「おっ安宅、帰れたのか、良かったな!」28日昼前のことです。私が電話口で最初に発した言葉でした。安宅君から電話がかかってきたのです。その前日、容態が悪いと聞いていたので、電話口のいつもの通りの君の張りのある声にびっくりしたのです。君の返事は、「病院からなんだ」でした。
その後、君は地方税財政についての論文の話をし、「もう仕上げる元気がない」と続け、それどころか、何をする気力も体力もすっかり無くなったので、「安楽死させてほしい」と言い出しました。私は、何とか勇気付けて安らかな気持ちになって貰うよう、あれこれのことを言い、かれこれ20分ほども会話を交わしました。
そんなことがあったので、29日朝の君の訃報はまさに青天の霹靂、何かの間違いだと思いました。しかし、本当のことでした。
君は前にも、そんなことがありました。30代後半のころ重症筋無力症で仙台の病院に入院していた君を見舞ったときです。あの時は、君の筋肉は全く動かず、物も言えず目もほとんどあかず、わが友安宅とこれが今生の別れになると、私は覚悟を決めました。その後、著効のある薬に出会えて仕事に復帰したと聞き、本当にほっとしたのです。今度もそんなことで、簡単にはくたばりはしないと思っていたのに、そうはいきませんでした。
君と私とは、小学校の小川学級で同級生でした。「青井、安宅、宇治、江田、岡…」と並んでいましたね。一番早い別れが宇治、次が岡、そして今君。青井はどうしているかな…。小学校、中学と進み、高校は別れましたが、大学でまた一緒になり、卒業後は司法と行政は別れましたが国家公務員となり、ともに国の派遣で海外留学もしました。私は36歳で国政の場に転じ、君は各地の県庁で地方の仕事をしたのち、志を持って私に相談に来ました。郷里に戻って仕事をしたいというのです。私に異存のあろうはずがなく、岡山市長選に挑むことにしたのですね。
当時の市長は全くの土着の有力者で、しかも君の決断から選挙までは時間も短く、とても勝ち目はないと思われていたかもしれません。その上に相手は、君の挑戦をかわそうとしたのか、チボリ公園計画を巡る市議会での動きに乗じて、まったく予期しない辞職と再選挙の挙に出てきました。かくなる上は…と、わが家の一室に10数人ほどが集まって鳩首協議し、君は鮮やかに「チボリから撤退」を公約に決めてくれました。今もはっきりと思い出します。
君は見事に当選し、市民全体を視野に入れて道理に叶った市政を進め、福祉各分野のインフラ整備や拡充などに努めました。そして中核市移行を実現させ、後の政令市への道筋を付けました。チボリ公園はその後苦難の道を歩んで最後は消えて行きました。その後私は、私個人の思いや願いで君を動かそうとすることは慎みました。君は市民の市長なのだからです。
二期目の選挙は、阪神淡路大震災の直後で、応援に動くのに苦労しました。新幹線が走らないのですから。三期目は敗退。やはりアメリカの大統領は2期までというのは、人類の知恵なのかと思います。しかし、その後に君が直面した損害賠償関係の事態は、私は今でも君に非は無かったと思っています。
その後君は、大学で教鞭をとって後進を指導し、また米国留学以来続けてきた地方税財政関係の研究にも勤しんできました。けれども、私が参議院議長で動きが取れない時に、君がさらに市長選に挑んだ時には、本当に困りました。まあ、過ぎたことです。忘れましょうね。議長と言えば、君のおばあさんが書道に勤しみ、私の師である河田一臼先生の「生成」という墨象の額を持っていましたね。私はそれが気に入って、君に頼んで貸して貰い、国会内の参議院議長室に掛けさせていただきました。懐かしい思い出です。
今年の4月、私は妻と旭川の水源地にお花見に行き、帰りに思い付いて君を訪ねました。晴れた気持ちのいい日で、君は縁側でゆっくりと体を横たえており、お茶をいただいてからお隣の五藤さんの家を覗くと栄一さんと裕子さんがおられ、庭の満開の桜の下で談笑していると、何と歩けないはずの君が一人で立ち上がってやってきました。みなびっくりし、喜んだ春のひと時は、忘れられない楽しい思い出です。
安宅敬祐君。まさかあの元気な電話から僅か10数時間で、君が旅立つとはとても信じられません。あの愛らしい由子ちゃんが、早く来てよと呼んだのかもしれませんね。もう会えましたか? 私たちもいずれそう遠くない先に、追いかけます。どうぞ安らかにお眠りください。
友人代表 江田五月