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「魯迅、夏目漱石と中日友好」講演原稿を掲載しました

「魯迅と夏目漱石との対話フォーラム」                        日本国・第27代参議院議長 江田五月

 

1.はじめに

ご出席の皆さま、日中国交正常化45周年という節目の年に、日中両国の現代史の初期に活躍して歴史を開いた魯迅と夏目漱石につき、両者とゆかりの深い紹興において「魯迅と夏目漱石との対話フォーラム」を開催することは、両国の友好交流にとって極めて意義深いことだと思います。この記念すべきフォーラムにお招きいただいたことは大変光栄であり、心から感謝いたします。先週金曜日の8日には北京で、中国対外友好協会と中日友好協会の主催により45周年記念レセプションが開催され、関係するものが勢揃いする中で私もお招きをいただき、その足でこちらに馳せ参じました。

最近、日中関係には明るい兆しが見えてきたとはいえ、まだまだ双方の努力が必要です。そのような時に、特に文化や芸術の分野での交流事業を開催することは、大変に時宜に叶い意義深いことだと思います。率直な意見交換を通じて相互理解を深め、両国のあり方に有意義な示唆が得られることを確信しています。

 

2,私と中国との個人的関わり

最初に自己紹介もかねて、私の家族と中国との関わりを簡単に述べます。私の父は戦前、農民運動に飛び込み戦争に反対して2年8ヶ月の間投獄されました。刑期を終え出所してから、太平洋戦争の開戦直前に私が生まれ、戦争の真っ只中の日本にいては命さえ危ないという中で、つてを頼って中国に渡り母と幼い私を呼び寄せて、河北省の石家荘で水利工事に従事しました。この事業なら、戦争が終わった後に、中国人民の役に立つからと考えたそうです。華北で終戦を迎え、天津から上陸用舟艇母艦で日本に引き揚げたのですが、無事に故郷の土を踏むことが出来たのは、ひとえに多くの中国の皆さんのお世話があったからだと思います。実は私の妻も、戦中の北京生まれです。名前は「京子」というのですが、「京」の文字は、「東京」や「京都」ではなく、「北京」の「京」です。個人的な事情ですが、こうした国境を越えた信頼と交流の経験をしたものは、日本でも中国でも決して稀ではありません。近代以前の太古の昔から、人々の越境の友好交流の歴史があったのです。

日本の伝統芸能に「能」があり、その演目のひとつに「唐船(とうせん)」があります。室町時代、中国では明の時代に、両国間で交易が盛んになり、併せて諍いも頻発しました。あるとき、中国の「祖慶」が九州の領主に捉えられ、13年間が経過しました。中国に残された子どもたちが父を連れ戻しに来たところ、父には日本にも子どもが出来、さてどうするか。両方の子供たちの父を思う心に打たれた領主は、「祖慶」に子供たち全員での帰国を許し、家族一同で喜んで中国に帰ったという話です。国の境を越えた家族の愛情が、領主の頑なな心を溶かしたのです。支配者同士の諍いを解きほぐすのは、何と言っても人々の心の通い合いで、民間の文化、芸術、スポーツなど、経済も含めて、民間交流が最も有効なのですね。

 

3, 公益財団法人日中友好会館会長として

私が2010年から会長を務めている日中友好会館のことについて、少しお話します。この組織は公益財団法人で、ホテル経営などの営利事業で得た利益も活用して、中国の留学生寮の運営を行い、日本外務省の委託を受けて、日中間の青少年交流事業を行っています。また最近では日中植林・植樹の連帯事業も始まりました。日中友好7団体の中では最も若い団体ですが、40年弱の歴史を有し、その前史は戦前に及びます。留学生寮を巣立った若者たちは4200人以上となり、中国の要路に就いています。
日中友好会館の会長として一言申し上げれば、日中間の外交上の緊張により、日本政府の予算で実行している青少年交流事業が、一時は中国側の意向で中止、延期となり、多額の予算が消化できずに返納せざるを得ませんでした。たとえば折角快く引き受けてくれたホームステイ先が、突然のキャンセルで困惑し、「もう中国との交流はご勘弁を」ということにもなり、大変な困難を経験したのは事実です。今では元に戻ってホッとしていますが、政治上の争いを民間交流、特に青少年交流に影響させないよう、ご配慮をお願いします。

日中間の交流で残された課題は、まだ日本から中国への訪問が回復していないことです。私たちも一層の努力をしますが、是非今回のような民間文化交流企画が増えることを切望いたします。双方向の交流が実現してこそ、本当の意味での信頼関係が醸成されるのです。私は本年6月に、在日本中国大使館のお招きで、中国の若者たちをご家庭に受け入れてくれた日本のホストファミリーの皆さんら70人ほどで、北京・成都・上海を訪問しました。各地で中国の若い男女と日本のお父さん、お母さんとの感動と涙の再開が繰り広げられ、わずか一日のホームステイが心に残す宝物の大きさを実感しました。日本から中国への訪問活動の活発化も求められています。

 

4, 魯迅と夏目漱石

私は最近、中国の日本理解につき新たな発見をしました。魯迅に「藤野先生」という短編小説があります。彼が日本の仙台に医学の勉強のために留学したときの、日本人教師との交流の話です。あまりにも先生が厳しく、魯迅はそのもとを去って医学とは別の道を歩むのですが、後になって思い返し、「先生は全中国人民のことを思って、自分の教育に当たってくれたのだ」と、話を締めくくります。私が感心したのは、この話が中国の子どもたちの教科書に掲載され、みなこれを知っているということです。青少年交流団の歓迎会で中国側の参加者に尋ねてみたら、大多数が手を上げたのです。私はそれ以来、特に日本人を意識して、「中国の教科書は日本批判ばかりではないよ」と言うようにしています。

夏目漱石は、時代は大きく異なりますが、私の大学の大先輩で、イギリス留学の先輩でもあります。私が裁判官の時のことです。ある日、最高裁判所からイギリス留学を打診され、これを受けるとずっと裁判官を続けなければならなくなると思い、その場で断ってしまったのです。その夜、父に相談すると、「夏目漱石は文部教官をしていてイギリス留学したが、帰国後に退官して新聞記者から立派な小説家となった。今、そのことで彼を非難するような人はいない。気にせずしっかりと学んでこい」と激励され、早速その翌日に留学すると返事をしました。私も退官して政治の場面で働くようになりましたが、イギリス留学の経験は国会の場でも役になったと思っています。今回、そのようなお二人ゆかりのフォーラムに参加できたのも、何か不思議な縁を感じています。

 

6.終わりに

日本と中国はお互い引っ越すことができない「一衣帯水」の隣国です。同じ文字を使用する漢字文化を育んで来ました。漢字は表意文字ですから文字自体に意味があり、書道芸術も他の文字文化にない独自の文化です。同じ文字を使う者同士が集い、文化交流をするのは、この両国以外の人々の間では想像もできない、素晴らしいことです。魯迅文化基金会主催の文化交流フォーラムが、これからも回を重ね、日中両国にとって大きな成果を上げることを期待して、私の話を終わります。

 

ご清聴有り難うございました。