日本時間の17時半前に離陸し、少し春霞に隠されたきれいな富士を見下ろしながら飛び、3時間半の飛行と1時間の時差で、北京時間の20時に北京国際空港に着陸しました。
空港では花束に迎えられましたが、暫く師村妙石さんたちの到着を待ち、中国硬筆書法協会の幹部の皆さんとともに西の郊外まで移動し、22時から1時間ほど、夕食会となりました。大変なご馳走でしたが、機内食を完食していたため、とても食べきれませんでした。24時前にやっと宿舎の北京飯店にチェックインしました。
日本時間の17時半前に離陸し、少し春霞に隠されたきれいな富士を見下ろしながら飛び、3時間半の飛行と1時間の時差で、北京時間の20時に北京国際空港に着陸しました。
空港では花束に迎えられましたが、暫く師村妙石さんたちの到着を待ち、中国硬筆書法協会の幹部の皆さんとともに西の郊外まで移動し、22時から1時間ほど、夕食会となりました。大変なご馳走でしたが、機内食を完食していたため、とても食べきれませんでした。24時前にやっと宿舎の北京飯店にチェックインしました。
タクシーの迎えで7時に出て、7時半過ぎの新幹線で上京しました。まだ4月半ばなのに、旭川も百間川もすっかり春でした。
11時過ぎに着き、短時間ですが龍門展を鑑賞しました。戦後の書道界を背負った一人である豊道春海さんのご子息の豊道溪峻さんが主宰する書道会で、春海さん所蔵の拓本がたくさん展示され、溪峻さんにご案内いただきました。
12時前に次の場所に着き、大学入学時のクラス会総会に出席しました。東京大学教養学部の昭和35年入学文科1類6組bという55人のクラスで、物故者が13名となり、13名が出席でした。私が音頭を取って乾杯した後、記念写真を撮り、暫くおいしい食事をいただきながら歓談し、各自が順次近況報告をしました。大多数が既に現役を退き、さらに体調に問題を抱えているものも多く、それでも皆さん意気軒昂で、世相を嘆く言葉も次々に飛び出しました。
14時過ぎに、全員の近況報告が終わったところで中座し、浜松町からモノレールで羽田空港に行き、出国手続きをして一休みしているところです。17時20分の便で、北京に向かいます。
午前中は自宅でゆっくり過ごしました。昼前に裏庭に出てみると、ツルキキョウがきれいに花を開いていました。雑草の一種で、茂りすぎると困ります。
13時半過ぎから妻とともに出掛け、所用を次々と済ませて回り、15時にやっと法律事務所に入って、何件か電話連絡をしました。
16時に出て、天神山文化プラザで開催中の岡山県書道連盟展を鑑賞しました。全展示室を使って、力作を数多く展示していました。時間を気にしながら、17時前に出て次の横田素行絵画展に向かったのですが、着いたのが17時を過ぎ、既に閉店となっていました。残念。
8時に出て東京駅に向かい、朝食におにぎりを買って、八時半過ぎの新幹線で帰岡しました。12時過ぎに着き、パーク&ライドの駐車場から車を出すと、代金6200円が0円になりました。
昼食後に法律事務所に入り、13時前から短時間、家事調停事件の当事者らと打ち合わせをし、岡山家庭裁判所に向かいました。13時半からの期日で、申立人と相手方を別々にして、本人も出席で調停委員の皆さんとじっくりと協議し、14時過ぎから別室で、家庭裁判所調査官による離婚と子についてのDVD付ガイダンスを受けました。15時過ぎからさらに個別に協議し、宿題を残して次回期日を決めました。
16時前に法律事務所に戻り、電話連絡やデスクワークをし、16時に出て帰宅しました。今日一日で、結構くたびれました。
7時過ぎに起床し、窓から外を見ると、緑の森の中に東京ドームが巨大な恐竜のように威厳を見せ、反対側のグラウンドではサッカー少年たちが早朝練習の真っ最中でした。
8時に出て所用に取り組み、13時半まで掛かりました。その後、大急ぎで学士会館に駆け付け、14時から1時間強、「加藤宣幸さんお別れの会」に出席しました。私の父・江田三郎が1960年代初頭に、日本社会党内で講革論を掲げて派閥を立ち上げたとき、書記局内で「江田派三羽烏」と言われた活動家の一人で、93歳まで大変にお元気で、全く予告なく突然に逝去されました。100人ほどもお集まりだったでしょう。初岡昌一郎さんの司会で開会し、まず黙祷を捧げた後、私が呼びかけ人を代表して挨拶し、さらに2人の挨拶があって、司会を山田高さんに交代し、竹中一雄さんが献杯をして思い出を語ってくれました。
その後、皆さんと言葉を交わした後に、中退して昼食を食べ、所用の続きに取り掛かると意外に長引き、次の会場のホテルに着いたのは18時になっていました。18時半から2時間、日中友好7団体の会長らによる訪日中の中国国務委員兼外交部長の王毅さん歓迎の夕食会に出席しました。中国側は王毅さんご一行に程永華中国大使らが加わり、日本側は日本国際貿易促進協会の河野洋平会長、日中友好協会の丹羽宇一郎会長、日中文化交流協会の黒井千次会長、日中経済協会の宗岡正二会長、日中友好会館会長の私と日中友好議員連盟の竹下亘、北側一雄両副会長と日中友好会館の荒井克之理事長ら主要役員です。程大使の司会で、王外相と河野会長が代表挨拶をし、報道陣はそこで退席を願い、丹羽会長の音頭で乾杯をして懇談に入り、各会長らが順次発言して考えを述べました。王外相も積極的に発言して中国側の考え方や事情を述べました。王毅さんは本当に長く日本関係を担当し、日本にも友人が多く、有意義なワーキングディナーでした。
明け方には雨は上がり、温かな朝になりました。朝食後、つい庭に出て草取りを始めましたが、妻に急かされて上京の用意をし、12時前に出てパーク&ライドで車を止め、岡山駅構内で昼食を取って、13時過ぎの新幹線で上京しました。旭川も吉井川も、すっかり春の景色でした。
17時前に着き、北岡和義さんと待ち合わせ、神田のお寿司屋さんで若いジャーナリスト2人と合流し、4人で20時過ぎまで夕食懇談をしました。と言っても北岡さんの頭の中に若い人たちに話したいことが詰まっており、私が時々口を挟み、若い2人は専ら聞き役でした。
その後、JR在来線で移動して、21時前にホテルにチェックインしました。
夕方まで自宅でゆっくり過ごしました。昼過ぎから雨が降りそうになる中、2時間ほど庭に出て、草取りをしました。まだ生え出したばかりですが、それだけに数限りなくあり、少々取っても焼け石に水です。
花を付けたテマリカンボクが、次第に大きくなってきました。花は最初は緑色ですが、次第にきれいな白色になります。今年は虫が付き、ずい分やられました。
18時半から、ももちゃん一家とともに外で夕食を食べました。ももちゃんも一生君も、大人顔負けの食欲でした。
朝食を済ませ、9時半ころに庭に出てみると、真っ赤なボタンが大輪の花を開き、さらに数輪、咲き始めていました。春です。
午前中は自宅でゆっくりし、昼食後に出て、13時過ぎに法律事務所に入り、行政争訟関係の電話連絡やデスクワークをしました。14時前から1時間強、民事相談を受けた後、16時までデスクワークや電話連絡をしました。西村啓聡さんの事務所の移転で、ご尊父が作業の真っ最中でした。
16時過ぎから17時まで、天神山文化プラザで、展覧会を見て歩きました。まずJPA展で、「地球はいま」をテーマにした日本写真作家協会の会員展と公募展で、力作揃いでした。次に「白玲書道会展」で、90歳を迎えられた井上玲玉さんもお元気で案内をしてくれました。さらに藍染めの「あゐ」の会展とキヤノンフォトクラブ岡山写真展を鑑賞しました。
帰宅して、暫時庭の草取りをし、18時半ころに妻とともに出て夕食を済ませ、帰路に見ると小野桂華先生の旧宅に明かりが点っており、立ち寄ってみると、道文会の小野玲華さんが子どもたちのお稽古の最中でした。
10時過ぎに出て法律事務所に入り、11時前から30分弱、司法書士さんと打ち合わせをしました。遺産分割相談の最終段階で、あと少し共同相続人の書面が整えば、相続を原因とする不動産の所有権移転登記手続きが完了しますが、「百里を行くに、99里を以て半ばとす」で、ここで気を抜いてはいけません。
その後、デスクワークをして、12時半過ぎに城下公会堂まで足を延ばして、昼食を食べました。午後もデスクワークや電話連絡で、17時まで根を詰めてパソコンに向かいました。
9時半前に迎えに来てくれた連合岡山の役員の皆さんとともに出て、10時前から30分強、山陽放送テレビ(RSK)で、同社の原憲一会長とお会いしました。当方は私と役員2人で、連合岡山が10月に企画している人権研修会において、原会長にハンセン病関係の講演をしていただきたいとのお願いです。概略を説明し、快くご了解をいただきました。
RSKは、これまで長くかつ何回も、ハンセン病問題を取材し取り上げており、先日発足したNPO法人「ハンセン病療養所世界遺産登録推進協議会」では、原会長が代表者を務めてくれています。
さらに若干の話題に花が咲き、原会長が玄関まで見送りにきてくれました。受付にマスコットキャラクターがあったので聞くと、RSKをもじった「アレスケ」というのだそうで、みんなで一緒に記念写真を撮りました。連合の皆さんの車は、水島に工場のある三菱の電気自動車、アイ・ミーブで、初めて乗りましたが、実に静かで快適でした。
自宅まで送って貰い、昼食をはさんで暫時休憩し、衆議院予算委員会の集中審議のテレビ中継を振り切って、14時半ころに出て所用を済ませながら法律事務所に入り、15時から2時間強、デスクワークや電話連絡をしました。