2012年法政大学大学院政治学講義 | ホーム/講義録目次/前へ/次へ |
2012年10月12日 第4回講義「ねじれ国会の運営―1」 講師 江田五月
【尖閣問題】
先週は尖閣の問題でしたが、この問題は今、まさに動いているところです。何社かマスコミの取材を受け、どう解決するのか問われたが、ハウツーものを出してめくれば答えがあるとか、インターネットで検索すれば答えがでてくるとか、そんな簡単なものではないのですが、どうも近頃すぐ答えを求めたがるが、あんまり早く答えを求めるのでなくて、とにかく、いろんなことで悩みぬき、汗もかき、そういうことを日中両方がやっていかなければいけないということを強調した。なかなかいい解決はないが、今、局長級の両国の話がスタートをきったところであり、今後次官級へと進むのだと思うが、話はどこまで煮詰まっているのか。日本側は「領土問題は存在しない。 40 年前の了解と共通認識は存在しない」、中国側は「釣漁島は中国の領土である。 40 年前の了解と共通認識が存在する」としており、これをまとめるのだから大変です。領土問題は存在しないといっても、これだけ大騒ぎになっているのだから、何もありません、柳に風というわけにはいきません。そこをどう表現して、お互いに納得できる合意点があるかどうか、これからやっていく必要があります。その間に、両国間の緊張が燃え上がっていったら、まとめていく方向に力が働かなくなってしまうので、力が働くように動いていかないといけないのです。
玄葉外務大臣がドイツ、フランス、イギリスにいって日本の立場を説明してくると聞いている。「領土問題は存在しない。中国の勝手な言い分で荒唐無稽だ。」というような説明することが解決になるのかどうか疑問です。どういう説明をするのかわかりませんが、今までの繰り返しではしようがない。そうでなくて、もっと前向きなことをと中国の方からもサインがでていて、中国もこれ以上、経済関係も一切ストップとなることは望んでおらず、話し合いができるパイプをフルに動かして何とか着地点を見つけ出したいのです。この件について、政党の外の方がわかっている人が多く、政党の中、特に若い人が中国の理不尽な言い分は許してはならないという人が多いのです。この問題はこんなところにしておきましょう。
実は来週金曜夜は、大蔵君に、具体的なテーマについて、議会の動かし方、そのもとにある考え方、ねじれ国会での法案処理の仕方、同意人事の扱い方、そんな話をしてもらいます。
今の日本の議会制は、大変危機にきているといっていいと思いますが、どういうところが危機でしょうか。
(学生)長い間自民党政権であったため、ねじれに慣れていない。ねじれになったら法案が通りにくく、ねじれの結果、物事がきまらない。
(学生)総理も1年ごとに交代するなど、大臣がすぐ変わってしまう点がある。これもねじれの結果かもしれない。緊張関係が強まって、総理大臣が立ち往生してしまい、問責が参議院で通ると、どうにもならない。議会制民主主義の危機は、ねじれで物事が決まらない、決められないことにつきるかと思う。
(江田)例えば、イタリアで始終政治が息詰まってどうにもならない時期があった。イタリアの人は、政治なんてサーカスと同じで、見ていてハラハラし、冷や汗をかくのでいい。政治が決めなくたって世の中は日々動いていくと言っていた時がある。日本の場合はそうはいかない。政治が役割を果たさないとならない課題がもの凄く多い。社会保障は今や崩壊寸前、赤字でどうにもならない。そのもとで高齢化と少子化が進んでいく。そうした中で国民は内向きになって、皆その日その日がうまく過ぎればいいとか、日本が豊かになって将来を考えなくたって食っていけるだろうとかいう向きもあるが、実はそうでもない。そもそも資源がない国がこれだけ大きな経済を抱えてしまって日本国内で自立してやっていけるのか。一方で、もっともっと小さな経済であった昔に戻ろうとの動きがある。地球村の皆さんが主張するように、「三食あって、着るものもあって、雨露凌ぐ場所もあって、それでもって足れりとせよ」と言うが、皆満足はなかなかしない。資源がない国のこんな内向きでいいのか。
外へでたら外国との摩擦が、とりわけ近隣の中国、韓国の摩擦がある。外国と仲良くやっていかなければならない国なのに、この十数年、外国と交流は薄くなっている。昔は、日米議員交流など、若い時はアメリカにいったり、向こうが日本に来たり、始終やっていた。今日ここへ来る前に、参議院の会議室で米国ハワイ州のダニエル井上上院議員を囲む会をやったら、 40 人ぐらいきていた。注目度があったのかこの時期にはかなりのものであり、このようなことは最近めずらしくなってしまった。
【党議拘束】
世界からみてねじれは不思議なことではない。アメリカの場合、大統領と議会とのねじれだが、議会がそれはだめだとなってもいろいろな方法で前に進めていく。民主党はオバマ大統領に賛成するが、党議拘束が緩く、共和党なら必ずオバマに反対とは限らない。日本も緩めてしまったらいいではないか。
我が国でも「国民の生活が第一」など一部の政党は討議拘束をやめるというのがでてきている。「みどりの風」を知っていますか。参議院で社会保障と税の一体改革法案の審議の直前に民主党を飛び出した谷岡郁子議員・舟山康江議員・行田邦子議員、それと国民新党を離党した亀井亜紀子議員、いずれも女性の議員が作った会派で、ここも党議拘束しない。日本の場合、党議拘束がかなり強くかかっていて、この件はかけませんというもの以外は原則全てかかる。何故日本の議会はここまで強く党議拘束をかけるのかというと、とりわけ今のような伯仲している状態では、あらかじめ結果が一応見通せないと物事は前に進められないことから、党議拘束という形で党派の態度を縛って、それで結果を見極めながら、たとえばこういうことになったら困るから修正協議をしましょうとか、あるいはこの議案より先にこっちをやりましょうとか、そういう議会の運営をやっているものですから、一定の党議拘束をかけて前へ進めています。
党議拘束を緩めてねじれをそれなりに解消するとういう方法もあるが、拘束をかけたままでねじれを上手に動かす方法はないのか。ねじれは異常なことなのかというとそうではない。衆参は選挙が別であり、衆参ともに多数の方が異例といえる。しかし、日本ではその異例な状態が随分長く続いてきた。
【 55 年体制】
55 年体制知っていますか。 1955 年に左右に分裂していた社会党がひとつになり、保守系の政党である、自由党、民主党、進歩党、改進党などが大同団結して自民党になった。二大政党といっても自民党対社会党は1対 0.5 と大分規模が違う。それは 1993 年の総選挙を経て細川内閣ができるまで続いていた。それでも自民党は約 220 のダントツの第一党であり、第二党は社会党だったが、それまで約 140 あったのが半減し 70 になってしまった。その選挙で私は社民連を率いていて、細川内閣では科学技術庁長官になった。その後、社会党はどんどん小さくなり、その他の政党は離合集散し、民主党誕生に結びついていく。
55 年体制当時は、とにかく自民党は衆参で絶対多数をもっていて、 2/3 を超える時期もあった。 2/3 を超えるということは、憲法改正ができることを意味する。当時の社会党の一番大きな主張は憲法改正を断固許さないということだった。その当時はねじれがなく、すべての議案は衆議院が通れば必ず参議院は通る。それでは参議院は盲腸のようなもので存在価値がないとばかりに、ときたま参議院で反乱がおきる。自民党の中でも、衆議院の自民党に対して参議院の自民党が存在価値を発揮することがおきたりした。それでも動いてきた。そういう動かし方だとねじれがおきない。しかも 2/3 以上なければできない憲法改正など、そういうテーマをこなすだけ多数派はなかなか形成できないから、だからまあ比較的安定といえば安定して政治が動いていた。ところが最近ではねじれがおきた。困り果てているが、本当はねじれを上手に動かすやり方を見つけないといけない。
【ねじれの効用】
ねじれの対立により国会は動かなくなることもあるが、ねじれの効用もある。例えば、8月に可決した社会保障と税の一体改革は、保障ではプラスの面もあるが、給付のカットも入っている。税の方はいうまでもない消費増税であり、これは一つの政党だけではやりにくい。給付はカットするは、税金は上げるはでは、国民が喜ぶはずはなく、その次の選挙で大変な打撃を被ることになる。だけどこれができたのは、ある意味ではねじれだからできたとも言える。ねじれだから、普通にいけば通らないところ、与党は三拝九拝あの手この手を尽くし、野党の方もいろいろな提案をした。 そこはある種、ことのわかった国民の皆さんは、社会保障はこのままではやっていけない、消費増税も世界の通性をみても、細かな制度設計は別にしてやはり認めざるをえない、そんな国民世論を背景にしながら、与野党で合意をつくることができた。ねじれですから合意をつくれば巨大な合意になって衆議院も参議院も両方通る。与野党が、あるいは衆議院の多数派と参議院の多数派が上手な合意すれば、そのもとに一定の信頼関係がないといけないが、かなり困難なことでもちゃんと実現できる。ねじれがおきたからもうこれで政治はおしまいだとあきらめるのはおかしい。ねじれの効用を生かすように様々な努力をすべきだと私は思う。
我が国を取り巻く政策テーマは、バラ色の未来ばかりのテーマではない。社会保障、税だけでなく、地球温暖化をどうやって防いでいくか、原子力発電がこういう状態になったら、その代替としてどういうものをつくっていくのかなど、どのテーマを見ても、そんなにバラ色の未来が開けているわけでもない。そんな時に政治がことを決めていこうとすると、やはり国民の皆さんにいろんな負担をお願いしなければならない時代にきていると思う。どんどん経済が大きくなる時代には、いくら我が田に水を引くかを競争して、水源は経済が成長するのだから、大蔵省(財務省)が何か考えればいいで済んだが、もうそういう時代ではない。そうするとやはりそこは辛いことも乗り越えていかなければいけない。そうはいっても国民は辛いこと言ってくれるより、うれしいこと言ってくれる方がいいから、そっちへなびく。それでは政治がまわっていかないので、そこは与野党、一定の信頼関係のもとで同じ問題に直面しているのだから、お互いの主張は主張としながらどこかで合意点をつけて前へ進めようというのが社会保障と税の一体改革の大切な政治的な意味だと思っている。現状ではその大切な意味というものを政党の側が十分認識していなくて、喧嘩状態に戻ってしまっているのは残念だが、これをどうするかは今後の課題と思う。
【私の参議院議長時代】
私自身が参議院議長をやった 2007 年にねじれがおきた。衆議院では自民党が多数をとって自公連立政権であったが、参議院選挙の結果、参議院では与野党が逆転した。逆転したが実は当時、民主党は第一党だったが、過半数はとってなかった。ただ参議院で野党が多数であり、与党である自公のいうことがそのまま通る参議院ではない。その前にも与野党逆転したことは何度かあるが、第一党は自民党であったため、第三党、第四党あたりにいろいろ手を伸ばして、与党体制を作り変えてきた。自公民、自自、自自公と、衆議院の多数勢力が参議院でも多数になるようにいろいろなことをやって何とか動かしてきたが、 2007 年は簡単にいかなくなった。
それ以前の与野党逆転時代、野党が多数なのだから結束して議長をとろうということを実は参議院はしなかった。参議院のある種の良識で、参議院という院をうまく動かしていくには、第一党が議長を出しておく方がよいとして、与野党は逆転しているが、自民党が第一党なので自民党の議長でずっとやってきた。
ところが 2007 年は与野党が逆転しただけでなく、第一党が民主党に変わった。衆議院で政権とっている政党から参議院で議長を出した方がうまくいっていいという考え方はとらなかった。衆議院はどうであれ、参議院の中で一番大きな会派が議長を出すのが参議院という院をうまく動かしていく上でよいのではないかということで、参議院の第一会派民主党から私が推挙され、 2007 年に議長になった。民主党に押されて議長になったのではなく、選挙の結果は全員の参議院議員が私の氏名を書いてくれた。うれしいことではあるが、自分の名前を書いてくれた人を袖にするわけにはいかない、自民党であれ共産党であれ、みんな書いてくれたのだから、恩返しというわけではないが、そういう皆さんの声をしっかりきかなければと、公平、公正、中立という裃がきちっと体にへばりついたような3年間の議長生活でした。そのうち最初の2年間はねじれでした。ねじれではいろんな苦労をしました。やっと 2009 年の総選挙でねじれが解消され、衆議院では民主党がダントツの第一党になって、自民党にかわって民主党・国民新党・社民党の連立政権ができ、その後社民党は離脱した。
2007 年から 2009 年のねじれの間、これはこれで法案の決定ができた、何故決定ができたのかというと、自民党が衆議院で 2/3 以上の議席を持っていたからである。小泉郵政解散で、ものすごい旋風をおこして 2/3 以上持っていた。衆議院で可決された法案が参議院で否決されたり、あるいは参議院で店晒しにされたりしても、衆議院でもう一度 2/3 で可決すれば法律になるという憲法の規定がある。そこに頼れば最終的には何とかなるということでことが進んでいった。それがうまくいかない時はつなぎ法案を出してやりくりしようとした。
ところが今の民主党政権は 2/3 がなく、ねじれがそのままこじれになったら、こじれ国会でどうにもならなくなる。そこで、私は自民党が 2/3 あった時代に、ねじれはいつでもおきるもので、 2/3 を一つの勢力がとっていることこそめずらしいのだから、 2/3 があるからいいと言っていたのでは、ねじれができた時の議会の動かし方について、何らかの知恵を私たちが手にするという機会を失うことになると主張していた。 2/3 がなくなることは当然おきるわけで、その時に議会を動かす手立てを見出すことができるよう、 2/3 に頼るのではなく、それがなくともちゃんと決まっていくように、皆で知恵を出すしかない。
【両院協議会】
そこでいろいろ働きかけをしていたのが、両院協議会であった。これは、衆参で議決が違った時に、衆議院と参議院の代表が集まって、衆参の合意案をつくって、それを持ち帰って衆議院と参議院で議決すれば法案になるという仕組みである。両院協議会を開く場合として、以下のいくつかがある。
一つは総理大臣指名の議決が違う場合だが、この場合衆議院が A さんを、参議院が B さんを指名し、協議会を開いてどっちにするといっても、一か月交代でやるとか、朝と晩で代えましょうとかは無理であり、妥協も難しいことから、もともと制度的に無理があるのかもしれない。
なお、話がまとまらなかったらどうするかというと、その場合は衆議院の議決が国会の議決になると憲法は規定している。衆議院の議決がそのまま通るわけではなく、憲法には衆議院の議決が国会の議決になると書いてある。そう決めているのなら、衆議院だけの議決でいいのではとも思うが、憲法はそういうことになっている。これは結構重要なところであると言える。
二つ目は予算や条約では衆参の議決が違えば両院協議会となる。しかし、条約は両院協議会になじむかどうか疑問がある。条約は国と国との約束ごとであり、政府間で結ぶもので、政府と政府が約束しているのに国会で内容を変えようというのは簡単ではなく、むしろ無理とも言える。ただ条約にもいろいろあって、第3条は留保しましょう、第 10 条はこういう解釈にしましょうなどやることはあり得る。留保とか解釈とかは1対1の条約ではなかなか難しいが、マルチの条約の時には、みんなでの約束はこうだが、我が国だけはそこはちょっと事情があるので留保しますとかが可能だ。そのあたりを上手に使えば条約についても両院協議会で何らかの扱いができるかもしれないが、いずれにしても難しいことには変わらない。
予算も政府に提出権がある。国会に修正権があるかどうか議論はあるが、今は修正できるとする意見も強く、現実にも行われた例がある。ただ政府に提出権があるという事実は変わらない。
それに対して法案はどうかというと、法案こそ妥協ですから、衆参なり与野党なりの妥協の結果、こういうふうにみんなで意見をまとめましょうと当然それはできておかしくない両院協議会にうってつけの材料と言える。残念ながら私が議長をやっていた当時のねじれの2年間、法案で両院協議会やったことはなかった。両院協議会とはそもそも、衆議院が法案を通したのに対し、参議院が NO と言ったり、2カ月ほったらかした場合、衆議院の方が両院協議会を開きましょうと申し出て、参議院が分かりましたとやるもので、参議院議長が両院協議会を行ってこいとはいかないものである。法案でこそ両院協議会を開く意味があり、私が議長の時代にも本当に適切な場面もあったが、開かれなかった。それどころか、両院協議会をもうちょっと意味のあるものにしようとの機運さえなかなか盛り上がらなかった。
両院協議会というのは、衆議院で院議を決めた会派、つまり法案を可決した会派から 10 人、参議院で院議を決めた会派、つまり否決した会派から 10 人、計 20 人で構成される。衆参でおのおの議長、副議長を決め、その後両院協議会の議長、副議長を決めることとなる。その決め方はというと、なんとくじ で、単なる偶然かもしれないが、参議院側が勝った例はほとんどない。参議院側がくじで負けたら、衆議院側の議長がその日の両院協議会の議長になる。議長は中立なので、衆議院は 9 人、参議院は 10 人で協議することとなるが、これではうまく議事を進められない。一日目はとにかく伸ばして、二日目にもっていこう。二日目になったら議長が衆議院から参議院に変わるから何とかなるとか、議長は相手側に押し付けておいてこっちの言い分を通そうとやるわけだが、そう簡単にはいかない。事程左様に、両院協議会を機能させることが非常に困難でした。
2009 年の総選挙の前、引退される河野洋平衆議院議長にお会いし、両院協議会でことが決められるよう制度改革に向け知恵を絞ることを次の議長に引き継いで下さい、私の方も引き継ぎますという約束をした。引き継ぎはされたと思うが、受けた側がなかなかそうもいかないようで、衆参ともに今両院協議会改革がテーマとして浮かびあがっていないのは大変残念である。
どういう改革の方法があるか考えてみると、まず両院協議会にどういう人が入ってくるのかといえば、言っては悪いが衆議院も参議院も兵隊さんである。兵隊さんでなく大将が出てきたら、責任をもって合意を作ろうと話し合いができるが、兵隊さんだけだとどれだけ撃って、言い負かすことしか考えないから、合意を作ろうという話にはなってこない。こんなことは法律を変えなくとも、お 互いの合意で両院協議会に双方政調会長とか幹事長が出てくれば、合意もできやすくなるのに、そんなこともできていない。また、両院協議会の場に総理を呼ぶとか、この法案の責任者の大臣を呼び、大臣にその法案の修正を飲ませればよいとか、そういうことができる仕組みにはなっているが、今までそのような例はありません。
両院協議会を改革する必要があると言うと、ねじれがあることがいけないのだから、衆議院・参議院という二院制は止め、統合一院制にでもしようというような意見もあったりする。私は基本的にうまくいかないから止めるという発想で何かしたら、またうまくいかなくなる。うまくいかなくなったときには、どこがいけないのか、どう直せばよいのか真剣に考えなくてはいけないと考える。今の日本は総理大臣が毎年代わっているが、こんな無茶なことはない。総理大臣をそんなに代えないようにするため、首相公選制をとり、首相を国民が選んで4年間やるとすれば代わらないで済むという意見もある。だけど毎年首相が変わるという、どこにその原因があるのか、それをどうやったら直せるのかについて、もっと真剣に悩みながら考えてやってみもせずに、これはまずいからこっちへ逃げようとしては、次の制度もうまくいかないというのが大体世の常だと思います。一院制にしても首相公選制にしても、そういう安易な逃げ道探しの色合いが強く、私はそんなに甘く逃げてしまってはいいことにはならないのではないかと思っています。
両院協議会改革一つとってもなかなかうまく進んでいません。国会改革にはいろいろなテーマがあるのですが、もう日本で議会制民主主義とか政権交代とかいってもうまくいかないから止めてしまえという意見もある。私はしかし、やっぱりそうではなくて、議会制民主主義をうまく動かしていくのは試行錯誤の繰り返しであり、日々の努力であり、いろいろな努力の積み重ねであって、今はまだ、日本の議会制民主主義は十分に成熟していないが、もっともっと粘り強く前に進めていかなければいけない、そういう歴史的な視点に私たちは立っていると思う。政権交代してみたが、確かにこんな体たらくではという面もなしとはしないが、政権交代という政治の仕組み自体に幻想を抱くのは止めようというのでなくて、やはり政権交代は必要だとなんだといろんな意味でそう思う。
【日本の民主主義の歴史】
民主主義とは何ですか。国民が主人公であり、国民に主権がある。これは日本でいつ始まったのか。今の憲法でもない。明治維新は国民が主人公ではない。下級武士が主人公で江戸幕府の権力を倒して、ある種のクーデターで、天皇を戴いた体制を作った。しかし、明治維新からしばらくして、民選議員設立建白書が出て、帝国議会ができた。帝国議会はいろいろな制約はあったが、やはり一種の民主主義とは言える。帝国議会の一番の制約は、議会の権限が限られている点にある。例えば、統帥権の独立の問題ですが、統帥権は陸海空軍、軍隊を指揮していく力であり、これを議会はコントロールできません。陸軍大臣、海軍大臣に対して議会はどうこうは言えません。
それより民主主義という意味でもっと大きな限定は、帝国議会の選挙権が限られていた点です。女性には選挙権がなく、女性は台所に引っ込んでいなさい、世の中のことなどは全部男にやらせなさいという具合でした。選挙権だけではなく、例えば、女性は民法上権利義務の主体になれなかった。それでも、全く男子の家督相続人がいない場合に女子がなる例外はあったが。女性は基本的に権利義務の主体になれませんので、例えば家を買うなど、契約の主体になることはできませんし、もちろん被選挙権もありませんでした。
参議院内の議長室の隣に議長応接室という部屋があり、その部屋に議会で行う儀式の絵が数枚掛かっている。その絵を見て僕はいつも言うのだが、参議院の本会議場でやっている儀式の絵は何枚もあるが、同じ本会議場でやっている儀式でありながら、参議院の儀式ではない絵が一つだけある。同じ場所だけど参議院と呼ばれなかった時代がある。それは何かというと貴族院である。貴族院時代の議場で行った儀式の絵が一つあり、その絵を見ると見事に全員男性で、女性はただの一人もいません。そして見事に天皇陛下も含め全員軍服です。ある種限定的な民主主義ではあったが、そういう時代にも議会はあった。それでも当時、普通選挙権を求める時代があった。当時は納税者だけに選挙権があって、税金を払っていないものには男性であっても選挙権がない。だけど、税金は儲ける者が払うので、儲からない者は払えないから払わないのであって、別に払いたくないから払わないのではない。儲けたり儲からなかったり、それはその時の運もあるかもしれないし、能力もあるかもしれない、そうしたことで国政への関与の権限に差をつけるのはおかしいから、みんなに選挙権を与えよう。ただし、女性は除くとなっていた。
それでも、戦前普通選挙権ができた時にはかなり民主主義は広がりました、まだ男女平等、男女同権ではなくて、女性の選挙権、民放上の契約の権利、権利義務の主体になる権利、これも戦後改革をまたなければなりませんでした。 1948 年、今の憲法が施行されて初めて女性にも選挙権・被選挙権が与えられて、それを手にした女性がたくさん私を選んで下さいと立候補しました。選挙権を持った女性がたくさん選挙にいきました。大勢の女性議員が生まれました。一時それがぐっと減ってしまいましたが、また今増えてきたことはいいことですが。
つまり、民主主義は初めからずっと同じものが続いたわけではない。民主主義は次第にいろいろな人の努力、闘いで、だんだん広がって今日にきている。憲法のいう通り、この憲法は国民に寄与する権利は不断の努力によって守っていかなければいけないのだということなのです。だから、今の議会制民主主義があまりうまく動いていかないから、もう止めて誰か一人に任せるという制度にした方がいい、その方が何も決まらない政治ではなくてあざやかにスピーディーに物事を決めていけるのでいいと、ふらふらとつい行きがちだけど、それをやったら元も子もない。今の民主主義がいろいろ問題はあっても、やはり民主主義は大切にしていかなければと思います。
戦後民主主義にはなりました。男女平等、男女対等の立場で関与する民主主義になった、しかし、形式的にはそうなったけれども実質を伴っていたと言えるのか。戦後すぐ女性がたくさん当選しましたが、あっという間に下火になった。そして、民主主義と形式的には言えても、実質的には本当にこれで民主主義なのかという時代が長く続いた、それは何ができてなくてそういう批判がずっとあったのか。
民主主義とは国民が単に政治に参加するだけではないのです。民主主義というのは国民が政権を選ぶことが必要で、選択肢がいくつかあって、その選択肢のうち、これがいいと国民が選ぶのでないといけない。選択肢は一つしかないけど皆さん参加して下さいというのはかっこだけです。ところが現実には、ずっと 1.5 大政党で、結局社会党は選択肢なり得ず、政権の選択肢は自民党しかなかった。
社会党が一番たくさん議会で当選させたのが 1989 年だったと思います。労働組合が連合で一つになり、土井たか子さんが大変なブームになりました。そこへ消費税反対のもの凄いうねりが起きました。さらに農業も輸入自由化で蜜柑やさくらんぼなどが全部ダメになるのではという大変な危機がありました。それらいくつのことが重なる中、野党であった社会党、公明党、民社党、社民連、4党ががっちり腕を組みました。これにより、参議院で与野党が逆転したのです。
その頃衆議院でも選挙があって、社会党が躍進し 140 名の当選者を出しました。当時衆議院の定数は 512 名であり、その時社会党の出した候補者は 180 名でした。定数 512 名ですから少なくとも 257 名は候補者を出さないと政権担当させてくれとはいえない。ところが当時社会党は精一杯候補者を出しても 180 名であり、これでは政権の選択肢とはいえない。そのような時代がずっと続いてきたのです。形式的には国民が政治の道を選んで国民が自己決定で自分たちの運命を決めていくという民主主義でありながら、どんなに悪いことしてもどんなに国民を困らせても自民党政治は永遠に続く。そんな中で構造汚職があった。しかし、そこのところが変わって、自民党以外のもう一つの政権選択肢として民主党があるのだといって訴えたのが 2009 年の総選挙でした。この時、民主党は全定数 480 名のうち 420 〜 430 名という形でほぼ全選挙区に候補者を出していた。結果民主党はある意味では罪深いと言えるのかもしれない。
【議会制民主主義の政権交代】
私は 1977 年に初めて国会に出てきて、その当時、あるいはそれ以前の私の父の時代から、政権交代がどうしても必要であり、政権交代を担いうる議会制民主主義にしないといけない。自民党の悪口をいうだけでなく、だめならこっちの選択肢があるという議会制民主主義にしなければいけないとしてきた。本当に営々と賽の河原の石積みのような努力を積み重ねてきて、やっとここにもう一つ政権の選択肢があるという時代を作って、そして現実にこれを国民の皆さんに選択してもらったのが、 2009 年の総選挙であった。これは本当に時代を画する選挙だった。しかし、現実にそれを始めてみると困難ばかりで、皆さんから批判を受けているのは事実です。
歴史の流れの中で、私たちが今どういう段階にいるのかということを考えてみれば、政権選択肢が複数あるという民主主義を何とか定着させないといけないというのが今の政党の人間の役目でもあるし、あるいは国民有権者の仕事でもあると思う。これまでを見ても、民主主義というのは一気にできて同じことがつながっているのではなく、次第に広がってきたものであり、形式的にはできあがっても実質が伴ってない時代がずっとあって、今やっと実質をきちんと作っていこうとこの3年間努力をしてきたが、なかなか一朝一夕にはいかず、今もそういう努力を続けているところだと私は思っている。
半ば民主党政権の弁解ではあるのですが、単に弁解ではなく、政権交代による民主主義がそんな1回の選挙だけで定着することはなく、次にまた自民党政権にもどることも当然あるでしょう。ただ政党政治によって政権交代を動かしていくという政治の仕組みをあまり早くあきらめてしまうと、その中の混乱から出てくるもので、あまりいいものはない。はっきりいえば、日本維新の会という政党が伸びていって政権を取るのには大変な危惧を感じます。
なぜ政権交代によって政治を動かすことが大切か考えてみます。人間というのは必ず過ちを犯します。過ちを犯したら大変だから誰も手を出さないようにしょうというのでは、この世の中前に進んではいかない。ある程度過ちを織り込みながら、一定の選択をして一定のものを実現してやっていくことが必要なことなのです。過ちを犯すけれどもそれを改めることができる。これが制度の中に内包されていなきゃいけない。これこそが政権交代だと考えます。
ライト兄弟の飛行機設計思想というのを聞いたことありますか。それまで飛行機はプロペラの角度など本当に詳細に設計していたが、それではうまくいかず、どうしてもどっちかに傾いてしまう。これに対し、ライト兄弟はかなり大雑把な設計をし、その代わり上へとあがり始めたら下へおろす、右へと曲がりだしたら左に曲がるように、小さな羽をつけて操縦することにしたのです。操縦することによって過ちを軌道修正していくという設計が大切だ、これがライト兄弟の設計思想だそうです。船もそうです。私は大学を処分で退学になった時に貨物船に乗って門司からユーゴスラビアまで行きました。船長室にいって操舵を見ると、舵を機械で動かす時、海図の上に線を引き、その線のとおりに舵を設定しても、実は右にずれたり左にずれたりしながら船は進んでいる。後ろの舵も含め始終動いていることによって、直線に一番近い航路を通って目的地にいく。これが実際のものごとを間違いなく動かしていくときの思想なのだろうと思います。
我々の社会システムを考えても同じことで、一本道をそのまままっすぐ外れずに動かしていくような社会システムはやはりどこか壊れてしまう。一定の幅があって、その幅を超えたらまずいが、一定の幅の中で、右にぶれたり、左にぶれたりしながら前へ進めていく。右に行きすぎているから左にもどして、また直してと判断をする主体こそ、実は有権者なのです。有権者が政権の動きを見ていてこれはまた変えたいとした場合、その説得は政党が一生懸命しなければいけないが、その説得を受けながら有権者の判断で、一定の舵の切り替えをしながら、一定の幅の中でことを前に進めていくというのが、実は議会制民主主義の政権交代なのです。議会制民主主義と政権交代、国民が主人公・主権者である民主主義、これらは全部相互補完的に仕上がったある種のシステムと言えます。今やっと日本はこの段階にたどりついたところで、そのシステム自体を大切にしながら、これを動かしていかなければならないのです。
このシステムを本当に大切にしていると言えるのか。昨日は新しい党役員が登場して2週間してやっと民主・自民両党の役員が会ったのに対し、「遅いじゃないか、何を考えているのか」とか、「このままで居座ってほうかむりして解散せず、民意を問わずにいつまでやるつもりだ」など言われている。そういうような批判を受けても仕方がない状態とも言え、これで本当にいいのかなと私自身も今痛感しているところです。
今日は日本の議会制民主主義のこれまでを振り返えりながら、総括的に、総論的にあるいは大局的に私の見方をお話ししました。
何か質問はありますか。
(学生)ねじれの効用の中で、ねじれの時の方が難しい問題を解決しやすいと言われました。ねじれの時、マスコミは強いリーダーシップが必要だと言うが、先生の話を聞いていると、あまり強いリーダーシップはいらないのではないか。実際、先生の感覚としてはどういうものか、お聞きしたい。もし、リーダーシップがあるなら、その存在はどこにあるのか。
(江田)そもそもリーダーシップというのは何でしょう。マスコミはよく強いリーダーシップが必要だと言うが、言葉ではなんとなくわかった気になるが、結局は何を言っているのかわからない。あまりその種のマスコミ用語に惑わされない方がよい。野田首相が社会保障と税の一体改革をやったとき、あれは強いリーダーシップだったと思います。党内にも気兼ねし、野党にも気兼ねし、さあどうしたらいいですか、皆さん助けて下さいと言ったら、あれはできなかったでしょう。そうではなくて、社会保障と税の一体改革に政治生命を賭け、どうしてもやる。民主党の中にいろんな議論があったが、たとえ 55 対 45 でも多数で決まれば、あとの 45 はきちんと従ってもらわないといけないと明確に言いきって、党内議論がいろいろある中で、とにかく、役員の皆さんも、政権の中も、党の中もまとめていった。本当にまとまったかは微妙なところですが、それでも党として一定の方向を出して、そして最後は決裂寸前までいった。しかし、いろいろな手を使って、当時の谷垣総裁とトップ会談をやった。谷垣さんも野田さんも後ろにいっぱいいろいろな人がいることをわかりながら、だけどここは本当に真剣勝負の二人だけの話し合いをして、社会保障と税の一体改革は仕上がったわけです。これは強いリーダーシップだったと思う。相手との信頼関係の中で妥協して、お互いに譲り合って合意を作るのは弱いリーダーシップではない。そういうことは相当強いリーダーシップがないとできない。だからリーダーシップとは何だろうと思う。なんか勢いよく、高く旗を掲げてやれ進めというのがリーダーシップではないのです。私の話は決して強いリーダーシップの否定論ではなく、むしろ逆に肯定論です。
(学生)民主党の今後の運営について、リーダーシップの所在をもう少しわかりやすく見せた方が国民の方もよくわかるのではないか。
(江田)そうですね。それはあるでしょう。民主党も苦労しています。
(学生)政権交代ができたのはやはり小選挙区制のせいだと思う。選挙制度をどう考えますか。
(江田)選挙制度も難しい問題です。選挙制度だけを単独にとりだして、いい悪いと議論するのはあまり意味がないような気がします。 93 年、 94 年、今の小選挙区制を導入する時の私どもの議論は、選挙制度を変えることが政治改革になるということです。誤解を受けるかもしれませんが、選挙制度が政党をつくるという側面があり、小選挙区制は二大政党を生むのです。小選挙区制は一つの選挙区で一人を選ぶわけだから、選択肢は二つです。現実には3なり4番目の選択肢はありますけれども、それが政権の選択肢にはなかなかならない。全部の選挙区にそれぞれ A 党と B 党が一人ずつ出して、雌雄を決してそれをトータルにして、政権を選択する選挙にする。このように政権の選択肢を出し得る政党を二つ作るためには、小選挙区制度が一番似つかわしいと考えた。ただその考えだけでいいかというと、それだと確かに政権選択は鮮やかになるのだけれど、その二つだけで民意を代表しようといっても、もっと別の民意が存在する場合があるので、どうもそれだけでは足りない。だから、政権選択肢ということだけなら、全部小選挙区でもいいけれども、政権選択肢以外に民意の代表という点を議会に求めようとすると、小選挙区と別の制度と組み合わせる必要があるだろうというので、現在の小選挙区比例代表並立制を導入した。その時、並立制でなく併用制の方がいいという議論もありました。併用制というのは、小選挙区で選挙しますが、誰が当選するかは政党ごとに全部を足し算し、比例代表では A 党は何名、 B 党は何名、 C 党は何名と数を決め、小選挙区で通った人をそこから全部抜いていって、残りを比例代表で埋めるというドイツで採られている制度です。全体の数のバランスは比例で取れるけれど、一人一人は小選挙区で取っていくため、ドイツの場合は数がうまく合わないことがあれば最後のところは調整で定数が若干膨らんだりします。 日本は併用制を採らずに小選挙区比例代表並立制にしたのですが、並立制だけだと二つの制度が全く並びたっているので、二つを重ね合わせ、小選挙区では落選したけれども、惜敗率により比例代表で復活当選できるという制度を作ったのです。
しかし衆議院としてはそれでいいけれど、参議院が同じような選挙制度なので、実は衆参でねじれが起きた時にどちらが優越というのがなかなか言いにくい。日本の二院制は若干の衆議院の優越はあるが、世界全体からみると微々たるものであり、世界の二院制はもっと優越をつけている。参議院は多くが県ごとの小選挙区と比例代表との文字どおり並立ですから、同じような選挙制度で二つの院を作る意味がどこにあるのかということも問題になっている。だから選挙制度を考える時、衆議院と参議院の両方を合わせて考える知恵を働かせなければならない時がきているのではないかと思う。ところが、衆議院と参議院が一緒になって議論するのがやりにくいので、なかなか難しいのです。
2012年10月12日−第4回「 ねじれ国会の運営―1 」 | ホーム/講義録目次/前へ/次へ |