2005年2月〜 |
脳死・臓器移植の問題について 投稿集 |
脳死・臓器移植の問題について T.S.
2005年2月25日(金)01時35分
先日、脳死・臓器移植に関するシンポジウムに出席する機会がありました。移植反対の人に誘われて行ったので、私自身に先入見がなかったとは言えませんが、ビデオ上映なども交えた講演を聞き、次いでパネリストの議論を聞いて、その中で、現在臓器移植に関する法律の改正、というよりむしろ改悪と言うべきでしょうが、そのような動きがあると聞かされると、やはりどこかで何か一言書きたくなってしまいます。政治家でない人間が政治のことを語るのはけしからんなどという考え方もあるやに聞きますが、こちらが何もしなくとも政治の側が自らの決定を無理矢理押し付ける力を有する以上、何も言うなと言われても、黙っているわけにはいきません。
その機会に目にし、また聞きかじったこと、そして思ったことを、以下とりとめもなく書き留めると、一番の問題だと私に思えたのは、果たして脳死、より正確には「脳死と判定された状態」が、人間にとって死を意味するのかどうかが、(もともと疑問を全くもっていなかったわけではないのですが)いよいよわからなくなってきたという点です。
つまり、脳死と判定された状態では、判定に誤りがなければ、外界からの刺激に対して当の人間は反応しなくなっているのでしょうが、まず、そうなった状態から人間が回復することは果たしてありえないかどうか、つまり不可逆性が必ず言えるかどうか、この点についても疑問なしとしないとのことです。そして仮に不可逆性が言えるとしても、そのことは即、当の人間が死んでいることと同義ではないのではないか、ということがあります。つまり、外界からの刺激に反応しないとしても、何らかの意識が残っている可能性は全くないとは言えないかもしれないのです(そしてこの場合、意識が残っていることを外から確認することはもちろんできません)。その状態が脳死状態だと判定された場合、どういうことになるか。
問題が鋭く問われるのは、特に、当の「脳死状態だと判定された」人が臓器提供の意思を示していた場合です。もしその状態で何らかの意識なり感覚なりが当人に残っていた場合、その人は、まさに命を終えようとしているが未だ終わっているわけではない、つまり最も無抵抗な状況で、心臓などの臓器を摘出され、自らの生にとどめを刺されるということになります。仮に善意から臓器提供の意思を表明していたとしても、実は臓器の提供が自らの生への最後の一撃を意味するとわかっていたら、果たして当人は臓器提供をしたかどうか。シンポジウムでは、或る講演の中では、移植医療の「先進国」アメリカにおける臓器摘出の現場を撮影したビデオ(NHK特集か何かの一部だったようですが)が上映され、入れ代わり立ち代わり臓器を摘出していく医師たち(臓器の摘出は、それを移植する手術を行なう医師が、臓器提供者のもとにやってきて行なうのだそうです)の姿が映されていましたが、今思い出してもぞっとする、実におぞましい光景だと言わざるをえません。
生きている人間の権利、この場合では「脳死状態と判定された」人(特に臓器提供の意思を表明している人)の権利が、脳死・臓器移植の問題では無視されてきたのではないか、ということを思わせられました(もちろん、私が知らないだけで、問題意識をもっている人には既に明白なのでしょうが)。
付け加えると、では脳死段階でなく心停止段階での臓器摘出ならば良いかというと、現実はそうでもないようで、心臓が停止した5分後とか、心停止の直後に臓器摘出が行なわれることがままあるようです。言うまでもなく、治療方法の如何では心臓が再び動き出す可能性もあるかもしれないにもかかわらず、という含みがあるのでしょう。さらに、生体肝移植についても、特に近しい間で臓器のやりとりが行なわれる場合、人間関係のしがらみから、臓器の提供が自発的でなくとも行なわれてしまう可能性があるという指摘もありました。
このように書くと、臓器移植賛成の立場の方々から猛烈な非難を浴びるかもしれません。しかし、もし移植治療の名のもとに殺人、しかも医者が手を下しての殺人が行なわれていたらと思うと、この問題は、賛成の立場であれ反対の立場であれ、もっと慎重にかつ徹底的に検討する必要があると考えざるをえません。そしてその際、人間の命の間に価値の軽重をつけてはならない、ということにもっと思いを致すべきなのでしょう。
今一つの問題は、臓器提供の意思を表明している人が瀕死の状態で救急医療の場に運ばれてきた場合に特に鋭く問われるのでしょうが、そのような場合、医者がどこまで真剣に救急医療に取り組むか、という問題です。医者が移植医療に積極的であればあるほど、このような場合における救急医療はないがしろになるのではないか、という疑念を私は容易にぬぐえそうにありません。
そして最後に法改正の問題ですが、現行法では、臓器提供の意思をはっきり表明している人の場合にのみ臓器提供・摘出が現実の問題となるようですが、改正案(私自身は見ておらず、また聞きで記すにすぎませんが)では、臓器提供の意思がはっきりしない場合、家族(脳死を死と認めるとするなら、遺族)の同意があれば臓器の摘出は行なえる、という方向への改定が目指されているようです。このような改定の後には、気が動転している家族が医師の説明に押し切られて同意し、その結果臓器移植(の名のもとに行なわれる殺人)が飛躍的に増える可能性があります。以上記した問題点に鑑みるなら、この改定(改悪)の重大性は明らかでしょう。
とかく政治家は、自分の専門外の問題については、何らかの団体からの要請に基づいて自らの定見なしに動くことが、残念ながらままあるように思われます。口利きを政治家の仕事と心得ている輩が多い自民党の政治家には特にこの傾向が強いかもしれません。しかし、問題が人間の生にかかわる以上、とりわけ慎重な、かつ徹底的な審議を、政治家には求めたいと思います。
T.S. さんへ 菅原
2005年2月25日(金)07時03分
T.S.記:「とかく政治家は、自分の専門外の問題については、何らかの団体からの要請に基づいて自らの定見なしに動くことが、残念ながらままあるように思われます。口利きを政治家の仕事と心得ている輩が多い自民党の政治家には特にこの傾向が強いかもしれません」
難しい問題について注意深く書かれていて、大変参考になりました。最近になって漸く日本でも、大衆レベルが直接政治に意見介入するようになり、これまでの長い間の慣習だった上意下達が、自由民主主義らしく下意上達に切り替わりつつある傾向が、散発ではありながら、見られるようになってきたことは嬉しいことです。
こちれでも先週、米東部の42歳の未婚女性が20年ぶりに脳死状態から抜け出し、突然記憶が甦って話し出したという素晴らしいニュースが流れました。20年のギャップを今後本人がどのように受け止めるかが話題になっています。
臓器移植法の問題:T・Sさんへ はぐれ雲
2005年2月25日(金)12時44分
わたしもこの問題は、ドナーカードが配布された時から、非常に興味がありました。ただ、哲学的宗教的議論はある程度理解できますが、医学的議論に関しては、門外漢の悲しさで、どうもよく分からないことが多いのです。
今回の臓器移植法改正案は、主に臓器移植法第6条を巡ってのものです。
【現行第6条 】
医師は、死亡したものが生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき又は遺族がないときは、この法律に基づき、移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死した者を含む。以下同じ)から摘出することができる。
2 前項に規定する「脳死した者の身体」とは、その身体から移植術に使用されるための臓器が摘出されることになる者であって脳幹を含む全脳が不可逆的に停止するに至ったと判定されるものの身体をいう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
を、以下のように変えようというのです。
【改正案】
第6条
@医師は、死亡したものが生存中に臓器を移植術に使用されるために提供する意思を書面により表示している場合であって、その旨の告知を受けた遺族が当該臓器の摘出を拒まないとき★若しくは遺族がないとき、又は死亡したものが当該意思がないことを表示している場合以外の場合であって、遺族が移植術に使用されるための臓器を、死体(脳死体を含む。以下同じ)から摘出することができる。
★A前項後段の場合において死亡した者が未成年者であるときには、移植術に使用されるための臓器の摘出を書面により承諾する遺族は、その者の親権者であったものとする。
★B第一項の場合において、死亡した者の臓器提供の諾否に関する意思は、遺族に確認されなければならない。
★C第一項にいう【脳死体】とは、脳幹を含む全能の機能が不可逆的に停止するに至った状態(以下、本法において「脳死」という)にある死体をいう。・・・以下略・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(注)★以降の文章が、現行法と相違する点です。この改正案は、上智大学法学部教授町野朔氏が提出した「臓器移植の法的事項に関する研究」のなかで提示されたもので、通称【町野私案】と呼ばれているそうです。
この改正案には、T・Sさんも指摘されているように多くの問題点が含まれています。
(1)「脳死」は、本当に人の死だろうか、という問題点です。
現行法は、【脳死】を人の死とするか、人の死としないかは、われわれ一人一人が選択できる法律になっています。
脳死を人の【死】と判定してもらってよいという人⇒ドナーカードにその旨を表示しておけば、家族が拒否しない限り、法的脳死判定をうけることができます。
そうでない人⇒ドナーカードに登録しないか、脳死を人の死と思わないという旨を書き込んでおけば、心肺停止まで生きた人間として扱われます。
これを【死の多元主義】というのだそうです。(森岡正博説)
改正案(町野案)は、【脳死】を一律に【人の死】と定義しています。また、本人の拒否がなければ、家族の承諾のみで臓器摘出を可能にしています。
問題は、【脳死】が本当に人の【死】という医学的知見が正しいのか、という点にあります。この点については、医学的にはかなり【疑問】があるそうです。例えば、ラザロ現象というものです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「一九八二年、医学界のもっとも著名な専門誌The New England Journal of Medicine(vol.307,Mo.8)に、テンプル大学病院のS・マンデルらによる驚くべき報告が記載された。二十八歳の男性が脳死となった。その一五時間後に、患者は左脚を自分の力で持ち上げ、手足を動かした。両腕は、四五度まで上がった。そして両手で祈るような動作をして、手のひらを握りしめた。その後、両腕が離れて、身体の横の元の位置に戻った。そのあいだ、両脚はあたかも歩いているような動きを見せた。この動作は、四日間自発的に続いた。この患者の心臓はその後二ヶ月のあいだ動き続けた。マンデルらは、未知の現象として、この事例を報告している。
一九八四年、マサチューセッツ総合病院のA・H・ロッパーは、脳神経科学専門誌Neurology(Aug.)に、同様の症例を五例、詳細に報告し、これを「ラザロ徴候」と名付けた。ラザロとは、新約聖書でイエスによって死から蘇らされた人物の名前である。ラザロ徴候は、脳死判定を終えて人工呼吸器を取り外したあとに四例観察され、脳死判定の無呼吸テスト中に一例観察された。 」(日本の「脳死」法は世界の最先端)『生命学に何ができるか』(森岡正博)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このような医学的所見がかなり一般化されているにも関わらず、【脳死】=人の死と法的判断するのは反対であるというのが、森岡氏の意見です。
さらに、森岡氏の説を紹介すれば、上記のような医学的知見の変化を踏まえれば、現行法の【死の多元主義】は世界でもっとも進んだ法律であり、これは守るべきであるという議論を展開しています。
また、世論調査で日本国民の30%以上が【脳死】を人の死と見ることに反対している現状で、このような「改正案」を通すべきではないともいっています。
医学的専門知識がないわたしには、どちらが正しいのか判断に迷いますが、ことは【人の死】に関わる問題です。それを厚生労働省などのお役人に判断してもらいたくはありません。人の死は、誰にも公平に訪れます。つまり、全国民の問題であるのです。
この問題は、【臓器移植の推進】などという効率性だけで判断されるものでないことだけは確かです。その意味で、森岡氏の「いう【死の多元主義】という考え方の趣旨に共鳴を覚えます。
補記 T.S.
2005年2月26日(土)01時37分
はぐれ雲さんへ
臓器移植に関するご教示、ありがとうございました。いつもながらよく勉強しておられるのに感心させられます。
おっしゃるラザロ徴候の話も先日のシンポジウムでは出てきました。また、臓器移植推進派の町野氏自身と、反対派で知られる小松美彦氏とがパネリストとして席を並べていました。してみると、(私自身は知りませんでしたが)なかなかメンツは面白かったのかもしれません・・・ただ、パネルディスカッションの司会をするコーディネーターの手際が今一つで、同じ議論が繰り返される場面が見られましたが。
>改正案(町野案)は、【脳死】を一律に【人の死】と定義しています。また、本
>人の拒否がなければ、家族の承諾のみで臓器摘出を可能にしています。
と書いておられるところからも明らかなように、改正案の狙いは臓器提供の供給を大幅に増やすところにあるのだろうと思います。これには賛成できません。
また、紹介しておられた森岡氏は、子どもにも臓器提供に関する意思表示の道を与えるべきだと主張し、独自の改正案を出しておられるとのこと。氏のWebサイト(はぐれ雲さんは既にご存じでしょう)をゆっくり眺める余裕がないので、あまりとやかく言うべきではないでしょうが、臓器移植それ自体についてはどちらかと言えば肯定的なように見受けられます。
くだんのシンポジウムではまた、或る調査結果として、臓器提供に肯定的な人の間でも、脳死と植物状態の区別がついていない人が3分の2もいる、といった話も紹介されていました。
それやこれやを思うと、私の素人考えでは、臓器提供をしたい人には、まず脳死がどういうことなのかをきちんと知ってもらい(つまり、脳死=死では必ずしもないかもしれない、という点まで含めて知ってもらい)、その上でなお臓器提供の意思があれば、その意思表明をはっきりした形で(ドナーカードなるものはずいぶんおざなりなものに見えます)、理想的には遺言に準ずるような仕方で書面にし、そのようなプロセスを経た人のみを臓器提供者として認めるようにする、そのくらいに慎重であるべきだと思います。もちろんこれは、現在の改正の動きの背後にあるであろう、臓器提供の供給を増やしたいという意図とは全く矛盾するでしょうが、しかし仮に百歩譲って臓器移植が有用であり容認できるとしても、現時点で臓器移植をやりやすくするような法改正は時期尚早だと思われてなりません。
なお、反対派の立場からは、上記の小松氏が『脳死・臓器移植の本当の話』(PHP新書)を出しており、これから勉強すべき私は(時間が許せば)このあたりから読み始めたいところです。ただ、amazonの書評をとりあえず見た限りでは同書の評価は賛否両論のようで、結局、自分の頭で何が良いか悪いかを見極める必要がありそうですが。
人間の材料化 T.S.
2005年5月23日(月)08時40分
次の記事を読んで暗然たる思いがしたのは私だけだったのでしょうか。もちろん、そうではないと思うのですが。
「兄姉の難病治療へ、受精卵診断で子を出産 ブリュッセル」
http://www.asahi.com/life/update/0521/008.html
この記事が伝えているのは、私の誤解でなければ、生まれて既に何年かになる(正確にどの程度の期間なのかは、記事からはわかりませんが)子どもの難病の治療のために、新たに子を産んでその子どもから細胞、そして場合によっては骨髄を摘出する、という話です。
この話の許しがたい点は、新生児の人間としての尊厳が全く無視されている点です。記事によると、担当医は「倫理問題を含め、1年間検討した。新生児の兄姉には他に治療法がなく、命を救うことを最優先した。新生児が成長した時、早めに本人にきちんと説明してほしい」と話しているのだそうですが、特に最後の部分が問題で、要するに新生児の体からは、当の新生児が自分の意思を表示して諾否が言えるようになる前に、骨髄などの摘出が行なわれるということを、それとは語らずに言っているわけです。
生活の豊かさの調査などでは、ベルギーは日本より上位にランクされることもあり、物質的には先進国・文化国家と言えるのかもしれません。いや、言えるのだろうかなと私はこれまで思ってきましたが、上の記事のようなことが堂々と行なわれる国は果たして先進国なのでしょうか。私には、どう良く形容しても野蛮国以上の形容は思い当たりません。付け加えると、記事によれば、同様の治療はアメリカのシカゴの研究所でも実施されているのだそうです。
片や日本では、臓器移植法の改正をめぐって話があるようです。つい最近見た記事は「「脳死は人の死」で対立 臓器移植法、改正案一本化断念」というものですが、
http://www.asahi.com/life/update/0521/001.html
河野太郎氏らが推進している改正案は脳死を人の死とするものだそうです。いい加減、こういうまやかしをやめて、もっとはっきり言ったらどうなのでしょうか。つまり、臓器移植法を改正するのは、臓器の供給を増やすためであり、そのためには生きの良い臓器が必要である、したがって、脳死を人の死とするのがよいのだ、と。脳死を人の死とするのは、結局、「生きの良い」臓器の供給を増やすため以外ではないのだ、と。こう言われて矛盾を感じない人間はどうかしていると私は思いますが、賛成するにせよ反対するにせよ(私自身はもちろん、脳死を人の死とすることには反対です)、包み隠さずに議論しろと言いたいところです。
このように書いた場合、「ではお前は医学の進歩に反対なのか」という反論が返ってくるかもしれません。それに対する私の答えは、もちろん否、です。ではどう考えるか。例えば、最初に挙げた難病のケース(といっても、具体的な病名等は全くわからないのですが)を念頭に置いて考えるなら、医学関係者がするべきは何よりも病気の原因の究明だと私は思います。そして原因が究明されれば、それに対する(根源的な)対処法が1つないしはいくつか、見つかるでしょう。その上で、倫理的に最も妥当な対処法を病人に施すのが良いと思います。
このようなやり方ではもちろん時間がかかるわけで、今難病にかかっていて重篤だというような人には間に合わないではないか、と言われるかもしれません。しかし、それでもなお、原因の究明から始めるのが妥当だと思います。健康な人間のおごりと言われるかもしれませんが(もちろん、私も含めて人間は、自分がいつ病気に陥るか、およそわかりっこないのですが)、難病にかかっている人もまた、自分が千年前でもなければ百年後でもない、他でもない今の時代に生まれついたということに深く思いを致すべきなのではないでしょうか。自分のかかっている病気は、百年後なら、簡単に治るのかもしれないが、しかし今はそうでない、そういう状況下で、自分が長生きするために、他人を(しかも、新生児であれ「脳死」状態の人であれ、ものが言えない他人を)犠牲にするようなことをしてよいのでしょうか。人としての生き方を間違ってはいけないと思います。
TSさんへ! 三宅 慶一
2005年5月24日(火)14時15分
大変丁寧な掲示有り難うございます。
TSさんの問題提起は極めて、へヴィーなところがあるので、と言うか、日々、移植と脳死〈正しく人間の材料化と言うことかも知れませんが)に係っているので、患者さんのプライバシー等も考慮に入れながら、慎重に掲示したいと思います。もう少し考えが纏まるまでお時間下さい。でも抽象論ではなくて出来るだけ身近に感じられる形で掲示したいと思っています。以前からトモさんの指摘もあり迷っていたのですが、TSさんの問題提起もあり、掲示しないよりは、やはり何らかの形で、掲示すべきかな?と思いつつあります。
ただ、私がこの業界に入った頃の駆け出しのときの最初の大きな仕事は、島根医科大学での日本最初の生体肝移植でした。(当時のドクターは、今や教授、助教授になって居られますが、いまだ懇意にしていただきご指導賜っています。)そして何の因果か知れませんが、独立創業後の最初の仕事も、京都大学での生体肝移植の術中評価のリアルタイム表示でした。其の最初の症例は、私の上の娘と同い年患者さんでしたし、次の症例もまた私の下の息子と同じ年の患者さんでした。今思っても考え深い物がありますし、人の「生き死に」の裏表である移植医療というものに縁を頂いたというのも、その後の会社経営哲学に少なからず関係したかもしれません。
2005年2月 |