江田五月 活動日誌 2002年5月 (17〜18) | >>日程表 | ホーム/総目次/5月目次/ 前へ|次へ |
今日は、9時半から議員総会。10時から本会議。まず、政策金融関係の法案につき、浅尾慶一郎さんがメリハリの利いた質問。答弁は、相変わらず官僚作文で、緊張感のかけらもありませんでした。
次いで、「テロリズムに対する資金供与の防止に関する国際条約の締結について承認を求めるの件」という、長い名前の条約案件の採決。実はこの条約案件は、参議院に送付されてから、今日でちょうど30日目です。つまり今日、参議院の意志を示さないと、憲法61条により、衆議院の議決が国会の議決とされるのです。それでは、参議院が自ら、存在理由を否定することになります。従って今日採決することは、参議院にとってはかなり重要なことなのです。
12時から、連合の健保法等改悪阻止院内集会に出席。14時のJRで成田へ。16時過ぎのJAL便でデンパサールへ。一泊して、いよいよ明日から、東ティモールの独立式典出席のため、4回目の訪問です。
前回の経験では、現地から活動報告できると思いますが、定かではありません。頑張ります。再見。
デンパサール
ただ今、現地時間で5月18日0時。デンパサールのホテルにやっと落ち着いたところです。洋一秘書と同室です。
フライトはエコノミー。夕食は、機内のモナカアイスしかありつけていないのですが、ビールで誤魔化し、これから寝ます。
今日は、7時前に起きてデンパサールの空港へ。駐インドネシア・ポルトガル大使のアナ・ゴメスさんに出会って、お互いに再会を喜びました。彼女は、この3年ほどインドネシアにいて、最も困難な時代の外交を見事に取り仕切りました。その他、駐日オーストラリア大使、いずれも駐インドネシアのハンガリー大使、バングラデシュ大使などと出会いました。インドネシアから東ティモールに行くのに、外国へ行く手続きをするのも、考えてみれば、大きな変化です。
9時40分のMZ8480便で、東ティモールのディリ・コモロ空港へ。4回目の訪問ですが、こんなに平和な東ティモールは、今回が初めてです。12時過ぎに到着。タラップを降りると、赤じゅうたんが敷かれ、国連事務総長特別代表のデ・メロさん、暫定外相のラモス・ホルタさん、ベロ司教などが一行を出迎えてくれました。こんな時代が来るとは、夢のようです。
ホテルは、インペリアル・ゲストハウスというのですが、「海の家」スタイルは、住民投票の時泊まったホテルとそれほど変わりません。それでも天井があるのは、大進歩でしょうか。
15時から、大戦中にここを占領していた日本軍によって性的被害を受けたみなさんの話を聞かせていただきました。みなさん、お年寄りばかりで、ことばは現地のテトゥン語など。間にインドネシア語を挟み、2回通訳しながら話すので、なかなか大変です。
エレーナ・グテレスさん――「日本軍に力づくで連行され、『ミチコ』と呼ばれて将校の『妻』にさせられました。3人子どもが生まれ、2人が死にました。戦後、将校は帰国し、私は何の補償もなく、子どもと残されました。以来私は結婚していません。」
サラ・ダ・シルバさん――「19歳の頃でした。ディリから何人かと一緒にラウテンまで連行され、海岸の小さな部屋がたくさんある建物で、兵士の相手をさせられました。私もその後結婚していません。」
クリスティナ・ダ・コスタさん――「13歳の頃でした。脅迫されて将校の『妻』にさせられました。小さかったからか、子どもはできませんでした。結婚したことはありません。」
リム・ファ・インさん――「14歳の頃でした。アイレウのホテルで働いていたとき、『慰安婦は1年で交代すべし』との軍医の意見で、無理やり慰安婦の交代要員にさせられ、『ハナコ』と呼ばれて1年間働かされました。食べさせてはくれましたが、お金はくれません。その後結婚しましたが、1年で別れました。」
ミレーナ・チャンさん――「私の母は、日本軍にバザルテテから連行され、ディリの最高司令官の『妻』にさせられました。娘を差し出すことを拒んで、殺された人もいるそうです。父の名前は『アベ』というそうです。母は99年に亡くなりました。」
私が、お礼とお詫びを言い、帰ろうとすると、それまで黙っていた人が次々と、堰を切ったように話し始めました。皆、母や姉妹が、慰安婦や将校の女性にされたという話です。
「私のおばさんが12歳。私が9歳。二人で田植えをしていたとき、日本軍がおばさんを連行しました。何をされたかは、幼い私にもわかりました。おばさんは2ヶ月で帰されましたが、汚された尊厳はまだ回復されていません。」
クレメンティノ・ゴンサカさん――「『サンペイ』と呼ばれ、宣撫班で働かされ、命ぜられるつど、4人の女性を将校たちの兵舎に連行し、そこで別の者に引き渡しました。私と同じように女性の連行を命ぜられ、連れてくるのが遅いといって殺された者もいます。」
セバスティアナ・グスマンさん――「母は『ササキ』という将校の『妻』にさせられ、私はその子どもです。母はインドネシア軍の侵攻のとき死にました。」
スハルト時代に、インドネシアの弁護士が補償金が取れるからと言って、登録料を持ち逃げした事件もあったそうです。傷つけられた人間の尊厳は、簡単に回復できません。個別の被害の証明は難しくても、この人たちが訴えているような事態があったことは、疑う余地がありません。日本がこれに目をつぶって恩着せがましく援助をしても、日本が尊敬されることにはなりません。日本は、重い課題を背負っています。誠実な対応が何より大切です。
全員で写真を写しましたが、アップは帰国後までお待ち下さい。
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