2001/05/23

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平成十三年五月二十三日(水曜日)
   午後一時三分開会
    ─────────────
   委員の異動
 五月九日
    辞任         補欠選任   
     柳田  稔君     吉田 之久君
     高橋 令則君     平野 貞夫君
 五月二十二日
    辞任         補欠選任   
     吉田 之久君     峰崎 直樹君
     佐藤 道夫君     石井 一二君
    ─────────────
  出席者は左のとおり。
    会 長         上杉 光弘君
    幹 事
                海老原義彦君
                野沢 太三君
                野間  赳君
                江田 五月君
                堀  利和君
                山下 栄一君
                小泉 親司君
                大脇 雅子君
    委 員
                阿南 一成君
                岩城 光英君
                木村  仁君
                久世 公堯君
                世耕 弘成君
                中曽根弘文君
                森田 次夫君
                吉川 芳男君
                小川 敏夫君
                川橋 幸子君
                久保  亘君
                寺崎 昭久君
                松前 達郎君
                峰崎 直樹君
                簗瀬  進君
                大森 礼子君
                吉岡 吉典君
                吉川 春子君
                福島 瑞穂君
                水野 誠一君
                平野 貞夫君
                石井 一二君
   事務局側
       憲法調査会事務局長
                    大島 稔彦君
   参考人
       早稲田大学法学部教授
                浦田 賢治君
       慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科教授
                曽根 泰教君
    ─────────────
  本日の会議に付した案件
○日本国憲法に関する調査
 (国民主権と国の機構)
    ─────────────
○会長(上杉光弘君) ただいまから憲法調査会を開会いたします。
 日本国憲法に関する調査を議題といたします。
 本日は、国民主権と国の機構について参考人の御意見をお伺いした後、質疑を行います。
 本日は、早稲田大学法学部教授の浦田賢治参考人、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科教授の曽根泰教参考人に御出席をいただいております。
 この際、参考人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。
 本日は、御多忙のところ本調査会に御出席をいただきまして、まことにありがとうございます。憲法調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。
 参考人の方々から忌憚のない御意見を承りまして、今後の調査の参考にいたしたいと存じますので、よろしくお願いいたします。
 本日の議事の進め方でございますが、浦田参考人、曽根参考人の順にお一人二十分程度ずつ御意見をお述べいただきまして、その後、各委員からの質疑にお答えいただきたいと存じます。
 なお、参考人、委員ともに御発言は着席のままで結構でございます。
 それでは、まず浦田参考人からお願いいたします。
○参考人(浦田賢治君) おととしの夏、早稲田で憲法の国際会議を開きましたところ、台湾から来ました報告者は、冒頭次のように申しました。イギリス人は、まずジョークを述べてスピーチを始める、日本人は、おわび申し上げますといってスピーチを始めると言うのであります。私は、そのいずれでもない形で始めさせていただきたいと思います。
 きょう、地下鉄で国会議事堂前駅でおりましたところ、左側に正門があるんですけれども、国会の正門には私どもは入れないということをもう四十年余り前から知っておりますので、ぐっと右へ回りまして別館というところに参りました。
 ずっと見渡しますと、面会があるし傍聴があるし参観がありますが、参考人というのは全くないわけでありますので、見ておりましたところ係の方が来られまして、議長、副議長、大臣の受付で受け付けていただきました。憲法が施行されて五十年余りたっておりますけれども、国会のこういう運用の仕方の見直しがなされたのかどうかという印象を持ちました。これは意見ではございません、印象でございます。
 イギリスでは二十年余り前、国会は特にハウス・オブ・コモンズに参りました。観光客として参りまして、何の検査もなしにすっと中に入ることができました。当日は、中でロード・ロイド・オブ・ハムステッドという方が私どもを案内してくれまして、ハウス・オブ・ローズの議長のバーというところに案内をしてくれました。日本での国会の議長の運用の仕方との違いを、きょう改めて強く感じた次第でございます。
 憲法改正の枠組みと題しまして、私は憲法解釈の学説を検討しまして、私の見解を述べたいと思います。
 その動機の一つは、議事録を見ましたところ、参考人と議員の間の意見、質疑はそれぞれ言いっ放しであるという反省の発言がございました。そこで、これまでの議事録を読み通しまして、あえて憲法改正のいわば枠について私見を簡潔に述べることにした次第でございます。
 第一の主題は、この憲法の基本原理・原則を全く変えてしまうことも憲法九十六条の改正条項によってできるのかということです。これは憲法改正の内容上の限界の問題と言われてきた論点でありまして、これについての解答はできないというのが通説です。資料としてお配りしましたものの中の注がございます。注、芦部信喜教授の「憲法学・T」、有斐閣から一九九二年に出たものなどがそれであります。
 こうした立論の仕方からしまして、憲法改正のいわば枠組みについて、その内容、手続及び方式について私見を述べたいと思うわけでございます。
 まず、憲法そのものがこれこれのことは改正してはならないということを定めております。一つ、国民主権の原理に反する一切の憲法を排するという前文第一段。二つ、基本的人権を侵すことのできない永久の権利だとした十一条及び九十七条。三つ、戦争、武力の威嚇、行使は永久に放棄すると定める九条一項は、これは憲法が明文で改正を禁止しています。この実体的改正禁止条項の実質を変えてしまうことは明文上できません。
 しかし第二に、実体的改正禁止条項が存在しない場合に限界があるのかないのか。この点で理論上の限界がないという少数説、無限界説がありまして、その論拠は、憲法という法形式の内部に改正できる部分とできない部分が並存しているとは考えない。また、憲法制定権と憲法改正権とを区別して両者の優劣を論じる態度をとらないということであります。
 これに対して限界説は、この二つの論拠を次のように論駁します。憲法規範というものは、その憲法体制の基本原理にかかわるものとそうでないものという二種類の規範群から成り立っていると認識しますので、したがって基本原理を変えない条項は改正できるけれども、これを変える部分は改正できないと主張します。
 また次に、革命などで政治的な実力が憲法をつくる権力、いわば憲法制定権になった場合、その憲法体制の基本原理にかかわるものを持続させるために、憲法によってつくられた権力の一つである憲法改正権に対して憲法制定権が優位しまして、その改正権限を限定することができると主張します。
 しかも、この限界説の論拠にも二つのものがありまして、一つは、改正権というものは憲法制定権に従属するのみであるというものであります。さらに二つ目は、憲法制定権を拘束する規範として近代自然法を認める説がありまして、したがってこの説では憲法制定権と憲法改正権のいずれをも拘束する根本規範があると説きます。この根本規範説が有力でありまして、かつこの説が根本規範といういわば憲法の憲法に日本国憲法の究極の妥当根拠を求めるということは私は妥当な考え方であると思います。
 なお、憲法改正の理論的限界が問題となるのは主権及び憲法制定権についてであるということを示した上で、この日本国憲法の特殊性からして具体的には九条二項も変更できないという学説もあります。注に示しておきましたように、佐藤功教授の「註釈憲法」で書かれていたことであります。
 私は、この憲法の歴史的な先駆性を強く認識するものでありますので、その立場に立って、この憲法の世界平和主義が人類の未来、将来に向けて優先的な価値を有するということを強調したいと思います。
 さて、主題の第二は、憲法改正条項を改正できるかどうかということであります。憲法改正条項であります九十六条一項では、一つ、「各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、」、二つ、国民投票で「その過半数の賛成を必要とする。」と定めております。
 憲法改正に理論上の限界がないという少数説によれば、憲法改正条項を根拠にしてこの九十六条一項をいかようにも改正できる。だが、改正条項を改正権によって変更することはみずからが憲法制定権に成りかわることであり、原則として許されない。このうち、国民投票条項を廃止することは、改正権の自己否定であって、主権及び憲法制定権の理論的な要請に明らかに反している。この説は、注にあるとおりの憲法学者の説であります。
 では、三分の二の条項を変更することは可能であるか。これはきょう御出席の木村仁議員が提起された点でありまして、あえてここで取り上げたのはそのような理由がございます。
 この学説は、さらに次のように説明を続けます。この学説は、ちょっと戻りまして、三分の二条項を二分の一条項に変更することはできないというのであります。
 この学説は、さらにその説明を続けまして、要するに憲法制定権の存在は改正の限界をむしろ縮小し改正し得る範囲を拡大する。だから、憲法改正権の上位に憲法制定権が存在するという、そういう前提を認める方が改正はしやすくなるというふうに述べております。
 この点につきましては、次のように言う説があることを特に指摘しておきたいと思います。
 このように憲法制定権を呼び出して改正権限の枠を緩めるということは、次のような慎重な配慮のもとに、これをすべきではないというのであります。今は早稲田大学教授になっております樋口陽一氏の従来からの強い説であります。要するに、権力からの自由をこそ主要なねらいとする立憲主義の立場からは、憲法制定権をいわゆる国民の名において呼び出して法的な制約を緩和するように運用されてはならない、こういう趣旨の慎重な警告が先ほど述べた憲法学者に対してなされていると私は読みたいと思います。
 主題の三番目は、憲法を改変する方式に関する問題です。
 従来、憲法を改変する方式は二つあって、一つは、憲法典中の前文ないし本文の個別的条項について削除、修正、追加を行うこと、狭義の改正です。また、二つ、新たなる条項を加えて憲法典を増補すること、狭義の増補であります。このうち狭義の増補という方式は、既にこの憲法調査会においても指摘されたように、アメリカ合衆国憲法にその例として見ることができます。
 これについて、日本の憲法学者の中では、従来の法令改正の例から見て、日本では実際問題として憲法改正については増補方式がとられることは恐らくないものと思われると言っております。
 しかしながら、江橋崇教授は、この参議院の憲法調査会で、実際問題として憲法改正について増補の方式をとる、アメンドメントという方式をとるように主張しました。私も、この増補方式説をあるべき選択肢として重視しようではないかと提言したいのであります。
 その理由の一つは、通常の法令の場合と憲法の場合では成文法主義の具体化の仕方に顕著な違いがあって差し支えないのではないか。とすれば、日本で従来行われてきましたヨーロッパ大陸法流の法令改正の例に倣わないでもよいということになります。
 第二に、日本国憲法の改正条項の精神ないし趣旨に適合するような改変の方式を選ぶという見地に立って考えることになります。成文法主義の具体化の仕方を考える際に、増補方式は憲法のすべての条文、前文及び本文を残すことになりまして、この憲法が制定された当時の精神というものを後代に残すのに役立つのであります。
 最後に、一言まとめの言葉を申したいと思います。
 第一点として、この憲法改正には内容上の限界があること、その限界を画する際の判断基準として、私は、平和的生存権、戦争放棄及び軍備不保持に集約された世界平和主義が、日本国民やアジアの民衆ばかりか、平和を愛する、かつこれを求める諸国民、人類の将来に向けて擁護すべき優先的な価値を有するものだという点を強調したいと思います。
 第二点は、憲法制定権論を認めない立場からしても、これを認める立場からしましても、三分の二条項を二分の一条項に変更することはできないということになります。
 第三点として、憲法を改変する方式としての憲法解釈としては、修正条項を付加する増補方式がこの憲法にふさわしいということであります。
 ただし、私は、日本国憲法を擁護し、これを国内外に広めることが私どもの役割だと考えておりますので、この憲法の発展的な意味を積極的に実践していくことを自他ともに勧めたいと思うのであります。
 もう一言、感想を述べさせていただきたいと思います。
 ホームページを見ますと、この参議院の議事録の一番新しいところに次のような発言が載っております。今の憲法学者はひきょうだというのであります。
 ひきょうという言葉には二つの意味がありまして、一つは、例えば戦闘が行われている場合に兵士が逃げ出すという、そういう意味がありまして、これは兵士として心根が曲がっている、倫理的にも全く許されないことである、そういう意味があります。
 しかし、辞書を調べますと、ひきょうという言葉にはもう一つの意味がありまして、用心深いために危ないところには近寄らないということであります。憲法学者すべてを私は掌握しているわけではございませんけれども、とかく今回の憲法調査会というものが、危険への接近をしたくないという用心深い憲法学者たちの態度を生み出しているのかどうか。
 つまり、今の憲法学者は無関心、情けないと言われる一議員の発言を受けとめますと、なぜ憲法学者たちがこの憲法調査会なるものに近づかないのか、その原因をよくよくお考えになりまして、その上で参考人としてお呼びになるという新たな方策をとられてはいかがであろうかという、そういう感想を持った次第であります。
 以上で終わります。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 次に、曽根参考人にお願いいたします。
○参考人(曽根泰教君) 御紹介いただきました慶応大学の曽根でございます。
 時間に限りがありますので、レジュメに基づきまして手短にかいつまんで申し上げたいと思います。
 私がここで申し上げたいことは、もし今、憲法改正を行うのだとするならば、それは一九四六年、七年、戦後の時期に時間を戻して、そこで改めて憲法を書くということではない。もし今、書くのであるとするならば、二十一世紀型の憲法を世界に先駆けて検討することではないか、こう思っております。
 ただ、社会が変化した、環境が変化した、だから憲法を変えろという単純な説はとっておりません。この五十年間においてさまざまな変化が発生いたしましたけれども、その発生した変化が憲法の根本にかかわる問題としてどうかかわっているのか、その前提で憲法を論ずるべきであるだろうと思います。
 同時に、憲法を考えるということは、政治的な文脈でいえば、当然のことながら改憲のコスト、改憲の政治的なコストというのは大変大きいわけであります。その高いコストを支払っても憲法を変えるだけの意味はあるかどうか、これが重要なポイントになると思います。
 同時に、きょうの主題であります主権の問題あるいは統治機構の問題、これらのことに関しまして私なりに幾つかの原理から私見を述べさせていただきたいと思います。その上で、首相公選の問題あるいは政治改革における政治的リーダーシップあるいは政治主導の問題も触れたいと思います。
 言うまでもなく、現在の社会は大きく変化しております。ただ、変化している中でいかなる憲法的な意味があるのかということを考えるときに、多分、統治構造の問題よりも権利とか義務の関係において我々が考えなければいけない問題としては、例えば今後予測される社会は少子化、高齢化の社会であるわけです。あるいは経済が右肩上がりでそのまま進行するとはとても思えません。あるいは社会の秩序を維持するときに従来のようなコミュニティーに依存してよろしいのか、こういう問題もございます。
 ただ、重要な観点といたしまして、社会がただ変化するということ以上に、先ほど申し上げましたように、憲法的な問題とのかかわりで二、三、私なりの観点から重要な点を取り上げたいと思います。
 その一点は、いわゆる主権にかかわる問題であります。この主権にかかわる問題というのは、国民主権という従来、通常用いられる憲法の問題というよりも、むしろ国際政治あるいは国際関係における主権の問題として取り上げたいと思います。
 通常の国際関係あるいは国際的な秩序というのは、主権国家を前提としてできているのが普通の解釈でありますが、その主権を前提にした一種の演繹的な体系として憲法を論ずることだけで十分なのかという、こういう問題であります。ここで申し上げる主権というのは、いかなる外国にも従属せず、その支配地域において完全かつ排他的な権限を有するものというふうに理解しておきます。
 なぜこのようなことを申し上げるのかといいますと、一つには憲法ができて以来、核あるいは核兵器の出現ということが世界秩序を大きく変えたわけです。つまり、自国の安全を全うすることが大変難しいことになったということが言えると思います。核の出現ということ、あるいは核抑止という概念が出てきたということは、安全保障上大きく変化いたしました。
 また、最近の例で申し上げますと、アジア金融危機ということを経験いたしましたアジア諸国は、自国の金融政策あるいは自国の通貨を国際的なヘッジファンドを初めとする資本の流れになかなか抵抗することができないという現象がありました。これはむしろマイナス面であるわけですが、ヨーロッパにおいては通貨統合の方向に進んでおります。ユーロが既に現実のものとなっております。そうしますと、金融政策はいわば主権の制限として各国政府が受け入れたことになるわけです。あるいは情報、金融の世界ではグローバリゼーションは非常に速く進行いたしました。一九四六年、七年当時とは大きく異なっております。
 あるいは環境というものを考えるときに、一国の判断だけでは済まない、つまり環境問題を論ずるときには他国に及ぼす影響、あるいは他国から及ぼされる影響、大気においても海洋においてもそういう問題が発生しているわけであります。総じて自国のことは自分で決めるという、それだけでは済まない難しい問題があるということがおわかりいただけると思います。
 さらに、次に、この五十年くらいを振り返ってみますと、経済というものが大変発達したわけです。であるわけですが、その経済をいかなる形で憲法的な枠組みの中で考えるか、あるいは政府と市場との関係をどのような整合的なものにするかということをやはり明記すべき点として取り上げたいと思います。
 例えば、現在日本で不良債権処理というのは小泉内閣においても重要な課題となっているわけでありますけれども、私自身、企業、金融機関あるいは日銀、大蔵省などを含めまして幾つかの失敗があったと思います。それは、バブルの発生を抑制することができなかった失敗がまず一つ目の失敗であります。バブル崩壊後の処理の失敗も、重要な失敗として二点目に挙げることができると思います。さらに、最近起きている不良債権というのは、実はバブル後の、バブル処理の失敗にプラスして、それ以降貸し出したもの、あるいは担保不動産の価格が低下したことによる不良債権として積み上がっているもの、これが三つ目の問題としてあるわけです。
 ですから、このような問題を考えるときに、憲法の問題としてではなくて個別の企業のコーポレートガバナンスの問題として考えることももちろんできるわけですが、市場トータルなシステムとして考えると、その市場をいかにモニターするのか、あるいは金融システム、金融秩序をいかに維持するのか、こういう問題はやはり憲法的な枠組みの中で考えるべき問題と考えております。
 もう一つ、金融あるいは情報ということを重ねて考えてみますと、グローバリズムというのがこの十年間、特に進行いたしました。グローバリズムというのは、一般的には、日本はグローバリズムの波を受けるというそういう理解が多いわけでありますけれども、実はこの十年間、もっと長くとってもいいと思いますが、日本はグローバリズムの当事者であり、そのグローバリズムの恩恵をこうむりながら経済活動あるいは技術情報活動をしてきたわけです。そうしますと、そのとき日本がいかなる意識と覚悟を持ってどんなグローバリズムの秩序をつくるのかという、こういう問題が必要になってくるわけです。
 先ほどの主権の問題とかかわるわけでありますけれども、つまり通常の国家が持っている国内秩序とグローバルシステムとの接続の問題を考えないことには、現在では憲法を論ずることは非常に難しくなってくるのではないか。つまり、憲法がそこだけでは完結しないという、そういう理解を私はしているわけであります。
 そういう点から、国連であるとかIMFであるとかWTOであるとか環境会議であるとか、さまざまな国際機関秩序があるわけですが、実は憲法を論ずるということはそういうグローバルなシステムをいかに構築するか、あるいはグローバルガバナンスをいかに確保するかという問題と密接にかかわっている、こう理解しております。
 IT革命ということも随分何年か言われているわけですが、これもさまざまな立場から別の解釈が可能だと思います。経済的な現象としては、IT革命というのは経済活動のフロンティアを拡大した、こう理解してもよろしいと思いますし、あるいは技術的にはデジタル情報をネットワークを通じて世界大に拡大していくこと、こういう解釈も可能ですが、私は政治の方の立場から、IT革命あるいはインターネットというのは新しい公共空間というものをつくり得るのかどうか、こういう理解をしております。
 遺伝子、クローンなどの新しい技術は、生命倫理あるいは生命倫理学者だけにゆだねる問題ではなくて、これは国会のテーマあるいは憲法のテーマたり得る問題なのではないか。例えば、人とは何か、死とは何か、あるいは自己とは何かということが実は遺伝子、クローンなどを論じていけばいくほど発生するわけであります。ですから、こういう問題を考えると、憲法的なテーマの一部に入り得るというふうに理解しております。
 ただし、このような社会変化あるいは環境の変化ということをもう少し統治の面から考えて、私なりに三つの観点を取り上げて、そこから具体例を持ち出して話を進めたいと思います。
 一番目の問題は、まずガバナンスという概念を使うことで今まで見えてこなかった問題が幾つか可能であるだろう。残念ながら、ガバナンスに関する統一的な訳はなかなかありません。通常、統治と訳されますが、中国へ行きまして北京大学の先生と議論したときに、統治はちょっと強過ぎると、支配に近い概念であるから違う訳がいいだろうと。日本では協力の協、協治とか、あるいはともに治める共治などを使いますと言ったら、いやそれは違うと。中国語の語感からすると、それは連立政権あるいはフランスの政治のコアビタシオンと言われる、そういうものを指すんだと。強いて中国語で言うならば、治めるという字に理科の理、治理というのがいいんではないか、こんな意見がございました。ただ、訳語としてはまだ統一しておりませんので、片仮名のガバナンスを使わせていただきます。
 なぜガバナンスという概念を使うことが意味があるのかと言いますと、政府以外にも政治概念を秩序の解明に利用できる点にあります。しばしば指摘されるのは、ガバナンス・ウイズアウト・ガバメントと。ガバメントなきところのガバナンスと。特に国際政治、国際秩序の場合には、そのようなことが利用されるわけであります。あるいはコーポレートガバナンスのように、企業というのを理解するときにも政治概念あるいは政府概念を使って、主権はどこか、三権分立を実行するためにはどうしたらいいかというような議論がなされているわけです。あるいは制度と制度との間、例えば政府と市場との関係というのは、実はなかなか政治学、経済学、行政学、それぞれの立場でうまく接合ができていないんですが、ガバナンス概念を用いることによって関係を解明できる、こういう利点もございます。
 これを考えるときに、一つ重要な点、既にこの憲法調査会でも出てきている話でありますが、三権分立概念と議院内閣制というものが実は違う原理から成り立っている、あるいは違う原理とは言わないまでも異なる主眼、異なる力点の置き方から成り立っているというふうに考えているわけでありますが、私自身そういうところをもう少し強調したいと思います。
 つまり、三権分立というのは法決定、法執行、法裁定というひとつの役割分担が三つの機関でなされると通常理解されているわけですが、これに対しまして、統治とコントロールということで東大の高橋和之教授などは別の解釈をしております。それが、議院内閣制あるいは国民内閣制という呼び方をしておりますが、そういう発想で見ると現行の政治あるいは行政というのはよくわかると。私の言葉に置きかえると、それはマネジメントとモニター、意思決定とモニタリングの関係であります。
 それをもう少し具体的に申し上げますと、現在首相公選論というのがかなり唱えられておりますし、世論調査では相当の支持があります。ただ、もし首相公選を導入したらどういう結果が起きるのかということを現在の実例から幾つか考えてみますと、例えば選挙というのは民意の反映であると同時に政権の選択、政府をつくるということであります。そうしますと、首相公選が政権選択だとすると衆議院選挙は政権選択ではなくなる、役割が明らかに変わるということになるわけです。これはアメリカの下院議員選挙、イスラエルの国会議員選挙などを見ているとそういうことが言えるわけです。また、政党あるいは議会、内閣の相互の関連性が薄まるわけです。ですから、政党政治、議会というものが、首相公選、特に準大統領制と呼んでもいいと思いますが、導入すると弱まる。
 これを、もう少し今まで行ってきた政治改革の理念と方向性に接合させるためにはどうしたらいいか。つまり、内閣主導による政治主導であったわけです。議会は政府・与党対野党、選挙区における小選挙区制というのは政府対野党を選挙区にも持ち込むということであるわけです。
 一つの解決策というのは、自民党が行いました予備選挙、あるいは党首公選制ということを導入することによって、党も強くするし、そして現行システム、議院内閣制のシステム自体も生かす、こういうことであるだろうと思います。
 あと二点、申し上げたいと思います。
 それは、一つはシビルソサエティーの問題であります。
 一般にアメリカ社会は政府と市場の二分法で理解されることが多いんですが、実際は教育、研究あるいは社会保障の分野などはNPO、NGOが活躍しているわけです。ということは、いわゆるシビルソサエティーと言われる領域ということを今後もっと増大する方向で理解する方がいいのではないか。ただし、そうなりますと、政府というのは税で、市場というのは売買で、NPOというのは基本的には寄附でという、原理が違っております。資源配分はかなり選択的なものになるわけです。例えば、相続税を払うかわりに大学へ寄附をするなんということは、今までの資源配分とは変わってくるわけです。あるいは財務省の役割が変わってくるということが言えるわけです。ですけれども、それも一つの決断であるわけです。
 社会的なイメージとして、政府と市場の二分法ではなくて、その間にNPO、NGOの領域が拡大して、そしてそれは選択的に国民が活動に寄与できる、そういう社会を想定することも重要かと思います。
 もう一つの概念は、セキュリティーという概念であります。
 これは、安全保障から社会保障まで、ナショナルセキュリティーからソシアルセキュリティーまであるわけですが、実は中心的な概念はリスクであります。つまり、リスクは個人で負担することができない、家族で負担することができないゆえに社会に依存する、あるいは保険制度ということで保障することになるわけです。個々の国家もリスクを個々の国家で負担し切れないときにコレクティブセキュリティー、集団安全保障というようなものが発生するわけです。
 ただし、今問題になっております集団的自衛権の問題は、このコレクティブセキュリティーと個別自衛権との間にどういうものが想定できるか、そこに一つの難しい問題があるかと私なりに理解しております。例えば、国連というものを想定することは非常に理解しやすいわけですが、多国籍軍というものを考えると、それはコレクティブセキュリティーに入るのかどうか、集団的安全保障に入るのかどうか、これが難しい点であるだろうと思います。
 もう一点、このセキュリティー概念で難しいのは、社会保障から国際公共財まで、その費用はだれが負担するのか、非常に難しい問題があります。しかしながら、セキュリティーということで、政府がそのセキュリティー、つまり一種の保険を最後に引き受けるという役割はやはり逃れられないんではないかということを理解しております。
 最後に、どんなような憲法の姿を考えているのかといいますと、基本的にガバナンスの構造が理解できれば、それは統治機構なり、政府と市場との関係なり、あるいはグローバルシステムとの接続なり、それが理解できれば、あとそれを文章化することはそれほど難しくないだろう。今もし議論するんだとするならば、二、三十年先を見通した憲法論でなくてはならないだろう。それから、将来世代をできるだけ縛らないものが望ましい。そして、柔軟かつ簡素な憲法的枠組みを私は想定しております。
 以上でございます。
○会長(上杉光弘君) ありがとうございました。
 これより参考人に対する質疑に入ります。
 質疑のある方は順次御発言願います。阿南一成君。
○阿南一成君 自由民主党の阿南一成であります。
 両参考人におかれましては、大変貴重なお時間を当調査会のためにおつくりいただき、そしてまた今有益なお話をお聞かせいただきました。心から御礼を申し上げます。
 早速ですが、首相公選制について曽根参考人にお伺いをしたいと思います。
 首相公選制は、現行制度では首相選出に民意が反映されないという国民の強い不満にこたえるものであろうかと考えるところでありますが、私は他方で、ムードに流されやすい安易な人気投票でもし仮に首相が決定されてしまうということになってはいけないというふうに考える者の一人であります。
 私は、最近の日本人について、一般的にはインテリまでが活字離れをしておる、マスメディア、特にテレビから得た情報をそのまま自分の考え方としてしまうような傾向があるのではないかと考えておるものであります。
 かく言う私なども、暑い夏の盛りには、仕事が終わりますと、家に帰ってからまず冷蔵庫からきゅっと冷えた缶ビールを取り出し、多少お行儀が悪いのでありますが、すててこ一つになって、ピーナツを口にほうり込んで、テレビのプロ野球中継を見ながら松井頑張れなどとやっているわけであります。また、女子大を出た相当にインテリと言われるような家庭の主婦なども、例えば松田聖子さんがびびっときて結婚するとか、あるいはまた時を経ずして離婚するらしいなどという芸能番組にくぎづけになっていることもあるわけであります。日本の相当な知識人と言われる層の方々も、テレビ時代の今日、芸能とスポーツとクイズの中に身をゆだねているというのが現状ではなかろうかと思います。
 もちろん、息抜きは息抜きで必要でありますけれども、彼らの政治経済に関する情報源がごく限られた一部のニュース番組、しかも特定のニュースキャスターやコメンテーターから得たものを自分の政治経済に関する考え方のベースにしておると仮にするならば、いかがなものか。そして、そのキャスターたちのコメントを知らず知らず自分のうちに、考えの中でうのみにしてしまうということもあるのではなかろうかというふうに思っておるわけです。
 このような状況で首相公選制を導入した場合、ごく一部のテレビ番組によって首相が決まるというような事態にでもなれば、これは大変なことであるなと考えております。
 そこで、曽根参考人にお聞きしたいのでありますが、首相公選制を導入するとすれば、単なる人気投票で首相が決まるというおそれがないように、導入するとすれば、私はポピュリズムの弊害に対する歯どめが必要であると考えております。この点、どのような有効な手段があるとお考えでありましょうか。また、それが民意であるとのお考えであれば、またそれも結構であろうと思います。
 なお、恐縮ですが、私の持ち時間は十五分ということでございますので、その中で参考人の先生方にぜひともお聞きしたい点、質問が三点ございます。したがいまして、大変恐縮でございますが、でき得ることならば簡明に要点のみを御指導いただければ幸いであると思います。
 よろしくお願いいたします。
○参考人(曽根泰教君) 今の御質問に対してお答え申し上げます。
 まず、世論調査で今までの過去の経験でいくと七〇%あるいは八〇%近くとった首相、内閣があるわけですが、半年後、一年後になると五〇%を割っていたりするわけです。ですから、国民の選択というのはあくまでもある時点、ある点を切ったときに非常に高い支持率、多分その人が当選するというふうに思います。ただ、世論は時間がたつと変化いたします。この問題はなかなか難問の一つであります。
 ですから、それは世論が一番高い支持をした人をもって首相とすることが正しいのかどうか、これに関してはメディアポピュリズムの弊害は当然発生するだろうと私は思っております。それを回避する方法は、首相公選という制度自体では難しいと思っております。
 現実に、メディアポピュリズムを何とか制限するとか新しい民主主義の過程にするというので、私は、今実験的に討論民主主義あるいは熟慮民主主義というんですけれども、デリバレーティブポールということを、私がやっているんではなくてアメリカの学者、ヨーロッパの学者などがやっておりまして、二十回ぐらいもう実験しております。これは、時間がないので詳しく説明いたしませんけれども、全国から例えば三百とか三百五十のサンプルを集めて、二日間ぐらいかけて討論をし、専門家の意見を聞いて、そして判断をするという、それをテレビ中継をしているというシステムであります。これは一つのメディアポピュリズムを回避する熟慮のプロセスを入れてくる一つの方法として考えられ得るものだと思っておりますが、これと首相公選とは直接結びつきません。
 そして、首相公選、先ほど申し上げましたように首相を選ぶだけで済めばいいんですが、そうではなくて、これは議会あるいは政党政治、選挙、全部変えてしまうということであります。というのは、首相だけを選挙で選ぶということにとどまらず、それはいわば大統領制ですから、議会の役割を異なるものにするわけです。
 イスラエル、アメリカのように、なぜイスラエルが多党化したのかといえば、それは政権選択は首相でよろしい、ところが同時の選挙において、宗教代表、単一争点代表、利益代表を国会議員選挙でする傾向がますます強まったわけです。アメリカの下院議員もそうです。
 ですから、先ほど衆議院選挙の役割は変わりますと言ったのはその点でありまして、首相がかわるだけではなくて、議会の構成、役割、姿が変わってしまうわけです。それを覚悟の上での首相公選ならそれは意味があるんですが、それは首相公選とは言わずして、もう既に大統領制と私は思っております。
 そして、解決策としては党首公選、つまり予備選挙、あるいはアメリカで言うプライマリー、これの拡大、これは党の組織を強くすることであります。あるいは自民党だけではなくて民主党もおやりになるのかどうかわかりませんけれども、つまり党費を確保すること、あるいは党員を拡大すること、国民の関心を抱かせること、もう少し工夫があってはいいんではないか。そして、党首公選であるならば、これは憲法的な改正とは関係なしにできることであります。ですから、私の理解では、党首公選ということをもう少し進めることによって実体的には国民の選択をふやすことになる、こう理解しております。
 以上です。
○阿南一成君 ありがとうございました。
 さらに曽根参考人に御質問をしてみたいと思います。
 各地の知事選挙の結果などから、最近は有権者の政党離れという現象が顕著であります。今、国民は、政党に限らず官僚制、金融システムなど、戦後のこの日本の成長を支えてきたあらゆる構造にノーを突きつけていると私は思うのであります。また、私は、マスメディアも無責任にも無党派層のこのような行動をあおっているかのような嫌いもあると考えております。
 しかし、官僚制度一つをとってみましても、ただ単に霞が関をたたくというだけでは優秀な頭脳集団を失い、その後に続くものの道をも閉ざすことになり、国家の損失を招くものと私は考えております。私は、霞が関のエリートたちは、国民の皆さんが見ている、あるいは考えているほどの巨象のような存在ではなく、政治の世界やマスメディアの世界に生きる人々に比べれば、ずっとひ弱でまじめな集団ではないかというふうに考えております。
 エニーウエー、ともかく本題に戻りますが、私は、冷戦構造終了に伴うイデオロギー対立の崩壊、価値観の多様化、多元化などにより、政党が支持を得られにくくなっている状況がいろいろとあらわれていると思うのであります。そこで、私は、国民の意見や要求を体系的な政策として統合する仕組みは議会制民主主義には必然のものであり、また不可欠のものであるとも考えております。そこで、私は政党の存在意義というものを評価し直す必要があると考えるわけであります。
 曽根参考人にお伺いしたいのでありますが、政党の存在意義についてどのようにお考えでありましょうか。また、政党が国民から信任を得ていくためにはどのようなことが必要であるか、そのお考えを御教授賜ろうというふうに思います。
○参考人(曽根泰教君) 結論から申し上げれば、私自身は選挙と議会がある限り政党というものは発生するだろうと思うんです。いかに否定したとしても、つまり政党の発生起源を見ると議会と選挙なわけです。ですから、この二つの制度を民主主義が採用している限り政党あるいは政党的なるものは必ず残るだろうと思う。ただし、国民が政党離れあるいは政党支持なし層がふえるという現象は、これは避けられない問題だと思います。日本だけではなくて、各国同じような無党派現象あるいは支持なし層の増加というのは経験しております。特に日本はその傾向が強いわけであります。
 ただし、政党支持なし層というものは一般に考えられているものとは私は違うと思います。それは、日本の有権者の一般傾向としては支持の強度をはかると強さは弱い。そして、調査のたびにかなり移動している、移っている。ですから、政党の支持ある人たちも実は支持が割と弱くて、その調査の前のときにはほかの党を、あるいは無党派であったかもしれないんです。ですから、無党派層一般という言い方で、一貫して無党派層というのは実は極めて少数派なんです。
 ですから、そういう点で無党派層を理解するということは日本の有権者を理解するということでありますから、これは無党派層という一部、例えば二〇%なら二〇%一貫して無党派層がいるなんというふうには考えない方がよろしいと思います。支持の薄い有権者をいかに引きつけるかというのは、政治家の先生方の御努力であるだろうと思います。
 それからもう一つ、官僚政治との関係の御質問であったと思いますが、政治家が官僚を使いこなすというのは当たり前でありまして、これはいかなる国でも官僚と政治家が敵対するというのは原理的にあり得ない。ところが、ともすると政対官、つまり政党対官僚、あるいは政治家対官僚というのは敵対関係のように理解されていることが多いわけですが、実は官僚を使いこなすということが政党政治の重要な点でありまして、逆に政治家が官僚に使いこなされているのではないかという、そういう不信感があるのもまた問題であるわけです。これは、内閣主導のもとに政治的なリーダーシップを発揮するということで官僚を使いこなせる政治が可能であるだろうと私は理解しております。
 以上でございます。
○阿南一成君 あと一問、実は緊急事態法制について両先生にお伺いをしようと思っておりましたのですが、一応時間の制限もございますので、また別途御指導を賜るということで私の質問を終わります。
○会長(上杉光弘君) 次に、小川敏夫君。
○小川敏夫君 民主党の小川敏夫でございます。きょうは、両先生、ありがとうございます。
 私は両参考人に御意見をお聞かせいただきたいんですけれども、私は今の日本の政治状況、森前総理の支持率と小泉さんの支持率を見まして、議院内閣制というものが本来民意を反映して総理大臣を選ぶという建前であると。私も学生のころは国民が議員を選ぶ、その議員が総理大臣を選ぶから、議員をワンクッションとして間接的に民意が反映されて総理大臣が選ばれているんだ、こういうふうに習ってきたわけです。
 ただ、今度は、自公保という与党が獲得した議席、その割合を初めは大幅に下回る支持率しか得ない総理大臣だったという意味で民意が反映されていなかったんじゃないか。今度は、小泉さんにかわったら自公保が獲得した議席の割合をはるかに超えるという意味で、また逆の意味で選挙で示された民意とは違う総理大臣があらわれているという現象を見まして、これはそうするとどうも我々が勉強して習った議院内閣制というもの、議員を介在して民意が反映されるというのがそのとおりになっていないんじゃないか、私は今もこういうふうに感じておるところなんですけれども、この現象について両参考人から御意見というか御感想をお聞かせいただければと思うんです。
○参考人(浦田賢治君) 議院内閣制なるものをどういうふうにとらえるか、特に定義をどうするかということによって答えはイエスでもありノーでもあるということになると思います。
 まず、議会の多数派が首相を選んで首相が組閣をする、そうしてできた内閣が国会に対して責任を負う。これを議院内閣制ととらえますと、これはイギリスやフランスで百年、二百年の単位で行われてきたものであります。ところが、今、小川議員が御指摘の森内閣の支持率と小泉内閣の支持率がかくも違う、これは議院内閣制という観点から見るとどう理解したらよいかということであります。
 私は、一つの観点からすると、それは小川議員が議院内閣制なるものと世論調査なるものとをイコールにしていらっしゃるからだというふうに言うほかはないと思います。ワンイシューでもって世論調査する、例えば新首相の人気投票をやる場合、この人気投票の結果、高い得票率が出た。ところが、森首相の場合についてはどうかというと、人気投票において低い率しか出ないと。このワンイシュー、ある首相を好きか嫌いか、そういうワンイシューでの世論調査の結果なるものと、議院内閣制が民意を反映して議員を選び、その議員が首相を選ぶということとは、これは別のことであると言った方がよろしいかと思います。
○参考人(曽根泰教君) 議院内閣制そのものの持つ問題と、それから党の持つ問題と、二つ混在しているのではないか。つまり、先ほどの首相公選の問題もそうですけれども、自民党問題というのがありまして、これは派閥であるとかあるいは与党有力者がどこかで森さんを決めてしまうとか、こういう問題は、これはむしろ党の中が解決してくれなければ困る問題で、議院内閣制そのものの問題とは少し違うと思います。
 それを前提として、議院内閣制と国民の選択とをどう結びつけるのか、首相の選択と選挙をどう結びつけるのかということをもう少しつけ加えますと、つい先日、イタリアで選挙が行われました。イタリアは比例代表と小選挙区の併用制です。連用制に近いかもしれません。そのときに、二つのグループが首相候補を選挙のときに掲げて、それで選挙を戦いました。ベルルスコーニは、それによって首相候補として選挙のときに国民の選択の対象になっていたわけです。
 今、イギリスで選挙が行われますが、ブレア労働党党首、現首相とヘイグ、トーリー党、保守党と戦うわけですが、例えばブレアさんの方を見れば、パーティーマニフェストはもう公開されています。私もウェブからそれをダウンロードいたしました。ですから、パーティーマニフェストというのは公約の綱領集とでも言っていいんだと思うんですね。それと、ブレア、ヘイグ、それぞれの党首はもう首相候補なわけです。国民は選挙のときに、政策パッケージ、党首、つまり首相を同時に選んでいるわけですね。ですから、選挙の役割が、さっき政権選択と言いましたけれども、首相の選択でもある。こう理解しますと、議院内閣制であっても、実際では党首を選択する、つまり首相を選択することを選挙区のレベルで行えるという、こういう理解なわけです。
 そして、それは現実には先ほどイタリアの例、それから今後行われるイギリス選挙の例でもそういう運用がされていると思います。日本はそれに近づけないのかというのが絶えず出てくる疑問なんですが、これは努力をした方がいいのではないかというのが私の意見です。
○小川敏夫君 ありがとうございます。
 その現象のことについて私なりに考えた点をちょっと御披露したいんですけれども、またそれについて両参考人から御意見を賜れればと思うんです。
 実は私は、議院内閣制の制度そのものにある問題というよりも、むしろ日本においては国民の投票行動、投票するときの投票基準がどこにあるのかということが問題があるんじゃないか。
 端的に言えば、国民が衆議院議員を選ぶとき、国会議員を選ぶときに、首班選択、政権選択という判断で投票しているというよりも、むしろ特定の団体の代表の利益を実現するためとか、あるいは選挙区のその地域により大きな公共事業を持ってくるための税金を引っ張ってくるとか、そうした利益の代表とか、そういう基準で選んでいる。そして、そういう基準で選ばれた議員が集まって首班指名するときに、必ずしもその首班指名まで国民がかたい意思で議員を拘束しているわけじゃないから、そこにぶれが出てくるんじゃないかというふうに私なりにちょっと考えてみたんです。
 先ほど曽根参考人が言われたように、首相公選制であると議会が政権選択とは別の基準で選ばれるようになるというふうにお話を聞きました。そうすると、日本の政治は首相公選制ではなくて議院内閣制ではあるんだけれども、しかし議会の議員は政権選択とは別の基準で選ばれる部分があるんじゃないか。それが今度の、同じ議員で選ばれながら、森さんと小泉さんの国民の民意の反映度が違うという現象になっているんではないか。
 私なりにこう考えてみたんですが、そうした私の考えを参考にして、また御意見をお聞かせいただければと思います。
○参考人(浦田賢治君) イギリスの議院内閣制を一つの歴史的なモデルとして考えますと、首相に選ばれる人は一つの政党のリーダーでありまして、選挙のときには選挙綱領というのを発表いたします。この綱領においてどういう政策体系を持っているか、それを基礎づける哲学は何であるか、哲学に基づく政策を実施するための施策はどういうものであるかということを詳しく出します。
 そういうある政党が小選挙区制でもって多数をとりますと、その政党のリーダーが首相になるということはこれは経験上極めて蓋然性が高いわけです。これが一つの歴史的なモデルでありまして、このモデルと日本の議院内閣制との関係を見てみますと、共通性と違いがあると言っていいと思います。共通性といいますのは、議会多数派が首相を選ぶという点であります。しかし、議会多数派を形成する選挙のあり方が、従来、中選挙区制ではイギリスの場合と大いに違いました。
 今採用されている小選挙区比例代表制の場合はどうかというと、これは似て非なるところが大いにありまして、比例代表制を加味しているという点が違いますけれども、小選挙区制のあり方そのものが違うように思います。
 私は、イギリスに二十年前に二年間おりまして、その選挙のあり方を外国人として見てまいりましたけれども、イギリスの場合は保守党と労働党と、それから当時はリベラルですけれども、この三つの政党の関係でその選挙の結果に変化が出てまいります。言ってみれば、ワンイシューでもって投票者多数が大きくぶれるということはなくて、今挙げました三つの政党のマニフェスト、選挙綱領の中のある重要課題について浮動票と言われている人々がどういうふうに動くかということによって、議会で多数派になる政党が決まってくるように思います。現在ですと、ブレアは五〇%ほどの支持率があり、保守党の方は三〇%しかないという状態ですが、そういうぶれが出てまいります。
 ところが、日本の投票者の政党選択あるいは候補者選択の基準は、小川議員がおっしゃったようなワンイシュー的な、言いかえれば特定団体代表を選ぶというようなそういう面が非常に強いという点がありまして、これは恐らくイギリスの選挙の実態と日本の選挙の実態のやはり違いとして指摘できるのではないかというふうに思います。
 特に、今日では支持政党を決めていない、いわゆる無党派層というのが多くなっていますから、こういう方々がワンイシューでもって候補者を選ぶということになる傾向があるとすれば、これはイギリスにおける総選挙、すなわち総選挙というのは首相を選ぶ選挙であるという、この選挙のシステムが日本では行われていないということだと思います。
○参考人(曽根泰教君) なぜ首相選択をしないのか。
 これは一つには、選挙制度は変わりましたけれども従来の中選挙区時代の名残りがあって、選挙というのは候補者の選択である、つまり例えば自民党候補者A、自民党候補者B、自民党候補者C、あるいは社会党A、社会党Bというような人の中から選ぶというような意識だと、これは首相選択にはなりません。これが一つ、歴史的な遺産であります。
 もう一つは、利益集団との関係を御質問だったわけですが、確かに利益集団の代表という形で、地元利益を代表する、あるいは特定利益集団の利益代表を選ぶ、これは世界的にあるわけですけれども、それがどういうふうにかかわるかという点で今回の自民党の予備選挙を見ると、実は奇妙なことが起きているわけです。
 職域代表と言われる人たちがなぜ小泉さんを選んだのか。つまり、今までの慣行からいけば多分選ばなかっただろう。そして、小泉さんを選ぶと職域代表の人たち、職域党員、党友の人たちと利害がぶつかるはずなのにどうして選択してしまったのかという、そこは非常に重要な点で、これは厳密にまだ分析をしておりませんけれども、推論を幾つかすることが可能です。
 それは、例えば小泉さんを選ばなければ参議院選挙に勝てないでしょうと、あるいは小泉さんを選ばないと国民世論、有権者から反発を受けるでしょうと、一種の予測行動が行われたわけですね。そうすると、その予測行動をする根拠というのは、当面かもしれないし本心かもしれない、そこはわかりませんけれども。それによって小泉さんが選択されたということを考えますと、この一種の予備選挙というのは、党内の問題のはずなんですね、国民とは関係ない、党員、党友の範囲だけの競争なのに実は国政選挙と同じ原理が働いていて、そこでしっかりした行動をとらないと自民党自身が崩壊してしまうという危機感があったんではないか、こう推論できるわけです。
 ですから、そういう意味でいいますと、先ほど申し上げましたように予備選挙というのは本当に党内の選択にしかすぎないんですが、既にもう党を超えて国民的な評価にさらされる、そういう事態に今は移っていると思います。ですから、これを利用するということは必要なんではないか、こういう理解であります。
○小川敏夫君 ありがとうございました。
 時間ですので、終わります。
○会長(上杉光弘君) 大森礼子君。
○大森礼子君 公明党の大森礼子です。どうぞよろしくお願いいたします。
 今、選挙制度のことが出ましたので、まずこちらの方からお伺いしたいんですが、まず浦田先生にお尋ねします。イギリスの制度についてです。
 日本で小選挙区制が導入されたときに、イギリスに倣って二大政党制を目指すんだという説明がされました。それで、その前提として確認したいのですが、イギリスの場合には二つの院、貴族院とそれからハウス・オブ・コモンズとありますが、公選、選挙は一院だけであるということ。それから、過半数ではなくて比較第一党の党首が首相になるという、これは慣習法なのでしょうか、こういう制度であると理解しているんですが、この前提はこれでよろしいのでしょうか。
○参考人(浦田賢治君) よろしいと思います。
○大森礼子君 ありがとうございます。
 首相公選制についても後で質問するんですが、これについてもよく中身を吟味してからでないといけないと思うんです。
 それはなぜかといいますと、この小選挙区制にしましても、イギリスの制度を倣ったといいますが、全然前提が違うと。日本の場合には衆議院選挙と参議院選挙と二つ公選制でありまして、しかも参議院の方では、憲法五十九条で法律案の成立につきまして拒否権に近いような強い権限が与えられております。参議院が否決しますと、衆議院の方に戻って、今度は出席議員の三分の二以上という非常に強い権限があるわけですね。ですから、連立になるというのも、日本では参議院で一つの政党が過半数に行かないから、そこで連立になるのだと私は理解しているわけなんです。
 そうしますと、みんな政権というのは衆議院選挙だけ考えるんですけれども、イギリスの場合は一つの選挙によって政権交代があり得るけれども、日本の場合には政策を争うというんですが、そうすると法律をつくって実現しなくちゃいけない。なのに、衆議院選挙で例えばAという勢力が勝っても、参議院でBが過半数をとっていれば、これはタイムラグの間、政策を実現するための法律が非常に通りにくい。政治的混乱が起きるわけですね。だから、二大政党で政策が実現可能になるためには、衆議院と参議院とで同時に過半数を占めたその時点から実効性があるわけでありまして、日本の場合ではこのイギリスの制度というのはそこがもう既に間違っていたんではないかなと私は思うのですが、先生はいかがお考えでしょうか。
○参考人(浦田賢治君) 議院内閣制について、小選挙区制を導入する根拠としてイギリスをモデルとしたと。ところが、このイギリスモデルと現に日本で採用された小選挙区制とは違う役割を果たしておるとおっしゃいましたが、それはそのとおりだと思います。
 その理由として、小選挙区制ではない理由を挙げておられますね。つまり、参議院の権限がイギリスのハウス・オブ・ローズの権限と違うということを挙げていらっしゃいますね。これは性質の違う事柄を結びつけて論じていらっしゃるように私には感じられました。
 したがって、日本における小選挙区制導入が間違っていたという理由としては、今のような理由では説得力がないんじゃないかというふうに思いました。
○大森礼子君 間違っているかどうかというのではなくて、イギリス流そのままに日本の場合にはならないということと、それからやはりそれにヒントを得て二大政党を目指してやったとしても、二つの公選制、どちらも公選だというのがあります。そのタイムラグが生ずる間に政治的な混乱が生ずるので、果たして適切な方法であったのかなという、こういう気がいたしておりますということです。
 それで、同じようにこれについて曽根先生の方はいかがお考えでしょうか。
○参考人(曽根泰教君) 参議院につきまして、イギリスとの比較のお話が出てまいりましたけれども、今度の参議院選挙について、今度に限らずですが、通常、教科書的な理解ですと政権選択ではないと言われるんですが、実は政権選択に匹敵すると私は理解しております。
 なぜ政権選択に匹敵すると理解するのかといえば、現在の与党側は、連立の根拠を参議院の過半数をとれないことに置いているわけですね。そうすると、その問題は当然政権の枠組みを問うわけですから、政権選択そのものではありませんけれども、政権選択に匹敵する選択を国民に求めているという理解になるわけです。
 そして、ではなぜそういうことが起きるのかといえば、日本の第二院、参議院の役割がイギリスに比べて極めて強い。極めて強いということは、首相指名もできる、大臣も送り出せる、それから法案に関しては、先ほど御指摘があったように参議院が通過しないことには通すことはできない。ほぼ対称形の院を二つつくったわけです。ですから、これは設計原理として二つの対称形のものをつくるということは、それなりの覚悟でつくったというふうに私は理解するものですけれども、現実に言えば、政治的にいわゆるステールメート、停滞が発生することは当然起きる。つまり、両院の意思が違うことは当然発生し得る、これは想定できることです。それが想定できるんだとするならば、一体それをどう憲法的な枠でどうそこを解消しておくのかというのは、これは課題として今もあるし、将来の課題としてもあるわけですね。
 両院の意思が違うということは政治的に非常に大きいわけですが、さっきの首相公選の場合ですと、今度は首相と議院、議会の意思が違うわけですね。ディバイデッドガバメント、つまり分断政府、分裂政府というのはアメリカでも起きるしほかの国でも起きるわけです。つまり、首相を選ぶ選挙と国会議員を選ぶ選挙では国民の意思が違う。違うと両者を解決する方法はなかなか難しい。これは政治的な決定、最終的に国会が意思決定をどうするかという、特に一つの意思に決めなきゃいけない、その問題の解決は憲法的にはつくっておかなきゃいけない、こう理解するわけです。
○大森礼子君 引き続き曽根先生にお尋ねしますけれども、小泉新総理は首相公選制ということで、例えば憲法改正もまずこれに限って考えようじゃないかと発言されているのです。
 それで私は、総理、一国のトップリーダーですね、民意をもっと反映させなきゃいけない、これについてはもう本当に同感なのですが、その方法として首相公選制というのは、ちょっと余りにも問題が多過ぎるという気がするわけです。それで、まず改正自体、これは憲法改正を伴う公選制を考えておられると思いますので、そうしますと改正自体が非常に要件が難しいことに加えまして、議院内閣制を前提としておりますので、その統治に関する規定を大幅に変えることになるのではないか。例えば国民が直接選出するとして、ではやめさせる方法はどうかとか、不信任案提出を国会ができるのか、解散権はどうかとか、それから大臣を議員から選ぶのだったら内閣の連帯責任とはどうなるかと、本当に統治の中身をぐちゃぐちゃに大きく変えるわけですので、これはなかなか難しいのではないかと思って、大幅な憲法改正を伴うということで理解しているんですが、曽根先生はどのようにお考えでしょうか。
○参考人(曽根泰教君) 私は全面改正だと思います。
 ということは、首相を選ぶ選挙だけを採用すればそれで事が済むとは思えません。そういう意味でいいますと、議会との関係、つまり解散あるいは内閣不信任案を提出できるかできないか、あるいはその条件は何か。あるいは解散の場合の条件もさることながら、つまり現状のシステムをよりよいものにするという議論よりも、制度を新しくつくりかえるというそういう発想にしかならない。つまり、大統領制に近づけるわけですね。それで、そこの首相と議会との接合部分をつけなければもう大統領制だと思います。つければなかなか厄介なことが起きるというのはイスラエルの例で経験的にも我々理解しているわけでして、簡単な問題ではないというふうに思っております。
○会長(上杉光弘君) 小泉親司君。
○小泉親司君 日本共産党の小泉親司でございます。
 きょうは両参考人、大変御苦労さんでございます。私も、まず初めに首相公選制について両参考人に質問させていただきたいというふうに思います。
 今、議論になっておりますように、小泉内閣が九条改正を政治課題にのせるのは大変困難なので、まずは首相公選制からというような、いわば改憲論の入り口にこの首相公選論はなっているという点を大変私たちは危惧しているところであります。
 私は、この首相公選制が出された背景には、やはり大変長年続いた自民党政治のもとで国民の声が政治に正しく反映しないと、だから首相を選ぶことによって少しは政治を変えたいという国民の声が非常に反映したものだというふうに考えております。
 しかし、先ほども曽根参考人からも詳しくお話がありましたように、この問題というのは、憲法四十一条が定める、いわゆる「国会は、国権の最高機関」であるということを初めとして、憲法体系全体を崩す大変不安定な制度だという点で、私たちは首相と政府を国会から独立させて執行権力の独走を招くんじゃないかということを指摘しております。
 この問題は、三十七年前の憲法調査会でもこの首相公選制の議論が大変行われて、当時の中曽根元首相がこれを大変強調しておられて、そこの報告書にも、首相公選制は独裁制への危険性を内包しているという指摘も出されているところで、その点で私たちはこの首相公選制の導入には反対であります。
 この点についてはもう既に同僚委員の御質問に曽根参考人がお答えになっているので、この点をまず浦田参考人にお聞きしたい。
 それからもう一点、そもそも首相公選制についての前の憲法調査会での議論を見ますと、例えばこう言っているわけです。これは私が言っているんじゃなくて、主張された方が言っておられるんですが、派閥の巣である国会から首相が選出されるために、国会は政権争奪の場となり、首相争奪の場となる。したがって、国会議員が大臣となること、国会が首相を選ぶこと、この二点を改めることによって派閥政治や政権不安定の弊害を解消するから公選制が必要なんだというふうに結論づけておられる。
 こうやって見ますと、つまり派閥政治の弊害からこの問題が出されたという点では、私も、専ら政権政党、自民党内の問題があったわけで、やはりこの三十七年前の議論を見ますと、今もなおまだ派閥政治の問題がいろいろ議論されているわけで、えらく長く続いているなという問題を大変問題視しているわけでありますけれども、やはりこの努力を、政党政治が派閥政治や大臣のいすをめぐる政権抗争によって国民の声に耳をかさなくなってきたというところがやっぱり非常に重大な問題なんであって、これを制度の問題に置きかえてといいますか、すりかえてといいますか、そういうことはやはりうまくないと、問題であるというふうに考えております。
 その点で、曽根参考人は最近のAERAの記事の中でも、憲法改正の前に議院内閣制で何ができるか考えてみる必要があるんじゃないかという提起をされておられます。私も、先ほど参考人が述べられたことは大変興味深くお聞きしたんですが、一つはやはり政党政治をきちんと国民の声を反映させるような形にする問題、それから私は、やはり選挙制度の改善、小選挙区制といういわば民意が反映しないような選挙制度の改善だとか、例えば選挙期間をもっと長くして国民の声が十分に反映できるような仕組みをとる問題ですとか、さらにはこの参議院でも重大問題になりましたKSD疑惑のようないわゆる政官業癒着のそういう構造を正すこと、こういう国権の最高機関として国会が名実ともに機能するということをさせるということが大変大事じゃないかというふうに考えております。
 その点で、いわゆる議院内閣制のもとで何ができるのか、国民の声を正しく反映させるという点ではどういう点が必要なのか、この点については両参考人に御意見をお聞かせ願いたいというふうに思います。
○参考人(浦田賢治君) 現在唱えられている首相公選制論なるものの意義と問題点について、三十七年前の内閣憲法調査会での議論を援用して御説明になりました小泉議員の見解の趣旨に特に異論はありません。
 私は、議院内閣制を活性化するという点についてのみ感想を述べたいと思います。
 議院内閣制を活性化するという方向で既に国会は国会活性化法を成立させ、それが始まっております。したがって、首相公選を採用するという方向とは別の方向でこれまでのいわゆる政治改革は進んできているというふうに思います。
 ですから、これとは流れを変えて首相公選制にするということになれば、これは流れを変えると、そういう意味合いを持つのではないかと思います。
 次に、議院内閣制を充実させるというためには、国会活性化法が示したように、やはりこれまでの日本の選挙とそれから政党と国会の関係、国会における与党と野党の関係、そういう関係のシステムを点検して、新しい活力のあるシステムをどうつくるかということを大きな制度設計としてやっていかなければならないというふうに思っております。
 例えば、イギリスにおける議院内閣制では、首相や外務大臣、内務大臣など内閣の中の閣僚は極めてリーダーシップを持っていまして、ナンバー委員会というのを持っているわけですね。ナンバー委員会といいますと、第一号委員会、第二号委員会、第百号委員会、第三百号委員会、この委員会の名前を知っているのは実は官僚の中枢、極めて上層部だけでありまして、閣僚の間でも、きょう例えば午後一時から第百五十委員会がありますねと言われたときに閣僚がきょとんとしていると、その閣僚はそのナンバー委員会で扱うイシューを知らないということなんですね。そのように、首相、外務大臣、内務大臣というのがもう極めてリーダーシップを持っている。
 その周りに、いわゆる閣内大臣といいますけれども、それを取り囲む六十名を超えるようなミニスターたちがいまして、さらにその二倍ほどの人々が、国会議員でありながら、衆議院議員、庶民院議員ですね、庶民院議員でありながら内閣のメンバーになっているわけです。そういう内閣のあり方というものと、現に行われている国会活性化法で達成されているところの副大臣、政務官というのはまだまだスケールが違いますよね。
 今述べたように、議員、特にハウス・オブ・コモンズの人々が内閣を担っていくということになりますと、内閣政治と政党政治というのは一応システムとしても切り離されますね。政党のリーダーというのがこれは大変な権威と力を持っているそうでありますけれども、しかし内閣総理大臣のリーダーシップというのはそれよりはるかに大きいわけであります。予算を持ち、権力を行使し、そして哲学を持ってグローバルな構想を実施するという、そういうシステムの上にいるから極めて大きいわけですね。
 そういうものとして議院内閣制というものを考えるようにしませんと、今行われているような程度の国会活性化法のシステムではまだまだ不十分であるということになります。ですから、やっぱり首相公選制にしようかというワンイシューの人気投票の影響がかくも国会でも議論されるということになるというふうに私は思います。
 したがって、議院内閣制を日本の政治風土、政治文化の中で進めていくという、そういう政治哲学を選択して、そのために必要なさまざまなシステムをつくっていくという、そういう合意をまず国会でなさるということが当面必要なことであるというふうに思います。
○参考人(曽根泰教君) 二点申し上げたいと思います。
 一点は、さっき御指摘がありました選挙区制度との関係ですが、これは議院内閣制で特に首相選択を選挙に担わせるということになると必然的に小選挙区になるわけです。そのときに、選挙の役割は、政権選択にするということはある種のトレードオフ、民意の反映という部分をいわば代償として払っても、政権選択の選挙ということで小を用いる、これはイギリス的な解決だろうと思います。
 もう一つの問題は、議院内閣制をどう実効的なものにするかという仕組みの問題でありますが、議院内閣制の政治的なリーダーシップというのは、基本的には個別議員あるいは個別族議員の政治家主導ではなくて内閣主導で行うということが重要なわけですが、イギリス的な工夫で、これは憲法的なものというよりも実際どう運営されているか私なりに調べますと、ダウニング街十番地の中にポリシーユニットというのがございます。このポリシーユニット、日本語では多分政策室と訳したらいいんだと思いますが、サッチャー時代は七、八名だったのが今三倍ぐらいにふえているそうですけれども、ここが与党との調整、議会との調整、マスコミ、世論などとの調整を行う。つまり、内閣が調整を行うことであって、そして、つまり日本ですと官僚が調整を行ったり、官僚が御説明に伺ったりという官僚と議員との接触部分を、これを副大臣、政務官を通じて行えと。つまり、官僚と与党議員、野党議員も含めてですけれども、接触を絶つということが一つだし、ポリシーユニットのようなところが中心的に調整を行うというような制度を置きませんと、議院内閣制を実効的なものにするにはなかなか難しいと思います。これは、だから憲法の改正というよりも具体的な制度改革、今でもできる、これは法律改正でできる問題というふうに理解しております。
○小泉親司君 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 大脇雅子君。
○大脇雅子君 社会民主党の大脇雅子でございます。
 浦田先生にお伺いいたしたいんですが、実は湾岸戦争参戦をめぐって、日本政府が戦費九十億ドルを湾岸協力会議に設けられた湾岸平和基金に提出し、自衛隊の掃海部隊を湾岸に派遣したということで全国各地で市民平和訴訟が起きました。
 私も名古屋でその市民平和訴訟の弁護団の団長をしておりまして、そしてこちらへそんなこともありまして参った一つの契機になっておりますので、ぜひ先生にお尋ねをいたしたいのは、この平和的生存権の理論というか、それがどういうところに法的根拠を持ち、そしてどういうところに憲法上、二十一世紀に向けて意義を持つ中身なのかと。そして、市民平和訴訟の実践的な意味というのは一体どうであったか。私は、この憲法調査会でも平和的生存権こそ二十一世紀に発信すべき重要な基本的な権利なんだということを述べておりますので、ぜひその点について先生の御意見をお伺いしたいと思います。
○参考人(浦田賢治君) 参議院の憲法調査会議事録を読みますと、既に大脇先生が平和的生存権の意義を強調しておられることがわかります。かねての御活躍に私は敬意を表しております。
 平和的生存権は、日本国憲法前文第二段に根拠を有するというのが私の説でございまして、支持者もふえてきております。
 この平和的生存権は、全世界の人民が恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有すると言っております。恐怖と欠乏から免れてということとの関連において平和に生きる権利が主張されているという点に注目いたしますと、地球社会に生きている六十億を超える民、人間の恐怖と欠乏からの自由、解放というものを追求していくという大きな活動の中で我々は平和のうちに生きる権利を追求するんだということになると思います。そのような哲学と構想力というものを持つということができる、そこに平和的生存権を主張することの地球時代における今日的な意義があるというふうに考えております。
 ちなみに、ここで陳述され質問に答えた際に、大脇先生の質問に答えられた際に参考人が、アメリカの民主主義というものは平和原則というものを持たない国の民主主義であるがゆえに問題が多いというふうに発言されておられます。ということを想起いたしまして、アメリカ合衆国においても、市民社会のレベルでも、あるいは政府のレベルにおきましても平和的生存権の意義をぜひ確認していただきたいというふうにかねがね希望しておりました。
 御承知のように、軍縮特別総会は三回開かれましたけれども、四回目は開かれておりません。そのためにこれを民間で開こうということになりまして、九九年の五月にハーグで民衆による平和軍縮会議が開かれました。それに続いて、国連事務総長の要請でミレニアムフォーラムというのが昨年五月開かれました。そういう動きの中で私どもは、日本国憲法で言うところの平和的生存権を地球レベルでの、あるいはアジア地域、さらには日本という地において行動の指針にするようにというふうに努力をしてきております。
 このような活動をすることができるのも、やはり平和的生存権というものは憲法前文第二段にはっきりと根拠を持っているということによるものと考えております。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
 曽根先生にお尋ねしたいんですが、先生は二、三十年先を見越した二十一世紀型の憲法の姿を議論すべきだというふうにおっしゃったわけですが、現行の日本の三権分立の制度を考えた場合にそれはどのように変更すべきものというふうに、あるいは変わっていくべきもの、変革すべきものというふうにお考えでしょうか。
○参考人(曽根泰教君) 三権分立制度と二十一世紀の課題という形では多分直接は出てこないと思いますが、二十一世紀的課題かどうか、例えば参議院の役割というのはこれは二十世紀的課題で、まだ解決がついていないところではないかというふうに思います。
 先ほど申し上げましたように、国民の意思と国会の意思あるいは内閣の意思というのをどう接合させるか、どう統一的なものにするかというのはどこの国でも大変難しい問題です。しかも、選択をしなきゃならない、決定すべき時間がだんだん短くなっているのが現状だと思います。危機管理はその典型で。
 先ほどリスクの話を申し上げました。リスクというのはどちらかというと確率がわかっているときですけれども、危機管理の場合には不確実性、つまり確率もわからないようなことで突発的なことが発生するわけでして、そういう点では三権分立のシステムをどう変えるかというよりも、二十世紀的な課題でいえば、三権分立を余りにも小学校から教え過ぎていて、特に大学生で、入試を通ってきた学生たちは、三権分立はわかるんですけれども、議院内閣制を理解する学生が非常に少ないんですね。つまり、議院内閣制を教えるということはやっぱりもっと大事ではないか。そのためには、意思決定とモニタリングとか、あるいはマネジメントとそのチェックのための監査、あるいはモニターの仕組みのようなもの、つまりもう少し違う角度から、これは企業経営でもそうだし、国の運営でもそうなわけです。ですから、新しいというよりも今までの経験を反省した上で、企業はコーポレートガバナンスを問題にし、あるいは国会では統治機構全体のガバナンス、ある部分だけが突出したんでは実は全体のバランスはとれないわけです。
 ですから、そのガバナンスのことなどを頭に入れた上で憲法をもう一度整理してみましょうという、そういうことではないかと理解いたしております。
○会長(上杉光弘君) 大脇雅子君、時間が参っております。
○大脇雅子君 はい。
 浦田先生にもう一問お尋ねしたいのは、先生はアメンドメントの手続ということをおっしゃっていて、しかし、これはやはり今の憲法の改正手続をそのままにしてそういうアメンドメント方式を追加するということであると理解してよろしいんでしょうか。
 それから、今申し上げました平和的な生存権という場合には、このアメンドメント方式をとったとしても改正ができない枠内と、問題だというふうに理解してよろしいんでしょうか。
○参考人(浦田賢治君) アメンドメント方式は、日本国憲法のプリアンブルと本文、各条項をすべて残します。
 このプリアンブルの中に書かれている平和的生存権が明文によって禁止されているものでないとしますと、これが憲法の基本原則の実質的なものであるかどうかということを判断しなければなりません。その判断をする際には、実は九条の一番基礎にある、基本にある憲法思想でありますので、これを変えることは憲法の基本原則を実質的に変えることになると思いますので、したがってアメンドメント方式によっても平和的生存権条項を変えることはできないという結論になります。
○大脇雅子君 ありがとうございました。
○会長(上杉光弘君) 次は、平野貞夫君。
○平野貞夫君 自由党の平野でございます。
 委員会の冒頭、所用がありまして欠席しておりまして、そのまま両参考人にお尋ねすることをひとつお許しいただきたいと思います。
 最初は質問ではございませんが、実は五月二日の朝日新聞の憲法特集の中で、私がかつてここで発言しました日本の憲法の最初は聖徳太子の十七条憲法であるという発言に対して、署名入りの記事で、こういう発言はいわゆる憲法調査会で近代立憲主義を無視した放言をしているという記事がありまして、私は大変この記事を遺憾と思っております。私が申し上げたのは、時間もなかったんですが、そういう放言でなくて、最近オーストラリアなんかでは聖徳太子の憲法から大化の改新を世界の五大政治改革に入れるべきだとか、近代西洋の民主主義というのは十七条憲法の精神で補完されるべきだというまじめな議論が世界的に行われていまして、そういう話をよく調べもせずに放言なんという報道をすることについて、私はこの場をかりて抗議しておきます。まじめな議論が当参議院憲法調査会でも行われているんだということを確認しておきたいと思います。
 そこで、まずお二人の先生にお尋ねするんですが、現在の調査会のテーマは国民主権と国の機構という項目なんですが、最もナウい問題としまして、熊本地方裁判所がハンセン病の判決で立法の不作為行為を含めて違憲判決を出して、これを政府が控訴するかしないかということで大変悩んでいるようでございます。
 私は、この判決は国民主権の根幹の思想である人間の尊重という、人間の尊厳を守るという意味で画期的な判決だったと思いますが、これを、伝えられるところでは控訴しておいて和解する、特別年金で云々というふうな報道がなされているんですが、これは権利をお金で解決しようという日本の、非常に日本政治の一番悪い部分を小泉政権は出そうかという、私は国民主権と国の機構の関係の根幹にかかわる問題だと思いますが、お二人の先生から御所見をいただければありがたいと思います。
○参考人(浦田賢治君) 質問の御趣旨の深いところを正確に理解しているかどうかわかりません。しかし、感想を述べますと、えひめ丸事件の処理のことが思い出されます。えひめ丸事件におきましては、私の知る限り、県側ではこれは訴訟にしないと言うのに対して、民間側の弁護士の方は訴訟にしようと言っております。民間側の弁護士の想定していることは、訴訟にすることによってアメリカ社会では、事件の真相が明らかになるだけでなく、その真相を究明する過程において和解、あるべき和解を追求することができるというのであります。
 ところが、ハンセン病訴訟の場合について、いわゆる国側が、つまり権力を持っている側が和解を追求するために裁判所を利用するということ、これは立場が全然逆でありまして、やるべきことではないというふうに思っております。
○参考人(曽根泰教君) 二点申し上げます。
 この事件を報道しようとした英文の新聞、日本の英字新聞、控訴して和解する、意味不明だと。つまり、外国人がチェックをしようとしたわけですね、ヘッドラインを。よくわからないという話を聞きました。それはそうなんです。ギルティーと認めたんだったらそれは控訴しないわけだし、そうじゃないんだったら裁判で明らかに闘うべきであるし、その意味するところはとても理解しがたいという率直な意見だったと思います。
 もう一つは、不作為、特に立法府の不作為というのはどういう責任が発生するのか。非常に難しい問題で、私はそれだけ十分な知識はないんですが、多分、情報あるいは注意をしていれば当然ながら予測された件に関して立法行為をしなかった、あるいは政府はその責任をとらなかったということだとすれば、これはやっぱり責任は発生する。だから、一般的な不作為すべてに責任が発生するのか。注意義務を怠った、あるいは当時訴えがあったと思うんですね、訴えがあってもそれを無視してしまったというようなことなのかによって若干異なる解釈が可能なのかというふうに思いますが、それ以上の情報は持ち合わせておりませんので、こういう理解でございます。
○平野貞夫君 大変ありがとうございました。
 浦田先生にお尋ねいたしますが、憲法を改正する際に国会に、両院にいわゆる憲法の改正案を提出しなきゃいけないわけですが、国会議員がそれぞれ両院で提出できるということはこれはわかるんですが、内閣が憲法改正案を国会に提出できるかということについて非常に我が国の憲法は明確に書いていない。内閣のかつて憲法調査会で、ここのところは不明だから憲法を直すときに直すべきだ、明記すべきだというような考えも、多数の意見もあったようなんですが、浦田先生、どのようなお考えでございましょうか。
○参考人(浦田賢治君) 今御指摘の問題は、内閣に憲法調査会を設ける際にホットな議論になりました。その結果、両論がありますが、憲法九十六条の規定を言いますと、国会が国民に対して発議をするわけでありますから、国会が主体であるという点を重視しますと、その提案権はやはり国会にあるという筋を重視したいというふうに考えております。
○平野貞夫君 ありがとうございます。
 私も国会事務局にいたものですから、憲法改正案の国会提出は内閣にはないという考えをとっております。
 ところが、小泉首相が総裁選挙あるいは首相になってからも、首相公選制という極めて国の根幹、統治機構の根っこにかかわる問題について、国会に提案権のない人が私的な懇談会をつくってそれの勉強をすると。しかも、国民の皆さんがよくその問題点について理解しない状況で、人気のある話を、総理大臣の懇談会として、そういうやり方で一つのアジテーションをこの問題、世論を上げていくというやり方は、私は両院の憲法調査会を冒涜するものであり、総理大臣として発想すべき、やるべきことではないという意見を持っておりますが、非常におかしな活動だと思っていますが、これはひとつ曽根先生に御意見を承りたいんですが。
○参考人(曽根泰教君) 本来ならば憲法調査会で論ずるべき問題と思います。
 私の理解している小泉首相の意見は、多分、首相公選論の中身は非常にあいまいな形でしかまだ提起されていなくて、その中身を勉強したいと、こういうことじゃないかという理解なんです。中身を勉強したいということだとすれば、それは憲法改正とは全く別次元の話でして、ですから具体案があって行動を移すというふうにはちょっと理解できない。
 今のところ小泉さんが提起なさっている首相公選というのは、単に首相を選ぶというところで、被選挙権はだれか、あるいは国会の推薦とかというところまでしかお話しになっていないわけでして、それ以上、国会との関係、選挙との関係、あるいは政党政治との関係、つまり変えなきゃならないのは山ほどある、こういう問題に関しては一切触れていなくて、そういう問題もありますねというような議論なものですから、これはつまり政治日程としては甚だ異例じゃないかなと思います。
 ですから、私的な勉強をなさるという意味で私は理解しております。
○平野貞夫君 一言お願いします。
 勉強なさっていることは結構だと思うんですが、ならば総裁選挙の公約に出したりすべきではないと思います、一人で勉強すればいいことでございまして。
 以上で終わります。失礼しました。
○会長(上杉光弘君) 時間が参りましたので、本日の質疑はこの程度といたします。
 参考人の方々には大変貴重な御意見をお述べいただきまして、まことにありがとうございました。調査会を代表いたしまして厚く御礼を申し上げます。(拍手)
 本日はこれにて散会いたします。
   午後二時五十九分散会


2001/05/23

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