金谷光夫さん、
貴方の訃報を聞いたのは24日朝8時過ぎ、ご子息の晋爾さんからの電話でした。息を引き取られてから、1時間しか経っていなかったのですね。全く突然のことで、びっくりしました。行年90歳ですからご長命ではありましたが、今や人生100年時代というのですから、もっともっと長生きしてご指導いただきたかったです。本当に長い間、お世話になりました。文字通り、お世話になりっ放しでした。
貴方は昭和7年の夏に生まれ、地元の玉島商業を出て地元を代表する住友重機に勤め始め、直ぐに労働組合の活動も始めて財政部長となり、10年ほど非専従役員を務めました。その後、大勢の仲間の皆さんに推されて、昭和38年に30歳の若さで玉島市議会議員に当選し、以来合併で大きくなった倉敷市議会の議員となり、平成13年まで通算9期38年の長きにわたって議員を務め上げ、昭和60年の副議長を経て平成7年には同市議会議長を務めました。まさに社会人としての経歴の大半を議員歴で埋め尽くされたのですね。勿論大勢の皆さんのご支援のおかげですが、この皆さんの思いをしっかり受け止めてまさに昼夜の別なく東奔西走されたあなたの頑張りは、ただただ首を垂れて敬意を表するほかありません。
そして貴方は、私の父・江田三郎が昭和38年に衆議院岡山2区に挑戦をした当初から、地元支援者の中心となって支えて下さいました。私の父が中央で日本社会党幹部として大活躍できたのも、地元での貴方の支えがあったからこそなのです。そして昭和52年3月、父が社会党に別れを告げてただ一人で新しい市民の党、社会市民連合立上げの行動を始めた時、父の「誰もついてくるな」という制止を振り切り、貴方は全国でも真っ先に父と行を共にしてくれたのです。父もどんなに心強かったことか、言葉にはしなくても、心はしっかりと通じ合っていました。しかしその父は、その直後の5月、まさに私自身の誕生日に全く突然他界し、私が裁判所に辞表を出して父の掲げた市民政治の旗を拾い上げて走り始めた時、その私と行を共にして社市連の地元幹部の役を担ってくれました。何しろ私は、社会人になり立てから政治と最も縁の遠い司法の世界にいたので、支え手のあなたのご苦労は想像を絶するものがあったでしょう。そう思うと、ただ頭を深く下げるほかお礼の言葉も見つからないのです。
そんな貴方は、心の中ではいかなる困難にも微動だにしない信念を持ちながら、いつも行動は穏やかで人の信頼を勝ち得、市議会の先輩格として議長に上り詰め、しっかりと務め上げられました。誰にでも出来ることではありません。貴方の選挙の応援に伺ったときなど、いつも大勢の支援者の方々の中心に貴方と時子夫人がいて、温かいなごやかな雰囲気で盛り上がっていました。お二人のお人柄ですね。
平成13年に選挙に立候補せずに議政壇上を去り、その功労により数々の栄誉を受け、平成14年には勲四等瑞宝章を授与されました。さらに昭和45年に設立した株式会社サカエ装飾の経営に携わり、今日では株式会社光の取締役会長として大きな存在感を示しておられました。同時に、お嬢さんの瑞恵さんの夫として晋爾さんを養子に迎え、会社経営も随分拡大してきました。そう言えば、私たち夫婦が晋爾さんたちのご結婚の媒酌人の役を仰せつかったのでしたね。まさに家族ぐるみの仲でした。
最後にお会いしたのは、もう3,4年前になるでしょうか、妻とともにぶらっと貴方をご自宅にお訪ねした時でした。貴方はお元気そうに笑顔で迎えて下さり、偶々訪ねて来ていた高梁の奥の方がお持ちになった地元のマツタケ2本のうちの一本を、私たちが横取りしてしまいましたね。何でもないことですが、そんな多くの些細なことの積み重ねでしっかりと繋がっているのが私たちの関係でした。
金谷さん、今はもう貴方の声を聴くことは出来ません。IT時代だか何だか、人と人の結びつきがずい分希薄になってきて、人間社会の将来がどう変わっていくのか本当に心配されますが、これはもう後に続く人たちに任せるほかありません。安らかに永遠の眠りにお就き下さい。私たちもいずれそう遠くないうちに、そちらに伺います。
金谷光夫さん、さようなら。
令和3年3月28日、
葬儀委員長、第27代参議院議長、弁護士 江 田 五 月