民主党 参議院議員 江田五月著 国会議員わかる政治への提言 ホーム目次
第2章 選挙制度を考える

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無情な控室の割りふり

 「解散」と同時に、衆議院議員という身分の人間は、この日本から一人もいなくなる。本来なら、「万歳」を叫んで本会議場を出てきた前衆議院議員は、その場でバッジをはずし、議員特権のすべてを返上しなくてはならないはずだ。だが、再選される場合を考慮してか、議員会館の事務室も国鉄の全線パスも、選挙の結果が判明するまで従来どおり使わしてくれる。それだけに、落選した時は大変だ。

 私の父の場合、若いころを除けば昭和二十五年に参議院議員に当選してからは連続当選。それが昭和五十一年十二月、最後の衆議院選挙で落選してしまった。記者たちに「まずやることは?」と問われ、「決まってるじゃないか。議員会館の片づけだよ」と答えた。

 会館の部屋の受け渡しはまことに悲喜こもごもである。意気揚々と大ダルマを抱えて入ってくる新人議員とそのスタッフを横目に、黙々と荷造りをするベテラン議員の秘書……。人生の明暗がはっきりと映し出される瞬間だ。

 父も議員歴が長かっただけに、事務所には書類等私物がギッシリ積んであった。だが、「遅れては潔くない」と、秘書の矢野さんを初め仲間がワッと集まって、短時間のうちに議員会館と議員宿舎から荷物を運び出し、掃除をすませた。そのかわり、めちゃくちゃなスピードで荷造りをしたものだから、後で箱を開けた時、整理するのに一苦労だったそうだ。

 私自身も二度、議員会館と宿舎からの引越しを経験した。昭和三十八年七月、父が参議院の任期を終了して、次の総選挙まで浪人生活を送ることになった。私も父と同居していたので、参議院の清水谷議員宿舎を追い出された。昭和五十八年七月、私自身の参議院議員の任期終了の時も同じだが、いずれも予定のコースだったから、悲壮感はなかったし、無情な仕打ちも味わっていない。

 政党レベルでの選挙の勝ち負けを非情に反映するのは、院内の控室の割りふりである。

 国会の会議は、本会議と委員会があり、それぞれ本会議場と委員室(なぜか、参議院では「委員会室」と呼ばれる)で行われる。これらの会議のため待機したり、各会派の会合を開いたり、各会派の事務の処理のため会派職員の事務室にあてたりする目的で、国会内の部屋が各会派に割り当てられる。これを「控室」と呼ぶ。

 これは、各会派の所属議員の数に応じて割りふられるから、大会派ほど部屋数も多く面積も広い。場所も、本会議場に近い二階である。一方小会派は、狭い部屋で、場所も三階だ。

 今、私の入っている控室は、議員会館の事務室とほぼ同じ面積の第二十一控室。社民連の三名と議長、副議長を含む無所属の五議員の部屋で、田中角栄元首相も無所属だからこの控室を割りふられているが、いまだにここでこの大先生に会ったことはない。

 私たちのようにもともと小さい政党はともかく、議席を減らして、今まで使っていた控室を他党に明け渡す政党の関係者は、情けない思いをするそうだ。

 議席の数に比例して増減するものは、この他に政党用に割り当てられる自動車があるが、よりいっそう深刻なものに、委員会の発言時間がある。この件については、後で詳しく述べる。


急を要する定数是正

 今さら言うまでもなく、選挙とは、主権者たる国民が政治に関与する最大の機会である。

 憲法は第十四条や第十五条で、国民に対して、「普通」「平等」「直接」「秘密」選挙を保障している。ところがこの大原則が、昨今あやしくなってきた。

 その一つは、一票の格差である。人口の都市集中化が進むにつれて、人口過密地区と過疎地区との間で、議員定数と有権者数のバランスが狂ってきた。

 戦後初めて議員定数を決めたのは、昭和二十一年のことであった。公職選挙法には「衆議院議員の定数は、五年ごとの国勢調査の結果によって是正するのを例とする」と書いてあるのだが、昭和二十一年の総定数四百六十四人が、その後何度かの是正で増えはしたものの、一議席も減らぬまま、今日の五百十一議席まできてしまった。「是正とは増やすことと見つけたり」である。

 その結果、昭和五十八年の選挙人名簿登録者数を基礎に計算した場合、一議席あたりの有権者数で、最高は千葉四区の36万2千人。最低は兵庫五区の8万2032人。格差は4.41対1だから、千葉四区の有権者は四人束になっても、兵庫五区の有権者一人よりも発言権が小さいことになる。

 「これでは、法の下の平等を定めた憲法第十四条に違反するではないか」と、人口急増地区の有権者が各地で訴訟を起こし、五十八年十一月には最高裁が「違憲」判決を下した。さらに五十九年に入ると、千葉、東京、神奈川、大阪等過密地区の有権者が、選挙のやり直しを求める「定数是正訴訟」を起こした。これは全国二十二選挙区に及ぶ大規模なものであった。

 これを受けて、国会でも定数是正が論議され、各党が案を出し合った。

 各党とも「衆議院の総定数は現行の五百十一は変えず、その枠内で是正し」「対象選挙区は最小限に抑える」 ことで意見が一致しているようだ。

 問題は、一票の格差の許容範囲で、自民党は「三倍以内」と言い、私たちは「二倍以内」と言っている。野党の中にもニュアンスの違いがさまざま。

 野党側が苦しいのは、現在の選挙区の区域をそのままにして厳密に是正すると定数一議席の小選挙区がいくつかできてしまうこと。現在の中選挙区制維持の主張と矛盾する。選挙区の区域を変えると、これまた党利党略どころか個利個略で大騒動は必至である。

 だが、格差是正は急がなければならない。自民党は、定数是正を遅らせることによって、不自然な多数派獲得を維持しようとしている。しかし、裁判所の判断も出そろい、もう知らぬ存ぜぬは通用しない。猛省を求めたい。

 アメリカでは、十年ごとの国勢調査結果に基づいて、商務省国勢調査局が機械的に、下院定数四百三十五名の枠内で、各州定数を再配分するのだそうである。イギリスも、国勢調査結果に基づいて、独立した委員会が自動的に選挙区の区域を変える。日本も国勢調査があるのだから、その結果を自動的に定数の是正に結びつける知恵をしぼるべきだ。常に国会の裁量で是正するということは、無理がある。議員にとっては、自分の存在基盤をいじるのだから。


「人」から「党」にかわった投票

 定数の話がでたところで、もう一つの選挙制度改革のことに触れよう。昭和五十八年の参議院選挙で、わが国の選挙制度史上特筆すべき大改革があった。

 初めて「人」ではなくて「党」に投票する「比例代表制」が実施されたことである。

 この制度は、実施されてから二年経った今日もなお、矛盾や疑問点が続出しているので、少し詳しく説明しよう。

 参議院全国区制の曲がり角は、昭和四十九年、田中角栄首相の下で行われた参議院選挙だ。前にも書いたとおりの「企業ぐるみ選挙」と「金権選挙」がまかり通った一方、いわゆる「タレント候補」が善戦した。そのため、全国区で当選するには、巨大組織の後ろ楯があるか、大富豪か、テレビ等で全国的に顔を知られているか、でなくてはダメということしなってしまった。

 全国区ならぬ 「残酷区」と言われ、金のかかることのほか、候補者が全国を走り回らなければならず、肉体的にも大変だと言われた。

 そこで全国区制の見直しが始まり、これまでも全国をブロックに地域割りして戦ってきた公明党がブロック制を主張したりしたが、自民党、社会党の動向は、比例代表制導入に次第に固まった。


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