1987/09 五月会だより No.36 ホーム主張目次たより目次前へ次へ


社民連訪ソ団
明るく・温かく・柔軟に 変わりつつあるソ連を訪問

 ソ連共産党中央委員会の招待による社民連訪ソ団(団長江田五月)は、六月二十九日に成田空港を出発。一週間ソ連を公式訪問した。代表団は、各界の代表と精力的に懇談。友好的ではあるが、ときには激論。

 ソ連の印象を一言でいえば、暗い、冷たい、硬いソ連から、明るい、温かい、柔軟なソ連へ――大きく変化の最中といえる。

ソ連は変わりつつある

 ソ連共産党中央委員会の招待で、社民連代表団五人でソ連を訪問しました。私が団長、大亀幸雄さんも同行。

 ソ連というと、暗い、冷たい、かたい……というイメージが強いですネ。しかし最近、ゴルバチョフ書記長になってから、何かが変わり始めたゾという声が出てきました。

 例えばソ連は、この二月まで一方的に核実験をやめていました。軍縮に本気なのではないでしょうか。又、権力内部のことがずい分公表されるようになりました。チエルノブイリ報道はその一例です。

 そこで、変貌するソ連を見極めてやろう……というのが、私たちのねらいです。

節酒令 ― ジュースで乾杯

 私たちはソ連共産党のお客さんだから、党の直営ホテルに泊めてもらいました。料理も実においしく、部屋もスイートルームの豪華版。ところが何と、食堂では酒は一滴もなし。ジュースで乾杯です。

 これまでソ連人は、何かというとウォッカのガプ飲み。世界でも有数のアル中王国でした。これに業をにやして、とうとう節酒令。卒先垂範で党の直営ホテルは禁酒。

 そこでドルショップで買ってきて部屋で乾杯しました。

ペレストロイカで大改革

 ソ連は計画経済の国で、経済活動の全てをモスクワの当局が決めるのが建て前。しかし実は闇が横行でした。

 個人の努力が認められないのですから、能率は落ちる一方。科学技術も世界の水準についていけません。

 そこで、個人や企業の経済活動の自主性や自律性を認める方向に、大転換です。工場長は選挙で選び、給料の額なども選挙公約になるという具合。成績の悪い企業は倒産。

 ならば流通はどうする、税は、開発投資は……。私たちの鋭い質問で、議論は白熱。

 私たちには当然のことでも、ソ連にとっては大変化。しかも経済だけでなく、例えば文化や芸術も。ドクトルジバゴを初め多くの書物が解禁になりました。サハロフも解放されました。

 先に述べた報道の活性化は、公開性〈グラスノスチ)という方針です。このように、政治、経済、社会の全てにわたる根本的改革をペレストロイカと呼び、ソ連指導部が本気で全力で取組んでいます。

アジアの核兵器も全廃を!

 アメリカもそうですが、ソ連も膨大な軍事費に音を上げています。その上大改革の真最中。とても今、他国と戦争をする余裕はありません。そこで、道は軍縮しかないのです。複雑にからみ合った軍事関係のもつれを解きほぐすのは、容易ではありませんが。

 INF(中距離核兵器)削減交渉が進んでいます。アジアに百発ずつ残すというので、私たちは、日本に向けられた核弾頭など全廃して欲しいと強く求めました。帰国後、ゴルバチョフ書記長のアジアでも全廃の方針が出ました。

北風と太陽の教訓で……

 デミチェフ最高会議第一副議長と会った際、むこうから北方領土のことを言い出しました。ソ連の姿勢に変化のきざしが見られます。領土問題の解決のためにも、まず両国の友好関係を大きく前へ進めるべきです。

 私たちは、北方領土のことを強く主張しましたが、同時に友好関係も強めました。

 イソップ童話の北風と太陽の話は、対ソ外交でも当てはまると思います。確かにその後、東芝機械のことや外交官の国外退去など、ゆり戻しもありますが、一進一退は何にでもあります。世界の平和のために、隣人とは気長に仲良い付合い方を探らなければなりません。

 私たちは、大改革の中心で仕事をしている多くの実力派の人たちと会いました。宇宙飛行士のテレシコワさんは、笑顔で瀬戸大橋博覧会への協力を約束してくれました。みな自信たっぷりでした。

 彼らの仕事が、中間管理層のサボリや軍部の抵抗で挫折しないことを、祈らずにはいられません。

 ソ連が大変貌し、明るい、温かい、柔軟なソ連になることを、心から期待します。



父三郎の遺志を継ぎ、新しい政治を

江田五月 いま 野党結集の核に

 岡山社民連は、昨年十月に開いた第三回大会で、新しい政治をめざして奮闘することを誓いあい、次の二つの方針を、満場一致で決定しました。

 第一は、社会党と民社党の歴史的和解をすすめ、その上で社会・民社・社民連と平和・進歩・公正を求める市民勢力とが手を握り、新しい市民的革新政党を結成することです。

 第二は、社会・民社・公明・社民連を中心に、ミニ政党にも参加ねがって「反自民野党連合」を結成し、「革新中道連合政権」をめざした共同闘争の前進に努めることです。

 そして、この方向にそって、去る五月二十四日、故江田三郎の眠る建部町「妙福寺」で、“江田三郎没十年墓前供養・語る会”を催しました。五月会だより三十五号参照)

 その後、社会・民社の関係修復、革新政治勢力の大結集をめざす動きは、さまざまなかたちで、それも急速に進展しています。本年十一月には、約五六〇万人が参加するわが国最大のナショナルセンター「全民労連」が発足します。これを契機に“新しい政治のうねり”はさらに前進することに間違いありません。「故江田三郎が目指していた政治路線が、いよいよ現実になろうとしている。」といっても過大評価ではないでしょう。

 新しい政治をめざす動き、足跡を、マスコミ報道もふくめて日誌風に述べるとつぎのようになります。

5・24 江田三郎没十年墓前供養・語る集い
5・29 春日一幸民社党元委員長と山岸章全電通委員長が会談。「小異を残して大同につく」ことを確認。
6・5 春日一幸と田辺誠社会党前書記長が会談。
「国会内統一会派の結成、社会・民社の歴史的和解、公明党をも含めた野党再編の実現」などについて 意見一致。
6・8 読売新聞「野党再編へうねり、売上税共闘で自信」
6・13 読売新聞「どう動く社・民和解」五回連載。登場人物は江田五月、山岸章、田辺誠、大久保直彦、春日一幸。
6・16 山陽新聞「野党再編のための論議」社説。
6・17 朝日新聞「社・民融和の動きに注目する」社説。
6・19 毎日新聞「野党は積極的に連合政治を」社説。
読売新聞「先送り許されぬ社会党改革」社説。
6・21 毎日新聞「労働界再編と野党」四回連載。登場人物は田辺誠、永末英一、山岸章、太田薫。
7・14 松前重義東海大学総長宅で矢野公明党委員長、佐々木民社党前委員長、田辺誠社会党前書記長、江田五月社民連代表が会談。「参議院選挙は野党統一候補を、社会・民社の和解、野党再編」で懇談。
7・28 社会・民社の国会議員十二名で懇談。「国会議員を軸とした相互交流を積み重ね、社会・民社の和解を促進。ゆういん(友引)会を結成」で意見一致。
7・29 全民労連傘下組合出身の衆・参議員約三十名で勉強会を開く。
7・30 社会党の政権構想研究会(右派)は、「参議院選は四党統一候補で、民社との和解は促進」と確認。
7・31 毎日新聞「社・民和解は時代の流れ」の見出しで、政構研を中心とする社会党の動きを報道。
8・11 社会・公明・民社・社民連の四党政審会長、北海道で二泊三日の勉強会。
8・19 毎日新聞「政策野党共闘新時代」を五回連載。
8・21 社会党の山口書記長、革新連合政権の問題点とされている日米安保条約、自衛隊、対韓国外交、原子力発電などの基本政策について、新見解を発表。
8・22 朝日・毎日・読売新聞社説、山口書記長の新見解を「一歩前進した社会党の脱皮」と評価。
8・24 山陽新聞「野党統一候補が急浮上」の見出しで、労働戦線統一と参議院野党統一候補の動きを報道。
読売新聞「社会・民社の和解、動き加速」労働界の統一に連動して野党各党も再編に動くのは自然の流れ――」と報道。

 以上の足跡が物語るように、いま新党結成、野党再編をめざす動きは急速に発展しつつあります。

 しかしこの大目標を達成するまでには、さまざまな困難があります。ときには一時停止も、逆流もあるかもしれません。それでも、この潮流は 国民の声ですので、止めることは出来ないと思います。


議員夫人・毎日が選挙運動? 夫の活動を支えます。

 「お父さん、しっかり政治に励んで下さい。ほかの仕事は安心して任せなさい。」――。議員夫人にとって毎日が厳しい選挙戦のようなもの。夫の政治活動を円滑に進める上で、妻が果たす役割は大きい。絶えず周囲に気を配り、場合によって議員に代わって支持者の相談相手を務めることも。「何んでこんな男を亭主に選んだのか」と、今さら悔やんでも仕方がない。「男が一度決意した政治の道です。」と、チョッピリ浪花節。でも、どこかでグチをこぽしたい。そこで議員夫人が集まって井戸端会議…。

出席者
江田 光子 
江田 京子 
井本 都子 
橘 弘子 
寺田 令子 
則武芙美子
 
(故江田三郎夫人)
(衆議員議員江田五月夫人)
(岡山県議会議員井本丈夫夫人)
(岡山県議会議員橘民義夫人)
(岡山市議会議員寺田明生夫人)
(岡山市議会議員則武伸一郎夫人)
順不同、敬称略

――議員夫人は何かと苦労が多いもの。特に選挙戦はご主人以上に大変では……。

井本 主人は町議(瀬戸町)を二期務めて県議に立候補したものの三度落選。十二年のブランクを経てこの春、“四度目の正直”で議席をいただきました。お金もありません。しかし、今回ばかりは私にとっても負けられませんでした。“良職”が勝つと夫を信じました。

江田(光) 長い間、ご苦労なさったのね。

井本 根が楽天家ですし、主人もさっぱり過ぎる性格で別にくよくよすることも、ありませんでした(笑)。

――選挙戦も大変ですが、当選後はもっと大変。

寺田 夜は遅いし……。夫としてはイヤ(笑)。でも、男としては好きですし、尊敬もしています。あえて文句を言うならば、もっと家族団らんがほしいわ。

江田(京) 家の外と内ではこれほどイメージが違う人も珍しいのよ。家の中では“ステテコ姿”ばっかり。このスタイルで庭の草取り……。自宅はバス通りに面していますから、せめてズボンをはいてくれたら。でも本人は別段、気にもせずステテコで草取りを楽しんでいます。

 秘書時代が長かったせいか、江田代議士の影響を受けて趣味は草取り。秘書の時には「あんなことはしたくない」といっていました(笑)。

則武 家の中では本ばかり読んでいます。週刊誌から小説まで。静かですからラクですよ。

――まあ、議員活動にはストレスが付きもの。草取りも、読書も一種の気分転換。

井本 うちの主人は性格の裏表がありませんから、家の中では好きなようにやっています。大きな子供と思えば……。

――やはり、気分転換も健康管理の一つ。健康でなければ議員は無理ですからね。ところで選挙や日常の生活などで悩みがあれば。

 一時、立候補には反対しました。やはり、秘書を通して政治の難しさが理解できただけに……。しかし、今ではしっかり激励しています。

江田(光) 二十歳の春に結婚して、その年の秋に選挙。何が何んだか分からないうちに政治と一緒に暮していました。でもね、けっこう辛いことも多いの。夜中の二時、三時になっても、酔っぱらった人のお世話をしなければならないし。本当に涙がこぼれたこともあったのよ。

寺田 二期目のジンクスが心配でした。夜も寝られず…。

――寺田市議は奥さんの気持ちは分ったでしょうか。

寺田 さあ、どうでしょうね。理解していないのでは。

則武 私は当初か、市議選に出ることに反対しませんでした。なぜなら冗談だと思って…。最後は「男の人が考えたことだから仕方ない」と思ってあきらめました(笑)。

井本 私の意見を聞いてくれるような主人ではありません。ですから好きなようにおやりなさい。しっかり応援するからと、覚悟を決めたものです。

江田(京) ほとんど妻と相談なしの政界への転出でした。だからこそ、この世界でやれたと思います。思うに、無我夢中の十年間……これが実感です。

江田(光) 議員というのは有稚者から見るとオールマイティだと受け取られるのよね。だけど、家族がゆっくりとお正月もくつろげないとなると悲しいわ。それに、貧乏性になるわね(笑)。でも、しっかり良い政治をしてもらうためにも私達がしっかりしなければなりませんね。

(編集部より)
今回の企画はスペースの都合上、県会・市会議員の奥さんに出席をお願いしました。次回は、町議・村議の奥さんに、ご無理をお願いいたします。その時に、どんな楽しい話が飛び出すでしょうかね。


楽しかった高知旅行

 私達“番町グループ”六人は、恒例の江田五月会の旅行に参加。小雨降る早朝の社民連事務所を出発しました。
 平均年令四十五才の私達は、祖谷のかずら橋のスリルに身を振るわせ、高知のホテルで皿鉢料理に舌づつみを打ち、桂浜の雄大な太平洋に感動し、全身で旅の楽しさを満喫しました。昭和の坂本龍馬こと、江田五月さんは、遙か太平洋の彼方に目を向け何を考えていたのでしょうか。
 日頃のストレスを海へ捨てきった私達は、今、元気です。

    山本美奈子


江田三郎墓前祭慰労の集い開く

 七月十八日夕刻、建部町福渡の旅館で、地元協力者を中心に慰労会を催しました。
 江田光子さん、五月さん、京子さん、橘県議、小嶋事務局員、藤田秘書が出席。地元からは三十二名が参加しました。
 光子さんの謝辞に始まり、出席者それぞれの挨拶のあと、当日の行事のビデオに感銘、(当日地元の人は各自の持場に分散し行事を殆んど見ていません)時間の都合で一部を早送りしてラストのコーラスの場面に急ぐ。早送りを止める度に大亀さんの大写しが出て皆笑い出す。乾杯でのどを潤した所で「からたちの花」の合唱、これで当日に割愛された不満を解消しました。あとはのど自慢の面々が登壇、また随所に懇親の花が咲き、十時過ぎに散会しました。 

菅 道夫記


中国語を学びませんか 小さな日・中友好
 津山・美作短期大学に、上海から「孫蕊(ソン・ゼイ)」さんという女性の方が留学中です。彼女の好意で毎週木曜日の夜、津山事務所で中国語会話教室を開くことになりました。
 この機会に生きた中国語を習ってちょっびり友好を深めてみませんか?


全電通大会で江田さん決意表明

 全電場労組岡山県支部の第三十五回定期大会が開かれ、社民連からは江田五月代表が出席して激励の挨拶をしました。

 今年の大会には、二つの特徴がありました。一つは、来賓の顔ぶれが広くなったこと。政党では公明党と民社党、労働団体では県同盟も参加していました。

 二つめは、森本徹磨委員長の、とくに政治問題に関わる部分の挨拶が極めて意欲的であったことです。

 「(1)公明・民社・社民連との間に、政策について意見交換の場を設置したい。(2)原発・安保・自衛隊、韓国問題などについて、論議を深め、態度を明確にすることを社会党に求める。(3)いわゆる空白区における四党統一候補擁立の条件づくりに努める」さらに一歩進めて、「全電通岡山県支部野党協力議員懇談会(仮称)を設置したい」と。

 総評加盟の労組としては大胆な提案、拍手を送りたいものです。

 江田代表はご支援に感謝した後、「十年一昔といわれるが、父江田三郎が亡くなって十年。ようやく野党の再編成、新党の結成が具体化的行動として表面化してきた。社会・民社の歴史的和解の水面下の動きも活発になってきた。皆さんと協力しあって、新しい政治のうねりを大きくしていきたい。」と、挨拶。大きな拍手を受けました。


夏の終わりに、フランスから残暑を吹き飛ばすような朗報が届いた。ヨーロッパ最高峰のモンブラン登頂に日本の登山隊が成功したというニュースだ。

この登山隊は、倉敷の医師を中心とする「ガンと闘う患者たち」だ。これは日本中のガンで苦しんでいる人々にとって、何よりの励ましの言葉になったに違いない。

ガンは不治の病とされ、その病名を告げられることは、死刑の宣告にも等しいものと考えられている。しかし、この方たちはガンに大正面から立ち向かい、「生さ甲斐を持つことが治療効果を生む」ことを実践しようとしている。この快挙に心からの拍手を送りたい。

日本の政治も、自民党の一党支配の下、金権・腐敗という「ガン」に侵されている感がある。大は元首相の犯罪から、小は地方役人の汚職や先頃の選挙で見られた買収事件など、例をあげればきりがない。

その症状の現れだろうか、政府は売上税の導入などの国の重大な政策についてもウソのつき放題。先般アメリカで、日本への「核」持ち込みを前提とした文書公開されても、「日本には非核三原則があるから大丈夫」と知らぬ顔。大切なのは、原則があるかないかではなくて、それを守る決意が有るかどうかだ。「ガン」に侵された今の自民党政府にそれがあるとはとても思えない。

日本の「ガン」の治療法は、やはり政権交代しかあるまい。国民に「政治に対する期待」を取り返してもらうためにも、野党の連合が結集が今こそ急がれる。政治家江田五月の正念場だ。


どうぞよろしく! 江田五月の新人秘書です。

羽場頼三郎 第二開票区担当
 秘書でない秘書をめざす三十八歳。血液型AB。阿哲郡哲西町出身。小学校時代は岡山で過ごす(南方保育園、南方小学校)。金光学園高校を経て、早稲田大学法学部に進む。大学卒業後、司法浪人。社会市民連合の結成に参加して、東京を中心に活動。消費者問題の市民運動に参加。趣味は、落語を聞くことと読書。尊敬する人は、犬養木堂。

森安 章文 第三開票区担当
 岡山市で生まれ、そのまま二十七年間住んでいます。途中アメリカ大陸へ一年間、放浪の旅。人間がでかくなったと思っています。(?)

 今年の選挙で江田五月さんとめぐりあい一目惚れ。人生は苦労の積み重ねと思い、あえて政治の道へ。安心して頼れる秘書をめざしています。特技は車の運転で、国内A級ライセンスの資格を持っています。

藤田 清久 郡南担当
 この春、専修大学法学部を卒業したばかりの二十二才。出身は備中高梁。大学時代は憲法や行政法などの公法、国家組織法に興味をもつ。
 趣味は、中学時代より続けるコーラス音楽(テノール)と史跡・寺院めぐり。この時ばかりは雑踏から離れ、心が落ち着く。友人からは“若年寄り”と悪く言われるが、気にはしていない。自分のペースでがんばっていきたい。


編集後記

 “政戦五十年、余命いくばくぞ、革新政権ならずして、入るべき墓場なし” 井原市の佐藤光良さんのお宅に飾られている故江田三郎の色紙にこう記されている。最近、江田五月は熱意を込めて決意を述べる 「父子ともども同じ嘆きは繰り返したくない。必ず自民党にとって代わる新しい政権をつくってみせる。」――と。

 今年で江田三郎没十年、国会議員江田五月誕生十年。大学時代の恩師は、「人間、十年単位で大きく見て、堂々と生きたらいい。」と私に教えてくれた。

 今、確実に政治は大きく流れ始めた。それをせき止めるか、もっと大きな波に乗せるかは、我々市民が握っている。必ず新しい政治の流れをつくりたい。(ノブ)


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