11時ころ、出発前に徐州質子重离子醫院建設予定地を見ました。巨大なオリンピックスタジアムに面した16万坪の用地が、着工を待っていました。12時前の新幹線に乗り込み、1等車で車内食を体験し、南京と蘇州で停車した後に14時半過ぎに上海虹橋駅に着きました。
11時ころ、出発前に徐州質子重离子醫院建設予定地を見ました。巨大なオリンピックスタジアムに面した16万坪の用地が、着工を待っていました。12時前の新幹線に乗り込み、1等車で車内食を体験し、南京と蘇州で停車した後に14時半過ぎに上海虹橋駅に着きました。
朝食はいつもの麺ですが、量を減らして貰いました。その後、庭を散歩すると、スローガンが満載でした。庭の赤い花は、日本で春先に咲く赤のマンサクのようでした。これから、徐州駅から上海に出発します。
立ち並ぶスローガン
8時起床でお定まりの麺の朝食を食べ、9時半に出掛けて、市内観光をしました。徐州は漢代に皇帝がいたところで、日本では劉邦が有名です。その当時の墓地である「徐州獅子山楚王陵」に行き、2100年前に建造され100年後には盗賊に荒らされたという墓陵を見学しました。なかなか立派でした。その後、敷地の別の場所にある兵馬俑を見ました。西安にあるものよりずっと小さく、未発掘のものもあり、こちらは白、黒、赤の彩色が残っているそうです。
11時ころに、医療施設を見学しました。「徐州中心醫院」とその周辺の多くの施設で、王培安院長らから最新医療機器などを細かく見せていただきました。漢方のことも質問してみましたが、密接な関係を作っているそうです。その後、雲龍湖という巨大な人口湖に浮かべた船上で、昼食をいただきました。野生のすっぽん料理など、珍しいものもあり大満足しました。
その後、ホテルに戻って暫時休憩し、15時半ころに「徐州質子重离子醫院」に行き、張浩会長らと懇談しました。質子は「陽子」、重离子は「重粒子」のことで、これらの最新の放射線医療技術に取り組む大規模プロジェクトを立ち上げるために、日本との協力関係を作ろうという企画があり、私の科学技術庁長官当時の経験が多少の役に立つかもしれません。最後に望まれて、醫院の名前を揮毫しました。
17時ころに、徐州市人民政府の庁舎に行き、李燕副市長、呉憲衛生計画生育委員会主任らと懇談をし、最後に王院長と亜洲友好協会の徐迪旻理事長との重粒子線医療協力の調印に、李副市長、呉主任、張会長とともに立ち会いました。17時45分から2時間ほど、市庁舎内で中共徐州市委員会の周鉄根書記主催の夕食会になり、おいしい料理と楽しい会話で満腹になりました。外に出ると、錦秋の満月でした。
7時前に妻と出て岡山空港に行き、ほぼ満車の駐車場に車を止めて8時過ぎに空港カウンターで搭乗手続きをし、直ぐに機内に入って9時過ぎの便で上海に飛びました。9時過ぎに離陸し、ほぼ3時間の飛行と1時間の時差で、11時半前に上海浦東空港に着陸し、亜洲友好協会の徐迪旻さんらの出迎えを受けて車で上海中心部に向かいました。
12時前に徐さんが経営する雲間美術館に着き、暫時休憩しながら皆さんと懇談し、12時半過ぎから1時間ほど、皆さんと昼食をいただきました。10数人ですが国籍が様々で、言葉が中国語、日本語、英語、ロシア語、ウクライナ語と5か国語も飛び交いました。その後、関係者で写真撮影やサイン会やで、結構忙しく時が過ぎました。
14時半ころ会場に入り、中国で最も評価が高いと言われる陳佩秋女史と何家英さんの中国畫作品展の開幕式に出席しました。陳女史は上海を中心に活動する97歳の風景画家、何さんは天津生まれで北京で活動する63歳の人物画家です。展覧会のテーマは「無負芳華」で「悔い無き青春」という意味です。まず徐さんが開会挨拶をし、中華文化促進会の金堅範常務副主席に続いて私が挨拶し、何さんの挨拶が続きました。陳さんは残念ながら、雨天のため外出を医師から止められたそうです。その後、さらに挨拶が続き、記念品交換などがあり、1時間半ほどで終わって、さらに中国芸術協会副主席で著名な女優の奚美娟さんらと懇談したり揮毫をしたりして、気が付くと出発の17時15分が近付き、何さんが東京芸大で教鞭をとっていた時に学生たちに公開で書いたという日本少女の絵の前で写真を撮り、お別れしてくるまで上海虹橋駅に向かいました。
18時半過ぎに駅に着き、手続きをして、19時半前の新幹線で徐州東駅に向かいました。車両は日本の新幹線そっくりですが、私たちの席は特等席で飛行機のファーストクラス並みの特等席で、2時間半弱の旅程があっという間に過ぎました。22時過ぎにホテルに入り、長い一日が終わりました。
午前中は自宅でゆっくりし、13時過ぎに妻と出て、ももちゃん、一生君とママを誘い出して、岡山大学医学部構内のホールで行われる青山暖(のん)ちゃんの13歳のヴァイオリン・デビユー・リサイタルに行きました。ちょっと早めに着いたのですが、既に満員で、14時開会時には超満席となりました。
暖ちゃんはすっかり大人の風貌になり、ヴァイオリンの技巧も音色もまさに天才少女となりました。モーツァルトのヴァイオリン ソナタ ト長調、パガニーニのカプリス第24番、グリーグのヴァイオリン ソナタ第3番を弾いて休憩となり、後半はイザイの無伴奏ヴァイオリン ソナタ第3番、ショパン~ミルシティン編のノクターン第20番遺作とワックスマンのカルメンファンタジーでした。終わって暖ちゃんがお礼の挨拶をし、アンコール曲を弾いて閉会となりました。大成功のデビューでした。
終了直後に飛び出し、タクシーで次の会場に駆け付け、16時から2時間、高原俊彦県議の県政報告会「爽秋のつどい」に出席しました。高原県議は、立憲民主党岡山県連合の代表代行です。藤原薫子倉敷市議の司会で開会し、まず後援会副会長の森本栄さんが挨拶し、伊原木隆太岡山県知事、金澤稔連合岡山会長と続き、高原県議が県政報告を兼ねて来春の県議4期目挑戦に向けた決意表明を行いました。
そこで私が指名され、立民党の立場と野党結集に関する考え方を述べながら挨拶をして乾杯の音頭を取り、懇談に入りました。その後、国会議員として立民党県連代表の高井崇志さん、国民の津村啓介さんと無所属の柚木道義さんが挨拶し、県議、市議、大森雅夫岡山市長、高原県議の居住する学区連合町内会の皆さんの挨拶が続き、最後に小野田後援会副会長の音頭で頑張ろう三唱をして、お開きとなりました。
その後、近くの喫茶室でお茶をしていた妻と上海にある同済大学の魏鈾原教授らと合流して、短時間の懇談をしました。夕食後は、明朝からの訪中準備です。
結局寝入ったのは3時ころになりましたが、8時過ぎに起きて、9時過ぎに出掛けて閑谷学校跡に行きました。10時に着き、「セラミック アート in ビゼン」で行われるフローリストの杉本一洋さんによる備前焼の花器へのフラワーアレンジメント・デモンストレーションを拝見しました。快晴の中、講堂横で30分強のお話と実演を行い、多くの皆さんが魅了されました。杉本さんは、私の小学校以来の親友の息子さんで、最近めきめきと腕を上げ、国内最高の評価を得て国際舞台に出ようとしています。頑張れ‼‼
12時に自宅に戻って、昼食後に仮眠を取り、16時ころに妻と出て、孫のももちゃんがシャツの背中に字を書いた作品展に出品しているというので、天神山文化プラザに見に行きました。「花」と花弁がきれいに書かれていて、感心しました。その後、岡山駅に行くと、駅前広場でダンスと絵のパフォーマンスをしていたので、暫時拝見したのですが、撮影禁止でアップできません。駅で昨夜の新幹線遅延の特急代金払い戻しを受け、18時からももちゃんたちと夕食会をしました。
11時にチェックアウトをして東京駅に行き、コインロッカーに荷物を預けて参議院議員会館に入り、難波奨二さんと暫時懇談した後に、地下の食堂で昼食をいただいながら、さらに懇談を続けました。ちょうど昼食時で、白真勲さん、小川敏夫さんなど多くの議員と顔を合わせ、言葉を交わしました。14時半ころ、福山哲郎さんの事務所に立ち寄ってみると、間もなく福山さんが帰ってきて、暫時懇談しました。
14時45分ころに出て、地下鉄と京王線を乗り継いで飛田給に行き、15時に武蔵野の森総合スポーツプラザに着き、第33回太極拳全国交流大会に出席しました。私は大会会長で、午前中から大会は始まっていたのですが、大規模集体による演技の部から見始め、日中健康センターや弥生会など16チームを見て、閉会式となりました。今回は昨年までの会場と場所が異なり、開催日も異例なのですが、日中平和友好条約締結40周年でもあり、3000人以上がお集まり下さり、盛会となりました。90歳代の参加者も元気一杯で、私の高校同窓生もいました。
閉会式は私の会長挨拶から始まり、中国老師の講評があり、成績発表と表彰では私も賞状などの授与を行い、さらに李徳芳老師と参加者全員による簡化24式太極拳の演技と中国老師2人の表演があって、18時前に閉会となりました。
そこで京王線とJR在来線で東京駅に急ぎ、荷物を取って夕食を食べたのですが、新幹線が人身事故で運転停止となっており、20時過ぎに動きそうな電車にとにかく乗り込み、25時半前にやっと岡山駅に着くことができました。
7時前に起床して上京の準備をし、8時前に妻に送って貰って岡山駅に急ぎました。この時間帯は交通渋滞が一番酷く、避ける脇道を探して8時40分前に着き、9時前の新幹線で上京しました。快晴の旭川を過ぎると爆睡してしまい、目が覚めると稲刈りの終わった浜松辺りでした。
12時過ぎに着き、杉並区の公益財団法人日本鳥類保護連盟支部会議の会場に急ぎ、近くで昼食を掻き込んで、13時半から3時間強、同連盟の会長として会議に出席しました。都道府県単位の支部を設置している14支部の内8支部から代表者が集まり、これまで十分とは言えなかった連盟と支部との関係調整をするもので、名執専務理事の司会で、冒頭に私が会長に就任して最初の挨拶をし、各支部の活動状況の報告を聞き、議事に入って、支部規約の確認、会費徴収方法、調査業務受任に際しての指針などの協議をしました。なかなか密度の濃い会議でした。
17時前に出て都心に戻り、18時前に「明石書店創業40周年祝賀パーティー」の会場に着き、創業者で現在は顧問に退いている石井昭男さんや同郷の泉房穂明石市長らと懇談しました。18時から開会し、現社長の大江道雅さんに続いて石井さんが創業者として挨拶し、私が指名されて学生運動時代以来の石井さんとの交友を紹介しながら激励挨拶をし、泉市長の力のこもった挨拶の後に、乾杯から懇談となりました。石井さんは、「出版こそ反差別の思想と文化を創り出す運動の砦となるべき」との信念で出版活動を続け、10年前にマグサイサイ賞を受けられました。創業者挨拶では、これからはこの信念をアジアに広げる活動をしたいと決意表明をし、老いてなお意気軒高でした。
11時過ぎに妻とともに出る前に庭を見ると、夏の猛暑で弱った筈のドングリに実がなっていました。まず岡山駅に行って所用を済ませ、法律事務所に入って若干のデスクワークをしました。
12時半過ぎに出て番町文庫に行き、恒例になった暮れの「番町文庫五月会」の忘年会の申し込みをし、昼食を食べました。ネットで調べて昼食を食べに来た若い女性客がおられ、嬉しくなりました。ネットでは味の評判も上々のようです。
14時ころに事務所に戻り、19時までデスクワークをしました。11月4日の立憲民主党岡山県連合の「立憲フェス」に向けた準備です。妻が先に帰宅していたため、路面電車で終点の東山電停まで行き、迎えに来て貰いましたが、来客が来ており、20時半ころまで自宅で相談を受けました。
午前中は自宅でデスクワークなどの所用を済ませ、昼食後に13時半過ぎに出て法律事務所に入りました。
その後はずっと18時まで、デスクワークと電話連絡で時間が過ぎました。事務所を出たときは、外は真っ暗でした。