2003年12月3日 | 江田掲示板への投稿 |
ハンセン病元患者宿泊拒否に見る日本社会の差別構造と社会風潮 |
人権問題は、日本社会の骨がらみの問題である。ごく、最近では、黒川温泉での元ハンセン病宿泊拒否問題がある。
「国立ハンセン病療養所「菊池恵楓(けいふう)園」(熊本県合志町)の入所者を対象にした「ふるさと訪問事業」で、熊本県が同県南小国町の黒川温泉のホテルに宿泊を申し込んだところ、「他の客に迷惑になる」と拒否されていたことが18日、分かった。県は「人権侵害にあたり、旅館業法違反の疑いがある」と調査に乗り出し、熊本地方法務局も「早急に調査し、勧告など何らかの対処をしたい」と話している。
県によると、同事業は18日から1泊2日の日程で、同園の元患者18人と職員ら4人の計22人が参加予定だった。9月17日に県が黒川温泉の「アイレディース宮殿黒川温泉ホテル」に宿泊を申し込み、11月にファクスで宿泊希望者の名簿をホテルに送付。ホテル側は宿泊者が同園の入所者であることを知ったという。
県に対しホテルは「当日は乳幼児が宿泊予定なので心配」と話したという。県は感染の可能性がないことを再三説明。同温泉の旅館やホテルでつくる黒川温泉観光旅館協同組合も説得したが、今月13日に支配人から「他の客の迷惑になるので宿泊を遠慮してほしい」との返事があった。 」(2003/11/18 毎日新聞)この事件は、今も残るハンセン病患者に対する差別を象徴的に示すものとして、マスコミで大きく報道された。事件自体は、きわめて単純で、熊本県が実施している「国立ハンセン病療養所「菊池恵楓(けいふう)園」(熊本県合志町)の入所者を対象にした「ふるさと訪問事業」で、熊本県が宿泊を申し込んだ黒川温泉の「アイレデース宮殿 黒川温泉ホテル」がハンセン病元患者だと知って、宿泊を断ったというものである。
事件の経緯の単純さに比較して、この「宿泊拒否」は、日本社会に牢固として残る「差別体質」の根深さを象徴的にあらわしている。ハンセン病患者の母親の手紙を報じた次の記事を見れば、その深刻さが納得できる。「ハンセン病国賠訴訟で元患者が全面勝訴した01年5月の熊本地裁判決から丸2年たった11日、熊本県主催の「ハンセン病資料展」が熊本市で始まり、国立療養所菊池恵楓園(同県合志町)に入所する男性(70)の母からの手紙が初公開された。弟たちへの差別を恐れ「籍を抜いてほしい」と懇願する内容で、改めて浮き彫りになった差別の実態に来場者は胸を痛めていた。
男性は1950年、17歳の時に菊池恵楓園に入所した。6年後の7月にその手紙は届いた。便せん5枚にしたためられ、2人の弟の近況を伝える内容は、次第に深刻な訴えに変わる。通信関係の仕事をする二男が警察の身元調査を受けたことを伝え「(二男が)身元調査の時が一番つらいと言ったことがある。弱い子をもつ親はほんとうにつらいのよ。(三男が高校を)卒業いたしたら又同様かと思うと」と苦悩を吐露。「籍を抜きたくないけれど弟らのことを思ってそーしてくれませんか」とつづっている。
それでも愛情に変わりがないことを伝えようと「お前のことは決して忘れたことはありません。毎朝、何卒守って下さいと神様に祈っております」と続く。
男性は母親の思いを受け止め除籍に承諾することにしたが、「籍を抜けばもう会えないかもしれない」とその年の暮れ、施設を抜け出し郷里を目指した。母親は「よく来たね」と笑顔で迎えてくれた。男性は結局、2年後の58年に入所者の女性と結婚、籍を外れた。 」(2003/05/11 毎日新聞)この手紙は、差別の問題は、「患者本人だけでなく、患者の親・家族・兄弟・親族などすべてに及ぶ」という実態をよく伝えている。どんなに理不尽な理由であれ、いったん差別の対象になった人たちの苦しみは、一片の判決文だけで解消されるものでない。
2001年の熊本地裁の判決は、「らい予防法」を憲法違反と認定した。つまり、ハンセン病患者の隔離政策を間違いであると認定したのである。しかし、これで「ハンセン病患者や元患者」への社会の差別が解消するわけがない。
国策により、一世紀に近い年月で培われたハンセン病患者への「差別」「偏見」が、そんなに簡単に消え去るわけがない。それどころか、「ハンセン病患者への差別問題」は、ここから始まるといっても過言ではない。なぜなら、2001年までは、「ハンセン病患者」は隔離されており、社会へ広く知られることがなかった。これから患者元患者の社会復帰とともに、数多くの差別・偏見の問題が噴出すると予想されるからである。
今回の宿泊拒否問題は、その意味で重要である。この問題によい加減に対処すると、以降同種の問題が頻発する可能性がある。また、「ハンセン病」に対する啓発活動ももっと増やす必要がある。マスコミも厳しく指弾すべきである。同時に国も小泉首相の謝罪で国の間違いが免責されたわけでなく、社会に残る「差別」「偏見」の除去に最大限の努力を傾注すべきである。
今回の事件もそうであるが、最近の社会風潮として「人権重視」の考え方に対する反発・批判が増加していることがある。今日の毎日新聞にも、部落解放同盟の関係者に「差別はがき」が90通送りつけられたという事件が報道されている。平成大不況の深刻化とともに、社会の中に弱者に対する冷酷さが目立っていることが、背景にあると思われる。
その意味からも、今回の事件に対しては、問題の根源から考える必要がある。
ハンセン病国家賠償訴訟に対する熊本地裁の判決は、近来にない名判決であった。
『らい予防法』(新)の違憲性を明快に指摘、政府及び国会の【不作為責任】を断罪した。敗訴した国側は,厚生省・法務省などは国会の【不作為】責任を狭く限定した最高裁判例を楯に、【控訴】の構えを見せていた。
小泉首相は、この官僚達の狭い法治主義に対して政府声明に【不作為責任の指摘】に合意したわけではないが、ハンセン病患者が国の隔離政策により多大な人権侵害を受けていた事実は否定できず、さらに原告側が高齢である事を考慮に入れ、【超法規的判断】により【控訴】を断念した。この政治判断は、ハンセン病患者たちに歓呼の声で迎えられた。
原告側の元ハンセン病患者たちが、【今日から人間になれます】と声を詰まらせながら語っていたのには胸が詰まる思いがした。
彼らの姿を見ながら、遠い記憶が蘇った。わたしの故郷は、中国山地の山間に挟まれた寒村である。小学校の時、村の公民館で写真展が開催された。何の写真展が開催されているかも知れず、悪がきどもと一緒に見に行った。わたしたちは、展示されている写真を見て一様にショックを受けた。
鼻が崩れている人間・手が腐っている写真・足が腐っている写真など、それは恐ろしくおぞましい写真だった。それを解説している保健所の人に聞くと、【らい病患者】の写真だと教えてくれた。そして、この病気は【感染】する世にも恐ろしい病気なのだから、これにかかった人は【隔離】するのだと教えてくれた。
長じて歴史を学んだり、小説を読んだりしているうち、この病気は古来より日本に存在し、【天刑病】と呼ばれていた事を知った。関が原の合戦で石田三成と共に戦った大谷行部が頭巾で顔を覆っていたのも、【らい】に犯されていた為だとも知った。
日本人の感性の根底にある【浄の思想】の対極に【穢れ】の思想が付着している事もしった。【厭離穢土、欣求浄土】のむしろ旗に象徴されるように、【浄】と【穢れ】はメダルの裏表であることも知った。【穢れ】の感性の象徴が、病気なかんずく【天刑病】と呼ばれたハンセン病であることも知ったのである。同時に、【天刑病】は村落共同体からはじき出された存在である、と言う事も知ったのである。
つまり、自分の肉体が崩れていき、共同体からもはじき出され、親兄弟からも見放される存在、天が与えた刑罰であるというほどの意味である。このように,村からはじき出された天蓋孤独の病人たちが流浪の旅をしていても、各地でその姿から通行を拒否される、その為に世をはばかる彼らが通行する道が出来た。それを【ハッタイ道】と呼ばれた。
しかし、それが如何に辛く、冷たく,険しい道であっても,彼らは流浪する【自由】を持っていた。その辺りの事情は、松本清張原作映画【砂の器】を見て欲しい。流浪の旅の雰囲気は感じ取れると思う。
しかし、1931年【らい予防法】が制定され、ハンセン病の患者は国家の政策によって【隔離】されたのである。彼らは、【感染】を防ぐという名目で各地に出来た隔離病棟に収容されたのである。このあり様は、ナチス・ドイツのラーゲリ、ソビエトの【収容所】に匹敵する。違う所は、ガス室がなかったり、理不尽な処刑がないぐらいであろう。
さらに、1949年断種・不妊手術の容認を決めた優生保護法が制定され、らい病患者の多くがほとんど強制的にこれを受けさせられた。妊娠9ヶ月の子供を無理やり出産させ、泣き声を上げている子供を母親の目の前で、かなだらいにうつぶせにさせて殺すというような行為が平然と行われたのである。
しかし、戦後は医学的に見れば【ライ菌】は感染力は非常に弱く、さらに特効薬プロミンの登場により、不治の病ではなくなっていた。戦後、WHOが日本に何度も勧告しているように、【ハンセン病】は隔離政策ではなく、通院政策で充分対応できたにもかかわらず、1953年には新たな【らい予防法】を制定し,隔離政策を継続したのである。
この【らい予防法】が廃止されるのは、1996・4、菅直人厚生大臣の登場まで待たなければならなかった。この【らい予防法】の廃止が,今回の【国家賠償訴訟】を呼び起こしたのである。
このような前史を踏まえると、熊本地裁の判決は当然であるし、【控訴】を考えた厚生省・法務省の姿勢は【反国民的・反人権的】であると断ぜざるを得ない。小泉首相が【控訴】を断念したのは、ある意味【人道的】であると思うが、ここに至るまで患者を追い詰めた政治の責任を考えればさほどの英雄的行為ではない。
それでは、何故【ハンセン病患者に対する差別】の問題がこれほど長く放置されたのだろうか。これを問う事は、日本人の根深い体質を問う事と同義である。
研究者によれば、先に述べた、【浄穢の思想】が日本人にしみこんだのは中世であろうと推定されている。
この事は、わたしたちの日常の生活を注意深く観察すればすぐ分かる。葬式に出れば、必ず【塩】が渡される。死者の穢れを,塩で浄める為である。勝負事で負けつづけた時、よく【おはらい】をする。野球などでは、ベンチに盛り塩をする。悪霊を払う,と言う意味である。
神社に入る時には、必ず鳥居がある。鳥居から内は、浄められた神聖な地域、つまり【神域】なのである。穢れたものは、入ってはならない場所なのである。だから、修験道の修行が行われた神山と呼ばれた山は、女性の入山が禁止されていた。代表的な例が、出羽三山(月山・羽黒山・大嶺山)である。女性は月のものがあり、穢れているというのが理由である。
日本人の潔癖さ(きれいずき)がこれに輪をかける。癇症な母親が子供を叱る言葉、【そんな汚い手で触らないでちょうだい】は、【浄め】の体現者としての自分の表現である。【ハンセン病】患者の差別の問題がこれほど長く放置されたのは、この日本人の【穢れ】を生理的に嫌う国民性があると思う。
元【ハンセン病】患者の人がしみじみ述懐していたのは、【ハンセン病患者の人達には、親の会がない。それどころか、一番の排斥者として表れるのが、親・兄弟・家族・親戚などの身内である】と言う事である。
この言葉に,この国の【骨がらみの体質】が表現されている。【ハンセン病】に侵された患者たちの醜く崩れた患部、患部から出る腐臭などが、生理的に嫌悪されたのである。
同時にそのような【業病】を出した家系という【世間の目】が耐えられない。身内にとっては、【家族の生存を根底から脅かす疫病神】なのである。【ハンセン病】患者の差別の問題が、このように長く放置されてきた原因の一つには、この【日本人の感性】の問題が大きいと思う。
政治は、非人間的なものである。常に,見せしめを必要とする。士農工商の身分の外に(エタ・ひにん)を置いたシステムと同じ政治的みせしめの対象に【ハンセン病】患者が置かれたのである。このシステムの構築には、【けがれ】を生理的に嫌う大衆の暗黙の支持があった事は間違いない。
わたしたちの社会は、このような【差別と偏見】を根底に持っていることを自覚した方が良い。
わたしは差別・偏見の問題を扱う時、常にこのような人間の生理的問題から教え,感じ取らせるようにしている。人間の持つ好悪の感情は、【顔の美醜・体形の美醜・髪の問題・言葉使い・食事の仕方・臭いの問題・話し方の問題・表情の明るさ,暗さ】など実に多岐にわたる。
その中で、【きれい・汚い】の問題は実に根が深い。戦後,衛生思想が発達するにつれ、【きれい好き】が病的なまで人々の間に沁みこんだ。この問題は,実に難しい。きれい=清潔は、推奨されてしかるべきなのだから、汚い=不潔は当然排除されるべき対象となる。
それに加えて、日本人の骨がらみの問題である【浄】と【穢れ】の考え方が付け加わり、世界に冠たる【きれい好き】な国民が出来あがったのである。しかし、よく考えればすぐ分かるように、人間は【食べる・排泄する】という行為を両方持って初めて【人間】として完結するように、どんなに【浄め】の努力を行っても必ず【穢れ】が付きまとうものである。
【排泄できない人間】は病気になり、遂には死に至るように、【穢れ】を直視しない社会はやはり病気であると言わざるを得ない。
日本社会には、このような問題が数多く存在した。部落問題しかり、かっての赤線と呼ばれた売春問題しかり、暴力団の問題しかり、エイズ問題しかり、である。人々が直視するのを嫌い,出来ればかかわりたくない問題の一つが【ハンセン病】の問題だったのである。
はぐれ雲さんの書き込みについて 江田五月
2003年12月3日(水)
私は、掲示板への書き込みについては、いくら挑発的な言葉が並んでいても、原則として対応しないことにしています。しかし、時にはひとこと言いたくなることもあります。
今回のはぐれ雲さんの「ハンセン病元患者宿泊拒否に見る日本社会の差別構造と社会風潮」は、正鵠を射た優れた書き込みだと思います。
私は、全く同感で、はぐれ雲さんに心から敬意を表します。
唯一訂正したいところがあるとすれば、「違う所は、ガス室がなかったり、理不尽な処刑がないぐらいであろう。」との部分です。はぐれ雲さんのやさしさの現われなのですが、私なら、「ガス室こそなかったけれど、監房も処刑もあった。」と書くでしょう。
「泣き声を上げている子供を母親の目の前で、かなだらいにうつぶせにさせて殺すというような行為」との部分も、「子どもの泣き声を母親に聞かせておいて、もういいでしょうと言いながら、濡れたガーゼを子どもの顔にかぶせて殺すという行為」と書くでしょう。
私は、もと患者の皆さんと、法廃止以前に、温泉旅館に一緒に泊まったこともあります。人権感覚とは、こういう人たちへの共感の感覚なのだと思っています。
江田さんへ:ご指摘感謝いたします。 はぐれ雲
2003年12月4日(木)
>私なら、「ガス室こそなかったけれど、監房も処刑もあった。」と書くでしょう。
「泣き声を上げている子供を母親の目の前で、かなだらいにうつぶせにさせて殺すというような行為」との部分も、「子どもの泣き声を母親に聞かせておいて、もういいでしょうと言いながら、濡れたガーゼを子どもの顔にかぶせて殺すという行為」と書くでしょう。
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その通りですね。わたしはあまりむごい話なので、筆が鈍りました。
ハンセン病患者にとどまらず、日本社会の差別事例は、枚挙にいとまがありません。
江田先生には、これからもぜひこれらの問題だけでなく、人権侵害に泣いている多くの人たちのためにがんばっていただきたいと思います。
2003年12月3日 |