1988/10/28

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113 衆議院・文教委員会


○江田委員 参考人の先生方、当文教委員会の教育職員免許法等の一部を改正する法律案審議のためにお忙しいお時間をお割きくださいまして、本当にありがとうございます。
 私は、きょうは社会党・護憲共同という会派の立場から先生方に若干の質問をさしていただきたいのですが、実は、私自身この委員会にもう五年ほど籍を置かしていただいておりますけれども、学校教育現場というのは親としてタッチしたことがあるほか全然ありませんので素人でございまして、先生方のお話それぞれになるほどな、もっともだなと思いながら聞いたのですが、後でよく考えてみると、まるきり違った立場の御意見ということで困っておるのです。

 そこで、まず小川先生と三輪先生に念のために伺っておきたいのですが、両先生ともこの教免法は疑問がある、反対だ、そういうお立場でございますが、しかし、恐らく現在の学校現場に問題がない、現在の学校現場は非常にうまくいっておるから、だから教員の免許の制度は今のままでいいのだ、そうじゃなくて、この教免法が今の学校現場のさまざまな問題をむしろ悪化させるんだ、そういう立場じゃないかな、こう思っておるのですが、結論だけで結構ですので、その点、まず小川参考人の方からお願いします。

○小川参考人 基本的にはそう見ているわけであります。
 戦後、教員養成制度の基本的な改革の観点は、戦前的な師範学校教育というようなものを批判し、型にはめられた教師をもっと自由な空気の中で養成するという開放制の原則を立ててきたわけですが、どうもそれが崩されていく、そういうことは、やはり教育の現場でいうならば今の状況をさらに悪化させていく、そういう危惧を持っております。

○江田委員 三輪先生の方、いかがでございますか。

○三輪参考人 今日のさまざまな教育の危機や荒廃の基本的な要因は、それらの問題も教職員の学校でのチームワークあるいは協力、自主的な、創造的な実践を通して十分克服できないような管理体制が戦後四十年来の中で着々と築かれてきているというところにあるように私は思います。

 ですから、その解決のためには、職場に自由と平等を確保し、本当に人間的な連帯がみなぎるような学校に変えていく必要がありますし、そのためには、積年の教育政策の矛盾をこの際抜本的に見直して、教育の自由と自治を取り戻すということが基本的に大事だと思っておりますので、それに逆行する政策については先ほどのような意見を申し上げたわけでございます。

○江田委員 牧参考人と上寺参考人はこういう法律が必要だというお立場ですが、ちょっと言葉をきちんと記録していないのであるいは間違うかもしれませんが、情報化とかあるいは国際化とかそういうような時代の大きな変化に伴って教師のあり方も変わっていかなければいけないから大切だ、こういうことを強調されたように伺ったのです。

 しかし、情報化、国際化というようなことは、もちろんこれは今の時代の動いていく方向ですが、そういうことが今の学校教育のさまざまな問題を生み出しているのか、それとも、そういうことよりももっともとの問題として、何か子供たちの人間としての成長というような点で今学校教育の中に、とりわけ、教師の質とも絡んでいろいろな問題があるのではないか、こんな感じもするのですが、そういう点は賛成のお立場の両参考人はどうお考えでしょうか。牧先生、いかがでしょうか。

○牧参考人 御賢察のとおりかと思いますが、事がかなり複雑なのじゃないかというふうに私などは見ておるわけでございます。

 実は、過去三年ほど生徒指導プロジェクトというものを展開いたしまして、全国約二万人の小・中・高等学校の先生方に御協力をいただきまして、一体どうしたらいいかというので調査をしたことがございます。そのときには先生方の調査ではございますが、数字の方はちょっと必ずしも正確じゃございませんのでお許しいただければと思いますけれども、あなたは先生として教えている子供たちに信頼されていると思って教壇に立っておるかという趣旨の設問が、幾つかある設問の中にございます。そうしますと、その数字が正確じゃなくて申しわけないのですが、五割以上の現職の先生方が、どうも私の教えている子供たちは私を信用していないようだというつもりで指導しておるという、生々しいというか恐るべきといいますか、実態があったりするわけでございます。

 子供自身もまた別のプロジェクトで、カウンセリング、教育相談関係のプロジェクトも、ここ三年ほどやりました。子供自身にもやはり原因があると思われるケースもございますし、それから子供と教師とのインタラクション、コミュニケーションの間で、どちらかというと、教師の打つ手というか働きかけがもうちょっとベターであればなというようなケースもございまして、一概には言えないように思うわけでございますが、教員の資質をそういう側面でも非常にきめ細かに改善するような手当てをしませんといけないということだけは明言できるかと思うのです。

 先ほどもお話し申し上げたかと思いますが、教育職員免許法を改正すれば、たちどころにそうなるという保証は全くないと思います。もう少し包括的に物は考えなければいけないと思いますが、免許法の改正がわずかではあっても寄与し得る面があるというふうに私など信じておるところでございまして、教育の外だけじゃなくて教育の内側からの努力ということも非常に大事なのではないか、こんなふうに考えておるところでございます。
 以上です。

○江田委員 同じ質問ですが、上寺参考人、お願いします。

○上寺参考人 端的に質問に答えさせていただきます。
 私は、先ほど社会的、国家的、世界的要請、こう申し上げました。その中には二つ意味がございました。一つは、現在の教育で問題があるのだ、これが一つ。将来の二十一世紀を考えるとより複雑な問題が重なってくるのだ、しかし、それを通しております原因は一貫しておると思っております。非常に情報化し、そうして個性化が阻害され、さらには国際化という問題が今真剣に新しい国際化という角度から考えられなければならないということは、通して一貫した基本の原因になっておる。ただ、分けて考えると、現状の問題と将来の考えられる原因と両方面から要請されているのだ、こう思っております。

○江田委員 四人の参考人が、立場が二対二で全く対立をしているかに見えるので、少しほぐして考えてみて、どこか共通の接点はないだろうかというようなつもりから今ちょっと伺ってみたのですが、いずれの皆さんのお話も、今の教育現場で、とりわけ教師の質という点でいろいろな問題がある、それが何によって起こったかという点が重要ですけれども、そういう点では恐らくニュアンスの違いあるいはそれぞれの御専門からのアプローチの違いはあるにしても、共通しておるのではないかと思うのです。

 そこで、私は、今牧先生がおっしゃられた、教師に聞くと五割以上の教師が自分は子供に信頼されていないのじゃないかと思うというお答え、あるいは教師と子供との関係がどうもおかしなときに教師側にもうちょっと注意をすればいいのじゃないかというようなケースがよく見られるということ、これはかなり重要な点じゃないかという気がするのです。

 臨教審答申の中で、過度の管理教育というのは改善をしていかなければならぬ、そういうことが書いてあるのですね。今、管理教育というのは、臨教審答申の中では、特に教師が子供を管理していく、過度の拘束であるとか、さまざまありますが、そういう点をとりわけ取り上げておるのかとも思いますが、しかし、教師が子供を管理していく傾向というものが強く見られる。

 例えば、学校の中で管理棟なんという言葉が平気で今使われておりますね。教員室がある、校長室がある、そして幾つかの学校施設の、俗に言う管理運営をつかさどる棟を管理棟と呼んでおる。管理棟なんという言葉が学校の現場にあっていいのかなという感じもちょっとするのですが、教師が子供を管理するだけでなくて、教師自体がいろいろな形で評定されているといいますか、管理されているといいますか、本来教育というのは教師が子供と真っ正面から向き合って、ぶつかり合ってお互いに成長していく、お互いに学び合っていく、そういう非常に人間的な営みであって、そこにそれ以外の上進であるとかさまざまな評価であるとか、公の営みですからそういうものがまるっきりゼロでいいとまでは申しませんけれども、なるべくそういうものが入ってこないことがいい。

 子供の方を向いて全力投球、その結果は歴史に問うというぐらいのつもりで、免許の制度が上に上がるかどうかなんということはそんなに気にせずに全力を尽くす、そんなことでなければならぬと思いますし、そういう教師の資質というものが今実は非常に阻害をされておるのではないか、そんな気がするのですが、一人の親から見た学校現場の、教師が管理をされていて自由な教育が行われていない、しかも、その中で教師自身がそこに安住してしまって、教師の本来あるべき資質が損なわれているのではないかという感想を持つのですが、そういう点は四参考人はどうお考えになりますか、順次伺いたいと思います。

○牧参考人 先生の御質問が少し単純ではございませんので、答える方も困るわけでございますが、教師が管理されているというときには、だれがとか何をとかどういうふうにしてとかいうような基準といいましょうか、管理とは何ぞやとか、そういうことを明らかにしませんと、何とも答えようがないわけなんでございますが、私などは、管理というのは、そういう管理アレルギーというような意味での管理とは押さえておりません。学校において管理というときには、こういうふうにしたらこの子やあの子が個性豊かに伸びるであろうというふうな意味で管理という言葉を考えるわけでございますが、そういうふうな意味で教師が管理されているかというふうに問われれば、私のささやかな経験の範囲で考えますと、管理されていない。こういうことは適切かどうか実証してからでないと本当は答えられませんが、オブザベーション、経験の範囲でいいますと、観察の範囲で見ますと、野放しになっておるということの方が印象としては強く持つわけでございます。

 ですから、やはり学校というものは組織でございますので、さまざまな御意見の先生方がおられるわけで、いろいろな意見を持った先生方がそれぞれの意見を尊重しながら、学校の教育目標実現に向けて努力する、こういう組織体だと思いますので、先生の御指摘については、管理されていない、私はこんなふうに考えておるわけでございます。

 後半で述べられた、むしろ管理の中で安住している傾向が見られるかという御質問でしたら、若干そういう傾向が見られるかもしらぬというふうに見ておるとお答えしたいと思います。

○小川参考人 先ほども申しましたように、教員を管理する力というのは最近非常に強まっている、しかし、教師は管理されることを潔しとせず、自由でありたいという努力をしていると思います。

 先ほど御紹介しました退職教職員の調査ですが、約五万名を母集団にいたしまして全国で二千名以上いたしまして、こ三一十年ほど実際に教員をされた方のアンケートでございますが、先ほど申しましたい、その中で非常に目立ったのは、学校に自由がない、もっと自由が欲しいという声がかつて校長であった方、教頭であった方、一般教員から非常に多くありました。同じような意見を逆に申したものとして、ある教師は、私は三十五年間先生をやってきた、しかし、尊敬できる校長先生や教頭先生にはついに二人ぐらいしか出会わなかったということを書いておられました。このことも一つの見方かもしれませんけれども、私は、現在管理的な立場にあられる校長、教頭先生が本当に教師から尊敬される先生であるのかどうかということも非常に問題を含んでいるのではないかというふうに見ております。

○上寺参考人 管理されているとか管理しているとかという考え方があるかと思いますけれども、これはそれぞれの感じ方だと思いますが、私はこう思います。

 学校で何を基準にして教育が行われるかといったときに、教育課程をコアにして教育が行われます。その教育課程を円滑に進めるためにマネジメントするのだ、人のマネジメント、さらに物のマネジメントもあるのだ。では、学校の教育課程はだれがつくるのかといったら、学校でつくるのであります。校長を初めとして、学校ぐるみで、その学校で教育課程をつくるわけであります。それを推進するためにそれぞれが役割分担をし、協力体制を組んでいくのだ、私はそういうふうに思う。それを一つのマネジメント、こういうふうに考えておるわけでございます。

 日本語の管理ということに対しては、言葉自体に私は必ずしも賛成はいたしません。やはり経営であろうと思っております。教育経営であろうと思っております。

○三輪参考人 やはり教育改革の究極の目的は子供たちにとって魅力のある学校につくりかえていくということだと思います。そのためには、何よりも子供を大事にし、子供から出発する学校でなければならないと思うのです。ところが現在は、どちらかと言えば、端的に言うと国、文部省から出発する学校のようになっているのだと思いますね。ですから、そういう仕組みの中では、やはり上を向く教師としてつくられていって、子供の立場に立って子供から出発する、子供の内面から考えて、その悩みにこたえて誠実に教育の実践をし、研修をする、そういう教師の姿勢になり得てないわけですね。そこから子供と教師の信頼関係が崩れていっているように思いますので、その大きな仕組みを変えていかなければならないと考えます。

○江田委員 ありがとうございました。やはりそれぞれの先生方でお考えあるいは感じ方が違うのだなということが確認できたわけです。

 臨教審の第一次答申の中で、「教員の資質向上」というところで、「教員には、児童、生徒に対する教育愛、」「教育愛」というのが一番最初に来ているのですね。その後に「高度の専門的知識、実践的な指導技術が不可欠である。また、学校教育を活力あるものとするためにも教員としての自覚を高めるとともに、その専門性の向上を図る必要がある。このため、教員の資質向上の方策について、養成、採用、研修、評価などを一体的に検討する。」そんなことがあって、「教育愛」、教育愛というのが何か、また難しい議論がいろいろあるのかもしれませんが、何か大学でたくさん単位を取ればいい先生になるとか、さらに進んで専門課程で修士の称号をとればいい先生になるということと、ちょっと違ったところに問題があるのじゃないかなという感じが私はしておるのですが、時間が余りありませんので、次に行きたいと思います。

 小川参考人にもう少し御意見を敷衍して述べていただきたいと思うのです。開放制ということをお話しになりまして、今度の制度は開放制の原則に逆行するのだ、いや今既にもう開放制というものが相当制約をされてしまっているのだ、そういうお話がございました。制度の問題としてはこれは論証づけられるかと思うのですが、もう少し伺いたいのは、開放制の理念、開放制の制度のもとにある開放制の精神というものは何であって、それが今どんなふうになっていると先生はお考えでしょうか、その点が一つ。

 それから、さらに高度な教師の養成ということが大切で、修士課程を全国の教員養成課程を持つ大学にすべて備えていくような方向が将来展望として望ましいが、どうもその点はあいまいであるというようなお話がございましたが、最近、修士課程とまでいかなくても、各大学に教職教育センターですか、こういうものをつくろうというような運動もあり、そのような予算要求もされているということを伺ったことがありますが、そうしたことについて先生のお考えがございましたらお話しください。

○小川参考人 先ほども申し上げましたけれども、開放制の原則は、歴史的には戦前日本における教員養成制度、いわゆる師範学校による教員養成制度の反省及び批判から始まっていく。つまり閉鎖的な国家主義的な教育、学校の仕組みの中で、特別な仕組みの中で教員が養成されるということにかかわって、非常に画一的な型にはまった教師、言われたことはやるけれども自分から進んで創造的なことは必ずしもしない、そういう点についての反省があり、やはり教師も一般の職員と同じように開かれた大学で、しかも真理、真実を自由に探求し議論する、そういう大学の場において養成すべきである、そういう知的探求の自由といったものを通して教育の場に接していくべきであるという考え方に立ったと思うのです。

 しかし、率直に申しまして、私のような一般大学におきましては、それでは十分な教員養成の努力をしているかというと、問題は必ずしもないわけではないのですね。ということはどういうことかと言いますと、一つは、大学は教員養成に責任を持ちますけれども、そのすべてを持つというわけにはいかない。教員養成の知的な教科の内容に関するものとか基本的な人間観でありますとか、そして同時に最小必要な教育についての見方とかそういうものを養成する、そして教育の現場において教師は、自由なよりよい職場の中でよりよい教師が育っていく、父母も含んだ地域のすぐれた学校の中で研さんを進めていくんだ、そういう見方をしております。

 しかし、そういう前提に立ちましても、一般大学において不十分ではないかというので、国大協の教員養成部会では数年前に、一般大学及び教員養成大学の中に特別に教職教育研究センターを設けよという答申を出しておりまして、私の大学でも実は全学的な規模で毎年五百名ぐらいの希望者がおりますので、そういう生徒たちに特別の教職教育研究センターを大学内に設置して、さらにその充実に努めたいというふうに全学の意思がまとまりまして、数年前から予算要求しておりますが、そういうのはどういうわけか通らないわけですね。その点を大変不思議に思っているわけです。

○江田委員 なるほどね。一方で新構想の大学ですか、兵庫、上越、鳴門、こういうところの予算はよく通っていくということはまことに不思議だということかもしれませんね。

 時間が大分迫ってまいりまして、上寺参考人に、ちょっと参考人の言葉じりをとらえるような質問になるかと思いますが、お許しをいただいてお答え願えればと思うのです。

 教育経営というふうにおっしゃいまして、私も、ここで経営とおっしゃることがそろばん勘定というようなことをおっしゃっているわけではないと思います。マネジメントということですからね。ただ、マネジメントが非常に狭い範囲で行われているのでは教育というものとはちょっと違ったことになるのではないか。

 教育というのはかなり長いタイムスパンのことであって、例えばあるとき、ある瞬間に大変に反目しても、それが十年後に非常にいい結果として出てくるというようなこともあるし、ある瞬間にきちっと物事がマネージされているということだけを余り考えると、これは教育ということとはちょっと違うのではないかというそんな感じもして、教師の管理という言葉がいいかどうかは確かに疑問はありますが、ある学校の中で教師が皆整然と一つの目標に向かって頑張っておるという姿が、その時点では麗しくても、本当に十年、二十年、五十年先まで麗しいままでいくのだろうかなという感じが時々するので、教育というのは何かもっと息の長いといいますか、底の深いといいますか、そういう営みではないかという気がするのですが、そういう点で先生の今の教育経営ということをもうちょっと敷衍して説明してください。

○上寺参考人 経営という言葉は、本来企業体から出た言葉であることには間違いございません。利潤を追求するために、こういうことであったことは間違いないのでございますけれども、二十年、三十年前ごろから教育の世界に市民権を得た概念でございます。しかも、それは学校経営と言わないで、教育経営と私が言っておりますところに、今江田先生おっしゃいました御趣旨もその中に含んでおる、お説のとおりだと思うのでございます。

 だから、経営という言葉は狭い意味ではないので、教育を経営していくのだ、こういう意味で長いスパンを考えて、そうして目標を立てながらそれに向かって勉強していく、こういう全体を指しておるのだ、そう御解釈をいただきたい。現在、教育学の面では市民権を得た概念でございます。

○江田委員 もう一つ、ついでに上寺参考人に伺っていきますが、そういう意味で教育経営、さらにはもっと言えば社会経営でしょうかね、盆栽でむだな枝をちょきんちょきん切ってきれいに整えるのではなくて、もっと大きな木になったときに見事にこの枝ぶりが整っていけばいいわけですから、元気のあるものは大いに伸ばしていこうということが必要かと思うのですが、それにしては、例えば先ほど上寺先生おっしゃった、十五年教師をやって一種免許への要請を満たすことができないようなことではしようがないではないか。しかし、そうは言っても、十五年といいますと、短大を出てすぐ教師になったとして三十五ですね。三十歳の半ばというのはやはり人生非常に迷うときでもあるし、さらにまた子育てその他でも大変なときで、そういうときにある試験の要請を全部満たすことができないというようなこともあるかと思うのですね。

 それはそれとして、十五年でそういう要請を満たして一種に移れなかったら、年限をずっと経るごとに逓減されていった修得単位数がもとへぽんと戻ってしまうというのは一体どういうことであるのか。経験を経たということがその十五年で一種にならなかったということによってゼロになってしまうというはずがないですね。何かこの十五年の教員としての経験の間に修得を必要とする単位をだんだん減らしていくということがえさに使われているのではないか。えさというのは何だ、それは教師を管理するえさではないか、そんなふうに思うのですが、今のもとへぽんと戻ってしまうというのはどういうふうに上寺先生はお考えかを聞かせてください。

○上寺参考人 十五年たったら一遍に戻るのではなくて、その前、十二年ごろから漸次チャンスが与えられるはずでございます。そういう前の状態を見た上で十五年で切るということが考えられなければならないのではないだろうか。確かに十五年したころには、同じ危機といいましても、希望を捨てる危機か、あるいは機会を失う危機か、気力を失う危機か、いろいろございますけれども、やはり十五年までには次へのステップというものは完成されておるべきだろう、それだけ努力をする必要がある、そう信じております。

○江田委員 ありがとうございました。いずれにしても、教育をめぐる今の状況というのは大変ですので、ひとつそれぞれのお立場から一層の御指導をお願いしたいと思います。


1988/10/28

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