「上原先輩を偲ぶ」 元参議院議長 江田五月
〇上原進さんと私との接点は、よく探せば今から60年以上に遡るのですが、当時のことは残念ながら記憶に残ってい
ません。しかし、上原さんと私を結びつけた尾﨑博君の記憶は、60年遡っても鮮やかです。それは、私たちがみな、
岡山朝日高校の生徒だったということです。
〇私が朝日高に入学したのは、1957年のことです。そのとき上原さんは、3年生でした。そして私が2年の終わり
ころに生徒会の責任者になった時、尾﨑君は1年生で、生徒会活動に積極的に関わってくれました。当時の生徒会は会
長制でなく、3人の総務が合議で運営する制度で、私はその総務の一人で、学校側と厳しく対立する企画を協議する生
徒会総会の議長を、私が務めたりしていました。その時には上原さんはすでに卒業し、東京の大学に進んでいたはずで
す。
〇その接点は、長い間影を潜めていましたが、30数年の後に、突然芽を吹き大きな幹を伸ばしました。1996年秋、
私は岡山県知事選挙に挑みました。それ以前から私を応援してくれていた上原さんは、千田組の皆さんとともに私の支
援に馳せ参じてくれたのです。尾﨑君が取り持ってくれたのだと思います。私は敗れ、上原さんには大変なご迷惑をか
けました。知事選とは、そういう選挙なのです。
〇それでも、上原さんは全然めげず、その後もずっと私を後輩として可愛がってくれました。百間川の河川敷で、ライ
オンズクラブの皆さんのフェスティバルを行うときには、いつも私に声を掛けてくれ、旭川上流の湯原温泉の塩釜辺り
から下ってくる皆さんと引き合わせてくれたり、楽しい人の繋がりを作ってくれました。私だけでなく、高井崇志さん
をはじめ私の仲間たちにも温かい支援の手を差し伸べてくれました。
〇上原さんのご訃報は、私には全くの寝耳に水でした。いつも笑顔で、派手な出で立ちで愉快な企画の先頭で旗を振っ
ていた上原さんが、突然姿を消されました。今はただ、在りし日のお姿を思い浮かべながら、ご冥福を祈るばかりです。
ゆっくりとお休みください。