き合って、人間関係抜きで悲しんだり怒ったり興奮したり万能感を味わったりする。あの情緒の流れから切断された時間の中でかっとうしておる子供の心境というのは昔なかったことで、そういったこと等を考えますと、人間としていろいろな生活体験を身につけていくことが必要なんですから、バランスのとれた人間が大事だというならば、生活の場でも、学校の教育の場でも、社会教育の場でも、自然と親しんだり、汗を流すスポーツをやったり、文化に親しんだり、そういう多様な人間としての人格が形成されていく上に必要なものをもっともっと児童生徒に与えることのできるような教育環境を整備していくことが大切ではないだろうか。これらのことを全部総合した結果、今御指摘になったような非常に厳しい状況が起こっておる。一人一人がもっとみずからを大切にして、歯を食いしばって強くたくましく生きていけるような、そんな心の教育をもっとしていかなければならぬ、私はそんなことを考えております。
○江田委員 大変すばらしいお話が延々と続きましてありがとうございましたが、さあ今まとめて一体どういうことなのかというと、実はどうもよくわからないというような感じもするのですが、多少言わせていただくなら、私は問題があるんじゃないかという気がするのですよ。
確かに、家庭の教育機能というものも、核家族になってきた、そして今の親が戦後のいわば飽食の時代に育ってきたとかいろいろあるでしょう。そういう問題がある。社会にもいろいろな問題がある。そして、そういう問題の根っこのところに、全部とは言わないまでも、点数中心の教育があるというその御指摘はそのとおりだと思いますが、何かそういう大臣のお話を聞いておりますと、あれも問題、これも問題というふうにいろいろとお挙げになるけれども、しかし、家庭が悪いんだ、子供が悪い、学校がいけないんだと言いながら、世の中全体の動きというものに何かおかしなところがあって、それが子供たちのところにあらわれているんだという認識がないといけないという気が私はするのですね。ゆとりがなくなってきている、心というものが失われてきている。それは、子供たちの中にゆとりがなくなり、心が失われてきているというのでなくて、子供たちのところがそうなっているのは、世の中全体が何かそういうゆとりのない状態になり、心が失われて、お互いの世の中の社会的連帯の気持ちというのがなくなっていることがあらわれてきているんじゃないだろうかということですね。日本の教育が確かに今の日本の経済成長や文化の発展なりに大きな貢献をしたということは事実。しかし、一方で、これだけの経済成長をやり、これだけの文化、文明の発展をつくり出すために、私たちは負の遺産も随分積み重ねたんじゃないか。その負の遺産というのは何かというと、お互い人間同士がだれも皆それぞれにつまらぬところを持ち、欠陥を持ち、弱点を持っているわけですから、そういう弱点をお互いつつき合っていくというんじゃなくて、お互いに弱点をかばい合いながら世の中をつくっていくという気持ちがともすると後回しにされて、前へ前へ進んでいく。同じレースの中で人より前へということばかりに熱中してきたというようなことが今の状態をつくり出しているんじゃないだろうか。
そういう中で、私は今特に文部大臣にこれは一言どうしても聞き捨てならぬのでただしておきたいのは、強くたくましい心を育てるんだとおっしゃいましたけれども、私は世の中というのは強い心もあれば弱い心もあるんだと思うのですよ。たくましい心もあればまことにひ弱な、もう本当にちょっとでも人間の息がはっと当たっただけでへなへなっとしおれるような草にもすばらしい花が咲く、これが世の中じゃないか。強い心、たくましい心も大切だけれども、やわらかい心、弱い心、これも大事にみんなで包んでいくという社会ができなければいけないので、自殺をしたらあなたは心が弱いというようなやり方というのが子供をどんどん追い詰めているんじゃないかという気がするんですが、いかがですか。
○海部国務大臣 先ほどは私もすべてを言わずに、一番大切だと思っておることを象徴的に申し上げましたが、おっしゃるとおりに世の中にはいろんなことがありますから、その世の中に起こったことを全部申し上げておしかりを受けぬようにしようと思うと話がくどくなります。したがって、私の思っていることを単刀率直にばっぱっと言いますからそのような御批判もあろうかと思いますけれども、世の中で今問題になっておる病理現象を直そうと思ったら、私は強くたくましく生きるということをまず教えなければならぬと思うのですよ。弱い者も世の中にある、それはそのとおりなんです。けれども、そういったものに対する思いやりもなければ何にもないというようなこと、また逆に見て見ぬふりをされたがためにどこへ行ったらいいかわからなくなってしまったということがある。
私が就任してから一番心を痛めましたのは、例の中野区の富士見中学校で起こった象徴的な事件ですけれども、彼は親にも話したし、学校の先生にも話した、親も先生にも話してくれたけれども、親も先生もだれも救ってくれなかった。したがって、最後に話を聞いてくれるだろうと思うおばあさんのところまで行ったけれども、残念ながらそこで命を失ってしまった。ああいったのを見ておりますと、遠い盛岡までとにかくおばあさんに話を聞いてもらおうというのはまだ生きる希望を持っておる、私は強い心だと思っておったんです。だから、そういうようなものをもっともっとみんなが持ってもらうことが今の病理的現象をまず直すためには非常に大切だと思っておりますから、強くたくましくということをつい口癖のようにいつも言うのですけれども、私は弱い心とかやさしい心とか思いやりの心ということがいけないことだというようなことは決して思っておりませんので、そういったお互いの相互依存関係を高めていかなければならぬ。
同時に、もっと言うなれば、大人の社会のひずみが学校の教育のひずみになったんじゃないかと先生おっしゃいますけれども、それは歴史的に言えば、戦後四十年の間追いつけ追い越せでひたすらに豊かさを求めて、豊かになることがこの国の努力目標だということで、一応国民的合意まで得ながら努力をしてきたというその社会の風潮そのものが、花とだんごを分けますと、花の方は、豊かになること、幸せになること、国際社会で名誉ある地位を占めること、教育の分野で言えば、憲法、教育基本法を守って人格を高めていくことということになるのですが、だんごの部分ではまたこれ、いい生活をすること、いい生活をするためにはいい会社へ入ること、有名校へ行くこと、そのためには点数をたくさん取ること。何か花よりだんごという言葉であらわせば、だんごの部分でもまた、国民的にみんなが建前と本音を分けると、本音の部分では一致しておった。それが、学校における点数主義、点数中心の教育というものをいろいろ批判はしながらも、解決をしようとか解明しようとかいう動きに戦後四十年ならなかったという角度から見れば、大人社会の責任というものも確かに大きくあると私は思っております。だから、そういったものをどうかして改革していかなければならないという中で、今教育改革に取り組んで一生懸命あがいておるところですから、どうぞ先生の方からも、いろいろな御経験や体験を踏まえて、いい御意見を時々お聞かせいただいておりますので、積極的な御理解と御協力をお願いをしておく次第でございます。
○江田委員 大臣から陳情を受けるまでもなく、文部大臣であれ文部省であれ、こうやって今努力されている皆さん方に私も敬意を表しますし、私自身の物の考え方あるいは提案をいろいろとこれまでやってきたつもりなんで、これからもそういう努力はやっていくつもりですが、しかし、ちょっとおかしいんじゃないかという意見も時に言いますので、そうするとすぐに反発をなさらずに、どうぞひとつ、そういう見方もあるのかなと聞いていただかなければいかぬと思うのですね。
今やはりお話しくださいましたとおりだと思うのですが、戦後四十年あるいはもっと言えば明治維新以来百十年追いつき追い越せでやってきた。それは国民のコンセンサスであり、そういう経過が日本に必要だったと思います。しかし、今ここに来て、そろそろそういうコンセンサス自体を実は大人が見直していかなければいけないときが来ているのじゃないか。そうでなければ、二十一世紀というものを今までのようにただ追いつき追い越せの延長線で幾ら展望してみても出てこない。むしろ逆に根っこがどんどん掘り崩されているということになっているんじゃないかということを問題――問題どころか、むしろ危機感を持って感じておるのです。ですから、今教育というのは本当に大切だ。ただ、教育現場が何かおかしなことになっているという、これを何とかしなければということだけじゃなくて、歴史の進みぐあいが何かおかしくなるんじゃないかというような感じで物を真剣に受けとめようということを考えておる。国民みんなが、そこは自分たち自身のコンセンサスをもう一遍洗い直してみよう、あるいは教育とか社会とか人間とか生き方とか、そうしたものについてのこれまでの私たちの考え方をもう一遍選択し直そう、それが実は教育改革でなければならぬのじゃないかと思っておるのです。教育改革というのは、何かあっちのねじを緩めこっちのねじを締めということを超えた、社会のメカニックそのものが、もう部品もそろそろ、単にねじが緩んでしまったじゃなくて、材質的にかなり傷んでしまっておるような状態があるので、そのあたりを全部つくり直すということが必要なんだ。だから、教育改革というのは、単にどこかの、臨教審のお仕事を今私も見守っているところですが、臨教審がすばらしい提案をした、それをみんなが実行すれば教育が改革されるということじゃないので、国民みんながいろんな立場でいろんな意見を出しながら、お互いに多少時間のかかる心の洗い直しをしていくということが教育改革じゃないかと思っておるのですが、いかがですか。
○海部国務大臣 決して反発するわけでも反論するわけでもありませんし、大きな流れとしては、私もさっき申し上げましたように、戦後四十年ひたすらに豊かさを求めた社会の動きというものがやはり行き着くところへ来て、その結果、いろいろな考え方の誤りやレールが敷かれたということを率直に反省して、それを変えたいと思っておるのですから、この点は先生のお考えとよく似ておると思うのです。
それから、教育改革よりも、むしろ私は、先生の御指摘のようなことは、まさに国会の中で政策の方向をどうするかという国全体の立場で真剣に取り組まなければならぬ大問題だと思っておるのです。これは単に教育改革のみならず、国の文明、極端なことを言えば、物質文明というものが行き詰まってきた。ヨーロッパ、アメリカが日本に戦後与えてくれた民主主義とか自由を最高の価値にしろという物の考え方の中のその裏をなすものに、人間は自然を征服して自由を享受していけばいいんだというような発想があったと思います。けれども、自由を最高の発想、最高の価値としないところに日本の古代の文化があったと思うのです。だから、そういったものの中で、自然を征服して人間が自由を満喫したところに、公害が起こったり自然環境破壊が起こったりいろいろな問題が指摘されておるわけです。
そうすると、それらのことを考えながら、物質文明がさらに精神文明と調和していくためにはどうしなければならぬかということも、これはもう教育改革を乗り越えた大きな国全体の政策努力の目標で、まさに国の改革のテーマとしてそれはふさわしい大きな問題だと思うのです。ですから、それに取り組むことは決してやぶさかでありませんし、全力を挙げて取り組まなければならぬことは先生御指摘のとおりでございます。
ただ、文教行政を預かる身といたしますと、去年一年間で九人も自殺が出た。私が就任して、どうかこういう悲しいことはやめてくださいと、何回訴えても続いてそういったことが起こっておりますと、これは学校ばかりに物を言ってはいけない、世の中を変えなければならぬのだ、大人の意識を変えなければならぬのだ、それからいかなければならぬのだといって、そちらばかり大所高所論ばかりやっておりますと、現場に対する配慮というものもなくなりますので、せめて緊急の対症療法かもしれないけれども、やって救えること、やってできること、見て見ぬふりをしない、見たら言葉もかける、救いの手も差し伸べる、人間関係をそこで復活させれば救われるということがわかっておるなれば、そういったこともやはりやるべきであろうと思うし、また、御指摘いただいたような制度、仕組みの中でよくないということが指摘されておる問題は、とにかくそれを改革するための努力もあわせて行っていきませんと、全体が悪い、これだけ言っておったのでは、現場を預かる者としての責任もあるわけでございますから、三万、四万にずっと目配りをしながら、広い次元で、中長期の目盛りや当面の対策やいろいろあわせて取り組んでいかなければならぬ、このように受けとめさせていただいております。
○江田委員 わかります。ただ、具体的な緊急のいろいろな手当てをすることももちろん大切で、それをやるなと言っているわけじゃない。大いにやってほしい。大いにやってほしいし、同時に、文部大臣からは、温かい人柄とか弱いすく崩れるような子供の心に対する思いやりとか、そういう気持ちがじわっと日本じゅう、にじみわたっていかなければ救われないと思うのですよ、今の子供たちは。ですから、大所高所のことは決して軽視しているわけではないのですがという言いわけ風なことじゃなくて、やはり文部大臣は、人間の可能性について語り、人間の夢について大いに語っていただかなければならぬと思うのですよ。それが文部大臣の役割だ。
それだけでもありませんが、先ほどの強い心、たくましい心については、私がいちゃもんをつけたのもそういう意味です。だってそうでしょう。強い心、たくましい心から生まれる文化なんというのは後進国くらいなものだ。後進国というのはマーチですが、発展途上国という意味じゃなくて。と言うと言い過ぎですが、きのう私はあの人にこんなことを言ったけれども彼女の気持ちを傷つけたのじゃないだろうかと一晩寝ずに悩む、そんな心からいろいろな小説が生まれたり絵画が生まれたりするわけですよ。そういう弱い心も大切にし、そして弱い心があればそれをみんなが包んでいくというようなそんな世の中をつくらなければいけないわけでしょう。
ですから、くどくどと申し上げませんけれども、文部大臣は、どうぞそういう国民を、特に子供たちを叱咤激励するのじゃなくて、叱咤激励を一方でするのも大切だけれども、同時に、大きく子供たちをはぐくむ言葉を子供たちにかけてやってほしいと思うのです。いかがですか。
○海部国務大臣 先ほど冒頭に、アイドル歌手の自殺の問題や学校におけるいじめ、自殺の問題についての御議論でございましたので、つい象徴的に強くたくましくという私の日ごろ考えていることも言いましたが、実は、先週の土曜日のNHKの教育テレビをもし先生が一時間半見ていただいたとするなれば、あのとき私は、花を摘んで踏んづけた子供に、花は踏んづけたりとったりしてはいけないのだ、生命はいたわる優しい気持ちを持たなければならぬのだという角度のことだけを議論した一こまもあったわけでございますし、また、おっしゃるようにそういういじめ、自殺の問題と離れて物を考えれば、人間というのは平和的な国家並びに社会の形成者としての人格を育成しなければならぬわけであります。それは何度も申し上げておりますように、思いやりの心とか、何も兄弟げんかだって、強いばかりが能じゃない、相手を思いやって空間に向けて投げるという、それくらいの配慮をすることが大切だということを、私は自分の体験からしてどこでも多くの子供さんにも申し上げていることでございます。言いわけをするわけじゃございませんけれども、世の中にはそういういろいろな光の面もあれば影の面もある、強い面もあればそれをぐっとしなやかに受けとめて社会を形成していく場合もある。それぞれ資質や個性や能力というのはたくさんあるわけでして、草にもそれぞれ、花にもそれぞれ、芭蕉の句の中にもありましたように、それぞれの生きがいや生命や役割があるわけですから、そういったことをみんな踏まえて、一人一人の個性を大切にした人間として生きていってもらいたい。思いやりのあるそういった人間関係を大事にしていってもらいたい。私はそう考えておりますので、もし私が強くたくましくだけを人間の価値として認めておるとお考えになれば、それはきょうの御議論の質問の中における一断面であったとどうぞ御理解をいただきたいと思います。
○江田委員 じゃ、それはそういうことで。
今のいじめのことですが、私はこんな感じもするのですね。今のお話のとおりで、まさに戦後四十年の日本のたどってきた歩みがこういうものを、もちろんそれだけじゃありませんが、大きな目で見るといじめなどを生んできている。しかも、今までの少年非行とか学校内暴力とかはそれぞれに対症療法があったけれども、このいじめの問題というのはなかなか対症療法というのは難しいですね。先ほどのお話にも出てまいりました東京の中野富士見中学、確かに教師を処分をされた、配置転換をされて学校の中の年齢構成をかなりバラエティーを持たした、あるいは原因となった子供たちにする少年保護手続が開始をされた、そういう対症療法が行われたようですが、しかしこれは、鹿川君は自殺をしましたけれども、自殺をしていない鹿川君というのは全国にいっぱい今おるわけですね。とてもとてもそんな対症療法で済まない。そういう意味では大変に深刻な事態ですが、一方で逆に考えれば、ついにここまでやってきた。私たち、子供を育てていくという意味において、十年前にはまだ川の表面であっぷあっぷしておった。五年前はかなり沈んで、今は川底までついちゃったわけですから、ひとつこの際、海部文部大臣を先頭にして、この川底をやあっと思い切ってけり上げて、もう一遍水面に出ていって、一番底までたどりついたらこれはもう上へ上がるしかないのですから、改革しかないわけで、やっと今、日本の教育が大きく教育といいますか、世の中のあり方が大きく変わる曲がり角に来た。そのときにすばらしい文部大臣を迎えたということでなければならぬというようなとらえ方が一方でできるかと思うのですよ。大臣、責任重大だと思うのですが、そういうふうに言われると一体どうお思いですか。
○海部国務大臣 国会の議論をいろいろお伺いしましても、それぞれ当面は先生方から対症療法についての御提言や御指摘も随分承りました。例えば、学校の中に必ず取り上げる駆け込み寺をつくってあげることが、児童生徒が心を閉ざしておるのを本当に開かせることが大切だという御意見もあります。また、私のところへ随分お手紙も来ますけれども、ある新聞がトップに取り上げられました評論家の意見で、殴られたら殴り返せ、やられたらやり返せ、そう教えなければだめだというあの説を切り抜いて、文部大臣、この手でいけといって下さった手紙も複数ありました。同じころ、また新聞が大きく扱われた、殴られても殴り返すな、じっと耐えて相手に思いやりのある子供になるように言えというような、御意見は本当にさまざまたくさんございます。
けれども、私なりにそれを全部重ね絵のように合わせてみて考えてみますと、児童生徒の心をやはり閉ざさせてはだめなんだ、それは人生最初に出会う教師であるお父さん、お母さんが御家庭でやはり絶えず物を言っていただくとともに、同世代年齢が初めて集まる学校の場、特に教師の立場というのは、直接児童生徒に触れていただくのですから、そこで言葉をかけ、励まし、手を差し伸べ、相談相手になってやっていただくことによってまずこれは救われるのではないだろうか。救われる面も出てくるのではないだろうかと言った方が正確かもしれませんが、特に中野区の富士見中学校の報道等を見ておりますと、私はそのことをいたく感じたのです。
だから、中長期的な大きな背景整備の問題もあわせてやらなければならぬということは当然申し上げておきますけれども、その前に、まず手っ取り早くその最低のところから上がってくるためのきっかけ、契機を心に与えてあげるためにも、くじけた子やあるいはどうしたらいいかわからない子に、学校や教師の立場で、家庭の父母の立場で、心の通い路と、物を言ってお互いに励ましの気持ちだけは伝えておくんだというような、正義の行き渡るような、そんな雰囲気ができていかないかな。それができれば、これは反転していく一つのきっかけになる、私はこう思って、できるだけそれは全国の教室で取り扱っていただくようにお願いをしておるのです。そのことをさらに全国にまず徹底していただくように、児童生徒が自分のクラスで起こったこととしてあの遺書を読み、あの遺書に対する意見交換なんかをしてもらったら、ああ、いじめということはいかにルールに反した暗いことなのか、いけないことなのかということがやはり児童生徒の自覚の中でわかってくるのではなかろうかと私は考えております。
○江田委員 中野富士見中学の例をもうちょっと素材にして考えてみたいのですが、先ほどの教師の処分とか配置の転換とか、生徒の保護処分とかという対症療法、同時に、これは新聞報道しか知りませんが、あそこで父兄が立ち上がった。私たちの中野富士見中学だ、すばらしい学校なんだ。卒業式のときですか、学校の上に看板を立てて、頑張れ、中野富士見中の子供たちというような、文言を覚えておりませんが、そういうことをやって、地域で、お父さん、お母さんたちが地域ぐるみでこの学校を何とかよくしようということになってきたという報道があったのですが、このあたり、私は非常に重要な問題を解くかぎではないかと思うのですね。学校の中で子供たちの話し合いをさしていく、これももちろん大切。同時に、やはり先生の処分もいいけれども、処分したって何も解決つかぬですね。むしろ逆に、あの先生たちも一生懸命やられていたんだと思いますよ、その先生たちを大いに励ましていく地域社会の連帯が大切なんじゃないか。
さらに進んで、そのお父さん、お母さんたちが、中野というところでは、富士見中の周辺のお父さん、お母さんだけではなくて、中野区全体でお父さん、お母さんたちが教育に随分関心を持って、自分たちの力で準公選という制度をつくってやっているわけで、そういうような地域ぐるみの、教育に関心を持ち、教育に物を言い、教育に責任を持っていくという態勢を大切に育てていくということが一つのかぎになってくると私は思うのですが、いかがですか。
○海部国務大臣 お言葉を返すようでまことに申しわけないのですけれども、地域のお父さん、お母さんが学校と一緒になっていい活動をしてきたから、世を騒がせるような学校にならないでまともに運営されてきておるという例は全国にたくさんあると思うのです。それから、三年か四年前に荒れた学校で有名であった町田の忠生中学校も、地域のお父さん、お母さんが関心を持っていい学校に生まれ変わったという報道を私は最近もよく見ております。ですから、そういった地域ぐるみの、学校教職員と地域の皆さんが力を合わしておやりになることが、学校再生のためにあるいは学校の健全な運営のためにいいことだと思うし、いろいろなところのPTAではそういう活動を随分していらっしゃるという実践例等も私は聞いておるのです。
それから、先生が今中野の富士見中学校のことを例にして少し議論を深めようとおっしゃいますから、私もあえて申し上げるのですけれども、中野の富士見中学校の現場と付近のお父様、お母様の関係とか、あるいは準公選をただ一つおやりになった中野教育委員会との関係は私はどんなものであったろうかと思って非常に興味を持っておったのですが、たまたま最近あるテレビで前の中野の教育委員のお方と対談をする場を与えられました。率直に聞いてみたのです。地域の住民と開かれた学校運営、地域と直接風通しのあるいい制度をするためにはこうしなければならぬとおっしゃっておやりになったのですが、学校との関係はどうだったかと聞きましたけれども、中野のその教育委員の方自身が、学校へ行っても、あの富士見中学校の先生たちは、教育委員来たか、そこの廊下を直せ、天井を直せぐらいで、とてもそんな話のできる状況でなかった、だから私は二度自立候補するのはやめたんだとまでおっしゃっておるのですよ。私は、もうちょっと、せめて教育委員の皆さんや地域の皆さんと学校当局が話し合いができたならば、あのかわいそうな鹿川君の例なんかも救われたんじゃないかというような気持ちがどうしてもしてなりません。
ですから、地域と学校とのそういう交流や先生の入れかわりによっていい学校になっていったという報道や例がたくさんありますので、私は直接指揮監督はできませんけれども、教育委員会がそれなりのことをして、例に挙げました町田の忠生中学校のように、余りにも象徴的に有名になってしまった富士見中学校を、教育委員会や地域の人が集まって生まれ変わらせよう、今一生懸命心を寄せていらっしゃるなれば、非常にいいことだと思いますから、校長を中心にして教職員の皆さんと地域の皆さんとが本当に力と心を合わせ合っていい学校に、活力ある学校によみがえっていただくように心から期待をして見守っていきたいと思っております。
○江田委員 私は言葉を返されたと実は受けとめていないので、まさに文部大臣が今おっしゃったような、地域と学校、教職員とみんなが腕を組み合い、知恵を出し合って変えていくということをひとつ大いに見守っていただきたいし、見守るというのはそういうことが大切だという認識で見守っていただきたいと思いますね。
さらにもうちょっと、今の教育委員であった方のお話が出ましたのであえて付言をしておきますと、なぜ一体彼女は二度目の立候補をしなかったか、できなかったというところまで文部大臣おっしゃいましたが、できないについてはこれこれこういうようないろいろな桎梏があって、規則があって、何とかがあって、とても教育委員あるいは教育委員会に与えられた権限というものが限局されておって何もできない状態になってしまっておる、こんなことだと、これはもう文部行政を根本から変えなければならぬということに突き当たったということをその方は私にはおっしゃっていましたが、文部大臣にはそうおっしゃってなかったかもしれませんけれども、どうも文部行政、文部省にかなりの責任があるような意見もその方はお持ちでした。少なくとも私にはそうおっしゃっていました。まあひとつこれはじっくり後ほど議論をしてみたいと思います。
人間というものを育てていくんだ、本当に人間を大切にということがこれからの教育のいわば柱になっていかなければならぬということだと思うのですけれども、どうもともすれば、主要五教科といいますか、いわゆる点数をとるところにばかり問題が集中をしておって、本当に人間として生きていくという基本的な素養といったものが学校教育の中で十分与えられていないんじゃないかという気がしてならないのです。そういう問題意識からしますと、去年女子差別撤廃条約が批准をされて、その条約との関係で高校の家庭一般、それから中学の技術・家庭が見直されなければならぬということになったということは、私は大きな意味があると思っておるのです。
そこで、今この家庭科の見直し作業というものはどういう段取りになっておるかをひとつ御報告いただきたいと思います。
○海部国務大臣 御指摘のように、女子差別撤廃条約の批准に妨げがあるということで指摘されましたのが家庭科教育に関する問題でございましたから、昭和五十九年六月に検討会議を設けまして、同会議からの報告をいただき、高校の家庭料についてはたくさんの科目を指定しまして男女が自由に選択必修させること、また中学校では技術・家庭と言いますけれども、これもすべての生徒に共通に履修させる領域と、生徒の興味、関心に応じて履修させる領域を設けるということを指摘されました。この報告の指摘を受けまして、それをただいま行われております教育課程審議会に審議をしていただきたいとお願いをしておるところでございます。
○江田委員 じゃ、まずそこまでのところで多少大臣の認識をお伺いをしておきたいと思いますが、その女子差別撤廃条約といういわば外圧に促されてやむを得ず家庭科の履修のあり方を検討するということなのか、それともそうではなくて、ただいま私が申し上げましたように、家庭科というものが調理と被服だけだというふうに考えておるとちょっとそこの認識を改めていただきたいわけですが、そうではなくて、今指導要領は調理、被服だけが家庭科というふうには書いてないのですね。もっと身辺自立の科学といいますか、人間として必要な生活を行っていく素養を身につけるというか、さまざまな、例えば子供を育てていくお父さん、お母さんの役割、あるいは家庭の経済のこと、いろいろなことが入っているわけです。私はもっともっと広げて、例えば今の非常に乱れてきておるセックスの問題であるとか、あるいは家庭を破壊していくさまざまなクレジットカード、キャッシュカードなどの動きがありますが、そうしたことにもあえて対応できるような家庭経済の物の考え方であるとか、あるいはこれから先どうしたってエコロジーという考え方が必要になってくるわけですが、ごみの問題、水の問題、下水の問題、あるいは食品添加物の問題、着色料の問題、その他もろもろありますが、そうした課題をひとつ広く体系的にとらえ直して、生活科とでも言うべき家庭科をつくって、これを男の子にも女の子にも教えていくということがこれからの時代、必要になるのじゃないか。高齢化社会を迎え、あるいは核家族という趨勢、これはもう迎えたどころじゃありません、もう核家族になっておるわけですが、こういう時代に、男は家庭生活あるいは生活一般というものに対して無知でよろしいなんて言っていたら暮らしていけない時代ですから、男のためにも家庭科は男も学ぶということが必要だという認識でおるのです。そういうようにして生活というものを学校教育の中でしっかりお互いに身につけていく、生活の技術を身につける、生活の哲学を身につけるということが学校教育を変えていく、今のすさんだ学校教育をもう一遍洗い直していくという大きな役割を果たすと思っておるのですが、そのあたりの大臣の認識を伺いたいと思います。
○海部国務大臣 御説は全くごもっともだと思います。世の中における家庭の果たす役割とか、家庭における男女がお互いに人格を尊重しながらやっていかなければならぬ共同作業というものはそのとおりですし、また社会の変化にどちらかがひっかかってしまって家庭破壊なんということもよろしくないことでございますから、そういう意味で、家庭科の内容そのものもどのようなものにしていくのが必要かということも含めて、今教育課程審議会で御検討願っておるわけでございますから、そういった考え方には私も基本的に賛成でございます。
○江田委員 確認ですけれども、高等学校の家庭一般の履修形態だけじゃなくて、中学の技術・家庭の履修形態についてもあるいは中身についても検討しておるというふうに伺っていいですか。
○高石政府委員 そのとおりでございます。
○江田委員 教育課程審議会で今検討しておるというところまでお答えをいただきましたが、さらにもうちょっと具体的に、どういう検討が今進んでおるかということをお教えください。
○高石政府委員 現在教育課程審議会は総論をやっておりまして、その総論の中でも特に次期の改訂の重要な要素と思われる事項を四つ挙げておりまして、その中の一つに家庭科教育はどうあったらいいかという課題別委員会をつくっているわけでございます。その課題別委員会で具体的に小学校、中学校、高等学校を通じてどういう展開をしたらいいか、そして従来の家庭科はどちらかというと女子を中心として考えた教育内容になっておりますので、そういう男女とも履修させるということになればどういう範囲まで拡大していったらいいか、そういうことを鋭意検討を重ねているところでございます。
○江田委員 高校の家庭一般が充実されてくる、そしてこれが男女必修、その必修の形態は選択必修とかいろいろあるでしょうが、ということになってくると、勢い中学の履修の状態も大きく変わらなければいけない。そこで、今は中学は技術と家庭になっているわけですが、この技術と家庭を足して二で割って技術も家庭もともに男女ともに学ぶというようなことになると、家庭を学ぶ時間教が男子はふえるけれども女子は減っちゃうということになりますね。これはどうするのですか。そういうふうに中学の女子の家庭の履修時間は減らすということでいいのですか。それとも今までの中学の女子の家庭の履修時間というものはきちんと確保するというお考えですか。
○高石政府委員 時間の配当についてまではまだ論議を進めていないわけでございます。
ただいま御指摘がありますように、中学校における技術・家庭科ということで、技術の面からも実は見直しが必要であるというふうに思っております。昔のように旋盤みたいなものを果たして教える必要があるかどうかということで、そういう授業内容の精選を図っていかなければいけない。それから、家庭科教育についてもそういう内容の精選を図っていかなければならない。そういうことを考え合わせ、そして新たな要素として、先ほど来御指摘のあるような生活科的な領域のものをつけ加えていくということになると、どういう時間、どういう履修形態にしていったらいいか、そういう角度から検討が重ねられているわけでございます。
○江田委員 この家庭科の履修方法についていろいろな提案や要望があると思いますが、全国高等学校長協会家庭部会というものが要望を出しておる、あるいは家庭科の男女共修をすすめる会という、これは任意の団体ですが、こういう皆さんの要望もあったり、先ほどの中野の方も入っていらっしゃる女性による民間教育審議会、これが出している提案とかいろいろありますが、ひとつこうしたものを大いに参考にしてすばらしいものをつくっていただきたいと思うのです。
同時に、東京都が、これは東京都生活文化局というのが去年の二月に「男女平等都政のすすめ方」という報告を出しておりまして、そこで家庭科の指導方法、内容方法などの研究を先行していくんだ、共修というものを課題として、こういうことを書いてあるわけですが、文部大臣、各自治体で今の家庭科の履修方法というものを、女子差別撤廃条約の示す方向、そして検討会議の示す方向に従って先行的に実験をしていくということは、これはいかがですか、大いにひとつ奨励をすべきことではないかという気がいたしますが。
○高石政府委員 現在、現行の家庭科の教育内容をどうやって展開したらいいかという意味の研究指定校、これは文部省自体も幾つか小中高等学校の段階を分けて指定しておりまして、その研究成果を広く利用していくというふうにしているわけでございます。したがいまして、現行の内容についての運用で効果的なものは大いに取り組んでいかなければならない、しかし、現行よりもはみ出してもう少しつけ加えていくべき要素というものはまたそういう角度から論議していかなければならないというふうに思っております。
○江田委員 この家庭科問題については、家庭科なんというような学問といいますか、領域というのは、家庭生活というものについて子供たちが興味と関心を持って、家庭というものを運営していくその子その子の素養を身につけていくことが大切だ、そういう領域であって、何か成績なんというものをつけて競争させることがそう意味がある領域じゃないと私は思うのですね。
あるいはまた、そのほかにも、例えば音楽なんというのは余り点数なんかつけたってしようがないので、子供たちが音楽が好きになればいいのですから。小学校へ入るときには、子供が大声で調子が外れようが何しようが歌っているのが、卒業するころには、「仰げばとうとし」を歌うのにぼそぼそと小さな声で、別に何も悲しくて声が出ないのじゃなくて音楽が嫌いになっているというようなことがあっては困るわけですね。体育だってそうです。絵画だってそうです。そういうものは子供に点数をつけて競争させる、あるいは点数をつけてその子の評価を決めるよりも、その子その子の持ち味で、その子その子がそれぞれに音楽が好きになり体育が好きになればいいわけですから、こうした領域では点数をつけることがむしろ教育に何か障害になるのならば、あえて点数なんてつけなくてもいいんだということを認めてもいいような気がするのです。点数をつけなかったら主要五教科の方に全部流れて、時間も全部そっちにとられてという、確かにそういうおそれも今の学校教育の中にあるからなかなか難しいですが、基本的にどうお考えですか。
○高石政府委員 いろいろな見方、考え方があると思うのですが、音楽とかそれから美術、体操、そういうことを人格形成上非常に重要な役割を果たしているものであるという人々の考え方からいけば、もっとそういう面の教育を強化しろという意見になりますし、それから、国語だとか算数の基礎的なものを強化しろという方は、もうちょっとそこに時間数をふやせということになりますし、国際化を控えて英語はもうちょっと時間をふやせ、これからコンピューターが予想されるのでそういう教育がやれるようにしろ、要求される要素は実は非常に盛りだくさんになってくるわけです。したがって、それを踏まえてなおゆとりを持ちながら基礎、基本の義務教育を展開していったらどうかという形で位置づけていかなければならない。
したがって、家庭科についても、先ほど来御熱心な御指摘がございます。そのことはそのとおりだと思います。時間をどうするかというのは、そういう総合的なバランスの中からおのずから調整していかなければならない課題であると思っております。
○江田委員 家庭科について触れたついでに、男女の平等といいますか、男女の役割分担といいますか、そういうことにもうちょっと触れてみたいのです。
ここに私が持っておりますのは、出版労連という労働組合の連合会の皆さんがおまとめになった八六年の「教科書レポート」なんですが、この中に中学校「社会、公民的分野」への検定の種々の具体的な例としてこういうところがあります。
「(子どもを育てるという営み)」、これは括弧でくくってあるのですが、中身は違うのでしょうが、そういった課題を「個々の家庭、とくに女性だけに負わせると、女性の社会参加はいちじるしく困難になるうえ、男性の親としての役割は低下する。」という原稿本に対して、修正意見として「男女の差を認めて協力しあう、という両性の本質的平等にふれよ。」という意見が出されたという記述がありますが、これは事実でしょうかと伺ってもお答えにくいかもしれませんが、そういうことはあり得る話ですか。
○高石政府委員 ここで出されているような意見をこのままストレートな形で言うことはあり得ないと思っております。
○江田委員 それはなぜですか。あり得ないというのは、どこかにこういうことを言うはずがないという部分があるからですね。どこですか。
○高石政府委員 要するに、男女の差を認めて協力し合うという両性の本質的平等に触れるということは、日本の現在の学習指導要領におきましては、現在の家族制度が個人の尊厳と両性の本質的平等に基づいていることを理解させるというような指導要領になっているわけでございます。そういう指導要領の中から、男女お互いにその特性を認め合って協力していくということは当然書かなければならぬことでありまして、男女差を設けるような表現で書くということはあり得ないということでございます。
○江田委員 あり得ないと言っていただきますと大変に心強い限りですが、男女の差というのは、確かに男はどう頑張ったって子供を産めるわけじゃありませんし、お乳が出るわけじゃありませんけれども、家庭において子供を育てるという営みは、男も女もともに、それぞれの果たす役割に個人としていろんな差はあるにしても、家庭で子供を育てる役割というのはどちらもが果たしていかなければならぬわけで、男女の差というような言い方は女子差別撤廃条約に根本的に抵触をしてくる。女子差別撤廃条約というのは、すべての段階及びあらゆる形態の教育における男女の役割について定形化された概念の撤廃をしなければならぬということを締約国に求めているわけでありまして、ひとつそのあたりは十分に時代の向かっていく方向に沿った認識というものをお持ちを願いたい。検定がいいか悪いかということはちょっと今おいておきまして、そういうことをお願いをしておきたいと思います。
教科書の問題が幾つかあるのですが、男女の平等のこともありますが、同時に福祉というものが一体今教科書でどう扱われているのかということについて、私はそれほど詳しく調べる時間的余裕がなかったのですが、何か困った人を助けるのが福祉だというような扱いのように見受けられるのですね。例えば、ここに手元にありますのは東京書籍株式会社の中学校「社会、公民的分野」の百七十九ページですが、「高齢化社会と福祉」「年をとって、働けなくなった人の生活を維持していくために、国民年金や厚生年金などの社会保険制度がある。」という記述になっている。しかし、今の認識は、年をとって働けなくなった人の生活を支えるのが年金だというそんな認識とかなり違ってきていると思うのですね。そうではなくて、今もうある年齢以上になると年金で生活をしていくというのがごく普通の姿になっている。あえて権利だと言うほどやかましいことではない。世代間の連帯のあり方として年金生活時代というものが今到来している。そういう意味で、この高齢化社会の年金の話だけではなくて、お互いに出し合いながらお互いに助け合っていく福祉社会をつくっていこうというコンセンサスが次第に広がっていく、そういう時代だと思うのですが、それならばなおさらのこと、子供たちに福祉というものの基本的な理念、基本的な精神、基本的な心をきちんと学校教育の中で教えていかなければならぬと思うのですが、それにしてはどうも福祉の記述は余りにもお粗末で、制度の説明ぐらいしかできていないという感じですが、折から教育課程審議会が審議をしている最中でもあるので、そのことをひとつ指摘をしておきたいと思いますが、いかがですか。
○高石政府委員 社会構造の変化だとか社会状況の変化がいろいろ出てまいりますので、教科書もそれに沿って内容は記述されていかなげればならないと思っております。
○江田委員 初中局長の答えはそういうことかもしれませんが、それでは、大臣、福祉の理念とか福祉の精神とかいったものが学校教育の中できちんと取り上げられるべきである、今の教科書の批判は別として。こういう指摘はどうお感じですか。
○海部国務大臣 日本は福祉国家を目指して営々と努力してきたし、また社会の移り変わりとともに福祉というものが、国民の間で描くイメージもだんだん前進していかなければならぬわけですから、学校教育の中で十分に取り上げられることは大切なことであると思っております。
○江田委員 ひとつそういう方向で頑張っていただきたいと思います。
さらに、教科書の中でもう一つ、無体財産権という権利があるんですが、これはもちろん御承知のとおり。今、子供たちまで例えばパソコンソフトというようなものに日常的に接するそういう時代が来ておる。ところが、この無体財産権、今のパソコンソフトといいますと著作権ということになりますが、こうした権利については日本はどうも諸外国に威張れる状態でないと言われているわけです。制度的にもいろいろ落とし穴があって、鋭意制度をきちんと仕上げるための努力をしておるわけですけれども、この無体財産権の物の考え方、つまり人が考え出したものはその人のものなんだよ、海部文部大臣が考え出された演説内容というのは海部文部大臣の演説内容で、それを私がどこかへ勝手に持っていって、これは海部文部大臣がおっしゃっていましたがと言わずに、私の言い方で言っちゃったらいけないんだ、そういうことは子供のときからきちっと教えていかなければならない、人間社会をこれからつくっていく上での基本的な考え方だと思うのですが、いかがでしょうか。
○海部国務大臣 著作権に関するお話、それが中心になっておるように思います。そして、今まで権利義務として余り明確にあげつらわれなかった、また児童生徒の間でも、このところのテープレコーダーが発達した段階において、何か物を買ってくるよりも借りてきてテープにとった方がいいんだというような、知らず知らずの間にすれすれのところを行っておるというようなことが議論になりましたことを私も今思い起こしますが、やはり無体財産権もこれから先の世の中においては一つのきちっと保護されるべき権利であると思います。ただ、児童生徒の発達段階においてどの辺でどのような仕組みで教育をしていくかということはまた別の問題でございますけれども、これは大切なテーマの一つだという御指摘は私も承ります。
○江田委員 誤解のないように申し上げておきますと、テープを借りてきてそれをダビングをするということは音楽文化の享受の仕方であって、そのことがけしからぬというふうになるかどうかということはこれはまた別の問題です。だけれども、そこには権利侵害とすれすれのいろいろな問題が出てくるわけです。ですから、例えば他人のテープを借りてきてそれをダビングする場合に、もとの権利者に対してそうしたことから生ずる利益が還流していくようにいろいろな形の代金の支払いなどが行われていくという仕組みが必要だ。しかし、テープをダビングすることはけしからぬということになるかどうかというのはこれはまた別の問題ということだけは指摘をしておきたいと思いますが、著作権だけではなくて特許権でも、例えば子供たちに対して発明工夫展というようなことで発明工夫を大いに奨励していく、あるいは今の技術革新ということを教科書の中でお取り上げになっている、ここまではいいのですが、そういう技術革新の知的生産物の権利性――権利性と言うと言葉は非常に難しいけれども、そういうものはその人のものなんだからこれを尊重しなければならぬといった物の考え方、これはどうも今のところ高等学校の商業法規といったところでしか実は扱われていないので、これではいけない、もうちょっと商業科の課題ではない社会一般の課題だという受けとめ方をしていただきたいと思いますが、いかがですか。
○海部国務大臣 いろいろ人間の権利義務の明確化、個人に倣うべき権利や個人が努力によって生み出した権利義務を保護していくという方向は、方向として正しいと思いますから、どこで教えるかといういろいろ具体の問題については、これからひとつ研究し勉強させていただきます。
○江田委員 もう時間がほとんどなくなりましたが、冒頭の私と大臣とのやりとりの中で、大臣が多様性ということをおっしゃいました。いろいろな人間がおるのだ、それぞれに長所もあれば弱点もある人間がこの世の中をつくっているので、それをそれぞれ尊重していかなければならぬ、自分と違った考え方を認めないとかいうのでは困るわけで、どっちみちこういう多様な世の中になっているわけですから、学校教育の中でも、そういう多様性ということを本当に大切にしていく、多様性に対して寛容である、多様性ということ自体を価値として受け入れていく、そういうことになっていかなければいけないと思うのです。今、例えばいじめなんかの根本に、そういう多様性に対する寛容さがなくなってきている、世の中の柔軟さがなくなってきていることの反映かもしれませんけれども、ちょっと何か人と違うとけしからぬというのでいじめるというような状態がありまして、そういう中で多様性を大切にしていく幾つかの方法といいますか、あるいは多様性を大切にしているかどうかのメルクマールといいますか、こんなものがあると思うのですが、その一つに帰国子女ですね。帰国子女というのはいろいろな対策を文部省でとられているようで、帰国子女の教育の現状について先日私もお教えをいただいたのですが、帰国子女というのは問題にあるのだ、教育現場における攪乱要因なんだ、だからこれは何とかして教育現場の中にうまく入ってこれるように手だてを講じなければならぬということでいろいろとおやりになる。しかし、私に言わせれば、そういう面は確かにある、日本語が十分に話せない子供に対していろいろな教育をしていくのがなかなか難しいという点があるだろうと思いますが、一方、違う文化の中で育ってきた子供たちが私たちの中におるというそのことは子供社会にとって財産なんだという見方もあるし、少なくともそういう見方ができるような学校現場にしていかなければいけないという気がするのですね。
何か報道によりますと、東南アジアで過ごしてきた子供たちというのは実にのんびりしておりまして、学校の先生がピッと笛を吹いてもすぐには動かない。ゆっくりといろいろなものに対応していくので、とてもぐずでのろでというわけで学校の中でいじめられる、つまはじきにされるという状態があるという新聞報道がありましたが、そうじゃないのですね。東南アジアというのはこういう国なんだということをその子供を通じて知ることができるという大変にありがたい生きた教材――教材と言うと言葉は変ですが、そういう多様性を認めるための大変大切な一つの手がかりが帰国子女だという受けとめ方があると思うのですけれども、いかがでしょう。そうした帰国子女問題というもののとらえ直しを一度していただけないかと思うのですが。
○海部国務大臣 おっしゃるように、国際化時代はもうそれぞれの国と仲よくし、それぞれの国と相互依存関係を深めていく中で、日本もやはり刺激を受けたりそれによって力が出てきたりするいろいろないい面が相乗効果として子供の間に出てくると思うのです。その意味で、私は海外へ参りますたびに、そこの日本人学校というのも訪ねてみていろいろと意見を述べたりしてまいりますが、現地の子供と例えば校庭だけでも一緒にしておる日本人学校というのは非常にいろいろな体験をするようです。それと同じように、今度はそういう体験を持った子供が日本へ帰ってきて、日本の教室で日本の教育だけしか知らなかった子供と接触し合うと、珍しさというか、あるいはそこから刺激されたり啓発されたりしていく面も出てくると思いますし、その児童生徒のそういった生活体験、異文化と接触してきたということがやはり一つの刺激になっていくと思いますので、帰国子女を受け入れ、帰国子女を大切にしていくということは、今施策の中でできる限りのことはしておるつもりでございますけれども、なお今後の検討課題としてこれは前向きに解決をしていかなければならぬ問題だ、このように思います。
○江田委員 異文化との接触というものが非常に大切だ、そういうことによって啓発されていくんだというお話、そのとおりで、しかしそのことが学校現場で実は行われていない。逆に、何ですか頭を結ぶゴムの色からソックスの色に至るまで、何か大変に決まり決まりで校則というものを随分うるさくやっているというのが今の現実の学校教育だということ、これを文部大臣、知らないわけはないでしょうね。この校則というものは一体今の文部大臣の異文化ということとどういうふうに関係するのですか。
○海部国務大臣 異文化を大切にするという面と校則の面とは次元の全く違う問題だと私は思いまして、校則のことについて私の考えを申し上げますと、やはり集団生活を営む上においては、一定の規律をきちっとつくってみんなでこれを守っていくという習慣を身につけることも学校教育では大切な要素の一つだと思うのです。それで、ついこの間、私も校則のことについていろいろな御指摘を受けました。けれども、日米の中学校の先生のいろんなアンケート調査なんかを見てみましても、規律が行き届いておる学校ほど乱れとかいじめが少ないとか、あるいは学校現場ではやはり決めた規律はみんなで守っていこうということを身につけさせることも大切だということは、日米双方の中学校の先生が高いレベルでお認めになっていることでございますから、希有な例として極端な、リボンの色がいかぬとか靴下の色がいけないとかいうようないかがかと思われるような御指摘も確かにございます。それは承知しておりますけれども、しかし、といって校則はというところまで議論がいかないわけであって、やはり校則はきちっとあって学校の一つの規律にそれがなっておるわけですから、これは異文化の問題とは次元の違う問題としてまたお答えをさせていただきたい、こう思います。
○江田委員 異文化の問題と違うとおっしゃいますけれども、必ずしもそうでもない点があると思うのですね。今の大臣のおっしゃる、私も別にみんなで決めた規則をみんなで守っていくことが大切でないなんて言っているわけじゃないんで、どうも我々の国の議論というのは極端から極端へというものが多いものですから、そこはお互い注意をしていきたいと思いますが、大変に細かく細かく規則を決めている例というのが本当に多くて、しかもそれが子供たちにとって随分悩みの種になっている。そんなこと悩まなくていいじゃないかと大人になったら言えるようなことでも、なかなか現実の子供たちにはそうではない場合というのは非常に多いわけです。
私に言わせれば、古いもう二十年も前の制服をずっと後生大事に着ているのじゃなくて、新しいファッションにもある程度女の子供たちが関心を持っていくなどというのは決して悪いことでも何でもない。むしろ、そういうふうにして子供の美についての、自分を飾るなどというのもある意味の美意識ですから、そういうものが養われていくということは大切だという気がいたしておりまして、しかし、そうした議論もさらにまたこれから煮詰めさせていただきたいと思います。
それでは、時間ですから質問を終わります。
1986/04/09 |