一日中、どんよりとした梅雨空でした。昼過ぎに孫たちが来て、暫く大賑わいでした。その外は終日、ぐずぐずと過ごしました。
雨が止んだ時を見計らって庭に出てみると、ギボウシが清楚な花を付けていました。
一日中、どんよりとした梅雨空でした。昼過ぎに孫たちが来て、暫く大賑わいでした。その外は終日、ぐずぐずと過ごしました。
雨が止んだ時を見計らって庭に出てみると、ギボウシが清楚な花を付けていました。
ワールドサッカーの日・ポーランド戦は、何とも後味の悪いものでしたが、その結果として日本は決勝トーナメント進出となりました。最後まで観戦し、朝はゆっくり寝ました。
14時ころに出て法律事務所に入り、デスクワークや電話連絡をしました。そこに佐々木斉弁護士が訪ねてきて、暫時懇談しました。
久しぶりに書面を作成したせいか、17時前に帰宅しましたが、ぐったり疲れました。
昭和20年代の半ばころ、確か小学校の3,4年だったと思いますが、夏休みが始まってすぐに、
学校の近くにある旭川の相生橋上手右岸の水泳教室に通い始めました。体が弱かった私を、親が
気遣ったのだと思います。水を怖がることはなかったので、一番下から一つ上の外2Bというクラ
スでした。泳げるようになってから初等科、中等科、高等科と上がり、昇段試験を待つばかりを
特待生というのですが、もちろんそのずっと前でした。なぜか相性が良く、その後もずっと教室
に通い、中学3年で黒帽に白線一本の初段に、高校一年で二段、高三では三段で白線二本となり
ました。高校に上がるころから教える側に回り、大学生でも夏休みには必ず帰省し、現場の責任
を任されたりしました。
そのころ、現場の総責任を負っていたのが河本 淳さんでした。百人をはるかに超えるチビちゃん
どもを、それも一たび水難事故があると命に関わる現場で指揮するのですから、甘い言葉は使え
ません。いつも怒鳴り回っていました。受講生が帰ったのちに、名札が一枚でも残っていると、
私たちリーダーは並んで川底を潜って大捜索をします。そんなことも何回かあったように思いま
すが、幸い事故は有りませんてした。のちに国会議員になって、「私は相生橋上手で溺れている
のを助けて貰ったことがあります。江田さんというお兄さんでしたが、それはあなたですか」と
声を掛けられたことがありました。私の方は、何も覚えていませんでした。それほど、日常茶飯
事だったのです。河本さんの怒鳴り声だけは覚えています。
チビちゃんたちの講習が終わると、私たちの練習です。神伝流の泳ぎ方の修練ですが、これも簡
単なことではありません。手の先から足の先まで、神経を行き届かせます。遠泳の練習もあり、
鶴見橋から相生橋まで何往復もしました。泳者を何時でも助けられるように、列の横を和船で付
いていくため、櫓をこぐ技も達者になりました。
現場は、今のようなプールではありません。開講前には幾つもブイを浮かべてロープを張り、筏
を何艘も仕立てて浮かべ、川岸には垂木とヨシズで小屋を建てます。お盆過ぎにはそれを全部片
付けるのですが、これが大仕事なのです。水を一杯に含んだ垂木は重く、お城の下の広場に積み
上げる作業が終わると、肩が腫れ上がりました。そんな「苦役」も、河本さんの厳しい、同時に
優しい指導があったからできたのだと思います。体を極限まで酷使するのが楽しみだったのです
ね。
ティーンエイジャーは生意気盛りです。いつも何かしら諍いを起こします。高三の時、一年上で
大学に入ったリーダーたちが大きな顔をするのにカチンと来て、前年は受験勉強で川に顔を出さ
なかったのに何だ・・・と、揉めたことがありました。河本さんの特徴は、このようなときにす
ぐに介入せず、知らん顔をして見ているのです。同年代を束ねて現場を預かっていた私としては、
上に河本さんがいてくれたから、上級生のお節介を撥ね退けて指導力を発揮できたのだと思って
います。実際はなかなか大変でしたが、河本さんは偉ぶったお説教とは無縁の人で、生意気な若
造の気持ちを良く分かってくれました。
現場を片付け終わると、津島の運動公園にある長水路の県営プールで練習です。このときは、ど
ちらかというと競泳に重点を移し、1500メートルを泳いだのちに、50メートルのダッシュ
を10本、それもタイムが落ちるとカウントされないといった厳しい練習をしました。河本さん
はプールサイドで、右手にストップウォッチを、左手には柄の付いたモップを握って監督すると
いう具合ですが、必死で着いていきました。これが9月終わりまで続き、最後にはみんなでプー
ル掃除です。そのせいもあり、私の2学期中間考査は常に成績が落ちました。それでも、県下の
水泳競技会では所属高校チームで出場し、一定の成績を上げるので、教師に文句は言われません
でした。
と、こんなことを書いていると、思い出は切りがありません。大学生を何年か過ごすうち、旭川
が遊泳禁止になり、三勲や鹿田、岡大などとプールを転々とするうち、私も水泳の現場から遠ざ
かってしまいました。それでも折に触れ、河本さんの顔が懐かしくなり、年末に声が掛かると顔
を見に参上していましたが、とうとう他界してしまわれました。人間には避けられない運命です
が、河本さんには想像することが困難な別れでした。
若い時の戦地でのこと、税務所勤めのころのことなど、いろんな話も聞かされましたが、詳しい
ことはすべて忘れてしまいました。とにかく人情味に溢れ、決して上から目線のお説教でなく、
そのくせ指導に厳しい河本さんのような人は、なかなか現れないでしょう。少しでも近付けるよ
う、みんなで頑張りたいと思います。
2018年5月
終日、蒸し暑い梅雨の曇天が続き、自宅でグダグダしていました。夕方、友人が夏の花を届けてくれ、早速玄関に飾りました。大きめで鮮やかな青紫のアジサイの花びらが、見事でした。
間もなく、サッカーのワールドカップの日本対ポーランド戦が始まります。明日はまた、寝不足になりそうです。
まだ梅雨だというのに、盛夏のような暑さが続いており、昼過ぎまで自宅でぐずぐずして過ごしました。庭のノウゼンカズラが、燃えるような橙色の花を開いていました。
14時半過ぎに出て、15時から1時間弱、法律事務所でデスクワークをしました。郵便物がずい分溜まっていました。
その後、天神山文化プラザに行き、まず道文会展を鑑賞しました。故・小野桂華さんが創設されたかな書道の会で、今回が49回目となり、私も顧問として半切に「春雲出谷」と揮毫して出品しました。さらに写団「STEP」写真展と日本大学芸術学部岡山江古田会作品展を鑑賞しました。後者では、柴田清美さんがイタリア旅行の写真としずくの滴るアジサイの写真を出品していました。
9時15分に妻の送りで出掛け、10時前の新幹線で上京し、東京駅から公益財団法人日中友好会館の会議室に直行しました。14時前に着き、美術館で開催中の景徳鎮明清官窯復刻展に短時間顔を出し、14時から1時間半ほど、同会館定時評議員会に陪席しました。
公益法人として最も大切な機関会議で、荒井理事長が開会を宣し、成澤評議員を議長に選出し、会議成立手続きを行った後に、荒井理事長から昨年度の事業報告が、さらに小島事務局長から決算書類の説明があり、いずれも意義なく承認されました。続いて理事等選任手続きの提案が承認され、直ちに任期満了となる理事の選出に入りました。厳正な手続きのため、選出関係者以外は私を含めて退席となり、暫時別室で待機するうち、選出結果が決定して私たちも呼び込まれてその報告がありました。この時点で、私の理事と会長の任期が満了して終了しました。
そこで会場を移して、16時から1時間半ほど、退任となる私と吉田理事の送別会を含む懇親会となりました。宮本副会長から冒頭の挨拶で私に過分の謝辞をいただき、荒井理事長の音頭で乾杯をして、和やかな懇親を行いました。外務省の担当者と中国大使館の薛剣公使参事官からも挨拶をいただきました。
閉会前に退席し、18時過ぎから短時間、日本コンパクトディスク・ビデオレンタル商業組合(CDV‐Japan)の第34回通常総代会後の懇親パーティーに出席しました。世良代表理事の挨拶の途中で加わり、菅直人さんに続いて私も来賓挨拶をし、乾杯から懇親となって暫くして退席し、東京駅に急いで、19時過ぎの新幹線で帰岡しました。なかなか忙しい一日でした。
本日、景徳鎮市人民政府 副秘書長の李雪海(り・せつかい)様をはじめとする中国景徳鎮からの代表団と
中国大使館文化部 陳諍(ちんそう)参事官を始めとする、ご来賓の皆様をお迎えし、「宮廷のコバルトブ
ルー 景徳鎮明清官窯(かんよう)復刻展」が無事開幕されることは大変喜ばしく、日本側主催者を代表
して一言ご挨拶申し上げます。
今回は、景徳鎮市人民政府のご協力のもと、中国明清時代の官窯(かんよう)復刻磁器およそ100点を展示
しご紹介いたします。
中国磁器の発展には、皇帝および宮廷で用いる御用器の専用工房である、官窯の存在があったといわれてい
ます。悠久の歴史をもつ景徳鎮陶磁器ですが、中でも、明、清時代はこの官窯で優れた匠の技術と素材の贅
を極めた名品が数多く生み出されました。
会場には、世界の権威あるオークションでおよそ33億円という大変な高値で取引されたという景徳鎮官窯磁
器の復刻品もございます。是非、現代に甦った宮廷愛用品の数々をお楽しみいただければ幸いです。
本年は日中平和友好条約締結40周年の記念すべき年にあたり、私ども日中友好会館は、景徳鎮市人民政府と
共催で2つの日中陶磁器展覧会を開催することといたしました。
1つは本展ですが、もう1つは、10月に景徳鎮において「第二回日本工芸展in景徳鎮九谷焼2018」と題し、
日本を代表する磁器、九谷焼を中国の皆様に展示しご紹介いたします。
日本と中国をそれぞれ代表する磁器を介して、日中相互交流の輪が益々広がり、更に深化することを切に願
っております。
最後になりますが、本展開催にあたりご協力いただきました関係者の皆様、そしてご来賓の皆様に心より御
礼申し上げます。本日は誠に有難うございました。
2018年6月20日(水)
今日も一日、梅雨の合間の快晴で、しかも気温がぐんぐん上昇しました。夜中に気になって、1時過ぎに目が覚めてテレビを付けると、サッカーのワールドカップの日本対セネガル戦が後半の半ばで、1対2で先行されたところでした。気になって見始めると、やがて日本が1点入れ、同点で終わりとなりました。世界ランキングの差からいうと快挙ですが、ちょっと残念なところもあったようです。しかし、次回の対ポーランド戦で頑張れば、決勝トーナメント進出で、期待が大きく膨らみます。
そんなことで、一日中睡魔と闘いながらのんびり過ごし、溜まったデスクワークをこなしたり電話連絡をしたりしました。娘から貰った枝を挿し木にしたアジサイのダンスパーティーが、見事に鮮やかな花を満載していました。
東京での所用関連でさすがに草臥れたのか、終日自宅でグダグダしていました。梅雨の晴れ間の快晴で、庭に出てみると、ヤマアジサイがもう終わりの紅色になっていました。挿し木のアジサイは、元気いっぱいでした。
所用関連は朝で終わり、10時半前に妻とともに東京駅に着きました。昼食には早いので、構内の美術館で開催中の「夢二繚乱」を鑑賞しました。大正期の挿絵画家、竹久夢二は、岡山県瀬戸内市の出身で、地元ではもちろん大変な人気ですが、今朝は団体客があったのか、大変な混雑ぶりでした。夢二の淡い色調は、時空を越えて人を魅了するのだと思います。
構内で昼食の後、12時半の新幹線で帰岡しました。道中は終始、梅雨空でした。