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神伝流岡山游泳会「河本 淳さんの思い出」追悼文を掲載しました

昭和20年代の半ばころ、確か小学校の3,4年だったと思いますが、夏休みが始まってすぐに、
学校の近くにある旭川の相生橋上手右岸の水泳教室に通い始めました。体が弱かった私を、親が
気遣ったのだと思います。水を怖がることはなかったので、一番下から一つ上の外2Bというクラ
スでした。泳げるようになってから初等科、中等科、高等科と上がり、昇段試験を待つばかりを
特待生というのですが、もちろんそのずっと前でした。なぜか相性が良く、その後もずっと教室
に通い、中学3年で黒帽に白線一本の初段に、高校一年で二段、高三では三段で白線二本となり
ました。高校に上がるころから教える側に回り、大学生でも夏休みには必ず帰省し、現場の責任
を任されたりしました。
そのころ、現場の総責任を負っていたのが河本 淳さんでした。百人をはるかに超えるチビちゃん
どもを、それも一たび水難事故があると命に関わる現場で指揮するのですから、甘い言葉は使え
ません。いつも怒鳴り回っていました。受講生が帰ったのちに、名札が一枚でも残っていると、
私たちリーダーは並んで川底を潜って大捜索をします。そんなことも何回かあったように思いま
すが、幸い事故は有りませんてした。のちに国会議員になって、「私は相生橋上手で溺れている
のを助けて貰ったことがあります。江田さんというお兄さんでしたが、それはあなたですか」と
声を掛けられたことがありました。私の方は、何も覚えていませんでした。それほど、日常茶飯
事だったのです。河本さんの怒鳴り声だけは覚えています。
チビちゃんたちの講習が終わると、私たちの練習です。神伝流の泳ぎ方の修練ですが、これも簡
単なことではありません。手の先から足の先まで、神経を行き届かせます。遠泳の練習もあり、
鶴見橋から相生橋まで何往復もしました。泳者を何時でも助けられるように、列の横を和船で付
いていくため、櫓をこぐ技も達者になりました。
現場は、今のようなプールではありません。開講前には幾つもブイを浮かべてロープを張り、筏
を何艘も仕立てて浮かべ、川岸には垂木とヨシズで小屋を建てます。お盆過ぎにはそれを全部片
付けるのですが、これが大仕事なのです。水を一杯に含んだ垂木は重く、お城の下の広場に積み
上げる作業が終わると、肩が腫れ上がりました。そんな「苦役」も、河本さんの厳しい、同時に
優しい指導があったからできたのだと思います。体を極限まで酷使するのが楽しみだったのです
ね。
ティーンエイジャーは生意気盛りです。いつも何かしら諍いを起こします。高三の時、一年上で
大学に入ったリーダーたちが大きな顔をするのにカチンと来て、前年は受験勉強で川に顔を出さ
なかったのに何だ・・・と、揉めたことがありました。河本さんの特徴は、このようなときにす
ぐに介入せず、知らん顔をして見ているのです。同年代を束ねて現場を預かっていた私としては、
上に河本さんがいてくれたから、上級生のお節介を撥ね退けて指導力を発揮できたのだと思って
います。実際はなかなか大変でしたが、河本さんは偉ぶったお説教とは無縁の人で、生意気な若
造の気持ちを良く分かってくれました。
現場を片付け終わると、津島の運動公園にある長水路の県営プールで練習です。このときは、ど
ちらかというと競泳に重点を移し、1500メートルを泳いだのちに、50メートルのダッシュ
を10本、それもタイムが落ちるとカウントされないといった厳しい練習をしました。河本さん
はプールサイドで、右手にストップウォッチを、左手には柄の付いたモップを握って監督すると
いう具合ですが、必死で着いていきました。これが9月終わりまで続き、最後にはみんなでプー
ル掃除です。そのせいもあり、私の2学期中間考査は常に成績が落ちました。それでも、県下の
水泳競技会では所属高校チームで出場し、一定の成績を上げるので、教師に文句は言われません
でした。
と、こんなことを書いていると、思い出は切りがありません。大学生を何年か過ごすうち、旭川
が遊泳禁止になり、三勲や鹿田、岡大などとプールを転々とするうち、私も水泳の現場から遠ざ
かってしまいました。それでも折に触れ、河本さんの顔が懐かしくなり、年末に声が掛かると顔
を見に参上していましたが、とうとう他界してしまわれました。人間には避けられない運命です
が、河本さんには想像することが困難な別れでした。
若い時の戦地でのこと、税務所勤めのころのことなど、いろんな話も聞かされましたが、詳しい
ことはすべて忘れてしまいました。とにかく人情味に溢れ、決して上から目線のお説教でなく、
そのくせ指導に厳しい河本さんのような人は、なかなか現れないでしょう。少しでも近付けるよ
う、みんなで頑張りたいと思います。

2018年5月