2006年8月10日 | 戻る/ホーム/著作リスト |
死にざまの昭和史 高木規矩郎 著
昭和52年 江田三郎 享年六十九 ―― 昭和五十二年五月二十二日没
生涯貫くロマンの人生。 死の翌日、息子の出馬表明。
社会市民連合(仮称)代表の江田三郎氏は二十二日午後八時十分、入院先の東京・西新橋の東京慈恵医大病院で肺がんのため急死……七月の参院選で全国区立候補を予定していたが、過労と急性肝炎でさる十一日同病院に入院加療していた。(『読売新聞』五月二十三日より)
江田三郎は死の十一日前に慈恵医大の内科を訪れた。「最近三ヵ月の間に七、八キロ痩せた」というので、診断したところ肝臓の腫瘍が疑われた。
「父は社会党を離党し、社会市民連合を設立、参院全国区に出馬を表明して、新しい第一歩を踏み出す矢先だった」と死の翌日の葬儀に三郎に代わっで出馬表明をした長男・江田五月は、あわただしく駆け抜けた父の最期を振り返る。
「とても入院などできないといって行脚を続け、最後の名古屋では秘書の手を借りて階段の上り下りをしていた。入院したときは余命六ヵ月と言われた。それが二十日には三ヵ月、死の前日には一ヵ月、当日の朝には一週間といわれ、その日の夜に亡くなった。ちょうど僕の誕生日だった」
東大在学中に司法試験に合格、卒業後に判事補としで司法の道を歩み始めていた五月は、「政治家の後を継ぐ気持ちなどまったくなかったが、父の死で他に選択の道はなくなった」と参議院選出馬にあたっての心境を語った。七月に行われた選挙で当選して五月は晴れて参議院議員としてスタートした。
本書の執筆に際して、私は昭和のさまざまな死を検証した。テロによる死、獄中死、戦争による死、自死とさまざまだが、いずれも重々しく、暗いイメージで語られることが多い。それぞれの人生と時代そのものが写し出されたものであろうが、陰鬱な気持ちになる。だが息子の五月を通して浮き彫りにされた父三郎の死には、陰鬱さがまったくなかった。さまざまな壁にはぶつかるが、政治家としてロマンを突き詰め、、息子が父の思いを引き継いだ。病気の苦しみも短く、最後まで自分の足で歩き通すことができた。こんな「明るい死」があってもいいではないか。
明日の夢のないものにあすを生きる権利はない
もともと地上に道はない みんなが歩けば道になる
三郎が残した色紙には、さまざまな人生訓が書き綴られている。どれをとっても政治家としで自ら実践してきた道であった。戦前の人民戦線事件で一斉検挙された一人で、出獄後北京に渡り、昭和二十一年まで中国大陸で過ごした。「天衣無縫、古くて役立たないと思えば弊履の如く潔く捨て去り、新しいものを追求しでいく……」と元衆議院議員の渡辺惣蔵は追悼録『江田三郎 ― そのロマンと追想』で触れでいる。日本社会党に入党して、昭和三十五年に浅沼稲次郎委員長の誕生とともに三郎は書記長となった。だがその年の秋、浅沼が右翼少年に刺殺されると、三郎を委員長代行としで日本社会党は臨戦態勢に入った。やがて三郎は社会主義の未来像を掲げで構造改革論争の火蓋を切るが、三十七年十一月に江田ビジョンが党大会で否決されるとさっさと書記長を辞任してしまった。戦後の激動の政治ドラマは、こうして一つの山を越えた。
「構造改革を否定する経過の中で、日本社会党は次第に教条化していった。当時社会主義というのは人間社会の理想を語る言葉であったと思う。だがこの理想が原理主義的なものになっできた。理想を語るということは、常に人の気持ちを奮い立たせるものでなくではいけない。とりわけ三十年代後半に始まったテレビ時代に、どうしたら考えていることがメッセージとしで国民に伝わる発信の仕方になるのか。教条日和見主義とか裏切りという烙印が押される時代に、父はあえて社会民主主義といった言葉まで使って模索を続けた」
五月は構造改革とともに敗れた父三郎のビジョンに「もうちょっと早く行動を起こしていれば、また別の展開があったかなという感じがする」とエールを送っている。
五月は学生自治会でストライキをやったため、東大を退学になった。三郎は「外国にでも行ってこい」と言って、旅費の一部を与え、五月を東欧旅行に出してくれた。貨物船で日本をたってユーゴスラビア、オーストリア、チェコ、ポーランド、ソ連を回った。
「ユーゴでは自主管理社会主義の工場の現場や地域の意思決定機構などを知った。資本主義と社会主義の違いよりも人間の違いの方がずっと大きく、人間の違いも日本人とロシア人の違いよりもそれぞれ個人の違いの方がずっと大きいということを痛感した。制度化された社会主義というのは、決して人間の理想像ではないと思った」
三郎は五月に政治家の夢を託すようなことはいっさい言わなかったが、語らずして政治家としての教養を学ばせでいたのか。
五月は参議院から衆議院に移り、四期つとめた。そこで岡山県知事選に立候補したが落選、直近の参議院選挙で国政にカムバックした。
「人間が人間らしく扱われる社会を作っていかなくてはならない。それには平和もあるし、環境、人権、福祉もある。何より人間を一番尊ぶこと。お互いに支えあうということが世の中にちゃんと行き渡った社会を作りたい」
“五月ビジョン”は、政治家・江田三郎の理念の二重写しのように思える。民主党に日本社会党と組織こそ違っても、「人間としての幸福追求はちゃんとやっていけるような、そんなヒューマニズム」を軸にする政治の底流は父子とも変わらない。
「私は敢えて無謀をえらぶ。既成の社会党のなかでではなく、外に出て、自分の信条にしたがって、とらわれることなく活動してみたい」―― 江田三郎「新しい政治をめざして」より
江田三郎(えだ・さぶろう)
明治40年岡山県福渡村出身。昭和6年東京商大中退、全国大衆党入党。13年治安維持法違反で実刑判決。15年葬儀社(神戸)支配人を経て、18年中国に渡航。21年引揚後、日本社会党入党。25年参院選で初当選。35年書記長。52年社会党離党。社会市民連合結成。死にざまの昭和史
2006年8月10日 初版発行著 者
発行者
発行所高木規矩郎
早川準一
中央公論新社
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