2015年8月31日

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8月31日 第2回中日韓人文交流フォーラム基調講演 於長春
       日本国・第27代参議院議長   参議院議員 江田 五月


1.はじめに

 ご出席の皆さま。まず始めに、昨年の第1回フォーラムに引き続き、この第2回にもお招きいただいたことは大変光栄であり、心から感謝いたします。

 最近、日中間でも日韓間でも様々な問題を抱えており、このようなときに、3国の有識者を集めた会議を開催することは、大変に時宜に叶い意義深いことだと思います。率直な意見交換を通じて相互理解を深め、東アジアのあり方に有意義な示唆が得られることを期待しています。今、日本の国会では、戦後70年間の日本国憲法の下での平和主義を大きく変えるともいわれる「安全保障関連法案」が衆議院で可決され、参議院での審議が大詰めを迎えようとしています。多くの国民が危機感を感じ、国会周辺だけでなく全国各地で反対の行動を始めました。また中国・韓国両国の皆さんにも注目されたいわゆる安倍首相の「戦後70年談話」が発表されました。今回は、これらのことについても、私の意見をお話ししたいと思います。

2.私の韓国と中国との個人的関わり

 前回も話しましたが、私の家族と中韓両国との関わりを簡単に述べます。私の父は貧乏な家に生まれ、小学校を出ると学業は終わりというときに、ソウルに嫁いでいた姉が、「ここまで来れば上の学校に行かせてあげるよ」と呼び寄せ、12歳の少年が一人で海を越えて、ソウルの「善隣商業」に進み、多くの友人を得ました。その後に父は、農民運動に飛び込み戦争に反対して2年8ヶ月の間投獄され、出所後に中国に渡り、母と幼い私を呼び寄せて、河北省の石家荘で水利工事に従事しました。そこで終戦を迎え、天津から無事に日本に引き揚げることが出来たのは、多くの中国の皆さんのお世話があったからだと思います。実は私の妻も、戦中の北京生まれです。個人的な事情ですが、同じ北東アジアの中にあってこうした国境を越えた経験をしたものは決して稀ではありません。太古の昔から人々の越境の友好交流の歴史があったのです。

 日本の伝統芸能に能があり、その演目のひとつに「唐船」があります。室町時代、中国では明の時代に、両国間で交易が盛んになり、併せて諍いの発生も頻発しました。あるとき、中国の祖慶が九州の領主に捉えられ、13年間が経過しました。中国に残された子どもたちが父を連れ戻しに来たところ、父には日本にも子どもが出来、さてどうするか。両方の子供たちの父を思う心に打たれた領主は、祖慶に子供たち全員での帰国を許し、家族一同で喜んで中国に帰ったという話です。境界を挟んだ支配者同士の諍いを解きほぐすのは、この場合は家族の愛情ですが、やはり民間の文化、芸術、スポーツなど、経済も含めて、そういう人々の心のこもった交流なのですね。

 私は、日中友好会館という公益財団法人の会長で、中国の学生たちの寮やホテルも有し、青少年交流事業を行っています。日中友好7団体の中では最も若い団体ですが、33年以上の歴史を有し、その前史は戦前に及びます。学生寮を巣立った若者たちは4200人以上となり、中国の要路に就いています。自己紹介はその程度にして、本論に入ります。

3.東アジア共同体―日中韓が主体的に

 6年前に私の所属する民主党が政権に就いた当初、「東アジア共同体」の構築が政権により提唱され、盛んに議論が行われました。しかしその後の状況の変化で困難な問題が生じてしまい、今では共同体構想は殆ど語られる事もなく、残念に思います。

 しかし、そのような東アジアでも、経済の分野ではすでに着々と共同体的な関係構築に向けた動きが進んでいます。みなさんがよくご存知のとおり、日本はまだ参加表明していませんが、「アジアインフラ投資銀行」の開設も着実に進んでいます。すでに欧州では、北米や中央アジアを含め、欧州安全保障協力機構(OSCE)が出来ています。社会的基盤が全く違うアジアでは難しいとの意見もありますが、私は、東アジアの土壌や地政学的環境を踏まえた東アジアらしい「共同体」構想があることが大切だと思います。

 私たちはお互いの間のわだかまりを捨て、東アジアにおける共生、共創、共栄の関係の構築を目指さなくてはなりません。競争ではなく共に創る「共創」です。もちろんASEANの役割も決して小さくはありませんが、やはり東アジアにおいて、経済をはじめあらゆる面で大きな存在感を持っている日本、中国、韓国の間の協力こそが、こうした関係構築の鍵を握っています。
実現には、政治のリーダーたちの強い意志と高い志が必要です。自分の欲に囚われることなく、それぞれが相手側の立場を理解し、メディアやネットに動かされて変動しやすい世論やその場だけの国民感情に流されることなく、毅然とした姿勢で困難に立ち向かい、同じ目標に向けて歩を進めることです。東アジアにおいて、いま一番必要なことだと思います。

4.日中関係について

 そこで日中関係について述べます。昨年11月の北京でのAPECの際に、安倍首相と習近平国家主席の会談が実現し、トンネルの中に迷い込んだ状況から、やっと仄かな明かりが見えてきました。それに先駆けて両国間で意見の一致をみた4項目は、曖昧で不明確なところもありますが、そこを突いて食い違いを暴き出すのでなく、意見の一致をみたこと自体の重要性を高く評価し、これを踏まえて、辛抱強く一つ一つ前向きの措置を積み重ねていくことが大切だと思います。日本の自衛隊と中国の軍の船舶や航空機が至近距離に接近するといった危険なことを回避するため、まずは両国政府間でこれまで協議されてきている「日中防衛当局間の海空連絡メカニズム」の早期運用開始に努めるべきです。丁寧な積み重ねの機運が盛り上がってきたところで、来月上旬に期待された安倍首相の中国訪問が延期されたことは、大変残念です。

 日中友好会館の会長として一言申し上げれば、日中間の外交上の緊張により、日本政府の予算で実行している青少年交流事業が、一時は中国側の意向で中止、延期となり、多額の予算が消化できずに返納せざるを得ませんでした。たとえば折角快く引き受けてくれたホームステイ先が突然のキャンセルで困惑し、「もう中国との交流はご勘弁を」ということにもなり、大変な困難を経験したのは事実です。今では元に戻ってホッとしていますが、人的交流は将来を見据えた息の長い営みです。台湾や韓国と日本との交流は、同じような問題があっても、予定通りに進んだのです。日韓間では今年も、東京とソウルで、「日韓・韓日交流おまつり」が行われ、両国の若者たちによる歌や踊りで賑やかです。ぜひ、中国の皆さんの配慮をお願いします。

 日中間の交流で残された課題は、まだ日本から中国への訪問が回復していないことです。私たちも一層の努力をしますが、是非受け入れ体制を整えて下さい。双方向の交流が実現してこそ、本当の意味での信頼関係が醸成されるのです。今年5月に二階自民党総務会長が3000人で訪中した際に、習近平国家主席は民間交流強化の必要を強調されましたが、まさにその通りです。

5.日韓関係について

 次に日韓関係について述べます。今年は戦後70年ですが、日韓国交正常化からは50年です。つまり戦後、日韓の国交正常化までは20年を要したのです。かれこれ100年ほど前から半世紀ほどの間に、日本側の進路選択の誤りにより、不幸な歴史があったことを忘れてはなりません。日中間ではちょうど100年前に「日華21か条要求」がありました。朝鮮半島は1910年の韓国併合条約によって、日本の統治下に置かれたのです。この併合は国際社会から拒否され、45年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し降伏すると、朝鮮の皆さんは日本から独立しました。「光復節」ですね。

 戦後20年間の日韓関係は、それ以前の不幸な歴史を引きずって漁船の拿捕などが起き、また朝鮮戦争が勃発することになりました。日本は皮肉なことに、この戦争の特需によって戦後の復興のきっかけを掴むというように、両国にとって悲劇の連鎖は続いたのです。国交正常化交渉は51年ころから断続的に重ねられ、65年6月22日に日韓基本条約を調印して国交が樹立しました。合わせて請求権・経済協力協定を結び、日本は韓国に3億ドルの無償供与と2億ドルの貸し付けをすることとし、日韓間の請求権は完全かつ最終的に解決されたと協定には記されました。この条約締結の時には日韓双方で反対運動が激化し、反発の解消と関係円滑化に向けた努力が重ねられましたが、まだ軋みが続いているのが現実です。

 そして最近は、いわゆる慰安婦や朝鮮半島出身の徴用者の問題が懸案となっています。私も日本の政治に携わるものの一人として、法的に「解決済み」という条約の合意を守りますが、軋みがあるという事実に目を瞑ることは出来ません。私は、民主党の「未来に向けて戦後補償を考える議員連盟」の会長をしており、高齢化し少数となった慰安婦など当事者の声に耳を傾け、状況を好転させていく努力を続けます。ドイツは第二次大戦の戦後処理として、フランスやポーランド等で起こされた訴訟に対し、米国の仲介を得て条約を結んで基金を作り、訴訟外の解決に繋げました。そのような外国の例も参考になると思います。今月3日に民主党の岡田代表は朴大統領と会談しました。安倍首相との日韓首脳会談も早期に行われるべきですが、双方の国民同士の理解促進への努力が何より大切です。

6.安全保障法制と戦後七十年談話

 注目された安倍首相の戦後七十年談話は、発表まで紆余曲折がありました。当初は、それ以前の歴代首相談話の継承に否定的で、自分の歴史観に基づく談話を終戦記念日の8月15日に、閣議決定を経ずに発出する方針のように見えましたが、有識者懇談会の提言や世論の反発、対外的配慮などからこれを改め、前日の14日に臨時閣議を開いて談話を決定しました。安倍首相は「歴代内閣の立場は今後も揺るぎない」と述べ、キーワードと言われる「侵略」、「植民地支配」、「痛切な反省」、「心からのお詫び」のすべてを使い、「積極的平和主義」の下で世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献していくとの考えを表明しました。さらに日本政府は各国に対しても外交ルートを通じて説明し、談話の英訳を首相官邸のホームページに掲載したほか、中国語と韓国語の参考仮訳も、両国の日本大使館のホームページ上で公表しました。安倍首相は、日中韓3か国の外相会議が実現したことを踏まえて、まずは日中韓3か国の首脳会議を実現させたい考えを示しており、今後、両国の談話に対する反応も見極めながら、働きかけを強めていくと思われます。

 この談話は主語が曖昧で、歴史を第三者的に記述しただけとも読め、首相の言葉が「本音」か「建て前」かがよく判りません。皆さんの率直なご意見をお伺いしたいと思いますが、私は、安倍首相に中国や韓国の皆さんを無用に刺激したくないという配慮があったことは確かで、これはまた日本国民の気持ちでもあるのです。その点はぜひ判っていただきたいと思います。

7.終わりに

 日本は国民主権と立憲主義の国です。政府の指向するものが国民の意向と食い違うと、その政府は立ち行かなくなります。現在進められている安保法制審議の状況を見ても、戦前の過ちを繰り返さないという国民意識は十分に根付いています。私も日本政府に反対の立場ですが、政府がどうであれ、国民の戦後70年の歩みに対する確信と愛着は揺るぎません。そこで大切なのは、日中韓
3か国の国民同士の相互理解と信頼や友情です。中韓の皆さんにもぜひ、日本国民の反戦と友好の思いを理解いただき、さらに深化した関係に発展させるように、お力添えをお願いします。

 私は最近、中国の日本理解につき新たな発見をしました。魯迅に「藤野先生」という短編小説があります。彼が日本の仙台に留学したときの日本人教師との交流の話で、魯迅は、「藤野先生は全中国人民のことを思って自分の教育に当たってくれたのだ」と話を締めくくります。私が感心したのは、この話が中国の若者の教科書に掲載され、みなこれを知っているということです。青少年交流団の歓迎会で中国側の参加者に尋ねてみたら、大多数が手を上げたのです。私はそれ以来、「中国の教科書は日本批判ばかりではないよ」と言うようにしています。

 日本と中国も韓国も、お互い引っ越すことができない隣国です。韓国では減ってしまったようですが、同じ文字を使用する漢字文化を育んで来ました。漢字は表意文字ですから文字自体に意味があり、書道芸術も他の文字文化にない独自の文化です。多国間の書道展の企画も私のところによく寄せられます。この日中韓人文交流フォーラムがこれからも回を重ね、私たちの東アジアにとって意義あるものへと発展していくことをお祈りして、私の話を終わります。

ご清聴有り難うございました。


2015年8月31日 8月31日 第2回中日韓人文交流フォーラム基調講演 於長春

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