2015年7月13日 |
7月11日 田邊誠さん 弔辞
田邊誠さん弔辞田邊誠さん。
先月の終わりに古い友人たちが私の部屋に来て、あなたの病状につき聞かせてくれました。
そう言えば、今年のティグレ・フォーラムの新年会には、来ておられなかったなあ、と思いながら、病状が一服したらお目に掛かりに伺おうと思っていた矢先に、訃報が届きました。またひとつ、歴戦の勇士がここに斃れると、寂しさと懐かしさばかりが先に立って、なかなかお別れの言葉が出ません。あなたの初当選は、一九六〇年秋だったのですね。六〇年安保が終わり、池田内閣の「寛容と忍耐」と「所得倍増」が始まり、総選挙となりました。直前に選管主催の演説会で浅沼稲次郎社会党委員長が刺殺され、騒然とした中で、私の父・江田三郎が委員長代行となって選挙の指揮を取りました。テレビ討論が始まったのもこのときです。私は当時、一九歳で大学一年生。父の鞄持ちで選挙遊説について行ったことを思い出します。札幌での横路節雄さんの街頭演説会は、大通公園の広場がぎっしりと人で埋まり、選挙は社会党勝利に終わりました。実はそれでも、前年の集団離党の穴を埋めるまでにはいたりませんでした。私は、父が警察の警備を、「浅沼を守れなかったお前らの警備なんかいらん」と、党の仲間たちに警備一切を任せていたことを思い出します。穏健な現実路線を唱えた父でしたが、裸の権力に対する怒りは相当なものでした。その選挙で、福岡では楢崎弥之助さんが、東京では大柴滋夫さんが、いずれも初当選しました。
若く長身でハンサムなあなたは、颯爽と議会政治の場に登場しました。しかし、安保闘争の反省に立って、構造改革論に基づき「護憲・民主・中立」の政権構想を掲げた社会党は、左派の反発を受けて路線論争に明け暮れることになってしまいました。そうした中で、あなたは六三年総選挙で落選の憂き目を見、さらに知事選に挑戦するも落選。私の父が参議院議員の任期を終わり、しばらくの浪人を経て衆議院に初めて議席を得た総選挙です。父は、何人かの議員仲間を引き連れて、群馬で蟄居している傷心のあなたのところに激励に伺ったと聞きました。そして六七年総選挙で再選され、早速私の父のグループに参加して、以来通算一一期の当選を重ねました。その後の役職の一々は上げませんが、まさに江田三郎の若き盟友となって大活躍をされたのです。その父は、あくまで現実政治の中に食い込んで政権交代のある民主主義を実現しようと、いわゆる江公民路線で「新しい日本を考える会」を立ち上げた直後に、七六年暮れの総選挙で苦杯を舐め、七七年春に「誰も付いて来るな」と言って一人で社会党を離党し、菅直人さんらと一緒に社会市民連合を立ち上げ、直後に急死。その日は私の誕生日でした。そこで私もその流れに飛び込み、社会民主連合となりました。近親憎悪なのか、社会党の社民連叩きは相当のものでした。しかし、田邊さんたちは私たちの悪戦苦闘にエールを送り、社会党の中で生まれたニュー・ウェーブなどの動きと社民連の私たち若手が連動するのを、温かく見守ってくれました。リンケージ勉強会や政策集団シリウスを作ったころです。シリウスの第一回目の講師は松下圭一さん、第二回目が田邊さんでした。お二人とも、相次いで幽冥境を異にされました。往事茫々ですね。
八六年総選挙の結果は、院内交渉団体の数のバランスが悪く、また私たちは野党間協力の強化から野党再結集へと進むことを訴え、「連合新党」構想を世に問うたこともあって、社民連の四人の衆議院議員を二人ずつに分けて、私と菅さんが社会党と、楢崎さんと阿部昭吾さんが民社党と、それぞれ統一会派を組みました。政党も、自分自身の肉体を引き裂いて接着剤になることも出来るのだと、身をもって示したのです。そのとき、田邊さんは私たちの試みをしっかりと受け止めてくれました。九一年に土井たか子さんの後を受けて社会党委員長に就任し、九二年のPKO国会となりました。私たち社民連は、PKO活動に反対ではなく、自衛隊とは別組織で参加すべきだという主張でしたが、法案に反対という点では一致し、衆議院では牛歩を含めて徹底抗戦をし、さらに田邊委員長が提起した議員総辞職願いの提出にも加わりました。残念ながらこの奇策は功を奏さず、戦い終えて日が暮れて、私たちは桜内義雄議長に呼ばれて、提出した辞職願を返されたのです。しかし後悔しているわけではありません。社会党は、その後の総選挙ポスターのスローガンを「まじめの一歩」として、あなたの歩く姿を全国に張り巡らせました。
右派の領袖で温厚な田邊委員長が、なぜあれほどの過激な戦術を採用したのか。党内バランス上、左派の突き上げに屈したのか。いろいろと言われていますが、私は田邊さんの判断に、私の父と似た心のあり方を感じます。多数派が数に物を言わせ、丸裸の権力が剥き出しで襲い掛かってくるときには、利害得失や毀誉褒貶への計算はすっかり捨て切って、とことんやり抜くのですね。その姿に、あれこれの思惑を超えた仲間同士の信頼が生まれるということを、田邊さんはよく知っていたのです。これは上州気質でしょうか、葬儀委員長の角田義一さんにも同じことを、私は感じます。仲間同士だけではありません。そういう心情は、闘う相手にも伝わり、敵味方を超えた信頼関係が生まれます。マムシだ、ナマズだと揶揄された田邊・金丸関係も、そういうものだったと思います。人に何を言われても、自分の心の中での納得を最重視し、自ら潔しとすればいかなる悪罵にもひるまないという強さですね。そしてその根本には、あなたの信仰と愛があったのですね。ただただ脱帽するほかありません。
田邊さん、あなたは九六年九月に話し合いの上で静かに社民党を離れ、民主党設立委員会に加わりました。そして、この大仕事を済ませ、同年一〇月の総選挙には鮮やかに勇退され、その後はご尊父、熊蔵さんの残された老人ホームの経営に専念しながら、何かと政治にアドバイスをし、民主党群馬のスタートにも卓越した指導力を発揮してくれました。そんな中で、若い者がいろいろ生意気を言って、本当にすみません。
田邊さん。そろそろお別れの時です。あなたにお食事に誘われたり、赤坂の飲み屋でカラオケに興じたり、あなたと一緒にいるときは、本当に楽しかった。あなたはよく言っていましたね、「江田三郎はなあ、自分は穴の開いたソックスを履いていても、若い俺らにはネクタイを買ってくれるんだ」。今も思い出します。今、政治の世界は大きく動いています。私たちは、田邊さんたちが築いてきた、人間に対する限りない愛情に裏打ちされた政治を、ここで捨てることは出来ません。今、政治の渦中にいる私たちを包む雰囲気は、ちょっと荒れてささくれだった寂しさがあります。もう一度、あなたと一緒に頑張った当時の楽しい政治を取り戻さなければならないと思っています。ぜひ、天国からお導きください。
田邊誠さん、さようなら。
2015年7月11日
参議院議員 江田五月
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