2005年3月2日 >>発言原稿

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162 参院・憲法調査会 


○会長(関谷勝嗣君) 次に、江田五月君。

○江田五月君 本院憲法調査会は二〇〇〇年の通常国会から活動を始めました。私は立ち上がりのときの民主党・新緑風会所属の幹事で、運営検討委員会の委員でした。二〇〇〇年一月二十六日に会長の村上正邦さんが幹事懇談会を招集されましたが、冒頭から立ち上がりの仕方につき激突し流会、二月八日に私外二名の幹事で村上会長にお会いしましたが、怒号が飛び交うのみ、大荒れの幕開けとなりました。以来五年余が経過しました。極めて良識的で建設的な議論が進められてきたと思います。

 確かに、私たちの中には意見の違う部分もたくさんあります。しかし、私は、総じて言えば、私たちの中には意見の一致するところの方が圧倒的に多く、憲法六十年の歩みの中で、この憲法が意識するとしないとにかかわらず私たちの中に定着してきていると思います。例えば、立憲主義への疑問はどこにもありません。平和主義、民主主義、基本的人権という三原則についても、内容の微妙な違いはともかく、この尊重はだれもが肯定しています。

 この間、私も折に触れ発言してきました。調査の締めくくりに当たり、できるだけ重複を避け、最後に今思うことを述べておきます。

 従来は、現行憲法の制定経過の評価に大きな違いがあり、占領軍による押し付けだから返上して自分たちの憲法をつくろうという主張と、国民の知恵も加わった立派な憲法だから守ろうという主張が激突していました。

 憲法は、もちろんそれぞれの主権国家がつくるものですが、国家も世界の大きな歴史の流れの中で存在してきたのであり、しかも主権国家の相互依存関係は次第に強くなってきております。世界の歴史は単に移ろいゆくものでなく、自由、平和、人権、連帯といった価値につき、世界じゅうの共通認識ができ、それが強まってきたのが人類の歴史です。日本はいっときこの大きな流れから逸脱しました。しかし、敗戦という重大で貴重な犠牲を払い、各国の理解と協力をいただいて歴史の流れに復帰しました。そのことを考えれば、私は、ちゅうちょなく現行憲法を守る側に付きます。

 しかし、歴史はもちろん六十年前に日本が戦争に負けたときに止まってしまったのではありません。その後も歴史は確実に歩みを進めてきました。東西冷戦があり、これが終わり、主権国家の地域統合は各地で進んできています。その上、人類の多方面にわたる活動の活発化により、宇宙船地球号と言われた地球規模での考察の必要性が、経済活動、環境問題、情報化など、すべての面で強くなっています。

 これらの変化により、憲法制定時の諸原則に手直しが必要な部分もあるでしょう。逆に、再定義や再確立が必要な部分や、新しく条件が整ったことにより単なる理念から強制力のある規範へと格上げすべきものもあるでしょう。

 一番大きな変化は、やはり平和主義と国際協調主義です。それまで経験したことのなかった大戦争の惨禍を乗り越え、人類は新しい合意にたどり着きました。それは、第一に戦争の違法化、第二に違法事態への対処方法としての集団安全保障措置、そして第三につなぎの措置としての自衛権です。現行憲法は、これらの合意のうち、当時の日本の置かれた条件に適合するものだけを記述しました。それが第九条と前文です。この合意は二十一世紀の国際合意としての価値を増しこそすれ、決して色あせてはいません。日本は終戦時と異なり、この合意に完全参加する能力を備え、その責務さえ自覚すべきところに来たと言えます。

 そこで、この際、この合意を再定義し、今度こそ国も国民も必ず守る原則として再記述すべきものと思います。私は、いわゆる集団的自衛権については、論争に混乱もあり、余り実りの多い議論とも争点とも思えませんが、あえて言えば集団安全保障措置の確立こそを日本の使命とすべきものであって、集団的自衛権の行使を認めることはこれと相反するものと思います。

 平和主義をめぐって制定後に二つの新しいうねりがありました。第一は原水爆禁止運動です。核兵器全廃と軍縮は日本の悲願です。第二はアジアの視点です。アジアの一国として、日本は特に東アジアの不戦や地域協力と統合のために最大限の役割を果たすべきです。これらを憲法上の原則と規定することは、特にアジアの人々の日本に対する疑心暗鬼をなくし、日本の新しい出発に理解を得るために欠かすことのできない措置だと思います。

 国民主権につき、一言、一つ言っておきたいことがあります。国民主権を認めながら、国民につき独自の見解を主張する立場が見られます。言葉はいろいろですが、要するに、国民とは太古の昔から悠久の未来に至るまで、太平洋の荒波に洗われる日本列島で共同生活を、共同体を形成する人々の総体だというのです。私は、この見解には同意しません。観念の上では想像できても、現実にはそのような集合体はありません。国民はある特定の時代に生きて意思表示をする実体を持った人々の集合体です。この集合体は変化しますし、憲法もまた歴史の所産です。超歴史と超憲法の極みというべきこのような見解は、近代憲法の形成とは無縁です。今、憲法前文の記述の仕方につき日本の歴史や伝統や文化に触れるべしとの主張があります。この主張が私が批判したような見解と無縁であると信じたいのですが、いかがでしょうか。

 現行憲法の基本的人権条項は貴重な規定にあふれてはいますが、ちょっと古く、整理されてもいません。また、その後の国民の努力により新しい人権カタログも生まれています。人権侵害に対する救済システムを、あらゆる国家権力から独立したものとして憲法に直接の根拠を有する制度と設計することも大切です。教育も労働も、納税さえも義務の側面でなく、権利の側面から規定し直そうとの提案もあり、傾聴に値します。

 これ以外の点はすべて省略し、最後に憲法改正のプロセスにつき述べておきます。

 日本の民主主義が市民の自発的努力により獲得されたものでなく、与えられたものという脆弱性を持っていることは否定できません。私が何より残念に思うことです。そこでこの際、国民が自ら自分たちの国の基本を自分たちで定めるのだと自覚して憲法を改正するということになれば、やっと二十一世紀になって日本が民主主義の意識面でのインフラを整えることができることになります。これが今回の憲法改正の一番重要な点です。

 そのために一番大切なことは、憲法改正の国民投票が民主主義の確立にとって有意義なものになることです。形式的には投票率がいかに低くても投票結果は出ます。しかし、投票率五〇%を下回るような憲法改正では、新憲法はその瞬間に命を失い、日本は崩壊に向かいます。国民の未来に対する夢をかき立て、もう一度この地域にみんなが支え合うすばらしい生活共同体をつくろうという意識を持って、心を躍らせながら投票所へ駆け付ける状況をつくらなければなりません。

 政治は今、政権交代時代に移ろうとしています。私が民主党にいるから言っているのではありません。客観的な価値観の表明です。与党と民主党との交代になるのか、公明党が選択権を持つことになるのか、それはこれからの展開次第です。大切なことは、新しくつくる憲法はこの政権交代政治の基盤を提供するものでなければならないということです。

 幸か不幸か、現行憲法の改正手続のハードルは極めて高く設定されています。与党と民主党との合意がなければ改正発議はできません。選挙の争点にして口角泡を飛ばしては、自己満足は得られても、日本の市民革命は挫折するだけです。党利党略を断固として排する質の高い英知が必要です。間違っても、政治の場面だけで盛り上がって、国民はどっちらけとなってはいけません。自民党の皆さんが結党何十周年とかをことほぎ、憲法をその記念品とするような感覚で憲法改正を扱うことのないよう、伏してお願いします。

 二十一世紀の新しい秩序を求めて、もちろん民主党は、党の立場を超えて、地球規模でも日本国内でも二十一世紀の新しい秩序を求めて憲法改正に取り組むことをこの際誓います。

 終わります。


2005年3月2日

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