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1月30日、難波さん、阿久津さん、書評、河野外相、夕食懇談、帰岡

夕食懇談

朝食後、11時前に出て参議院議員会館の難波奨二議員の事務所に入り、難波さんと暫時懇談しました。衆議院では、今年度補正予算案の委員会審議の最中で、院内テレビが緊張した質疑の模様を伝えていました。

難波さんと

国会内で昼食の後、13時半ころから衆議院会館の阿久津幸彦さんの事務所によって、阿久津さんと暫時懇談しました。15時前に、衆議院予算委員会室を覗いてみました。柚木道義さんが緊張した質疑をしている最中でした。15時過ぎに難波事務所に戻ると、西部邁さんの「蜃気楼の中へ―遅ればせのアメリカ体験」につき私が書いた書評が、国会図書館から届いていました。午前中にお願いしていたもので、著書は日本評論社から1979年6月に出版され、書評は「法学セミナー」の1979年8月号に載ったものでした。

阿久津さんと

15時半過ぎに、衆議院予算委員会に戻ると、最後の討論の最中でした。やがて採決が終わり散会したところで、河野太郎外務大臣に声をかけ、一昨日に北京の日本大使館で行われた訪日団壮行会への出席のお礼を申し上げました。16時過ぎに難波事務所に戻り、山田高さんと打ち合わせをしました。

山田さんと

17時半に出て、上京してきた妻と落ち合い、18時から2時間弱、東京駅のすぐ近くで、大学時代の友人ご夫妻らと美味しい夕食をいただきながら楽しい思い出話などに浸りました。大高さんは教養学部時代に一緒に学生自治の活動に取り組み、黒岩さんはオックスフォード留学時代に一緒に自由な時を経験しました。その後、20時過ぎの新幹線に間に合って妻と一緒に帰岡しました。

夕食懇談2

 

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1月29日、所用s、上京、中国青年、泊

中国青年歓迎会で挨拶

 

上京の用意を整え、11時半に自宅を出て、所用をいくつか済ませながら、12時半前にパーク&ライドの駐車場に車を入れて、さらに所用を済ませお弁当とみそ汁を買って、13時前の新幹線で上京しました。厳寒ですが、備前平野はうららかな陽光が降り注いでいました。途中で岡山名物の握りを食べ、米原を越える辺りに来ると、大地は雪に覆われていました。冠雪の富士もきれいに見えました。

備前平野の冬
米原付近の雪
冠雪の富士

16時半過ぎにホテルに入り1時間後に再び出て、中国青年代表団と中国教育関係者代表団の歓迎会に出席しました。今日から5日間、両団を合わせて110人を超える若者らが来日しました。昨日、北京の日本大使館で開かれた壮行会には、河野太郎外相も顔を出してくれました。控室で、王占起団長らと懇談した後、18時半に開会し、来賓らの紹介の後、冒頭に私が日中友好会館の会長として主催者代表挨拶をし、外務省担当者の歓迎の言葉、王団長の代表団代表挨拶があり、中国大使館の一等書記官の音頭で乾杯をして懇談となりました。その後、会場を回って、教育関係の若者や農村の若者らと会話を交わしました。

主催者挨拶
乾杯!
青年たちと懇談
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1月28日、GLA

カードをいただき

今日も朝寝坊して、10時ころに起きると雪が降り続いており、びっくりしました。岡山市では珍しいことですが、ボタン雪で積もることは考えられません。

昼食後、13時半過ぎに妻と出て、14時半から17時過ぎまで、GLAの新春の集いに出席しました。横浜会場での開催に岡山会場も中継で参加するもので、両方を合わせると9000人がお集まりとのことです。まず別室に案内されて、主催者の高橋佳子さんからのカードをいただき、会場に案内されると満員で、やがて高橋さんの講演が始まり、菊池さんという方が登壇して人生における「感動」の場面を次々と紹介されました。危機に直面した時に、多くの人々が心を揺さぶられ感動でつながった行動により危機を乗り越えた経験などを話され、話が終わりました。

岡山会場全景

その後、表町商店街と岡山駅で所用を済ませ、さらに夕食を食べて、20時に帰宅しました。

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1月27日、梅一輪、揮毫、懇親会

揮毫

昼前までゆっくり寝てしまいました。ブランチを食べて庭に出てみると、白梅が一厘、花を開いていました。山茶花はそろそろ終わりです。

梅一輪

 

山茶花

そのままだらだら過ごし、16時に今月中と期限を切られた揮毫に取り組みました。中国の書道展用で、半切に「乾坤煇」と行書で書きました。

18時に妻と出掛け、途中でお土産を買って、市内南区の知人のお宅で開かれた町内の皆さんを中心とした懇親会に出席しました。バンドの演奏で開会となり、持ち寄りのお食事と飲み物で、しばらく懇談した後、各自が様々な出し物を披露しました。まだ習い始めて1年の鼓やクラリネットもあれば、かなりの腕前のサキソフォンやトロンボーンもあり、私は妻の伴奏でシャンソンを歌いました。羽場頼三郎さんも遅れて出席で、岡山市のごみの再資源化率が70%を超えていることなどを報告しました。妻は昨年の五浦、高岡と大宰府の旅につき、話しました。ゆかいな仲間たちです。

懇親会全景
サキソフォン
小鼓
ライアー
妻の伴奏でシャンソンを
トロンボーン

 

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1月26日、家事相談、民事相談s、夕食、野中さん

県議会控室で

9時半過ぎに出て法律事務所に入り、10時過ぎから1時間ほど、所長の江田剛弁護士とともに、家事事件の相談を受けました。夫婦関係調整案件が調停申立段階に入っており、夫婦関係の修復は困難と思われますが、子の利益を第一に考えなければなりません。私は、2011年5月に「子の利益」の明確化などを加える民法改正(file:///C:/Users/satsuki%20eda/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/72JWRFVK/000082603.pdf)を成立させた際にこれを担当した法務大臣なのです。

家事調停事件相談

その後、若干のデスクワークをし、14時から1時間弱、岡山県庁内の県議会控室で、民事事件の相談を受けた案件につき県の担当者と、もつれた糸を解きほぐす方策があるかどうかにつき協議しました。なかなか困難です。その後、控室にいた民主県民クラブ所属議員の皆さんと記念写真を撮りました。

民事事件相談で

15時半ころ、法律事務所に戻り、18時半ころまで、別の民事事件の相談を受けた案件につき、預かっていた書類を読み込むなどのデスクワークをしました。夕食は、妻とともに、久しぶりにおいしい日本料理のお魚定食をいただきました。

美味しい日本料理

野中広務さんが亡くなりました。2001年5月に熊本地裁判決の出たハンセン病国賠訴訟の原告を支援する「ハンセン病問題の最終解決を進める国会議員懇談会(https://www.eda-jp.com/pol/hansen/hansen-0405.html)」に、国を被告とする訴訟なのに与党から真っ先に馳せ参じてくれたのが、野中さんでした。水面下で、様々な場面で力を合わせました。

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1月25日、所用s、事務所、東大会新年会

岡山東大会で挨拶

相変わらず午前中は自宅でゆっくりし、12時前に出て所用を済ませました。13時前に帰宅し、昼食を食べた後に14時半過ぎに出て別の所用を済ませると、結構時間が掛かり、15時半前にやっと法律事務所に入り、デスクワークや電話連絡などをしました。

デスクワーク

17時半過ぎに事務所を出て、18時から2時間半強、岡山東大会の新年親睦会に出席しました。東京大学卒業生の同窓会で、40人ほどが出席し、最高齢の98歳の中村文雄さんもお元気で、私の隣に座られました。なかなかの健啖家で、出されたお食事はすべて平らげておられました。平成26年卒の武田有希子さんの司会で、まず河原昭文会長の挨拶があり、中村さんの音頭で乾杯をし、ゴルフコンペで優勝した佐藤修市さんにカップが授与され、初参加の石川雅史さんの挨拶がありました。

河原会長挨拶
ゴルフコンペのカップ授与

会も終わりに近づき、私が指名されて、自殺した西部さんのことも含め、近況報告と最近の情勢についての私の感想を述べ、さらに岡将男さんが路面電車のことを話しました。最後に応援部OBの槙本良二さんの音頭で東大応援歌を「ただ一つ!」と声高らかに歌い上げ、エール交換をして、中塚総一郎さんの締めの挨拶で終わりました。

私の挨拶
岡君の報告
「ただ一つ」斉唱

有志で記念写真

 

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1月24日、法律相談、精神科相談、裏方たち

眼鏡をかけて法律相談

午前中は自宅でゆっくりし、昼食後に出掛け、まず町中で所用を済ませました。14時に法律事務所に入り、1時間ほど、民事関係の法律相談を受けました。すでに確定判決を得ているのですが、執行で取り立てるのは容易ではなく、結局良い知恵は浮かびませんでした。

民事法律相談

15時半に事務所を出て、岡山県精神科医療センターに伺い、知人のご一家の件につき相談をしました。複雑でなかなか解の見つからない案件で、社会の善意に頼るほかありません。

その後、所用に時間が掛かり、18時半からの開会に遅れて、私の現役時代の大変にお世話になった自治体関係の皆さん10人ほどと、楽しい懇談の時を持ちました。こうした裏方の皆さんの縁の下の力持ちの助けで、私の職務の遂行も可能だったのです。

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1月23日、難波さん、名執専務、川幅うどん、議員会館s、記者、憂楽会、帰岡

憂楽会で乾杯!

都内のホテルで目を覚ますと、空は快晴ですが、地上は昨日からの雪に埋もれていました。

ホテルの窓から見た雪

9時半前に出て、地下鉄を乗り継いで、10時過ぎに参議院議員会館の難波奨二さんの事務所に着き、在室だった難波さんと暫時懇談しました。10時過ぎから1時間弱、日本鳥類保護連盟の名執芳博専務理事と意見交換しました。役員の高齢化が進み、さらに私が会長となっている「愛鳥百人委員会」の運営も再構築しなければならず、課題山積です。

難波さん
名執専務理事

その後、昼食に議員会館地下の食堂で「川幅うどん」を食べ、衆参の議員会館内を歩いてみました。民進党の皆さん、立憲民主党の皆さんなど、思いも掛けず多くの人々と言葉を交わすことができました。15時半ころ、難波事務所でデスクワークをしていると、丸川珠代さんが来られました。参議院予算委員会で、難波さんが野党の、丸川さんが与党の、それぞれ次席理事となるそうで、ご挨拶というわけです。国会運営に意思疎通は何より大切です。

川幅うどん
丸川予算委理事と

16時からテレビの記者さんが来て、40分強、意見や情報の交換をしました。その後、17時前に出て地下鉄で、憂楽会の会場に出掛けました。大学時代の友人らの会で、17時半から開会となり、野田毅さんを講師として予算や財政、法整備などの話を聞き、さらに賑やかに意見交換をしました。19時半に中座して地下鉄で東京駅に移動し、20時過ぎの新幹線で帰岡しました。

乾杯!
発言

 

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1月22日、上京、雪、陳副委員長会見、シンポ、歓迎会

中国留学生シンポで挨拶

9時半過ぎに車で出て岡山駅に行き、パーク&ライドで駐車をして、10時半前の新幹線で上京しました。小田原を過ぎたあたりから、予報通り雪となりました。

小田原から雪に

14時前に着いてホテルにチェックインし、日中友好会館の荒井克之理事長とともに、15時前に「留日学人和美麗中国建設研討会」という中国留学生によるシンポジウムの会場に着き、福田康夫元首相とともに、中国の全国人民代表大会(全人代)常務委員会の陳竺副委員長と会見しました。衆議院と参議院はそれぞれ全人代と公式の交流メカニズム協定を結んで相互訪問をしており、陳さんは今回、全人代代表団を率いて来日され、明日から衆参の議員らとの交流企画を行います。それに先立って、中国留日同学総会の汪先恩会長ら留学生の皆さんがこの機会にシンポジウムを企画したものです。まず陳団長らを囲んで記念写真撮影をし、そこで福田さんは中座しました。荒井理事長と私は、15時過ぎからシンポジウムの開会行事に出席し、来賓紹介と王会長らの挨拶に続いて、私が日本側を代表して挨拶をしました。

福田元首相と
全員で記念写真
陳副委員長と

その後、ホテルに戻って休憩し、18時前に荒井理事長とともに出て、雪道を地下鉄を乗り継いで、18時半からの日中友好7団体による陳団長一行の歓迎夕食会に出席しました。中国大使館の薛剣公使参事官の司会で、まず陳団長が、次いで丹羽宇一郎日中友好協会会長が挨拶し、程永華中国大使の音頭で乾杯をして、懇談となりました。続いて参加者の発言となり、日本側では日中友好議員連盟の近藤昭一幹事長らに続いて私も日中友好会館会長として発言をしました。さらに中国側からも発言が続き、大変に温かい雰囲気の中で20時半ころに閉会となりました。外はずっと雪が降り続き、気温もぐんぐん下がっていました。

歓迎会全景
乾杯!
私の発言
中国側の発言
外は雪

 

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1月21日、隊友会、立民党を応援する会、ももちゃん宅、西部さん

「立憲民主党を応援する会」で

午前中は自宅でゆっくりし、12時から1時間、岡山県隊友会の新年互例会に出席しました。自衛隊OBの皆さんを中心とする会で、私も民主党政権誕生のころから出席してきました。会長で高校先輩の福田一夫さんの挨拶に続いて県知事代理の山本哲也県危機管理監の来賓挨拶があり、来賓紹介の冒頭に私も紹介されました。乾杯から懇談となり、憲法9条改正の機運に高揚感が漂う中でしばらく皆さんと言葉を交わし、中座して自宅に戻りました。

隊友会新年会

次に妻と出て、15時から2時間ほど、「立憲民主党を応援する会」の設立総会に出席しました。予想を大きく上回る60人ほどの出席で、私は来賓として招かれ、大石和昭弁護士の司会で、河田英正弁護士の開会挨拶、羽場頼三郎市議の経過報告、呼びかけ人の皆さんの一口コメント、来賓として鬼木のぞみ岡山市議と原田そよ赤磐市議の挨拶と続き、来賓の言葉に移って、高井崇志さんが同党の目指すものにつき、さらに私が同党に期待することにつき、それぞれ15分強ずつ話をしました。その後、会場からの質問や発言があり、規約等の提案を協議して決定し、会長に河田さんを選出して挨拶を受け、医師の姫井成さんの閉会挨拶で締めくくりました。「市民が主役」の言葉通り熱気のこもった集会でした。

呼びかけ人の大石弁護士が司会
呼びかけ人の賀川弁護士
呼びかけ人の姫井成医師
高井崇志さんの来賓の言葉
河田英正弁護士の会長挨拶

その後、所用を済ませ、18時前から20時半過ぎまで、ももちゃん宅でみんなで鍋の夕食と若干のゲームに興じました。

西部邁さんが亡くなりました。私が1960年春に東京大学教養学部に入学した時の学生自治会自治委員長で、60年安保の先頭に立ち、小柄な体にエネルギーをたぎらせていました。79年にアメリカから帰国後に「蜃気楼の中へ」を出版され、私が書評を書いた記憶があるのですが、往時茫々の感もあります。この本を中間項として、その後は考え方の大転換して日本の伝統思想の強烈な擁護者となり、「朝まで生テレビ」でよくご一緒したり、佐高信さんの司会で対論をしたこともあります。いかなる思想が彼を自殺に誘ったか、それとも思想とは無関係なのか、大変に興味があります。