1986/11/26 |
107 衆議院・文教委員会
教科書・地図の東チモールの記述について、教育改革について
○江田委員 大臣には長丁場でお疲れでしょうが、あと一時間半、ひとつよろしくお願いいたします。
まず最初に、きょうは外務省の方に来ていただいておりますので、技術的なことですが、文部省の検定済みの教科書とか地図とかのことについてちょっと伺いたいことがあります。
今月の十三日のことですが、実は東チモール問題を考える議員懇談会というのが衆参七十二名の超党派の国会議員により結成をされました。自民党もお入りくださっています。東チモールというのは余り知られてないところなんですが、インドネシアの東の方、小スンダ列島の東部、オーストラリア大陸の北方にあるチモール島のほぼ東半分の地域、ここはもとポルトガル領だったのですが、一九七四年にポルトガルで政変が起きて、世界じゅうのポルトガル領は自決権を保障する、こういうことになりまして、この東チモールも独立をする過程がずっと進んでおった。そこに一九七五年の暮れも迫ってからインドネシアが軍事進攻いたしまして、外部から東チモール住民の民族自決権を侵害をしてしまった。これは私どもの見方ですが、違う見方もないわけではありません。国連で今インドネシアとポルトガルの間の仲介の話し合いが進んでおりますが、その話し合いに民族自決権の当然の当事者である東チモールの人民が加えられていないのでこの皆さんを加えることが何より大切だと思っておるのですが、そこでいろいろ資料を集めたり我が国として何ができるかを研究しよう、こういう目的で懇談会をつくりまして私がその事務局長ということを命ぜられましたので、これは職責上ちょっと頑張ってみなければならぬというわけで、この地域の教科書の記述あるいは地図の記述を調べてみました。
そうしますと、これは今手元にあるのは写しですが、帝国書院の社会の地図、小学校と高等学校の地図があるのですが、いずれもこの東チモールという地域は国境について破線で記されておる。つまりここは国境、国界というのでしょうか未画定のところである、こういう表示になっておりますが、これは検定済みのそのほかの地図でもこういうことになっておるのでしょうか。
○西崎政府委員 教科書における外国の国名等の表示につきましては、先生御案内のとおり外務省で編集していただいております世界の国一覧表、これによることにしておりまして、社会科地図の教科書等につきましては、東チモール地域がどの国の領土であるかは明示しないというのが私どもの原則でございます。したがいまして、先生御指摘のように、教科書検定におきましては、チモール島につきましてはこれは明確にインドネシア領というふうには表示をしないで、東チモールという表現をし、そしてその部分については西と区別をするために破線であらわすというのがいわば正解というふうに私ども認識しておりますが、一部の教科書では、その部分が非常に小さくて技術的な面で破線等が入りにくかったというふうな経緯のものもあるようでございます。しかし私どもとしては、指導としては、技術的に可能な限り破線でその区分を表示することが適切であるというふうな方向で今後もやってまいりたいというふうに思っております。
○江田委員 外務省にもお尋ねをしておきたいのですが、今の文部省のお答えですと、この地域はどの国に属するということは明示しないという、そこで他の地域と区別する意味で破線で境界を書くという、そういう扱いは外務省の認識とも一致をしておるということでよろしいのですか。
○柳井説明員 お答え申し上げます。
東チモールの状況につきましては、我が国政府といたしましては、この地域がインドネシア共和国政府によりまして効果的に統治されているというふうな事実認識を持っているものでございますが、その帰属につきましては、先生からも先ほど御指摘ございましたように、インドネシアと旧宗主国のポルトガルとの間で話し合いが進められているわけでございます。この話し合いは国連の事務総長が仲介の努力をとっているということでございまして、私どもとしても事務総長の努力を高く評価しております。
こういう状況にございますので、私どもとしてはこの帰属の問題について判断を下す立場にないというふうに考えております。したがいまして、このような立場から、先ほど文部省の方からも御答弁ございましたように、外務省の外務報道官編集に基づきまして「世界の国一覧表」というものを財団法人世界の動き社というところから毎年出しております。この中の分類におきましては、いろいろな国を並べまして、その後に別途「その他の主な地域」という欄を設けております。この中で東チモールも取り上げておる次第でございまして、またこの冊子の中に収録してございます地図におきましても、この東チモールとチモール島のその他の部分の間には点線をもって区別をしているという扱いになっております。
○江田委員 ただいまの外務省の御説明、きょうは外務委員会じゃありませんからそれ以上深入りをする場ではないのですが、インドネシアがこの地域を効果的に統治しているという外務省の認識、それはそういう認識であることはわかっておりますが、果たしてその認識が正しいかどうかという議論はまた別途ある。さらに、話し合いが本来の民族自決権の当事者である東チモールの住民を抜きに行われていることについては、これは確かに行われておるのですが、それでいいのかという大きな問題があるということを指摘するにとどめますが、いずれにしてもこの地域が紛争地域であるということは外務省もそういう認識でおるということですね。
さてそれならば、先ほどの文部省のお答えですと、教科書の場合には小さなところだから技術上なかなか難しくてというお話ですが、しかし、日本の印刷技術というのはかなり進んでおりますので、例えば色にしてもわかりにくい色じゃなくて、インドネシアとこの東チモール地域をもっとわかりいい色で色分けするとはっきりわかるのじゃないかとか、それから、ここに私も教科書の方についておる世界の地図のコピーを持ってきておりますけれども、もうちょっとこれも大きくできるんじゃないかとか思うので、技術上の困難というところに原因を持っていくのでなくて、やはり紛争がある地域、そこは一体どういうことで紛争が起きているんだ、ああ、そうか、第二次大戦後にいろいろな経過があって今なお独立するとかしないとかで争っておるところがあるんだな、そういうことも大切なことですから、ひとつ地図の方だけでなくて、教科書の方もそれなりのはっきりした明示ができるような努力をされるべきじゃないかと思いますが、いかがでしょう。
○西崎政府委員 教科書の記述の問題でございますが、先生御案内のとおり、教科書において取り上げるべき事実関係あるいは内容でございますけれども、全体の分量との関係、バランスでどこまで取り上げられるかという点、若干いろいろ問題もございまして、本件が直ちに取り上げられるかどうか、まず著作者側の取り上げ方の問題もございますので、今にわかにその点についてお約束申し上げることはなかなか困難であろうかというふうに思うわけでございます。
それからもう一点の地図の方の問題でございますが、これは先生御案内のとおり技術も進んでおるわけでございまして、私どもは、この外務省で編集しておられる「世界の国一覧表」においても破線で表示をしておられるということに基づきそういう指導をしたいと思っておりますし、今後、改訂の機会等があればそういう指導については努力をいたしたいというふうに思っております。
○江田委員 私が言いましたのは、教科書の中身の記述というのじゃなくて、教科書に印刷してある地図の部分、これはもう好むと好まざるとにかかわらず世界地図なら世界じゅう全部出るわけですから、そこを一色で塗りつぶしておればこれは紛争がないということになるし、ちょっと何か色が変わっておればこれは何だろうかということになるわけですから、記述をしないというわけにいかない、どっちかに記述してしまうわけですからね。その部分はひとつ御努力をお願いしても罰は当たらぬのじゃないかと思うのですが、いかがですか。
○西崎政府委員 失礼いたしました。地図プロパーの問題といたしましては、先生おっしゃるように、私どもは破線で表示するという外務省の文書に基づいてやっておりまして、現実に破線が入ってない地図があることも事実でございますので、先ほど申し上げましたように、改訂の機会等においては破線等を設けてその区分が明らかになるようにというふうな指導をしてまいりたい、こういうふうに思っております。
○江田委員 さてそこで、もうちょっと突っ込んで議論してみたいのですが、まず外務省の方に伺いますけれども、西サハラですね。東チモールも余り聞いたことがないけれども、西サハラならサハラというのは砂漠のあるところだから多少は見当もつくのじゃないかと思いますが、こともやはり紛争地域ですね。西サハラの紛争をごくごく簡略に言うとどういう紛争ですか。
○久米説明員 お答えいたします。
西サハラと申しますのは、モーリタニアとモロッコの間にございます面積が日本の約七割ほどの地域でございますけれども、これは一九七六年まではスペインの植民地でございました。ところが、そのスペインが七六年に植民地を放棄いたしまして、その後、その植民地時代に解放運動をやっておりましたポリサリオ戦線というのがございまして、そことモロッコの間に紛争が生じております。モロッコは、この地域がモロッコの領有に帰属する地域であるという主張をしておりますのに対して、ポリサリオ戦線は、西サハラ地域は独立した地域であるということで、スペインが植民地としての領有を放棄しました七六年の時点でサハラ・アラブ共和国という国家の樹立を宣言いたしておりまして、ただ事実上はモロッコが軍事的にはこの地域を現在支配しておりますので、ポリサリオ戦線はアルジェリアの支持を得まして、現在アルジェリアを基地にいたしましてモロッコに対する式力闘争を行っているというのが現状でございます。
○江田委員 ということで、東チモールとよく似ているわけです。
そこで、この西サハラというのはどういうふうに書かれているかというふうに見ると、帝国書院の地図では、高等学校の方では西サハラ(旧スペイン領サハラ)、別の国であるという表示だと思いますね。それから小学校の方の教科書では西サハラ、これも国の表示をしてあるのではないかと思うのですがね。一方、地図ではない教科書の方に刷り込まれている地図を見ますと、活字が違いますから国という扱いではない、しかし独立した地域であるというイメージがはっきりするように西サハラとそれぞれ書いてあって、そしてその活字はよく見るとホンコン(香港)などと同じ活字で、香港の方には括弧してイギリス領ならイギリス領で〔イ〕というふうに書いてあるという。だから宗主国がない、しかしまだ独立しているというふうにはっきり判断もできない、そういう地域であるという感じで書かれているわけです。東チモールも同じことですから、西サハラと同じような扱いにされるべきではないかと思いますが、この問題、実はちょっと不意打ち風の質問になるので、お答えいただければ幸いなんですが。
○西崎政府委員 西サハラにつきましては、ただいまちょっと調べたところによりますと、外務省での「世界の国一覧表」の表記においては西サハラとして、やはり注記が入っております、チモールと同じように。「現在モロッコが領有を主張し、統治しているが、現地民族解放戦線は同地域の独立を宣言している」と注記が入っております。チモールと似たような注記があるわけでございまして、まだ国ではない。そういう意味では、帝国書院の高等学校の社会科の地図では黒字で表示してありまして、赤字で表示いたしますと国名というふうになるようでございますが、黒字で表示して西サハラと書き、若干そのエリアを点線、破線で囲っておりますので、チモールと大体同じような扱いというふうになっておると理解いたしております。
○江田委員 私のコピーは白黒ですので色がわかりませんで失礼いたしましたが、そうなんでしょう。ひとつ東チモールの方も同じような扱いを検討していただきたいと強く御要望を申し上げておきます。外務省、それではどうも御苦労さまでございました。ありがとうございました。
さて文部大臣、きょうは初めて衆議院文教委員会に塩川文部大臣をお迎えをいたしたわけで、ひとつ塩川大臣に教育というのは一体何だろうかというような、余り玄人の話でない、ごく普通の世間の常識として、教育というのは一体何が大切なんだろうかとか、どんな営みなんだろうかというような議論をちょっとしてみたいのです。実は藤尾前文部大臣ともぜひ議論をしたかったのですが、議論する前におられなくなっちゃったものですから残念だったのですが、塩川文部大臣、政治家の大先輩としてもあるいは人生の大先輩としてもぜひいろいろお教えをいただきたい。
自民党の皆さんの午前中の質問にもありましたが、明治維新以来日本は追いつき追い越せでここまでやってきた。そして今、世界も日本も大きな転換の時期、情報化であるとか国際化であるとかいろいろありますね。日本も追いつき追い越せをひとまず達成をして、世界のGNPの一割を生産することになってきた。今までの教育では困ります、これからの教育はどうあるべきか、そういう議論が一方であります。それも非常に重要な議論だと思います。同時にしかし、これからの教育は、これからの時代にふさわしいこれからの教育はということと同時に、これまでの歩みの中で随分日本の教育がゆがんできたというか、あるいは日本人全体の中でいろんなゆがみが蓄積されてきたという点があると思うのですね。臨教審もそういうことを言っておりまして、言葉遣いをちょっと忘れましたが、たしか負の蓄積といいますか、つまり我々いろんなものをずっとプラスの面で積み上げてきて今日のすばらしい日本をつくった。だけれどもそれだけではなくて、そこへ持ってくるについてはマイナスのものも随分積み重ねて今日に至っているんじゃないか。それが例えば学校の教育で言うと落ちこぼれといいますか落ちこぼしといいますか、子供たちがついていけない問題あるいは非行の問題あるいは学校の中や家庭の中での暴力の問題あるいは学校へ行けないというような子供が出てくるといった問題、そして子供の自殺が随分あるといった問題、こんな問題になってあらわれてきているわけですね。それは何も子供だけじゃなくて世の中、社会一般にもいろんな形でいささかこの病理現象が行き過ぎているんじゃないかといったことがあらわれていると思うのですが、そういう過去のこれまでの日本の教育の営みあるいは社会の進歩が逆に、進歩というといいものを積み重ねるわけですが、そうじゃなくて陰の部分も随分積み重ねてきておるというそういう意見について、大臣はどういう感想をお持ちでしょうかね。
○塩川国務大臣 まず教育というのを、私も専門家でないので余り難しいことを知りませんが、私は昔から、教育というのは教える方に重点を置くんではなくして育てる方に重点を置くべきだと思うておるのです。教える方だけだったら例えば教導、教え導くというのがございますね。ところがはぐくむという方が、私はどうも最近、学校とか家庭を見ておりましてもはぐくむ方の行為といいましょうか、それがおろそかになってきておるように思うのです。
それと、今お尋ねの学校の中が非常に荒れてきたという、これはいろいろな要素があって荒れてきたと思うのであります。一つは、先生と生徒との間がうまくいってない、これは確かに私はあると思うのです。だといってそれじゃなぜうまくいっていないかというと、やはり子供が十分に理解できないというところもある。といってそれじゃ教育の水準を落としていいかというとそうはいかないから、やはり時代に合った教育を先生は授けていく、そこに落ちこぼれてくるという子供もできるだろうと思うのです。
ところが私は、もっと根本的な問題は、高度経済成長以降、極端に日本は学歴社会になってきたと思うのです。何でもかんでもが人間の評価を学校で決めていくような感じがしてなりません。
私は三人の子供がおりまして、三人育ててまいりました。私の趣旨として塾には一切入れませんでした。けれども塾に入れなかっただけに確かに差がついております。私はこれは率直に認めておるんです。塾へ入れて勉強させればよかったなと今になって反省はいたしますけれども、しかしそれなりで私はよかったと思うております。塾で教える学力というものと学校だけで教えている学力というものは私はやはり差があると思うております。そうすると、そういうことでいい学校をねらう、そのために学校の中で生徒同士の競争があらぬ方向に走ってしまいまして、これが学校の雰囲気を非常に悪くしてきたと思うのであります。
したがって私は、これから一番大事なのは子供をもっとのんびりさすことだろう、こう思うのであります。現に、勉強はできなかった、大して社会的評価のされない学校を出た子供でも、コンピューターをさわるようになってからもう見違えるように仕事を立派にやるような子供を私も知っておりますが、そういう価値の多元化といいましょうか、それをやはり教育の中にも導入していかなければいかぬと私は思いますし、第一、世間様がそういう気持ちになってくれなければ、どんなに教育改革を進めていっても世間、社会がそれをつぶしてしまう、そんな感じをしておるのでございまして、したがって、これからの教育改革というのは、文部省が力んでやりますが、それと同時に、社会もそういう価値の多元化を認めて、人間の多様性というものを見てやってもらうというそういう社会に持っていく。学歴だけですべて割り切っていく、こんな社会であったら恐ろしい時代になってくる。私は、そういう心配をしながら現在この文部大臣といういすに座っておるところであります。
○江田委員 さすがに塩川大臣、なかなか教育に素人なんてことじゃないんで、教育の本質についてのはっきりした認識をお話しくださったと思うのですが、それでも今のお話の中で、例えば教育の水準を落としてはならない、ごくごく普通にはそういうことで問題ないのかもしれませんが、一体教育の水準というのは何だろうか、これはなかなか難しいですね。日本の教育の水準は本当に高いんだろうかということになりますと、それは、やれ理科の点数をとったらアメリカと比べてどうだとかいろいろありますが、そういったものとまた違った教育の水準というものが考えられないと、今大臣のおっしゃった価値の多元化を認めるということにつながっていかないですね。ですから、本当に後半おっしゃったことをひとつしっかり踏まえてやっていただきたいと思うのです。
さらに、今大臣は、教よりも育の方だ、育てる教育というのが、教え育てるもあるけれども、共に育てるという「共育」が大切だという主張もあるのですね。親も教師も社会もみんなで子供を育てようという。しかし、いや、それもまだ違うのだ、共に育てるではなくて共に育つのだ、子供も育つ、親はもう育ち上がって親というのは別に何も育つ余地のないでき上がった人間で、これが子供を教えるんだなんというとおこがましい。親だってまだまだこれから一緒に育っていかなければいけないじゃないか、子供から教わることが実はいっぱいある、親が忘れていて子供なればこそまだ覚えている、そういう人間の大切さがいっぱいあるのではないかとか、そんなことも言われるわけで、ぜひひとつ、文部大臣というのは、文部省のお役人の皆さんやあるいはその下だか上だか知りませんが、つながる教育委員会とか先生方とか、こういう皆さんを叱咤激励して子供の教育に駆り立てる役目、それも一つあるかもしれないけれども、それだけではなくて、今の大変に難しい、親も子も悩んでいる教育の状況の中で、子供たちに思いやりと愛を語る人であってほしい。子供が自殺をしようとしたときに強い心を育てろと叱咤激励することもさることながら、その自殺をする子供の弱い心に大きな愛を注いでやっていただける、そういう一言をかけてやれるそういう大臣にぜひなっていただきたいと思うのですが、いかがですか。
○塩川国務大臣 私も心がけてそのように努めてまいります。
○江田委員 今、大臣は教育改革のことにちょっとお触れになりました。世の中というのが教育についてもっと、あるいは教育というか人間の価値といいますか、価値の多元化という言葉で表現されましたが、こういう人間観を改めていかなければならない、学歴社会で染まった世の中ではうまくいかないということをおっしゃった。私もそのとおりだと思うのですね。ぜひひとつ教育改革を、単にどこかの役所のどこかの部署とかあるいは臨教審、今おやりになっているわけですが、臨教審とかそういうところにもう任してしまう、そういうところが教育改革をやるのだ、あとは我々はやってもらうところだというのでなくて、ひとつ国民みんなで今の教育を改めていく大きな運動を進めていってほしいと思うのです。
そうなりますと、ぜひひとつ大臣、大きな意味での教育についての議論を至るところで起こしていかなければいけないと思うのですね。前々から私は国民全員参加の教育改革だということを言っておるのですが、そうなりますと、今いろいろな部門で教育に携わっておる皆さんと、大臣は常に心を開いて虚心坦懐に話し合われる必要があるだろうと思うのです。一番教育に携わっている人というと、これは何といっても教師です。教師の集団である日教組、そのほかにも教師の集団がありますが、こういう皆さんとひとつ胸襟を開いて一日も早くとにかくは顔つなぎをする、いろいろなことを話す、あるいは話してもらう、そういう機会をつくるべきだと思いますが、いかがでしょうか。
○塩川国務大臣 先生、教師の方々と話し合いをすることは私はちっともやぶさかではございませんし、そういう機会があればと思うております。
ただ、いろいろな教育問題を話します場合に、一億二千万人総教育評論家に現在なっておる、それは先生もよく御存じのことだと思うのです。ただし、その中で建設的な、建設的なといいますことは、公正にして客観性があって、そして教育的な効果のあるもの、こういうものを話し合うということについては私はもう大いに賛成でございますが、ただ評論をし、批判をするというだけで後ろ向きの話をしてみても前進にはならない、私はこう思います。
したがって、そういう建設的な、先ほど言いました意味における建設的な御意見であれば、私は幾らでも聞かしていただきたい、こう思うております。
○江田委員 そうですね。本当に単なる批判に終わるとか評論に終わるとかではいけない。しかし、会ってみなければ、単なる批判に終わるか、評論に終わるかわからないわけですから、今の大臣のお話は、そういう中身のお話をぜひ、日教組だけではありませんが、日教組の皆さんともやりたい、こういうお話だと受け取っていいわけですか。
○塩川国務大臣 あえて日教組というそういう決めつけてかかられると、これはなかなか話はしにくいと私は思うのですが、先生と話をするということ、私はこれは望んでおるところであります。
○江田委員 なかなか微妙にお逃げになるわけですが、本当に大臣の方が心を閉ざしておると、やはり心を開くべき人も閉ざしてしまうということがあるので、教育ですからいいじゃないですか、いろいろなメンツやこだわりを捨てて大いにひとつ話をされたら、意見を聞いてみたら、どこからどういういい知恵が出てくるかわかりませんから。
それから、臨教審の皆さんともこの衆議院あるいは参議院もですが文教委員会の我々と大いに談論風発、いろいろな話をするような機会も前々からお願いをしているわけですから、持ったらいいと思うのですね。こういう委員会で集中審議、これももちろん必要ですが、ちょっとまた雰囲気を変えてお茶でも飲みながち、文教委員の我々と臨教審の皆さんとが余りかた苦しくない雰囲気で話をするなんというのもいいのじゃないかと思うのですが、大臣の方でそういうイニシアチブをおとりになる気はありませんか。
○塩川国務大臣 臨教審は政府の、つまり総理大臣並びに文部大臣の諮問に答えて答申を出すというこういう機関でございまして、したがいまして、私は一度サウンドはしてみます、仰せでございますので。サウンドはしてみますけれども、恐らく私は、その委員会の先生方は、私の立場というものはと、こうおっしゃるだろうと思うのです。これはですから臨教審の委員ということじゃなくて個人として話し合うということで、私はそんな機会があればいいなと思いますけれども、何と申しましても相手方のあることでございまして、相手方に聞いてみなければこれは何ともわかりませんが、国会でこういう発言があって、質問があったということ、これは担当を通じまして連絡さしてみます。
○江田委員 ぜひひとつお願いしたいと思います。この委員会でも臨教審の皆さんをお呼びをして議論をする機会が随分長く途絶えておりますので、ぜひ集中審議とかを私はやるべきだと思っております。
さて、話はちょっと変わりますが、先ほど大臣、価値の多元化ということをおっしゃいました。臨教審は個性重視の原則という言い方をしましたね。以前は個性主義という言い方もあったのですが、これはちょっといろいろお考えのところがあったのでしょう、個性重視の原則ということになっておりますが、大臣の価値の多元化というのも同じような方向性のことだと思うのですが、一方でまた、これは大臣にお答えをしろというのはいささかつらいことになるのかもしれませんが、なかなか個性というものを認めようとしない政治家が多い、あるいは価値の多元化について理解の少ない政治家が多い。その最たるものがせんだっての中曽根総理の、日本は教育が随分進んでいるが、アメリカはいろいろな人がおって知的レベルがまだまだ低いというような、その後同じ自民党の研修会で、女性はネクタイの色は覚えているが講演の中身は覚えてないとかいうようなことをおっしゃったり、この弁明で、今度は国会で、いや、日本は単一民族だということを言ったんだ、そうすると今度はアイヌ、ウタリですかの皆さんからおしかりを受ける、それにおわびのはがきを書いたら、どうも要領を得なくて、怒られたら今度は、いや、あれは女の子が書いた、また女性に大変おしかりを受けるようなことを言う。まるでツキに見放されたマージャンみたいなことになっておるわけですが、私はこれは基本的なところで総理は勘違いをされていると思うのですね。
単一民族であるかどうか、大体日本なんというのは多民族の混血なんですから、単一民族と言うのがそもそも変だと思うのですけれども、単一民族であるという認識は随分日本人の中に強い。そのことがいいんだ、単一民族だから教育もさっと行き届いて、一億打って一丸となってというのがやりやすかった。確かに今までは、そういう打って一丸となって日本がアメリカ、ヨーロッパに追いつき追い越せがよかったのかもしれません。しかしこれからの世界はそうはいかないですね。もう国際化というのは、私たちが脱亜入欧でアメリカやヨーロッパのああいう一つの先進国世界に我々が入っていくというそのことを意味するのじゃないので、世界じゅうがいろいろな意味で、いろいろな形で、いろいろな価値を持って相互に共存し合っていくということでなければいけないので、先進国だけが世界をつくっているわけじゃない、発展途上国、非同盟、アジア・アフリカ、全部これは世界の構成国なんですね。そういう皆さんのそれぞれの考え方がそれぞれに大きく生きていくようにする。日本は、インドの皆さんは本当にかわいそうにインダス川で最期の寿命を終わってと、インドの方から見ると、日本人は本当にかわいそうに最期は点滴のチューブに取り囲まれてと思うかもしれませんね。それはどちらがどうだというのじゃなくて、そういういろいろな考え方があるんだ、そういう多元性を我々は持っていかなければならぬ、認識をしていかなければならぬ。日本の国内でも、こういう多元的な価値あるいは個性というものを認め合っていかなければいかぬと思うのですね。アメリカなんかはああいう人種のるつぼですから、居ながらにしてそうした多元性というものを身につけること、体験することができる。日本はそれがなかなか難しいですね。したがって意識してこうした多元性を身につけていかなければいけない。その意味では、日本が単一民族意識を持っているということは日本の弱点だというふうにこれから先は思って、とりわけ学校教育の中などでは、こうした個性といいますか多元的価値といいますか、こういうものを意識的に身につけていく努力をしていかなければならぬ。中曽根さんの勘違いにそのまま乗っかっていってはえらいことになると思うのですが、いかがですか。
○塩川国務大臣 これは難しい問題でございますね。しかし中曽根総理の発言からいろいろと解釈できますことは、総理が単一民族と言っているこの民族ということのとらえ方、何をもって民族と見るかということが私は非常にこれもまた問題だと思うのです。ただ単一民族じゃなくて、おっしゃるように日本はいろいろな民族がおると、そうはやはり私は解釈をいたしません。ルーツはいろいろあると思う。ルーツはたくさんあったけれども、今や民族というのは文化圏だと私は思うております。文化的に見ました場合に、日本民族はやはり一つの民族になっているのではないかなという感じがするのです。これはいろいろとありましょうけれども、日本人を構成しておる人たちのルーツはいろいろあるということを私は言うのです。しかし文化的に見ました場合に、私は日本人は一つになっておると思うのであります。
今、国際化というのは何も民族の壁を取り払ってまでということは言っていないので、国の境を取りなさいということで、私は民族と国家とはまた違うと思います。ですから国家という垣根を日本は取らなければならぬと思いますが、我々の持っておる固有の民族というものは大事にしなければならぬのではないか、そういうことを私は思うております。
○江田委員 中曽根総理の発言が刺激的だったのか、どうもそちらのところに答弁がいってしまいましたけれども、もうちょっと個性重視の原則の重要性とかそっちの方があったんですけれども、それはいかがでしょうか。
○塩川国務大臣 私は世の中はすべて集成の矛盾
の中、経済学で言いますとその中にあると思うのです。皆さんもそうだと思うのですが、賃金を上げろ、物価を下げろ、税金を安くしろ、これは集成の矛盾なんですね。それと同じように教育の中におきましても、個性を尊重しろ、平等を図れ、公平にやれという画一主義というものがございまして、これは私はお互いに矛盾しておったと思うのです。
ところで、それじゃ教育のやり方で個性尊重にずっと突っ走ってしまっていいのかといいましたら、そこにはやはり義務教育として限界がございまして、やはり一定の社会秩序に適合した、現在社会に合った平均的な人というものに重点を置いて教育せざるを得ない。個性尊重だからということで個性ばかりを重点に置くということはできないと私は思うのです。しかし、私が言っております多元的価値というのは、すべてこれが絶対に一番いいんだという評価をしてはいかぬという意味において私は多元性ということを言っておるのです。
例えて具体的に申しますと、大学はどこそこ学校で、大学を出ていなければだめなんだ、その次は二番目なんだ、その次は三番目なんだ、こういう決め方で就職も結婚も友達選びも全部やってしまうということ、これは間違いだ。たとえ夜学を出ようが、二部を出ておろうが、その人は五年、六年という年数をかかってやっと夜学を出た、その学歴をしてきたということを認めなきゃいかぬと思うし、今放送大学を文部省は開講しておりますが、放送大学を苦労して卒業してきた、その実力といいましょうかその努力というものは見てあげなければいかぬ、私はこういう価値の多元性というものを見ておるのであります。
個性の尊重というのと同時に、公平、画一的な教育というもの、これは相矛盾いたします。しかし、その片っ方に極端に走ってしまったらいかぬ、絶えずそのバランスをとりながら教育は進めていかなければいかぬということを私は思います。しかし、その人間を評価するのに多元的に評価すべきであるということを申しておるわけであります。
○江田委員 話をちょっと戻して、日本というのはルーツはいろいろだけれども今は一つの民族、文化は一つとおっしゃったわけですが、さあ、今のアイヌの皆さんのことはどうしますか、これも文化は一つということに入れてしまいますか。
○塩川国務大臣 私は、やはりルーツはいろいろあったと思います。しかし、私はアイヌの方と余り接触ないので十分知りません、誤解があれば訂正いたします。いたしますが、しかしその方々も今同じように自分らの伝統というものを守っておられる、これは私はよく承知しております。しかし、生活圏の中で見ました場合には、みんな一緒に同じ生活の中でおられると思うのです、暮らしというものは。しかし、その方々のルーツに持っておられたそういう伝統と習慣というものを尊重しておられる、これは私は十分に理解しております。これを、我々も一緒だとは言い切れないと思うのです。しかし、今現実に生活しておる様式というものは同じではないかな、したがって、最初から言っておりますように、民族とは何かといったら、文化圏としてのとらえ方なんだという点から見るならば、私はそれは同じではないかなという感じがするのです。
○江田委員 余り水かけ論をやっても仕方がないのですが、恐らくそうじゃないよという声があると思いますので、ひとつまたよく勉強をしていただきたいと思います。
アイヌの皆さんのこともそうですが、例えば在日朝鮮人、韓国人の皆さんもいるのですね。うれしい縁、悲しい縁、いろいろな縁があって、この日本列島というところに一緒に住んでいる。しかし、この民族という、今の大臣のおっしゃる民族という意味でとらえてみても、民族は違う、だけれども我々は一緒にここで同じ一つの共同体として住んでいる、そういう皆さんが日本のこの国土の中にいるわけです。こういう皆さんもこの国土の中に一緒に住む以上は皆同じように住めるようにしようじゃないか、これはこれから先日本の国際化ということを考えたときにはどうしても必要なことです。
単に韓国人、朝鮮人だけじゃなくて、もっともっと門戸を広げてよろしい。だから、国の垣根というものはもっと取っ払っていかないといけないので、取っ払ったときにそういう違った言葉の人、違った宗教の人、違った価値観の人、違った肌の色の人、そういう皆さんもいろいろな機縁でこの国に一緒に住む以上は、皆同じ機会を持ち、同じサービスを受けという国際国家になっていかなきゃいけない。学校教育でもそういうことはこれから非常に重要になってくるのだと思いますが、どういう認識をお持ちですか。
○塩川国務大臣 それはおっしゃるように、自分だけじゃなくて他を思いやるという、今おっしゃっていることは結局他を思いやるということだと思いますし、もっと露骨に言いますと、それぞれの生活とそれぞれの立場を尊重しろということ、これは当然必要なことだと私は思うております。教育の中にそういうことを入れていく、これが国際化だと言いますけれども、この国際化の中身をどう教えたらいいかということの一番わかりやすいのは、他人を尊重しろ、そして他国を尊重しろ、そしてその立場に立って物を考えろ、相手の立場に立って物を考えろ、これが国際化の一番わかりやすい教育だ、そう私は認識をしております。
○江田委員 個性といいますと、もう一つこれはぜひ大臣にお考えをいただいておきたいと思いますが、それぞれ一人一人の個性というものもありますけれども、ペースの個性というのがあるのです。あるところまではどんどん早く進むけれども途中でとまってしまってという人もいるし、ゆっくりゆっくりだけれども最後はかなり高いところまで行ったぞという人もいる。高い低いもまた難しいですけれども、そういうこともあるのです。
ところが今の学校教育は、小学校の第何学年ではここまで、中学に入って第何学年はここまで、そして中学三年になると高等学校に入るだけの実力を必ず備えていなければならぬ、高校三年になると大学に入るだけの実力を必ず備えていなければならぬ。そういうときに途中でこぼれますね。そうすると、敗者復活戦というかもとに戻るパイプが非常に狭いのです。もっとそれぞれの個性的なペースを、個性的に歩む子供たちがつらい思いをしなくて済むようなことも考えなければならぬ。臨教審は個性重視の原則と言いながら、そこらあたりは抜けているように思うのですが、ぜひ考えていかなければならぬ点だと私は思うのですけれども、どうでしょう。
○西崎政府委員 先生御指摘の、個々に応ずる教育の問題でございます。
今後の方向といたしましては、先生は臨教審の関係での御指摘もございますが、私どもは、教育課程審議会で一年余いろいろ御審議願いまして、先般その中間まとめを出していただいておるところでございます。その中で四つの今後の「基準改善の基本方向」を示しておられますが、第三番目に「基礎的・基本的内容を重視し、個性を生かす教育の充実を図ること」として、教育課程審議会も大きな四つのうちの一つの柱として掲げておられるわけであります。具体には、義務教育でございますから小中学校は基礎・基本が必要である、しかし別の面として「一人一人の幼児・児童生徒の個性を生かすよう努めなければならない。」この両面を課程審においても押さえておられるわけであります。まだ若干、課程審は科目別の内容、目標の審議が続くわけでございますけれども、私どもは先生御指摘の点も踏まえて、課程審のこのような方向も重視しながら、今後の指導要領の問題には対処してまいりたいと思っております。
○江田委員 先ほど私は在日韓国人・朝鮮人のことをちょっと申し上げましたが、外国人で日本の学校に通っている子供たちをどういうふうに呼んでいるのでしょう。呼んでいるというのは、例えば韓国人、朝鮮人の皆さんの場合ですと恐らく三通りある。一つはキム・デジュンというのがあります。をれを日本流の字でそのまま読むと金大中(キンダイチュウ)ですか。さらに通名といいますか金田何がしという、金田に限らないかもしれませんが、三通りくらいあるのだけれども、どういう呼び名になっておりますか。
○西崎政府委員 日本人につきましては、学齢簿を編製し、それに基づく指導要録が作成され、そこで名称が記載され、呼称も決まる。これは当然のことでございますが、外国人につきましては学齢簿がございません。しかし、就学を希望する場合には小中学校が国際親善の立場でできるだけ受け入れるということになりまして、その指導要録への記載につきましては、学齢簿がありませんので、本人、父母、保護者からの申告に基づいて指導要録へ記載をする、こうなるわけでございます。
問題は、先生お話しのように持導要録で記載された名称とそれから実際の教場における呼称、この点につきましては、やはり現場における学校の担任教師等が保護者等と話をされて、具体的な呼称について先生方が一つの考え方を持って呼び名を固めていくというふうな扱いに実際問題としてはなってまいる。そこのところを、指導要録に書いてあるものをぜひ呼称として使わなければならないというふうなリジッドな指導は私どもはもちろんいたしておりませんし、その場その場での保護者として先生方との間の問題というふうに考える次第でございます。
○江田委員 国際化ということを考えますと、やはりそれぞれの、先ほどの日本民族の話じゃないけれども、日本民族でない皆さんの文化とかあるいは民族の誇りとかそういうものも我々大切に考えてあげることが必要なのだろうと思うのですがね。そうしますと、例えばキム・デジュンと呼んでほしい、それが自分の誇りだという場合にはやはりそう呼んであげるべきだし、いや、いろいろな事情から自分はもう金田太郎と呼んでほしいということならそう呼んであげるべきだろうし、そこは本当に保護者と子供、子供というよりも保護者でしょうが、その方々の希望を素直に入れたらいいのだと思うのですが、いかがですか。
○西崎政府委員 御指摘のとおりだと思いますし、現実にもそのような扱いがなされている、一々私ども全部調べたわけじゃございませんが、それが当然の扱いであろうと思う次第でございます。
○江田委員 現実の扱いがちょっと違う場合があるようですので、あえて伺ってみました。
それから就学届、これは希望する者に就学を認めているということですが、就学通知は希望する者にだけ就学通知を出すということに今なっていると思うのですが、これは一体なぜ、同じように幼稚園へ行っている、同じように仲よく遊んでいる子供たちみんなに、同じように就学通知を出さないのですか。
○西崎政府委員 これは先生御案内のとおり、我が国の義務教育制度という形で、日本国籍を有する保護者、子弟という形で制度運用が行われておりますので、当該市町村区域内に所在する学齢に達した子弟については、学齢簿を編製する、これは日本国籍で就学義務を負う者について学齢簿を編製するわけでございまして、したがいまして、就学通知は学齢簿に基づき行われるということから、学齢簿が編製されていない外国人子弟については就学通知が行われていない。その外国人の子弟につきましては、日韓条約に伴いまして、その子弟の就学については、特に日韓の条約、協定に伴う配慮ということから、永住を希望する者についてはできるだけこれを受け入れるようにという通知は出しております。しかし、韓国人子弟以外の者についても、先ほど申し上げました国際親善の立場から、希望する者についてはできるだけ受け入れるようにという事実上の、私ども就学事務担当者会議等で指導資料を示しながら指導しておりますので、現実には希望すれば受け入れられているという実態であろうかと思いますので、その点は今後ともできるだけ、希望する者は受け入れるようにというふうな立場での扱いをしてもらうように考えてまいりたいというふうに思っております。
○江田委員 希望すれば受け入れられるということをもう一つ超えて、就学通知はとにかく平等に出した方がいいのじゃないかと思うのですね。この就学通知というのは、親が子供を教育させる義務を負っている、義務教育だから。その義務を親に知らしめる通知である、法的にはそれも恐らく正しい理解でしょう。しかし、何かそんなことを言うと、就学通知というのは赤紙みたいな感じがしますね。そうじゃなくて、やはり楽しい学校へ、やっと一年生になるんだ、こういう学校に対するインビテーションカードが就学通知なんで、これは同じように学齢に達した子供たちは、日本人も外国人も子供みんなに出して、そして、ただし注意書きでもして、自分は外国人学校へ行きたいんだとかあるいは私立の学校へ行くんだとかそういう場合にはぜひ通知をしてくださいということにしてあげないと、子供たちが同じように育ちながら、あるときはっと自分はみんなと違う、違うこともまたそれは大切といえば大切ですが、韓国人、朝鮮人の場合にはもっと違った歴史のいろいろな流れがありますから、ぜひ原則として、例外を逆にして、就学通知はとにかくインビテーションカードだからお出しをするということにした方がいいと思うのですが、どうですか。
○西崎政府委員 就学通知という通知の性格は、やはり義務教育学校に就学すべしというと言葉はきつうございますけれども、義務を負っている者について学校に就学してくださいというわけでありまして、これは日本人子弟については当然法律上の問題として義務を負うわけでございますが、外国人の子弟につきましては、先生御案内のように、今お話がございましたが、いや、アメリカンスクールに行きたいとか、いろいろそれぞれ保護者の意向によりまして必ずしも日本人学校に行きたいという方々ばかりではないというふうに思うわけでございます。したがいまして、厳密な意味での就学通知を同様な形で出すことはやはり私どもはいかがかと思うわけでありますが、現場の実態としては、私どもちょっと調べておるところでは、教育委員会において広報で在日外国人の就学について通知したりというふうな、一つの広報活動として当該市町村在住者の外国人子弟に、希望すれば入れるよ、入っていただくことは可能だというふうな形での広報活動等は行っておるところもあるようでございまして、このことは国際親善の立場からも必要なことですし、やはりそういう点についての配慮は必要ではないかというふうに思うわけでございますので、先生の御趣旨はそういうふうに受けとめさせていただいて、なお検討してまいりたいというふうに思っております。
○江田委員 やはり義務の通知だとしても、就学通知にちょっとリボンでもかけて、どうぞと出してあげるぐらいな、そういうことが案外教育的配慮だというような気もするのですよ。
さて、もうちょっと話を進めまして、最近文部省、日の丸とか君が代について大分厳格に運用されようというような傾向があるようで、以前は、国民の祝日などにおいて儀式を行う場合に、児童に対して祝日の意義を理解させるとともに国旗掲揚、国歌斉唱が望ましいというようなことのようだったのですが、この六十年八月二十八日ですか、「入学式及び卒業式において、国旗の掲揚や国歌の斉唱を行わない学校があるので、その適切な取り扱いについて徹底すること。」今度教課審の中間まとめはもっとこれが徹底してきて、小中高校では「日本人としての自覚をもって国を愛する心を育てるとともに、国際社会の一員としての自覚を一層深める観点から、入学式や卒業式などの儀式的行事における国旗及び国歌の取扱いを明確にすることについて検討する。」まあこれは「検討」ですからこれから検討されるわけでしょうね。そういう方向に進んでいるかに見えるのですけれども、私も別に、日の丸とか君が代は実は何かちょっと君が代という言葉がどうもぴんとこないなという点はあるのですけれども、それは国旗とか国歌とかというのが必要ではないというふうにはもちろん申しませんし、国旗が日の丸である、国歌が君が代であるということをあえて否定をしようとも思わないのですが、しかしいろいろな儀式で、何か日の丸に正対をし国歌を斉唱しなければこの人間は愛国心がないんだという、そういうふうにまで決めつけていくということになりますと、愛国心の表現の仕方まで国によって決められてしまうのか、表現の自由は一体どこへ行ったのだ、愛国心の表現の自由だっていろいろな表現の方法があっていいじゃないかとちょっとすねてみたくもなるのですが、なぜ一体こうまで日の丸、君が代ということを一生懸命言われるのでしょうね。
○西崎政府委員 国旗、国歌に関して学校教育での扱いはもう先生御案内のとおりでございますが、その趣旨としましては、やはり日本国民としての自覚を子供たちが持ち、国を愛する心情を育てる、あるいは将来国際社会において尊敬され、信頼される日本人として成長していくためにはやはり国旗、国歌に対する正しい認識を育てることが大切だ、こういうふうな考え方で、これは先生お話しのような祝日とか儀式などの問題ではなくて、やはり各教科、社会、音楽、特別活動等においても、いろいろ国歌、国旗についての正しい理解を深めるということは学校教育で従来から指導してきておるところでございます。
冒頭、先生から、昨年にわかにそれを強化したのではないかというお話でございましたが、昨年高石初中局長名で出されました通知は、特別活動に関する調査というのを五十九年度において行われましたところ、いろいろな特別活動の中で国旗掲揚等が非常にばらつきがあるというふうなことで、その点についてはさらに学習指導要領に基づく国旗掲揚、国歌斉唱について、学習指導要領に従った一つの実施について望ましい姿として慫慂するというふうな趣旨で出したわけでございまして、先生御心配の画一的ではないかという点については、学習指導要領には基礎・基本的な教育課程におけるあるべき姿というものを書いてあるわけでございまして、国旗、国歌に関する取り扱いもそういう姿として各学校でも実施していただくことが望ましい、こういうふうな考え方でやっておるわけでございまして、これは必要なことであるということで私どもは従来から指導しておるわけでございます。
○江田委員 私は儀式というものの心を打つ力というのをときどき考えるのですが、私が大学の三年のころに東京オリンピックがありまして、三年といっても五年目の三年なんですけれども、閉会式の光景を今でも思い出すのです。
「東京五輪の幕閉じる 皮膚の色も国境も越えて」。今新聞の切り抜きを幾つか取り寄せてみたのですが、松沢一鶴という人、この人は実は私がずっとやっております神伝流の水泳の大先輩なんですが、この方が「会心の演出、男泣き 式典の神さま 報われた苦心」と書いてあるので、そのことは大変うれしいことなんですが、しかし実は、閉会式の成功というのは会心の演出ではなくて巧まざる演出であった。八列縦隊できちんと並んで入場するはずであったのが、主催者側の意図は全く無視されて、第一団の選手たちは腕を組み「ウォー、ウォー」と、叫びながらトラックになだれ込んできた。こうもりガサをぐるぐる回す者、また、演奏中のブラスバンドの前で、カサを振って指揮のマネをする者、列から勝手に離れ、逆戻りする者、芝生にカメラをすえ記念撮影する者。たった一人だけランニングシャツでかけ込んできた黒人選手。「八列に並んでトラックに沿って行進して下さい」「それぞれのプラカードのあとに並んで下さい」の、英、仏語のアナウンスも一向にきき目がない。フィールドの真中で、円陣を組んで踊り出すのもいれば、満場の拍手に気をよくしてトラックを二周するのもいた。
この中で、日本の梯団だけがぴしっと並んで行進をしていたというのがいかにも奇妙だ。やはりそういう心の通い合い、これは儀式だからといって形式ばかりきっちりしていることによって心が通うのじゃないんで、逆にそういう形式ばかりきっちりすることによって面従腹背を助長することになると、一体これが教育的機能であるかということになると思うのですね。そのあたり、余り一つの固定化した儀式のやり方を、これだといって強い言葉になりますが押しつけるのでなくて、いろんな形があるんだ、あるところでは子供たちに自由にやらしたっていいじゃないかという、もっともっとそういう自由な儀式のあり方というのがあってもいい。私どもも、議員の仕事をしておりますといろんなところでいろんな儀式に出ますね。どうも外国での儀式と比べると、日本の儀式は随分固いんじゃないかという気がして仕方がないですよ。そういうことを考えますと、日の丸、君が代というのも、国旗、国歌の論争はひとまずおいておいても、余りかたくなになられない方がいいという気がして仕方がないのですよ。
これは大臣のお考え、まあ大体わかっているようなものですが、私の今のような主張にどういうふうにお答えになりますか、答弁してみてください。
○塩川国務大臣 御意見として承っておきます。
○江田委員 話をかえます。教育課程審議会で家庭科の男女の共修について大きな方向が打ち出されました。この家庭科問題、私も前々からこの文教委員会でも何度も申し上げてまいりましたが、大臣にもひとつぜひ御理解をいただいておきたい。
これからの時代、やはり男は外で仕事、女は家庭を守って、そういう役割分担というのはだんだん変わってくると思うのですね。あるいは女子差別撤廃条約批准という世界の大きな風潮もこれありで、変わってくるようにしていかなければいけない。それだけではなくて、次第に家庭というものが核家族になって、子供たちに家庭なり生活なりを毎日の家庭生活の中で受け継がしていくという機能が家庭に薄れてきているという点もあるだろうし、あるいは今度逆に家庭生活というものが昔と比べて非常にいろんな要素が入ってくることになりましたね。
例えばクレジットカードがある。どういうふうにクレジットカードを使うかというような素養もなしに、これは持っていけば幾らでも買えるというので、買い過ぎて家庭が破産して夫婦が別れてというような悲劇も少なくはないですね。あるいは子育ての問題にしても、児童心理学の基本くらいなことはどこかでちゃんと覚えておかなきゃならぬという時代になってきているとか、食品の問題、家の中で赤や黄色でまことにきれいな色のついたものばかりがいいわけじゃないぞというようなことを覚えておく。ごみの問題、下水の問題あるいはしつけの問題、今なかなか難しいセックスの問題、そうしたさまざまな生活の知恵、人間の自立していく基本的技術、これを学校教育の中で男女ともに、しかも一緒にきちんと教えるべし、そういう主張が随分強くなって、そういう声を受けて検討会議ができて、その結果を受けて今回教課審で中間まとめの中にも一つの方向が出されておるわけですが、ひとつ大臣、そういう家庭生活というものを学校教育の中で、男女ともに、男性の生き残りのためにもちゃんと教えておかなければならぬという主張に対する大臣の見当みたいなものでいいですから、感想を伺っておきたいと思います。
○塩川国務大臣 今回の中間まとめによりますと、男女ともすべての生徒に家庭に関する科目の中から一科目四単位にする、こういうのですが、これを必修させるという方向が示されております。
仰せのように、今日家庭の中で男女の果たす役割というものは、以前のように「おい、お茶持ってこい」という式のものではない。これはもう若い人は自然に体得してきておると思うのでございまして、それを要するに教育的効果のあるように教えていくということ、これが学校の教科だと思いますが、一科目につき四単位必修にするということでございますから、おっしゃっている趣旨は大体学校で実現されておるのじゃないかと思います。
○江田委員 学校で実現されているんじゃなくて、学校で実現するようにしようということですからね。ぜひこれは大臣、後退しないように、前へ進めるようにお約束をしていただきたいと思いますが、いかがですか。
○塩川国務大臣 最終的には教育課程審議会の結論が出るわけでございますが、私たちもそれは進めていきたい、こう思います。
○江田委員 そこで、この家庭科の問題については女子差別撤廃条約の批准との関係もあって動きが出てきたわけですが、外務省は女子差別撤廃条約の国内における履行といいますか実現の実態をつかんでいかなければならぬと思いますが、この教課審の中間まとめの内容については文部省から報告とか説明とかを受けておりますか。
○金子説明員 お答えいたします。
十分に連絡を密にしてやっております。
○江田委員 中間まとめですと、高等学校の家庭科の見直しについては女子差別撤廃条約の関係についての記述がありますが、中学校の技術・家庭科の部分にはこの条約についての記述はないけれども、これはなくても当然女子差別撤廃条約との関係でこの条約に違反しない、この条約に適合するような方向で実現をするんだというふうに外務省は理解されていていいんですか。
○西崎政府委員 先に文部省の方からお答え申し上げます。
中学校の技術・家庭科の現在の指導要領では、女子はこの領域、男子はこの領域という若干領域についての科目の指定がございまして、先生御案内のようにいささか問題があるということも我々留意いたしまして、いろいろ課程審等でも御検討いただきまして、中学校の技術・家庭科につきましても、今示されておるのは十一領域、木材加工、金属加工等でございますが、この十一領域の中から、男女を区別しないで相ともに四領域についてはすべての生徒に履修させるというふうな扱いに変えようというふうな教育課程審議会の方向が出ておりますので、こういう方向で行いますならば、高等学校と相ともに、決して問題になることはないというふうに理解いたしております。
○江田委員 外務省もそういう理解でいいんですか。
○金子説明員 お答えします。
我々もそのように理解しておりまして、外務省としては中学、高校ともに教育課程についての機会が男女同一となることが予定されていると承知しております。
○江田委員 もう一度念を押しますが、この中間まとめ、これは教育課程審議会の最終結論を待たなければわからぬわけですが、中間まとめの方向で結論が出されますと、外務省としては当然中学校と高等学校については家庭科は男女が一緒に必修で学ぶことになる、こういう御理解ですね。
○金子説明員 そのとおりでございます。
○江田委員 文部省ももちろんそれでよろしいですね。
○西崎政府委員 そのような方向で対処をしてまいるつもりでございます。
○江田委員 高校の家庭科は、この中間まとめですと「家庭一般」それから「生活技術」 「生活一般」と三つもあるのですが、「家庭一般」だけですとまずいんですか。「生活一般」「生活技術」というのが同時並行的になければうまく動いていかないのか。さらに、その「生活技術」の中に電気、機械、情報処理、園去という技術科のような内容がありますけれども、これは高校家庭科の中に技術科が入ってくるということなのか。それともそうではなくて、あくまでも家庭生活ということが貫かれた限りでの電気とか機械とか情報処理とか園芸とかいうことなのか。つまり技術科の先生が教えるんじゃなくて家庭科の先生が教えるということなのか。ここのところを聞かしてください。
○西崎政府委員 今回の教育課程審議会の中間まとめの考え方の問題でございますが、男女とも家庭科を必修にするという前提に立ちまして、もう一点、家庭生活に関する基礎的な知識という押さえ方をしたい、これが基本でございます。
そういたしますと、家庭生活に関する基礎的な知識という押さえ方をした場合には、従来の「家庭一般」は食物あるいは被服、調理というふうな事柄が主でございましたが、それだけではいささか狭い。もう少し広く、先生御指摘のような技術的なものとか園芸的なものとか、そういうふうなものもやはり家庭生活に関する基礎的な知識のカテゴリーに入る、こういう考え方があると思うわけでございます。そうしますと、一つは「家庭一般」についても教育内容を組みかえる、中身を改訂しよう、それ以外に「生活技術」という科目あるいは「生活一般」という科目を設けて、それぞれの教科・科目の内容は今申し上げました家庭生活に関する基腱的な知識という前提で少し組んでみよう、こういうふうな前提であろうかと思います。
その中身につきましては、これから課程審の分科会でいろいろ御検討いただくと思うわけでございまして、まだ私たちもその最終的な方向はこれからということで承っておりませんので、全体の姿あるいは考え方は以上のような考え方であろうというふうに理解しております。
○江田委員 時間が大分迫ってまいりましたが、「生活一般」の場合には二単位を「生活一般」で、あと残り二単位は他の科目でかえることができるようにすることについて検討する。これは実際に例えば教室を整備するとかあるいは教師を養成するとかということがすぐに間に合わない場合があるからということだろう、したがってあくまで例外であって、当分の間で、必ず四単位になる方向で努力をされると期待をしたいと思いますが、それでよろしいかどうか。
それから、今の家庭生活に関する基礎的知識と技術ということでこの三つの教科をくくってみて、「生活一般」の最初の二単位が家庭生活に関する基礎的な知識と技術に集中される、さらに今の「家庭一般」もあるいは「生活技術」もその部分については共通した内容にする、二単位分については。そういう知恵もあるかと思いますが、いかがでしょう。
○西崎政府委員 碓かに教育課程審の中間まとめにおきましては、御指摘のとおり「生活一般」につきまして四単位のうち後半の二単位についてはいろいろと「生活一般」の科目と関係が深い、例えば技術とか情報という科目、あるいは体育等の履修をもってかえることができるようにするというふうなこと、これも課程審としてもそういう方向について検討するというふうにおっしゃっているわけでございまして、それらの扱いもこれからでございます。
「生活一般」の中身でございますが、家庭と社会、消費と経済生活、健康と食生活、結婚と育児というふうなものが前半。それから後半は、調理、服飾、住居、児童心理、消費生活、家族関係、家庭看護というふうに、若干前半と後半について現段階でも区分をした扱いを考えてはどうかというふうな中身になっております。今後、これらにつきましてはさらに検討を加えて、方向性を見出しつつ考えていかなければならないというふうに思っております。
○江田委員 先ほど私は、家庭生活というものについての国民の考え方も随分変わってきている、大臣もそういう趣旨のことをお答えくださいましたが、一方で総理府の家族・家庭に関する世論調査というのがありまして、男の役割は生活費を得ると考える人が八七%、掃除、洗濯、食事の支度、後片づけ、家計管理などは男女いずれも九〇%前後が妻の役割と考えていたとか、どうも男と女、夫と妻、役割分担がいいんだというふうに考える人が随分多かったというふうに新聞で報道されたりしているわけです。だからこそ家庭科の男女共修を進めなければならぬと言えるかもしれないとも思いますし、しかしこんな調査なのかな、もっと何か世の中、人の意識というのは変わってきているのじゃないかなという気がするのですが、総理府の方でこの調査について、実はこういう調査でございましてということがございましたら、ぜひひとつ釈明をしていただきたいと思います。
○坂東説明員 先生が今おっしゃいました調査、私どもといたしまして聞きましたのは、お宅では次に挙げるような日常的な役割は主としてどなたの役割ですかという実態について聞いたものでありまして、だれがするべきだとか将来こうすべきだとか、そういう価値判断にかかわるものを聞いた調査ではございません。
○江田委員 どうも価値判断にかかわる調査であったかのようにいろんなところで引用されておりますので、ぜひこれは坂東さん、何か機会を見つけて、そういうものではないんだ、総理府としてはもっと違った家庭生活のあり方を考えているんだというようなことを大いにPRをしていただきたいと御要望申し上げます。
時間がもうちょっとだけあるので、最後に著作権法の問題ですが、(発言する者あり)特別許諾の関係のことが大変にこじれてしまっているようですが、文化庁の皆さん、せっかく去年あんなに努力をして、この寡作レコードあるいは新作のレコードについても権利の集中的処理機構をおつくりになっておるのに、これが崩れてしまっているというのはまことに残念なこと、ざんきにたえぬことではないかと思いますが、どうするおつもりですか。
○久保庭政府委員 昨年春から一年間、貸しレコード業者及びレコード製作者の間で合意が成立いたしまして、貸しレコードについて円滑な運営が行われたことは評価しておりますが、その後、一部のレコード製作者が一部の貸しレコード業者を相手取りまして貸与禁止仮処分申請が提出されまして、これにつきまして去る十一月二十日に東京地裁の仮処分申請についての決定が下されたところでございます。この決定に基づきましてまだ当事者間で争いのあるところでございまして、私どもとしての見解を申し上げるのは差し控えさせていただきたいと思いますが、私どもはこの制度が当事者間の円滑な合意に基づきまして運営されることに強い期待を持っておるわけでございまして、必要があれば指導もしてまいりたいと思っておる次第でございます。
○江田委員 私は三時十五分から質問を始めまして、質問を終わったのが四時四十四分で、ただいま答弁が終わったのが四時四十六分ですので、答弁が一分長引いたことについては自民党の理事さんにおわびを申し上げますが、それは私のせいではないので、今後ともよく事実を確認して不規則発言をいただきたいと思います。
どうもありがとうございました。
1986/11/26 |