自宅で電話連絡と片付けで、昼過ぎまで掛かってしまいました。さらに若干の庭の草取りをして、15時前にやっと出て法律事務所に入り、デスクワークと電話連絡をしました。
その後、一度自宅に戻り、妻に送って貰って所用を片付けながら、19時から2時間半ほど、昭和16年生まれの友人たちによる「16年会」の夕食会に出席しました。政治の惨状については、皆ひたすら嘆くばかりでした。
自宅で電話連絡と片付けで、昼過ぎまで掛かってしまいました。さらに若干の庭の草取りをして、15時前にやっと出て法律事務所に入り、デスクワークと電話連絡をしました。
その後、一度自宅に戻り、妻に送って貰って所用を片付けながら、19時から2時間半ほど、昭和16年生まれの友人たちによる「16年会」の夕食会に出席しました。政治の惨状については、皆ひたすら嘆くばかりでした。
朝、裏庭を見ると、バイカウツギが純白の花をたくさん開いて見事でした。
12時過ぎに出て法律事務所に入り、若干のデスクワークをした後、久しぶりに城下公会堂で昼食をいただきました。14時から30分ほど、被疑事件につき関係者に来ていただいて事情を聴き、弁護人としての手続きを整えました。その後さらにデスクワークをし、16時ころに出て関係先を回ってみました。
17時過ぎに帰宅途中に見ると、家が立ち並んだ中にある田圃がレンゲ畑になって、満開でした。レンゲはマメ科で、根粒バクテリアが肥料になるため、全てを鋤き込むのです。帰宅後、庭の草取りをしました。
朝、ご近所の方が、ご自宅の菜園で収穫したばかりのイチゴを持ってきてくれました。形は不揃いですが、さすが手作りでしかも超新鮮で、素晴らしい味でした。
庭に出てみると、挿し木のアジサイがすべて元気に育ち始め、中にはもう蕾を付けているものもありました。ヤマアジサイが可憐な花を開いており、これから微かに色が変わっていくのが楽しみです。
昼食の食卓に、超小型の龍が現れました。これは一体、何でしょう。そんなことをしていて、14時にやっと出て法律事務所に入り、17時までデスクワークや電話連絡をしました。
妻は9時には友人らと一緒に、旭川荘のおむつ畳みボランティアに出掛け、私は午前中は自宅でゆっくり過ごしました。12時半過ぎに出て法律事務所に入り、事務所前の道路の中央分離帯を見ると、名前の知らない純白の花がぎっしりとまぶしく開いていました。
昼食を食べて、14時から短時間、行政手続き相談を受けました。やっと出口が見えてきたようです。その後、17時前まで、電話連絡やデスクワークで、結構忙しく過ごしました。
その後、帰宅途中にちょっと寄り道をして、刑事被疑事件の現場を見て来ました。
午前中は自宅でゆっくりし、12時半に出て法律事務所に入り、13時から1時間、刑事被疑事件の相談を受けました。事案としては被疑者の営業に関する軽微な条例違反ですが、その後の融資の途絶の恐れなどを考えると、影響は極めて大きく、対応が必要です。
14時から1時間弱、報道関係の打ち合わせをしました。その後、さらに電話連絡やデスクワークをし、17時半に神伝流岡山游泳会の事務局担当者が年末にいただいた十段免許状を届けてくれました。岡山市内を貫流する旭川下流にある日本泳法の神伝流道場に通い始めて60数年で、最高位に辿り着きましたが、まだまだ道半ばです。
18時ころにやっと事務所を出て帰宅しました。日が長くなり暖かいので、若干の草取りをしましたが、直ぐに薄暮となり、さらにもう蚊が飛び始め、仕事になりませんでした。
10時にチェックアウトし、10時半前に野鳥保護関係の年間最大の企画会場に着きました。主催が環境省と公益財団法人日本鳥類保護連盟、後援が文部科学省と林野庁による「第72回愛鳥週間 全国野鳥保護のつどい」の「記念式典」と「愛鳥パーティー」です。私は愛鳥百人委員会会長ということで、来賓として招かれ、まず控室で主催団体関係者らと懇談しました。
11時前に連盟総裁の常陸宮殿下のご臨席をお迎えし、11時から式典が開始となりました。主催者として中川雅治環境大臣と矢島稔連盟会長が、次いで来賓として私がそれぞれ挨拶し、野生生物保護功労者表彰式に移りました。冒頭は連盟総裁賞で、千葉県の内山春雄さんが、国内希少種アホウドリの保全をはじめデコイやバードカービング活動に対し、矢島会長の代読により授与されました。さらに環境大臣賞、文科大臣賞、林野庁長官感謝状、連盟会長賞と環境省自然保護局長賞が順次授与され、最後に尼崎市立成良中学校の生徒らによる活動発表がありました。その後、総裁を中心に関係者と受賞者による記念写真撮影があり、私も加えていただきました。
12時過ぎから、環境大臣、局長、矢島会長と私らで昼食をいただき、13時から1時間弱、愛鳥パーティーとなりました。まず主催者の矢島会長が、次いで来賓として日本野鳥の会の遠藤孝一理事長が挨拶され、島津久永さんの音頭で乾杯から懇談となりました。その後、受賞者を代表して内山さんが活動報告を含む挨拶をされ、最後に連盟の奥村明雄監事の中締めで閉会となりました。
終了後、直ちに退席して京王線で高幡不動に急ぎ、孫たちの出迎えを受けて長女の家に瞬間だけ立ち寄り、15時半前から2時間半弱、長女の友人らと懇談会を行いました。一度私の話を聞きたいと頼まれていたので、予定を立てたのですが、話の構想を何も立てずに臨んだのに、20人近くが集まってくれ、私の父の戦前の活動から訪中、引き揚げと戦後の活動に始まり、私自身の書道や水泳、生徒会活動と学生運動、裁判官と政治家への転身などを話しているうちに1時間を優に超えてしまい、さらに1時間ほど質問に答え、最後に記念写真を撮りました。
そのころには雨が土砂降りになっており、娘家族4人と一緒に移動して野菜主体のお弁当で夕食をいただき、立川からJR在来線で東京駅に急ぎ、20時過ぎの新幹線で帰岡しました。なかなか忙しい一日でした。
今日も午前中は自宅でのんびり過ごし、昼前から13時過ぎまで妻とともに、滞っていた庭仕事をしました。まず、桃の摘果ですが、おそらく時期はとっくに過ぎているのだろうと思います。それでも気は心で、一枝に果実1、2個を残したのですが、上部の枝はとても手が出せませんでした。
次に夏ミカンの剪定をしました。これも時期でないことは分かっていますが、やらないよりはましだろうと思い、下枝を切って風通しを良くしました。茂った枝の陰に、取り忘れの実が一つしっかりと付いていました。
昼食後は再び、昨日届いた母の日カーネーションや一生君手作りの格好良いおもちゃなどを見ながら、のんびり過ごしました。17時半ころに妻に送って貰って岡山駅に行き、構内で夕食の後、18時半前の新幹線で上京しました。発駅の博多付近で支障があったようで、少し遅れました。
昼過ぎまで自宅でゆっくりと、デスクワークや電話連絡をしました。14時過ぎに妻と出て、所用を済ませ、15時ころから1時間ほど、天神山文化プラザで展覧会を見て歩きました。
最初は仮名書道の渓雲書道会展で、林陽舟さん、橋本光枝さんらがご案内下さり、お茶をいただきながら懇談しました。須藤暁子さんからご案内をいただいており、出品作品を見ると、最近お稽古を始めたとは思えない立派な色紙作品でした。次に白日会岡山支部展で、写実を中心とした立派な油絵作品が整然と並んでいました。さらに田中漆芸講座生作品発表会を見ました。漆芸と木彫のほか、金継ぎの作品が多数並べられ、この分野の面白さを初めて実感しました。
16時に法律事務所に入り、若干のデスクワークの後に、ももちゃん邸に寄って孫たちとお茶を飲みました。一生君が立派に幼稚園年中さんになっていました。
備前平野は雲一つない五月晴れの朝となり、妻に送って貰って6時半に出て、7時前の新幹線で上京しました。12時から「日中平和友好条約締結40周年記念、李克強国務院総理歓迎レセプション」が開催され、私も日中友好会館会長として出席するため、会場付近の混雑も考えて、ちょっと早めに出掛けました。
10時半前に着いたのですが、警備のせいなのか会場周辺が大混雑で、11時過ぎにやっと受付に着き、30分強にわたり控室で来賓の皆さんと懇談しました。12時前になってやっと用意ができ、主要来賓が指定された位置に立ち、日中交流促進実行委員長の榊原定征経団連会長と李総理が入場して指定位置に立ち、記念写真撮影となりました。
その後、直ちに1500人が集まるレセプション会場に移動し、まず榊原委員長、次いで日本国際貿易促進協会の河野洋平会長、さらに安倍首相がそれぞれ挨拶して乾杯の音頭を取り、最後に李総理が日中関係の構築につき包括的な挨拶をして、乾杯の音頭を取って、懇談に移りました。全く急な呼びかけでしたが、本当に大勢の皆さんが駆け付け、日中関係改善の大きな節目になりました。その後、参加の皆さんと若干の懇談をし、中座して昼食を取り、14時半ころに参議院議員会館に難波奨二さんの事務所に入りました。
参議院予算委員会の参考人質疑の模様をテレビ中継で見ているところに、地元から鳥井良輔県議が現れ、さらに神本美恵子さんが寄られて、暫時懇談しました。17時半ころに出て、東京駅構内で鳥井県議らと夕食を食べ、19時過ぎの新幹線で帰岡しました。
8時半に妻とともに出掛け、9時過ぎに瀬戸内市長島の国立ハンセン病療養所邑久光明園事務所に着き、「邑久長島大橋開通30周年記念式」に出席しました。わずか20メートル強の距離ではあっても、海によって隔てられた離島に設置された長島愛生園と邑久光明園にとっては、ここに「人間回復の橋」を架けることは隔離差別を解消する象徴であって、長い悲願でした。私は1977年に国会議員となって以来、「ハンセン病対策議員懇談会」に所属して事務局次長を務め、また国賠訴訟支援のために「ハンセン病問題の最終解決を進める国会議員懇談会」と立ち上げ、長島架橋についても対厚相交渉の先頭に立ってきました。当時のことを思い返しながら、感慨深い式典参加となりました。
9時40分に信号弾打ち上げがあり、私も参加して玖珠玉割りをしました。次いで子どもたちの合唱があり、開式となって邑久光明園入所者自治会の屋猛司会長の式辞、愛生園の山本園長と光明園の青木園長の挨拶に続き、来賓祝辞となりました。全療協本部の森会長、厚労省の武田医政局長、津村啓介さんが続きました。
そして私となり、1955年ころに父・江田三郎に連れられて愛生園を訪ねたころの思い出から話を始め、架橋交渉の際の園田直厚相のことなどを話しました。さらに伊原木岡山県知事、神宝県議と武久瀬戸内市長の祝辞と来賓紹介が続き、最後に長島愛生園入所者自治会の中尾伸治会長の謝辞で閉会となりました。
次に会場を移して、11時から1時間強、沢知恵さんの記念ピアノ弾き語りコンサートを鑑賞しました。続く昼食会は失礼し、13時ころに自宅に戻りました。
暫時休憩し、15時過ぎに出て法律事務所に入り、16時から30分強、行政手続き関係の相談を受けました。さらにデスクワークを済ませ、18時過ぎに事務所を出て帰宅しました。その途中で、日中韓と日中の各首脳会談の様子がテレビで放映され、帰宅したころには米国のポンペオ国務長官の訪朝が報じられました。時代の大きな変わり目です。