1965年11月21日 |
先進後進(47) 学生運動の今昔
相原 ぼくは大正の最後の年に旧制一高にはいったんだが、クロポトキンやマルクスを読んだというだけで停学処分になったんだから、今昔の感にたえないね。そのころは、学生を対象にする運動ではなくて、ロシアのインテリゲンチアの運動のように、むしろ学生の身分をすてて“人民のなかへ”(ブ・ナロード)というムードだったんだ。
江田 戦前のは、一人の人間の運動だった。学生を一つの社会的階層としてとらえた、学生自身の大衆的運動は、戦後はじめてできたんですね。
相原 そう、戦後の学生運動が一種の大衆運動だとすると、やはり孤立しちゃいかんだろう。ナロードの構造や意識も、いまではまったく変っている。学生は小学校から大学まで、学校という箱に入った“箱入り娘”なんだ。理屈も態度も独善的になっちゃって、労働階級や国民一般からみると押しつけ的になり、それを反映して、学生“大衆”も気の弱い連中はついてくるかも知れないが、そうでない学生はソッポを向く空気になる。
江田 ですけど、いまの学生は、むかしのように先哲の思想に感化されてというより、むしろ学生自身の持っている利害関係なり、ものの感じかたで立上がって、学生運動に参加してるんだと思うんです。
相原 それはそうだろう。
江田 だから、そういう学生自身のもっている問題を発掘して、政治的に組立て、運動を組織する方向をとるべきで、それなしに統一戦線の一翼をになうことを、ハダカでだしてくるのは誤りだと思います。
それに反対して、直接階級闘争の中心課題を掲げて学生はたたかうんだということが主張されていますが、これも学生をひきまわすということでは同じだし、学生が運動に参加してくる過程を重視することが必要ですね、統一戦線の問題では……。
相原 学生というのは、可能性においてあらゆる階級を含んでいて、むしろ超階級だよ。その生命はヒューマニズムと正義感にある。共産圏も資本主義圏もあわせて、一つの世界的な青年運動として、平和への貢献にどうアプローチしうるか、そこらが、新しい旗のもとに、いまの学生運動が考えなきゃならん点じゃないかなあ。
それからいまの国民は、納税者の範囲もたいへん広がって、国立大学の学生を一種の受益者として見ている点も忘れてはいけない。やはり国民的共感を得ないとね……。
江田 ぼくが学生運動にはいったのは、家庭環境もあるが、安保闘争の影響ですね。高校は岡山で、東京のデモのことは知ってはいたが、実感はありませんでした。それが、入学すると、授業がまだ始らないうちに、看板などが立っていて、安保闘争が提起されていた。その反応のしかたも、東京の学生は器用にさばくが、地方からきた学生はそういかない……。
相原 うん。
江田 一人の学生を死にいたらせて、なお安保を阻止できなかった。ぼくは、あの闘争を成功だと喜ぶことはできないんですが、そのなかで、自分の将来やるべきことを発見したように思って運動に参加したんです。
だけど、大学というのは、やはり静かに勉強できるところでなきゃならないと思う。学生運動をやっちゃいけないというんじゃなく、むしろやらなきゃいけないところに日本の悲劇がある。だから、年中運動をつくり出す必要はなく、可能なかぎり時間をつくって真剣に勉強すべきだ。これがいまの実感です。
相原 きみがストを指導して学部の機能をマヒさせたのは、大管法のときだったかな。退学処分になって東欧へいったね。
江田 カネをほとんどつかわないでまわってきたんですが、外国へいくと、自分の国なり、自分自身を対象化して考えざるをえないですね。
相原 一つの勉強になったようだね。帰ってからあったときに、だいぶ人間として成長したような感じだったな。
江田 いや、それはどうも…。
相原 僕が処分されたときは、労農党へでも飛込もうという気持ちだったが、寮の仲間が「おまえみたいなヤツが修羅場に飛込んでもだめだ」と、とめるんで、謹慎してドイツ語を猛烈に勉強した。学生のときよりも、世間に出てから、治安維持法で二年間ほど“停学”されたときのほうが、家族はあるし一文なしで、つらかったなあ。が、まあ、そんなことよりひとついいたいのは、アクチブの連中がこのごろ、実に勉強しないんだ。日本語の本だけでも、もうすこしきちんと読んだらどうかね。朝日新聞社発行 「朝日ジャーナル」 1965年11月21日号掲載
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東大教養学部長 相原 茂氏
昭和8年東大経済卒。旧制一高時代に社会科学研究で停学処分を経験。戦後東大に迎えられ日本経済論専攻。56歳。東大法学部四年 江田五月君
教養学部自治委員長当時の37年11月、大学管理制度反対ストで退学処分。翌年秋復学し、ことし司法試験に合格。24歳。
1965年11月21日 |