2002/11/05 |
155 参院・法務委員会
13時から法務委員会。司法制度改革に関する参考人質疑で、顧問会議座長の佐藤幸治さん、弁護士の四宮啓さん、NHKの若林誠一さんから15分ずつ意見聴取した後、各会派の委員が15分ずつ質疑。民主党・新緑風会は私が質問しました。参考人は3人とも、国民参加の司法を目指す立場で、意見は裁判員と法科大学院に集中しました。特に四宮さんは、陪審制の導入に指導力を発揮した原敬や陪審制導入時の穂積陳重の言葉を紹介し、司法のあり方を根本から変革する必要を力説されました。
陪審は時期尚早との意見に対する穂積の論評。「現在を、過去の結果と見るか、将来の原因と見るかで、結論が異なります。過去の結果なら、時期尚早でしょう。将来の原因なら、今こそ導入することにより、将来すばらしい司法を作ることになります。」
平成十四年十一月五日(火曜日)
○委員長(魚住裕一郎君) ただいまから法務委員会を開会いたします。
法務及び司法行政等に関する調査のうち、司法制度改革に関する件を議題といたします。
本日は、本件の調査のため、お手元に配付の名簿のとおり、三名の参考人から御意見を伺います。
御出席いただいております参考人は、司法制度改革推進本部顧問会議座長佐藤幸治君、弁護士四宮啓君及び日本放送協会解説委員若林誠一君でございます。
この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
本日は、御多用のところ本委員会に御出席をいただきまして、誠にありがとうございます。
参考人の皆様方から忌憚のない御意見をお聞かせいただきまして、今後の調査の参考にいたしたいと存じますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。
議事の進め方でございますが、まず佐藤参考人、四宮参考人、若林参考人の順に、お一人十五分程度で御意見をお述べいただきまして、その後、各委員の質疑にお答えいただきたいと存じます。
なお、念のため申し添えますが、御発言の際は、その都度、委員長の許可を得ることとなっております。また、各委員の質疑時間が限られておりますので、御答弁は簡潔にお願いしたいと存じます。
なお、参考人の方の意見陳述及び答弁とも、着席のままで結構でございます。
それでは、佐藤参考人からお願いいたします。佐藤参考人。
○参考人(佐藤幸治君) 佐藤でございます。
平成十一年五月十八日、司法制度改革審議会設置法案の審査に関連しまして、当委員会で参考人として意見を述べる機会を与えていただきました。また、昨十三年六月二十八日、またこの委員会において審議会の意見書の趣旨について説明する機会を与えていただきました。その後、議員の皆様の御尽力で司法制度改革推進法が成立いたしまして、司法制度改革推進本部が立ち上がり、精力的に意見書を具体化するための作業が進められ、今国会にこの司法制度改革を現実化する上で基礎中の基礎となる法科大学院の教育と司法試験等との連携等に関する法律案など三法案が提出され、審議されるという運びになりましたこと、この間の様々のことを思いますと深い感慨を覚えますとともに、ここに至ることができましたことにつきまして議員の皆様及び関係者の並々ならぬ御努力に対して心から敬意を表したく存じます。
去る八月五日、文部科学大臣に提出されました中央教育審議会の答申の一つであります「法科大学院の設置基準等について」と題するその答申の中に、こういう一説がございます。「ここに「答申」として公表するに及んで、法科大学院の実りある実現のためには未だ道半ばとは言え、当審議会として些かの感慨を禁じ得ない。と言うのも、法科大学院構想は、大学改革と司法制度改革に関するそれぞれの関係者の長い努力と労苦の積み重ねが、司法制度改革審議会という「時」と「場」を得て交錯し、実を結んだものととらえることができるからである。」ということでございます。
戦後復興と高度経済成長に合わせるかのようにひたすら量的拡大を追求してきた日本の教育、とりわけ高等教育の在り方が質的な面で相当深刻な問題を抱えているということは関係者の間で早くから憂慮されておりました。特に文系の場合が深刻でございまして、貧弱な教育研究施設と大量の学生数という環境にあって、教育の体をなしていないのではないか、安かろう悪かろうだという、自嘲ぎみに、そういうように語られることもありました。
しかし、社会は大学のブランド性に関心を示すことがありましても、大学で施される教育の内容、質には殊更に気付かぬ風でありました。あるいは、社会は大学における教育にそれほど期待していなかったというのがより正確な言い方かもしれません。
企業や官庁等は、できるだけ潜在的能力があると思われる者を早く採用し、必要な教育は採用後、言わば徒弟的に施せば良いといった趣がありました。バブル期、大企業は競って主としてアメリカの大学に巨額の寄附を行い、社員を留学させるなどいたしました。けれども、日本の大学の現状を見、日本の将来に暗たんたる思いを抱いたものであります。現実の大学をどう評価するにせよ、大学における質の高い教育研究なくしては独創性と活力に満ちた良き社会を築くことは不可能であります。
もとより、関係者は手をこまねいていたわけではありません。とりわけ、臨教審の提言を受けて一九八七年に大学審議会が設置されて以来様々な取組がなされ、今回の法科大学院構想もその延長線上にあるということを強調しておきたいと思います。
他方、司法制度改革も日本の社会の長年の懸案でありました。御承知のように、既に一九六二年、臨時司法制度調査会が設けられ、二年後、司法制度の在り方に関する答申を出しました。しかし、いわゆる法曹三者の思惑の違いなどで改革は進展しませんでした。法曹人口が少な過ぎるということが司法をめぐる様々な問題の根底にあるということが広く認識されながら、低いレベルにとどまり続けました。
調査会の答申がなされた一九六四年、司法試験合格者数が五百人台に達しますけれども、その後は増えず、五百人前後という状況が何と一九九〇年まで続くのであります。経済大国と称せられるにまで至った国がこうした状況にあるということは全く信じ難いことであります。
こうした状況を許した要因として様々なことが考えられますけれども、何といっても我が国社会が戦前と同様に行政主導、各省主導で運営されてきたということによるものと思われます。が、更に言えば、日本の社会の部分部分がそれぞれの垣根を作って自足しようとする傾向を持ち、それを前提にあうんの呼吸で相互の調整を図ることで済まし得たという時代環境によるものではなかったかと思われてなりません。部分部分で自足するということはそれぞれの構成員にとって居心地の良いということもありますし、部分部分が相当質が高かったから経済大国と称せられるところまで上り詰めることができたのであろうというように思われます。
極端な言い方をすれば、真の政治は不要であり、透明なルールによる意識的調整も不要であるというわけであります。
しかし、経済大国とまで称せられる大きな社会がこうしたやり方で押し通し続けることができるのかという問題が内在しておりました。このことは一九八〇年代半ばごろから法曹関係者の中でも次第に強く認識されるようになっていきます。そして、冷戦構造の終えん、グローバル化の進展、我が国のバブル経済の崩壊とその処理問題等に直面して、その問題が一気に顕在化することになります。従来の日本の統治システム、社会経済システムが大きく変化した時代環境に適合しなくなったのではないかという苦い認識を我々に迫ることになります。
例えば、グローバル化はいろいろな面を持っておりますけれども、国家主権の垣根を低くし、国家社会の透明性を求めるという面があります。スイスにあるビジネススクール、IMDが発行している世界競争力年報、これは二〇〇一年版でありますけれども、によりますと、政府の透明性、これは政府がどれだけ明確に政策意図を伝えているかという度合いでありますが、その透明性は日本は比較対象国四十九か国中最低であると言われております。我々の実感と合わない感じもありますけれども、これが世界が日本を見る目であるということは否定すべくもありません。
我々としてなすべきことは明らかであります。単純化して言えば、一つは政治の復権であり、第二は法の支配の拡充であります。
まず、政治の復権との関係で言えば、我々は各省割拠主義体制の蹉跌を二度にわたって経験したのだということを明確に認識することから始めるべきであります。政治改革、行政改革、より具体的には行政権のとらえ方、内閣総理大臣及び内閣の位置付け方、国会と内閣との関係の在り方等々がこの課題にかかわっておりますけれども、今日のテーマとの関係ではこの問題に深入りすることは避けます。
次に、今日のテーマであります法の支配の拡充との関係であります。
御承知のように、司法制度改革審議会意見書は、正にこの法の支配の拡充という観点、つまり自律的個人を基礎とするより自由で公正な社会を築く、国民が統治主体たる立場でこの社会を築くのだという観点に立って、第一に国民の期待にこたえる司法制度の構築、制度的基盤の整備、第二に司法制度を支える法曹の在り方、人的基盤の拡充、第三に国民的基盤の確立、国民の司法参加という三本の柱から成る抜本的な司法制度改革案を提示しました。それは、審議会が次のような諸点についての認識を共有した結果であるというように考えております。
第一点は、行政主導体制から脱却し、事前規制調整型社会から事後監視救済型社会への転換を図るため、その受皿として抜本的な司法制度の整備が必要であるということ。第二は、政治の復権を図る中で、同時に十分に機能する抑制、均衡のシステムを構築する必要がある、そのために司法の強化が不可欠であるということであります。第三点は、グローバル化の進展する中で、法的サービスの自由化が現実化するということも視野に入れて、司法の質の向上、国際的競争力の確保に努力しなければならないという、以上の三点であります。
この意見書を受けて具体化の作業が始まりまして、最初に申し上げたように、今回の三法案は正にその大きな第一歩であるということでありますが、これにより、意見書の描くように、まずは二〇一〇年ころには新司法試験の合格者数の年間三千人の達成が可能となるということに大きな期待を掛けている次第です。意見書の提言は一体的なものであり、一体的に実現していただかなければなりませんけれども、とりわけ、法曹が増え、弁護士事務所の法人化が進む中で弁護士任官が期待どおり大きく前進すること、それから裁判員制度についてしっかりした具体的制度設計がなされ、実現に向けて着実に進むことに重大な関心を持っております。
司法制度改革を進めていく上で、国民の理解を得ることが何よりも重要であります。そのためにも、これからの司法はこのように変わり、国民の生活にこのように役立つものになるということを折に触れてできるだけ具体的かつ明確に示していく必要があります。
そのような観点から、推進本部における検討状況を見守り、本部長である総理に意見を述べる立場にある顧問会議は、七月五日の第五回会議で、「国民一人ひとりが輝く透明で開かれた社会を目指して」と題するペーパーをまとめ、総理に手渡しました。二十一世紀の日本を支える司法の姿として、第一は国民にとって身近で分かりやすい司法、ファミリアな司法、第二に国民にとって頼もしく公正で力強い司法、フェアな司法、第三に国民にとって利用しやすく速い司法、ファストな司法、この三つのFの司法を描き出しました。もっと端的に象徴的に表現すれば、ペーパーでも述べていますように、「裁判所で二年以内に判決がなされるように、制度的基盤の整備や人的基盤の拡充を十分に行い、国民が必要とするときに真に役立つ解決を得られるようにします。」ということになるかと思います。
審理の充実と迅速とはともすれば分離してとらえがちでありますけれども、真に充実した審理とは迅速な審理であるはずであります。長期化しているのは一部の事件にすぎず、裁判はおおむね迅速に行われているという声もありますけれども、長期化する裁判にこそ従来の司法の特質が出ているのではないか、一般の事件について本当に充実した審理が行われていると確言できるのか。二十一世紀に向けた発想の転換を行い、それを可能とするための条件、基盤の整備に意を用いるべきではないか。情報技術の活用も考慮に入れて積極的に考えようではないか。これが顧問会議が二年以内に判決がなされるようにと提言した心であります。
十月二日の第六回顧問会議で推進本部事務局から、次の通常国会にそのための法案を提出したいという考えとの意向が明らかにされ、また今国会での総理の所信表明演説で、「司法制度については、第一審の結果が二年以内に出ることを目指すなど、総合的かつ集中的な改革を行います。」と述べられていたところであります。この問題は正に、意見書の全体の趣旨、提言を具体的な数値目標の下に改めて固め直そうというものでありまして、顧問会議として引き続き重大な関心を持って臨んでいきたいというように考えている次第です。
最後に、一大学人として一言申し上げておきたいと思います。
最初に触れた中央教育審議会答申はこう述べております。法科大学院は、「大学(大学院)が社会との対話の中で自らを変革し、国民の期待に応えて「知の再構築」を図っていくことができるか、今後の大学改革の行方を展望する上でも重要な試金石と言うことができる。」、「大学関係者にあっては、法科大学院での教育が従来の法学教育の単なる延長ではないことを十分に認識し、厳しい自己改革の努力の上に立ち、その個性や特色を生かした法科大学院を設立されるよう、強く期待したい。」という文言でございます。大学人の一人として、このことを肝に銘じ努力する所存でございまして、引き続きエンカレッジしてくださるよう切にお願い申し上げて、私の意見とさせていただきます。
ありがとうございました。
○委員長(魚住裕一郎君) ありがとうございました。
次に、四宮参考人にお願いいたします。四宮参考人。
○参考人(四宮啓君) 四宮でございます。今日は意見を申し述べる機会を与えていただいて感謝申し上げます。
いつもは先生方に大変お世話になっておりまして、傍聴の許可をいただいて傍聴をさせていただいたりしておるんですが、一度、先生方用のお水を飲んでしかられたことがありまして、今日は私の専用のがちょうだいできて大変喜んでおります。
私、今日は、弁護士会の代表としてではなく、一弁護士として、司法改革について、推進体制がちょうど一年を迎えたという節目に、私なりの考えるところを申し述べさせていただきたいと思います。
今から八十年前の一九二三年、大正十二年の三月二十一日にこの議事堂で我が国の陪審法が成立をいたしました。今日、ここに一つのバッジを持ってまいりました。これは、当時、陪審員を務めた、陪審員に与えられていた記念のメダルでございます。日本で陪審裁判が行われたということを示す貴重な証拠の一つでございます。
陪審法の成立に最も寄与いたしました政治家は、御案内のとおり、かの原敬であります。原は首相として、一九二一年の一月に、枢密院の陪審法審査委員会の第一回会合で、陪審制度の政治制度としての意義を次のように説明をしております。「陪審の現実は、人民をして司法事務に参与せしむるにあり。我国に於ては議会を設けられ、人民が参政の権を与えられたるに、独り司法制度は何等国民の参与を許されざりき。憲法実施後三十年を経たる今日に於ては、司法制度に国民を参与せしむるは当然の事なり」。この憲法というのは、もちろん大日本帝国憲法のことであります。
東大名誉教授の三谷太一郎先生によれば、当時、陪審法は幾つかの動機が合流して生まれたと言われております。
一つは、原の、当時拡大してまいりました司法権力、特に検察権力ですが、これを政党の側から牽制する仕組み、これを設けるということであります。三谷先生は、原は、陪審制を政党制のサブシステムとして考えていたと述べておられます。つまり、原は、陪審法を司法制度としてだけではなく、政治制度として考えていたということであります。二つ目は、司法部による人権じゅうりんを理由とする人権擁護のための陪審論でありました。そして三つ目は、立法における代表制、行政における地方自治、これに相当するものとしての司法における人民参加でありました。
今回の司法制度改革の理念は、今、佐藤先生からお話がありましたとおり、法の支配でありますけれども、その具体的内容としては個人の尊重と国民主権と言われております。天皇主権の時代であった大正前半期から、実は明治維新の前後からあったのでありますけれども、人権擁護という側面、つまりは個人の尊重という側面と、代表制や地方自治制からの国民参加という側面、つまりは国民の自律、自治という側面ですが、今回の司法改革の理念と共通する二本の柱が当時既に我が国で強調されていたということは驚くべきことであろうと思います。
司法制度改革審議会の意見は、新しい世紀における新しい司法を国民と法律家がどのように担うべきか、次のように述べております。国民一人一人が統治客体意識から脱却し、自律的でかつ社会的責任を負った統治主体として、互いに協力しながら自由で公正な社会の構築に参画すべきである、このように述べて、国民を新しい司法の担い手として位置付けております。
他方、法律専門家につきましては、これまでの司法の独占者から社会生活上の医師、お医者さんですが、として、国民の主体的、自律的な営みに貢献しなければならないとしております。言葉を換えて申し上げれば、より自由で公正な社会を作るために、国民は明治以来のお上意識から抜け出して、新しい正義の仕組みを担い、そして法律家がそれをサポートするという姿であろうと思います。
このような新しい仕組みを最も端的に示すのはいわゆる裁判員制度であろうと思います。裁判員制度は、御案内のとおり、広く一般の国民が裁判官とともに責任を分担しつつ協働し、裁判内容の決定に主体的、実質的に関与するという制度であります。この裁判は、これまでのように専門家が専門家のやり方で、正義を言わば上から下すのではなくて、国民が正に担っていくというものであります。
まず、司法を担う者は一般の国民であります。選挙人名簿から無作為に選ばれます。特定の階層とか特定の経験を持つ者だけが担う制度ではなく、正しく国民が全体として担う制度であります。
次に、判断者である国民の前では真に充実したスピーディーな審理が行われる必要があります。そのためには、法律家による内容のある周到な準備、言わばおぜん立てが不可欠になります。また、審理そのものも、判断者である国民が法廷で見て法廷で聞いて分かる裁判へと変えていかなければなりません。裁判官の役割もまた、自ら判断するという役割から、国民の意見を聞いて国民の判断をサポートするものへと変わってまいります。
このように、裁判員制度を中心に考えていただきますと、新しい司法における国民、法律家、制度、手続、これらがどのように変わらなければならないかということをお分かりいただけるのではないかと思います。つまり、言わば裁判員制度は今回の司法改革の姿の縮図とも言えると思います。
裁判員制度が端的に示しますように、国民が法律専門家の十分でスピーディーなサポートを受け、正義を主体的に実現することができるためには、それなりの人的・制度的仕組みが新たに作られなければなりません。
例えば、今国会で御審議をいただく法科大学院における新たな法曹養成教育、その創設と確立は、国民をサポートする法律家を量的にも質的にも十分供給できるものとして極めて重要であろうと思います。
また、裁判官についても同様で、多様で豊かな知識、経験を備え、国民の立場に立ってサポートできる裁判官を多数、安定的に確保するということが緊要であります。そのためには、弁護士から裁判官への任官、いわゆる弁護士任官を積極的に推し進めることが大事だと思います。
弁護士会が関与するようになった弁護士任官制度というものは一九九一年からスタートをいたしました。二〇〇一年度までの十年間に、弁護士から任官した総数は四十六名でございました。しかし、審議会の意見を受けて、二〇〇二年度は、四月から現在まで、任官した者、それから任官する予定の者を含め、既に三十一名を数えております。弁護士会としては、なお引き続き総力を挙げて取り組んでまいると思います。
なお、弁護士任官の一層の促進のために、今月の十五日一時から、弁護士会館におきまして司法シンポジウムというのを開催いたします。日本のシステムと同じように、キャリアシステムと弁護士任官システムをほぼ五割ずつぐらい取り入れたオランダから、弁護士から裁判官になり、現在、アムステルダム高等裁判所長官のシッパーさんという方をお招きして講演をいただくことになっております。
また、充実した迅速な手続に変えていかなければなりません。国民の視点から見れば、迅速というのは正に充実した手続のことであり、その内容は、充実した公明正大なおぜん立てとフェアで分かりやすい審理ということになるだろうと思います。
私は、私自身も含め、従来、司法を担ってきた法曹三者、そして法学教育を担ってきた大学は、新しい司法の担い手としての国民に貢献するものへと質的に自己変革する必要があると思います。したがって、現在正に途上にある改革の推進におきましては、旧来慣れ親しんだ発想や実務の枠組みをいったん取り払って、新しく、そして正しく国民に貢献できる仕組みを国民の視点から構築し直すことが求められていると思います。
司法制度改革推進法案に付せられた貴委員会の附帯決議にありますように、審理の過程をリアルタイムで一層透明化し、国民の声を具体的に反映できる仕組みの下で、国民と一体となって制度設計が行われるべきであります。なぜなら、新しい司法制度は、法律専門家のためのものではなく、国民のためのものだからであります。例えば、先ほど述べましたように、裁判員制度も、参加される法律家の立場ではなくて、参加する国民の立場から制度設計が行われる必要があると思います。そして、国民に最も影響のある議論ですので、発言者名も含めた議事の一層の公開が望まれるところであります。
これも三谷先生に教えていただいたのですが、夏目漱石に「素人と玄人」というエッセーがあります。その中で漱石はこう書いております。
玄人は局部に明るいくせに、大体全体を眼中に置かない変人に化けてくる。そうして彼らの得意にやってのける改良とか工夫とかいうものはことごとく部分的である。そうして部分的の改良なり、工夫なりが毫も全体に響いていない場合が多い。大きな目で見ると、何のためにあんなところに苦心して喜んでいるのか、気の知れない小刀細工をするのである。素人はばかばかしいと思っても、先が玄人だと遠慮して何も言わない。すると、玄人はますます増長し、ただ細かく細かく切り込んでいく。それで自分は立派に進歩したものと考えるらしい。高い立場から見下ろすと、これは進歩ではなくって堕落である。
私自身への頂門の一針として読みましたけれども、漱石の言う高い立場とは正に国民の立場であろうと思います。
今回の司法制度改革は、単なる従来の司法の改良ではありません。国民をこの国の正義の主体的な担い手とし、その国民を十分にサポートできる人的・制度的体制を新たに作り上げるものであります。人的・制度的サポート体制がもし不十分に終われば、それは結局、日本国民の正義の形成、つまりは政治の主体としての日本国民の公共観念、公共精神の形成自体を不十分にしかねません。
三谷先生が今回の司法制度改革を我が国のデモクラシーの質をいかに高めるかという問題だとおっしゃっているのは、そういうことであろうと思います。その意味で、司法制度改革審議会の意見の趣旨は、我が国の民主主義の質を一層高めるものとして、一体として確実に実現されなければならないと思います。
また、新たなものを創造するという意味では、財政的な手当ても新しい発想で行っていただきたいと思います。先ほど御紹介した我が国の陪審法の施行のためには、当時、五百万円というお金が使われました。当時の総理大臣の月給が千円だったそうでありまして、現在は二百三十万円ぐらいということですので、その単純比較をいたしますと、当時、百十五億円以上の税金が陪審制度だけのために使われたということになります。
終わりになりますが、陪審法の制定に主導的な政治家としてあれだけ尽力した原敬は、八十一年前の昨日、一九二一年十一月四日、陪審法の誕生を見ることなく暗殺されました。しかし、彼の遺志は後の内閣に引き継がれました。
一九二三年、陪審法公布の前日、やはり陪審法の制定に大きな貢献をした穂積陳重は、現在の国民は陪審制を望んでいないという意見に対して次のように述べております。陪審の制度は国民の希望にあらずとの論もあれど、この論は社会的観察の方法によってその当否が分かれるものと思います。現時の社会は過去の結果とも見ることができるし、また将来の原因とも見ることができます。もし現在を過去の果てと見ますれば、あるいは今日の陪審法は国民の要望にあらずと言うことができましょう。これに反し現在を将来のもとと見ますれば、立法における選挙権、行政における自治権と相並んで、司法参与の要望は国民全体の胸中に潜在し、潜勢力の状態において存在することは明らかであります。ゆえに過去の果てたる現在のみに注目して国民の要望にあらずと言うのは、盾の一面のみを見た偏見であると言わなければなりません。すべて立法は将来のためにするものであります。
先生方におかれては、将来の我が国の民主主義の質の向上のために、今次司法制度改革の確実な実現により一層の御尽力をいただくことを司法の一隅にある一弁護士として切望いたしまして、意見とさせていただきます。
どうもありがとうございました。
○委員長(魚住裕一郎君) ありがとうございました。
次に、若林参考人にお願いいたします。若林参考人。
○参考人(若林誠一君) NHK解説委員の若林でございます。
司法制度改革がいよいよ法案の国会審議の段階を迎えたという節目のときに当たりまして、こうした発言の機会をいただきましたことを感謝をいたします。
本日、私がお話をしますのは一司法ジャーナリストとしての意見でございまして、NHKの公式的な見解ではないということをまずお断りしておきたいというふうに思います。
司法制度改革に関する論点、大変多いわけですけれども、本日は、裁判員制度とそれから法曹養成制度につきましてその意義をもう一度確認をしつつ、現在私が感じている留意点といいましょうか、ちょっと気に掛かるような点についてお話を申し上げたいというふうに思います。
まず、裁判員制度であります。
今回の司法制度改革で最も重要な改革を一つだけ挙げたら何かというふうに問われますと、私はちゅうちょなくこの裁判員制度だというふうに答えられるというふうに思います。先ほど両参考人がるるこの意義についてお話しになりましたので、その大きな意味については私は触れませんけれども、もう少し具体的な点からこの制度の意義を見てみたいと思います。
一つは教育的な意味ということであります。
陪審裁判、陪審員制度につきましてはよく民主主義の学校であると、こういうふうな言い方がされます。市民が陪審員となって審理に参加をし評議に加わることによって、例えば議論の仕方でありますとか適正手続でありますとか、あるいは法的なルールあるいは罪ということについて様々学んでいくという意味で民主主義の学校だというふうに言われますが、この裁判員制度も正にそうした面を持っているというふうに思います。実感的、体験的な民主主義の学校になるに違いないというのが第一点であります。
教育的な側面で二つ目に私は注目したいのは、子供たちの目にこれがどういうふうに見えるんだろうかということです。
例えば、小学校の子供に、将来、君は裁判員になるかもしれない、その事件はひょっとすると死刑になる事件かもしれない、しかし被告人は無実を叫んでいる、君はそれをシロかクロか判断をしなければならないんだということを小学生から、あるいは中学生にも教えるということになります。
現在の社会科と言うんですか、今は公民と言うんでしょうか、この教育というのが非常に表面的で形骸化をしているということは大変危惧されているところです。個人と社会とのかかわりというものをもう少し本当の意味において教えられないかといったときに、こうした裁判員制度というものが持つ意味を、そしてその重さということを子供たちに教えるということがどれほど教育を豊かにするんだろうかということを感じます。
教育という効果としてもう一つ、三点目としては、私は公共意識というものについての観点が非常に重要ではないかと思います。
裁判員に指名されますと、裁判員になることは国民の義務というふうに制度設計をされようとしています。義務といいますと、お上が無理やり押し付けたというふうな印象もありますけれども、私はそうは考えません。そうではなくて、個人が共同体の一成員としてその責任を果たすということであろうと思います。
日本人は戦後、自由あるいは権利というものを大変謳歌をいたしましたけれども、公共というものについての意識は大変低いというふうにもまた言われております。本を正せば、いつもお客様扱いにされる、お上任せといった社会のありようがその根本にあろうかと思いますけれども、個人が責任ある主体として自律的に共同体にかかわる、これは契機になるのではないかというふうに思います。
この裁判員制度のもう一つの効果の側面としましては、刑事司法の抜本的改革の第一歩になるという面であります。
かつて平野龍一先生が、日本の刑事裁判は絶望的であるとおっしゃいました。日本の刑事司法には、非常に懇切丁寧であるとか人に優しいといった諸外国にはない特質もありますので、頭からすべて否定するというつもりは毛頭ありませんけれども、平野先生が喝破されましたように、多くの問題を抱えているということも事実だろうと思います。
裁判員制度を実現するには、先ほど四宮参考人もおっしゃいましたけれども、様々な努力が必要です。そのことは、今の刑事司法というものを抜本的に変えていくということにほかならないというふうに思います。分かりやすい言葉で述べる、あるいは争点をきちんと整理をする、調書の扱い、あるいは証拠開示の仕方、さらには長期間の勾留の在り方といったところにもメスを入れていく必要がある、そうした契機になるのがこの裁判員制度だろうというふうに思っております。
そこで、こうした重大な意義を有する裁判員制度ですけれども、制度設計をする上で重要なポイントは何かといいますと、私は、第一点は無作為抽出ということだと思っています。そして、第二点は裁判員の数の問題だろうと思います。だれもが裁判員になる可能性があるということが実感できるような制度として、そして自分がその裁判員に当たったらそれを引き受けなければならない制度だというふうに制度設計をしなければならないということです。
検討会の議論を私も傍聴して聞いておりますけれども、この議論の中では、できるだけこの制度を小さくしようという意見がどうも優勢のようであります。これは、そうした考え方を持つ人が多く検討会のメンバーに選ばれたということなのかもしれませんけれども、その理由として幾つか気になる点がありますので、その点について述べたいと思います。
第一は、国民の負担を軽くするために、今、できるだけ裁判員の数を少なくした方がいいんだという議論がございます。
ちょっと私が試算をしてみました。最も少ないケース。裁判員を二人とし、また対象となる事件の数も一番絞り込みますと、年間で裁判員になる数は約五千人ということになります。有権者からしますと、二万人に一人が裁判員になるチャンスがあるということです。一方、いろんな意見の中で、一番裁判員の数を多くし、事件の範囲も広げますと、これが約十倍近くになります。そうしますと、二千人とか三千人に一人が裁判員になるということです。二千分の一と二万分の一にどれほどの差があるのかということです。いずれにしても、ほとんど当たらないということでいえば宝くじ並みということだろうと思います。問題は、負担というのは、審理の進め方ですとかそのスピードでありますとかあるいは内容の問題であって、結局、数の問題ではないというふうに私は思います。
第二点目は、日本人は議論が下手だ、だから数を少なくするという議論がございます。
確かに、日本人にそうした面があるのかもしれませんけれども、しかし被告人を有罪にするのか無罪にするのか、事は人の一生を左右するようなことです。そうした重要な問題の決定に関与するとき、本当に日本人は何も言わないのでしょうか。例えば、検察審査会の議論の様子あるいは過去の陪審裁判の経験などをいろいろ聞いてみますと、日本人は十分に意見を言ってきているというふうに私は思います。あるアメリカの裁判官は、アメリカ人にできることが日本人にできないはずはない、日本人の知的レベルを考えれば絶対にできると、こういうふうに言っておりました。
第三の点は、憲法論であります。
憲法は職業裁判官による裁判を前提にしているから国民参加には違憲の疑いがあるという考え方があります。机上の憲法解釈論としてはあり得る議論かもしれませんけれども、私は、要はこれは国民の選択の問題であるというふうに考えています。
さて、最も重要な点は、国民の合意をいかにして形成するかという問題であります。
国民は裁判員になることを今、全く実感をしていないと思います。これを実感するようになればすさまじい議論が私は起きてくるんだろうと思います。検討会の議論はなかなか国民に伝わってまいりません。私たちにもその原因の一端があるのかもしれませんけれども、情報をどんどん提供して、問題提起が重要だというふうに考えております。
昨年、私は沖縄に参りまして、復帰前に沖縄で行われました陪審裁判について取材したことがあります。数少ない経験者の一人にインタビューをいたしました。この方は、アメリカ軍に勤務をしていた。もちろん日本人の方なんですけれども、自分が陪審員に選ばれて参加をした。その裁判自体はそれほど難しい裁判ではなくて、全員一致で有罪の評決をしたそうですけれども、陪審員は皆活発に意見を述べたそうであります。そして、真剣に討議をしたということです。そして、その方は、自分が陪審員を経験して本当に良かったというふうに言っておられました。何が一番良かったかといいますと、私が先ほど述べましたが、公共ということだというふうにこの方は言うんですね。自分はやはりこの社会の一員なんだ、その社会の一員としてやはり共同体の一成員としての責任を果たす義務があるんだと、そのことをこの陪審員となって実感をしたというふうに言っておられました。
さて、二つ目のポイントは、法曹養成、法科大学院についてであります。
具体的な制度設計の段階になりますと、ややもすると本来の目的、趣旨というものが忘れられがちになることが往々にしてございます。この法科大学院の制度設計についてもそうした危惧をどうしても感じないわけにはまいりません。
第一の点は、今回の制度といいますのは、点としての選別ではなくてプロセスとしての教育ということにしよう、そして法科大学院というものを本当に意味のある法律家教育の場にしようということでありました。本当にそういう意味での法科大学院になるためには、やはり質をどのようにして担保をするかというところが私は生命線だろうと思いますけれども、その質の担保措置が大幅に後退をしているのではないかというふうに危惧せざるを得ません。当初、厳格な第三者評価によって適格認定をするということになっておりましたけれども、それを、その必要はないんだということになりました。本当にどうして質を担保できるのか、私はよく分かりません。それが第一の危惧の点であります。
二つ目の危惧される点は、バイパス論ということであります。
政党、与党レベルの議論を聞いておりました。私も、自民党の調査会で意見を述べる機会を与えられまして、そこで意見を申し上げましたけれども、本来は、資力などの点において、あるいは社会でいろんな仕事をしているということからなかなか法科大学院に行くことができないというやむを得ない事情の人のために予備試験というバイパスを設けるというのが審議会の趣旨だったろうと思います。本当であればバイパスは必要ないというふうに言い切ればその方が良かったのですけれども、どうしてもそうした人のためにチャンスを残すということでこのバイパスが設けられました。このバイパスをもっともっと太くして、バイパスを通るのか大学院に行くのか自由に選択できるようにしてはどうかという議論が行われたように思います。しかし、これは、何のために法科大学院を作るのかという、プロセスとしての養成という根本理念に反するものではないかというふうな気がいたします。
受験エリートというのは、少々難しい問題を出してもすべてこなしてしまうという者です。頭が良いということなのかもしれませんけれども、人の悲しみや苦しみ、あるいは社会の複雑な紛争といったものを相手にする法曹にとって、この頭の良い者だけがすいすいと試験に受かってしまうということがあってよいのだろうかということを本当に危惧しております。
この法科大学院の質が担保されない、そしてこうしたバイパスを設けるということになりますと、勢い司法試験というもので選別をしていく、司法試験を大きな制度として設計しなければならなくなります。そうしない限り質が担保できないということになりますと、結局は今の制度のもくあみになってしまうのではないか。司法試験には七割から八割の学生が受かるような、そうした充実した教育をするというのが今回の改革の目的であったわけですけれども、そうした目的が本当に果たせるのだろうかということを大変危惧をしております。
制度上、ではそうした制度設計をすれば十分機能するのかというと、実はそうではないというふうに思っています。今の大学の現状を見ておりますと、本当に実のある教育ができる教育者を確保できるのか、これは大変重大な問題でありますし、実務家の教員の確保の問題もあろうかと思います。ここは行政としてそれに介入するということがなかなか難しい部分でありますし、それはしてはならない部分なのかもしれませんけれども、大いに考えていくべき非常に重要な問題点だろうと思います。
最後に、改革の推進の体制について一言申し上げたいと思います。
司法制度審議会の議論もずっと傍聴してまいりました。また、現在の検討会の議論も傍聴しておりますけれども、今、検討会の議論を聞いておりまして、かつてのような熱気というものがなかなか伝わってこないということがございます。十一の分野に分かれてそれぞれ部分設計をやっているわけですけれども、それを組み合わせると本当に当初予定されたようなものに完成をしていくのかなという感じがいたします。
顧問会議というのが設けられておりまして、佐藤座長を前にして誠に言いにくいわけですけれども、この顧問会議の開催の頻度あるいは議論の深まりなどを見ていますと、全体をきちっと、その十一の検討会の議論を集約をするというところまでやはり至っていないというふうに思います。審議の、検討過程の公開という大変重要な問題もありますけれども、もう少し全体をコントロールできるような推進体制が取れないものかな、こんな印象を持っています。
以上です。
○委員長(魚住裕一郎君) ありがとうございました。
以上で参考人の意見陳述は終わりました。
これより参考人に対する質疑を行います。
質疑のある方は順次御発言願います。
○江田五月君 三人の参考人の皆さん、司法制度改革という、これからの日本をどう作っていくのかと、重要なテーマの現段階での状況について、それぞれこれまで司法制度改革にかかわってこられた立場からの御意見を伺おうということで今日は来ていただきましたが、お忙しい中、本当に時間を割いていただきまして、ありがとうございます。
昨年六月に司法制度改革審議会の意見書が出されたわけですが、その前二年間でしたか、精力的な審議をされたと。私どもも、その審議の過程でその都度いろいろな意見を申し上げました。かなり熾烈なやり取りがあったかと思います。そして、これは若林さんがおっしゃったんでしたかね、一定の成功を収めたと。それはこの審議会の経過が正にリアルタイム公開で行われたからであるということだったと思いますが、にもかかわらず、私はそれは不満があるといえば不満があるんです。
例えば、今の裁判員、もういっそのこと陪審だとはっきり言い切って、そして、しかし世界じゅうのこれまでの陪審の歴史の中でいろいろ経験も経たわけだから、日本的にそれを上手に制度設計するというふうにした方がむしろよかったんじゃないかと。あるいは裁判官にしても、もう法曹一元だと言い切って、しかしいろいろと日本に合うように制度の設計をするという方がむしろよかったんじゃないかと、そんな気もするんですが。
しかし、いろんなやり取りの中で、そうしたことも踏まえながら、今の裁判員制度とか、あるいは裁判官の給源の多様化であるとか、もちろんその下にある法曹人口の増大であるとか、大変な御苦労をされて意見書をおまとめになったというのは本当に敬意を表しておりますし、同時に、この意見書の問題提起が最大限実現をされなきゃいかぬと、一歩も後退してはいかぬ。むしろ、これは私の勝手な言い方ですが、私どもが考える方向により一歩進んで実現することの方がいいんじゃないかと思ったり、いずれにしても、意見書の内容が最大限実現をするということが今大切だと思っておりまして、そういう意味から、この推進計画、そしてそれを実現する推進本部、その中で作業を進める十一の検討会、それをしっかりと見張る顧問会議、そしてそれらを助ける事務局、本当に大切な仕事をされていると思いますが。
さてしかし、政府も約束をしているわけですが、この意見書を最大限尊重すると、そうなっているか、あるいはいささか危惧があるか、その辺りについて率直な、なかなか率直なことをおっしゃりにくい立場の方もおられるかと思いますが、率直なところ、更に一層頑張る決意ということなのか、いや、うまくいっているからもう本当に安心して見ていられるということなのか、それぞれ佐藤参考人、四宮参考人、若林参考人から伺いたい。
○参考人(佐藤幸治君) それではお答えします。
先ほど若林参考人がお触れになったことですけれども、審議会の意見が出て、推進本部ができてから検討会が十、それからこの間十一番目ができて、十一の検討会ができて、やはりそれぞれ専門的な議論をするということと、十一もあるものですから、何となく議論が焦点が拡散してきていると、これはもうやむを得ないところがあるかというように思います。それだけに顧問会議が全体を掌握して、そして国民の皆さんに今の状況がどうあって、どういうような方向で考える必要があるのかということを顧問会議として示す責務があると。
先ほど若林参考人からおしかりを受けましたけれども、まだ顧問会議としてやるべきことはあるんでしょうが、先ほど申し上げた二年以内に第一審判決を出すようにしようというのは、今までややちょっと議論がばらけていたといいますか、そういう印象を持たれた、持たれているということをこの二年以内という中でやりましょうという、そういう制度を作りましょうという中に、もう一遍全体の議論を集約して固め直そうという趣旨でございまして、この二年以内というのは今後非常に顧問会議として重視して取り組んでいきたいと。その中で、今、江田議員さんの方からおっしゃった点も留意しながら精一杯その点について努めてまいりたいというように考えております。
○参考人(四宮啓君) 私自身、一つの検討会の委員を務めておりまして、江田先生のおしかりを肝に銘じたいと思いますけれども。
今十一の検討会で議論をしております。私、思いますのに、やはり先ほど若林参考人もおっしゃったとおり細分化されてしまって、言わばもっと悪い言葉で言えばタコつぼ状態になっていないだろうかという危惧はあります。それはつまり、私、さっき意見の中で申し上げましたけれども、専門家中心になり過ぎていないかということです。私どもの裁判員制度・刑事検討会は十一名委員がおりますけれども、そのうち九名は刑事裁判の専門家と言っていいと思います。その意味で、やはり専門家の議論が中心になりがちでございます。
事務局の方では、国民の意見を集約するということでインターネット等で集めてくれてはいるのですが、ある私、国民から聞いたところですけれども、インターネットで意見を寄せようとしたけれども、質問の意味が分からなかったというふうに言われました。これはつまり、正に聞く、聞かれる側、つまり裁判員でいえば参加する国民ということになりますが、そういった配慮をもっとして国民の意見をどのように取り入れて、どのように反映させていくかということは、これからもより一層努力していく必要があると思いますし、私自身もそのように努力したいというふうに思います。
○参考人(若林誠一君) 昨年、推進法の審議に当たりまして衆議院の法務委員会で参考人として意見を述べさせていただいた際に、先ほど江田委員の言われたような趣旨のことを申し上げました。
この審議会の意見書が一つの到達点に行っていると思うんですが、その幾つか理由がありますが、一つの重要なポイントは両論併記にしなかったという点なんですね。法曹三者のそれぞれの立場などを考えますと、思惑、利害が相当対立する問題が随分ありましたけれども、そこはとにかくぎりぎり頑張って幅寄せをしていって最大公約数というものをまとめていった、そして全会一致の意見でまとめたというところが非常に重要なところなんです。
その意味でいいますと、いよいよ実施段階になりまして、それぞれやはり今の仕事のやり方をがらっと変えなければならないといったことでいえば、それぞれ非常に現場には不満がうっせきしているんだろうと思うんです。その不満をそのまま表に出していって、いやここは都合が悪いから、いやこれはこうなんだと言い始めるとこの改革は私は崩壊するんではないかというふうに思います。そうした危惧が全くないかといえば、幾つか気になる現象が起き始めているなという気がしています。そこのところは法曹三者は非常に重要な責務を負っているわけでありますし、推進法にもその責務は書かれています。
是非、この改革の趣旨、そしてどうしてこういうふうな一致点、合意したのかということをきちっと理解をしてほしいというふうに思っています。
○江田五月君 お三人の参考人に、残りの時間、短く一問ずつ聞きますので短く答えていただければと思いますが、佐藤参考人、二年以内にという制度設計ですが、これは民事、刑事、むしろ民事なんですかね、刑事の方も入るんでしょうか。二年以内にということはもちろん数値目標としては重要なことだと思いますけれども、しかし、ただ二年以内ということができればいいという話じゃない。もっと早い判決だってあるんですけれども、それは二年に延ばすなんということはもちろんあっちゃいけない。
どういう手続でこの二年以内ということをやるんですか。また検討会作るんですか。
○参考人(佐藤幸治君) お答えします。
現在のところ、この問題については顧問会議が主体的な責任を持って取り組んでいこうと。またもう一つ検討会作るとなるとそれは少し、性質上、横断的に全体にかかわっている、人的基盤の拡充、制度的な、これは証拠収集だとかそういうことにかかわってまいります。
ですから、全体にかかわっているので検討会はできるだけ作らないで、顧問会議として主体的に責任を持って臨んでいこうと、そういうように考えております。
○江田五月君 刑事もですか。
○参考人(佐藤幸治君) 刑事も民事も含めて、長くても二年以内に得られるようにしたいということです。
○江田五月君 四宮参考人に伺いますが、裁判員制度・刑事検討会ですが、これは名前を出さないですよね。十一人の検討会の委員のうちの九名が刑事の専門家で、名前を出さなくてよかったなというような、何かそういうことが今までありましたか。あるいは、ほかの検討会で名前を出してこんな困ったことになったというようなことをお聞きですか。
○参考人(四宮啓君) 私自身、またこの裁判員制度・刑事検討会で名前を出さなかったことでよかったということは多分ないと私は思います。
それから、ほかの検討会、五つの検討会、今度六個目の知財も名前を公開することになりましたが、そのことによる弊害というのは私自身は聞いておりません。
○江田五月君 若林参考人、最後のところで熱意が欠けてきているんではないかという言い方をされましたですね。いや、私も何かそんな感じはするんで、去年、おととしでしたかね、日弁連などが主催をしてよみうりホールでシンポジウムをやった。有楽町の駅からよみうりホールまで行列でつながっちゃったんですね。それも、弁護士事務所さんが動員をしたんじゃなくて、本当に一般の人が駆け付けて、それが証拠に、弁護士に対する不平不満が出たら拍手が起こるというようなこともあったりで、あのときは、まあこういうテーマですから、それはテレビをひねればいつも司法改革というわけにはいかないけれども、しかし大変な国民的な熱意があったと思うんですが、このところ、だんだん事が具体化する、具体化するに従って言わば専門化するということもあるんでしょうが、熱意というものが不足をしてきているというのは私も感じます。
一つは、やっぱりもっと議論が百家争鳴といいますか、だれがどう言ったという、せめて検討会のメンバーの名前ぐらいは明らかになって、マスコミの中あるいは専門家の中でも、もうちょうちょうはっしで議論をすると。裁判員制度なんというのは特に専門家の中で議論したんじゃ駄目なんで、専門家以外の皆さんが大いに裁判の在り方について、もう床屋談義でもいいから大いに議論が起こると、そんなことが必要かと思うんですが、そういう熱意不足になってきたことの原因、特に公開との関係をめぐって、若林参考人の御意見を伺います。
○参考人(若林誠一君) 熱意がないというか、熱気がうせているという言い方をしたんです。
それは、審議会の場合は、白地に一つの地図を描いていくという、そこで本当にいろんな意見がぶつかり合う中で調整をする、意見を闘わせて一つのものを作り上げていくという意味で非常に熱気のある議論だった。今はもう一つの型がありますので、そこの中での議論になっているから、その意味での熱気というものはなかなか感じないということで申し上げたんです。
裁判員制度につきますと、やはり先ほども言いましたように、国民的合意というのが最大のポイントだろうと私は思います。できれば議論が巻き起こるような、そして中身がどんどん伝わるような仕組みが望ましいわけですけれども、今は少し時期としてそういう段階なのかなという、ある程度致し方ない面があるのかなと思います。
ただ、顕名なのか名前を秘すのかという、名前を隠さなければならない理由というのは私は全く理解ができないということだけは申し上げておきます。私が傍聴席で、できる限り出て聞いておりますけれども、聞いている限りにおいて、一人一人の方、お名前をお出しになっても全く問題がないというふうに感じています。
○江田五月君 熱意でなく熱気でした。訂正します。
終わります。
2002/11/05 |