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3月31日、夏ミカン

今日も一日、自宅で高校野球のテレビ中継を見たりしながら、ゆっくりとテレワークやデスクワークをしました。夕方になって庭に出てみると、妻が野鳥たちのために置いた夏ミカンの実が、きれいにつつかれていました。庭で取れた無農薬のもので、皮でオレンジピールを作った残りです。

夏ミカンの実
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3月30日、庭のスオウ、スイセン

この数日の日程がきつ過ぎたのか、今日は終日エネルギーが沸いてこず、自宅でゆっくり過ごしてしまいました。妻は元気で13時前にコーラス練習に出掛け、15時過ぎに帰ってきました。

夕方、庭に出てみると、スオウが満開でした。年々木が小さくなるのが気掛かりです。スズランスイセンも可愛い白い花を付けていました。

スオウの向こうにハラケンポスター
庭のスズランスイセン
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3月29日、所用、事務所、オンライン政策懇談

所用のために朝早く起き、渋滞を怖れて7時45分頃妻とともに自宅を出、抜け道を探して急ぐと8時15分頃に到着してしまい、8時半から11時まで所用に掛かった後にさらにもう一件所用を済ませて12時前に帰宅しました。次は14時半に妻とともに出て法律事務所に向かい、15時から1時間半ほど、相続をめぐる法律相談を行いました。ご自分の願いを実現するためにどういう遺言が適切か、という相談で、結構時間がかかり、若干のデスクワークを済ませて帰宅すると18時前になりました。

法律相談

20時から1時間半強、自宅で、原田謙介さんを含む数人で政策に関するオンライン懇談会を行いました。テーマは国際人権で、ミャンマーやウイグル、さらに国内の外国人の扱いなどで議論が沸騰しました。

オンライン政策懇談
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「金谷光夫さんへ」弔辞を掲載しました

金谷光夫さん、

貴方の訃報を聞いたのは24日朝8時過ぎ、ご子息の晋爾さんからの電話でした。息を引き取られてから、1時間しか経っていなかったのですね。全く突然のことで、びっくりしました。行年90歳ですからご長命ではありましたが、今や人生100年時代というのですから、もっともっと長生きしてご指導いただきたかったです。本当に長い間、お世話になりました。文字通り、お世話になりっ放しでした。

貴方は昭和7年の夏に生まれ、地元の玉島商業を出て地元を代表する住友重機に勤め始め、直ぐに労働組合の活動も始めて財政部長となり、10年ほど非専従役員を務めました。その後、大勢の仲間の皆さんに推されて、昭和38年に30歳の若さで玉島市議会議員に当選し、以来合併で大きくなった倉敷市議会の議員となり、平成13年まで通算9期38年の長きにわたって議員を務め上げ、昭和60年の副議長を経て平成7年には同市議会議長を務めました。まさに社会人としての経歴の大半を議員歴で埋め尽くされたのですね。勿論大勢の皆さんのご支援のおかげですが、この皆さんの思いをしっかり受け止めてまさに昼夜の別なく東奔西走されたあなたの頑張りは、ただただ首を垂れて敬意を表するほかありません。

そして貴方は、私の父・江田三郎が昭和38年に衆議院岡山2区に挑戦をした当初から、地元支援者の中心となって支えて下さいました。私の父が中央で日本社会党幹部として大活躍できたのも、地元での貴方の支えがあったからこそなのです。そして昭和52年3月、父が社会党に別れを告げてただ一人で新しい市民の党、社会市民連合立上げの行動を始めた時、父の「誰もついてくるな」という制止を振り切り、貴方は全国でも真っ先に父と行を共にしてくれたのです。父もどんなに心強かったことか、言葉にはしなくても、心はしっかりと通じ合っていました。しかしその父は、その直後の5月、まさに私自身の誕生日に全く突然他界し、私が裁判所に辞表を出して父の掲げた市民政治の旗を拾い上げて走り始めた時、その私と行を共にして社市連の地元幹部の役を担ってくれました。何しろ私は、社会人になり立てから政治と最も縁の遠い司法の世界にいたので、支え手のあなたのご苦労は想像を絶するものがあったでしょう。そう思うと、ただ頭を深く下げるほかお礼の言葉も見つからないのです。

そんな貴方は、心の中ではいかなる困難にも微動だにしない信念を持ちながら、いつも行動は穏やかで人の信頼を勝ち得、市議会の先輩格として議長に上り詰め、しっかりと務め上げられました。誰にでも出来ることではありません。貴方の選挙の応援に伺ったときなど、いつも大勢の支援者の方々の中心に貴方と時子夫人がいて、温かいなごやかな雰囲気で盛り上がっていました。お二人のお人柄ですね。

平成13年に選挙に立候補せずに議政壇上を去り、その功労により数々の栄誉を受け、平成14年には勲四等瑞宝章を授与されました。さらに昭和45年に設立した株式会社サカエ装飾の経営に携わり、今日では株式会社光の取締役会長として大きな存在感を示しておられました。同時に、お嬢さんの瑞恵さんの夫として晋爾さんを養子に迎え、会社経営も随分拡大してきました。そう言えば、私たち夫婦が晋爾さんたちのご結婚の媒酌人の役を仰せつかったのでしたね。まさに家族ぐるみの仲でした。

最後にお会いしたのは、もう3,4年前になるでしょうか、妻とともにぶらっと貴方をご自宅にお訪ねした時でした。貴方はお元気そうに笑顔で迎えて下さり、偶々訪ねて来ていた高梁の奥の方がお持ちになった地元のマツタケ2本のうちの一本を、私たちが横取りしてしまいましたね。何でもないことですが、そんな多くの些細なことの積み重ねでしっかりと繋がっているのが私たちの関係でした。

金谷さん、今はもう貴方の声を聴くことは出来ません。IT時代だか何だか、人と人の結びつきがずい分希薄になってきて、人間社会の将来がどう変わっていくのか本当に心配されますが、これはもう後に続く人たちに任せるほかありません。安らかに永遠の眠りにお就き下さい。私たちもいずれそう遠くないうちに、そちらに伺います。

金谷光夫さん、さようなら。

令和3年3月28日、

葬儀委員長、第27代参議院議長、弁護士  江 田 五 月

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3月28日、日曜討論、金谷さん葬儀

9時からのNHK日曜討論で、目が覚めました。予算成立後の国会の進め方で、立憲民主党では安住淳国対委員長が熱弁を振るっていました。

日曜討論の安住さん

11時過ぎに妻と出て、倉敷市玉島勇崎の故・金谷光夫さんの葬儀・告別式会場に向かい、12時過ぎについて準備を整え、13時から2時間強、参列しました。ご導師が12人揃った立派な葬儀で、告別式はまず私が葬儀委員長として焼香して告別の辞を述べ、喪主の金谷晋爾さん焼香に続いて伊東香織倉敷市長と小野晴稔倉敷市議会議員OB会長が弔辞を述べ、焼香、弔電披露、回向、立飯の儀と進んで、副葬儀委員長の佐古信五さんと喪主の謝辞で終わりました。

葬儀委員長として

暫く控室で待機し、私も棺の釘打ちをして出棺を先導し、出発を見送りました。帰宅は17時になりました。

釘打ち
出棺を先導
出棺見送り
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3月27日、朝生、立憲県連常幹、金谷さん通夜

夜中の2時半に目が覚めテレビを点けて見ると、「朝まで生テレビ」でコロナとオリンピックなどのテーマで議論をしており、立憲民主党では中谷一馬さんが登場しており、つい2時間ほど見てしまいました。

朝まで生テレビ

ゆっくり起床し、12時半に妻とともに出て、13時から2時間強、立憲民主党岡山県連の常任幹事会に出席し、幾つかの点で意見を述べました。懸案だった5区総支部の解散手続きが終了しました。自治体の首長や議員の選挙が続きます。

県連常幹
私も発言

16時前に一度帰宅し、喪服に着替えて18時前に再び妻と出て、19時から1時間強、故・金谷光夫さんの通夜に出席しました。最後の喪主挨拶の前に、私が葬儀委員長として挨拶し、ご参列の皆さんにお礼を述べました。帰宅は21時過ぎになりました。

金谷さん通夜
金谷さん通夜
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3月26日、身辺雑事、結婚記念日会食

高校野球中継で目が覚め、続いて宮中の歌会始の中継を見るともなく見ていると、あっという間に昼となり、パソコンに向かって明後日の故・金谷光夫さんの葬儀で私が述べる告別の辞の下書きをして事務所とテレワークをし、17時過ぎに妻とともに出て先ず近くのスタンドで洗車をして法律事務所に向かい、そのまま市内中心部のふぐ料理店に向かうと、到着したのは19時前、予約の時刻を大幅に遅れてしまいました。

高校野球中継
歌会始中継
洗車

今日は、私たちの54回目の結婚記念日なのです。そこで二人だけでささやかに白子まで張り込みながら豪華ふぐちりと洒落てみたのです。本当に多くの皆さんのお支えでここまで来ることができました。因みに今日はもう一つ、私たちの結婚から10年後の今日、父・江田三郎が日本社会党に決別した離党記念日でもあります。往時茫々で今は食も細くなり、最後の雑炊は大部分がタッパーに入れて持ち帰りとなりました。明日の朝食は豪華版になります。

結婚記念日会食
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3月25日、参院予算委、インターン

9時から参議院予算委員会の集中審議がテレビ中継され、立憲民主党の福山哲郎幹事長の質問を見ながら起床し、午前中はテレビ観戦をしました。

福山さんの質疑

昼過ぎからはテレワークで、15時半に妻と出て法律事務所に向かい、16時から1時間半ほど、中川雅子県議のところにインターンとしてきている大学生3名が事務所スタッフと訪ねて来て、私の父、江田三郎から私へと続いた政治の歩みにつき話を聞いて貰い、さらに若干の質問を受けました。戦前の朝鮮半島のことや国内の小作争議のことなど、若い皆さんには全く初耳のことだったようですが、これからの日本が歩むべき方向を考える上では、ぜひ踏まえていなければならない背景事情だと思います。その後、若干のデスクワークを済ませて、18時に帰宅しました。

インターンの皆さんへ
記念写真
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3月24日、テレワーク、岡弁憲法委

9時前から電話で訃報が届き、その対応のほかにも大切なテーマにつきテレワークが続き、結構忙しく過ごしました。16時から岡山弁護士会憲法委員会の今季最後の会合に、自宅からZoomで出席しました。このところ司法で重要な憲法の論点を含む判決が続き、13条、14条、24条、25条などに関連した議論が必要です。さらに岡山県議会では夫婦別姓選択制に反対する意見書が本会議で採択され、これも憲法論議が欠かせません。これらの諸点につき、私も意見を述べました。17時過ぎに則武透委員長の挨拶があり、今季最後の憲法委員会定例会が終わりました。

オンライン憲法委員会
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3月23日、テレワークs、法律相談

10頃から電話連絡が次々と入り、13時ころまでテレワークによる協議が続きました。いずれも、方向が見えてきました。

 

午後も雑用に追われ、15時半に妻とともに出て法律事務所に向かいました。16時から予約の入っていた民事法律相談を行いました。上司と部下に挟まれた中間管理職の苦悩で、彼が自分の主張を納めれば済むかも知れませんが、その結果として懲戒を受けることは認められません。17時過ぎに終わり、半前に出て直帰しました。

法律相談