民主党 参議院議員 江田五月著 国会議員― わかる政治への提言 | ホーム/目次 |
第6章 新しい枠組みをめざして |
なぜ文教委員会を選んだか
「社民連の言い分は建前としてはよくわかるが、国会は数で動くのだから、結局何もできないでしょう?」と、よくきかれる。
確かに衆参あわせて四人という勢力では、議院運営委員会に委員を出すこともできない。しかし、多数の声高な合唱だけが世論ではない。声なき民の声も大切。小さな勢力でも、じっと耳を澄ましてこの民の声を聞きわけ、これを議会で代弁すれば、おのずとその発言は重みを持つはずだ。幸か不幸か委員会で、私たち社民連の議員は常に質問の順番は最後だ。他の質問者が触れなかった問題を取り上げたり、角度を変えて質問したり、貴重な割当て時間に無駄が生じないようにすることができる。
私はいま、衆議院文教委員会に属している。
「裁判官出身なんだから、法務委員会の方がよかろうに」と不思議がる人もいる。参議院では一時、法務委員を務めた。確かに政府委員の方にも知人が多く、議論の内容もよく熟知したことばかりで、居心地は良い。しかしそれは前の職業の延長にすぎない。私としては、今まで経験していない分野で、政治家としての能力を磨くことの方が大切。そこで、ちょうど学齢期の三人の子の父でもあるし、今教育が大問題になっている時でもあるので、文化や教育に責任を負う文教委員にさせていただいた。
今までの文教委員会の論議は、どちらかというと、職能集国としての教師の主張と、それを管理する文部省側の政策の、対立する論争になっていたといえる。文部省対日教組の対立は、わが国のイデオロギー対決の象徴であった。もしこの二者択一を迫られるのなら、教師の主張の方がより子供や親の願いに近く、私も教師側につきたいと思う。 しかし今は、この二者択一ではすまされない事態になっている。教育の現状を真面目に直視すれば、両者のイデオロギー対決の中で、「子どものための教育」という視点がなくなり、結局は文部省も日教組もともに子どもに対する加害者になってしまっているという側面を指摘せざるをえない。これが「イデオロギー政治」の弊害である。
教育の分野だけでなく、他の分野でも「イデオロギー政治」の弊害が出ている。イデオロギーで割り切れない問題にどう対処していくか。これが現代のすべての政治課題に共通する特色である。
親子の断絶、世代間の断絶というのは、ギリシアの昔からあるのだそうだ。しかし、現代の世代間格差は、断絶という範囲を超えているのではないか。たとえば、日本人は人から学ぶ能力に優れ、真面目な働き者だといわれる。ところが今の子供は、前の世代の価値観を引き継いでいないばかりでなく、その良し悪しは別として民族的体臭さえも失っている。さらに厳しい言い方をすれば、人間としてどうなのかと思うような者も多い。この荒廃はどこからきたのだろう。 二十一世紀を創る主体となる世代を育て上げていくシステムが、かなり壊れているような気がする。壊した責任は子供たちにはない。大人にある。一日も早く修理するのが、大人の義務だ。
国会でも子供たちの悩みを受けとめ、その悩みを自分の悩みとして解決の道を探る論議がなされなくてはならない。単なる条件整備、環境整備であってはならない。 しかし、国会は政治の場だ。政治がむき出しの姿で教育に介入するのも困る。国会の限界をわきまえながら、踏み込んだ議論が必要だと思う。踏み込みながらも自己抑制をし、自己抑制をしながら突込んでいくという姿勢が問われる分野なのだ。政治家としての資質を磨いていくのにも貴重な体験ができる分野だと思う。
家庭科の重要性を取りあげる昭和六十年は「国連婦人の十年」の十年め、つまり最終年にあたる。そこで日本も「婦人差別撤廃条約」を批准することになり、そのための国内法整備が、昭和五十九年に国会で一斉に行われた。文教委員会関連では、「家庭科」の扱い方が問題となった。
婦人差別撤廃条約には、第十条のB項とC項で「男女双方に同一の教育課程の機会を与え」「男女の役割についての定型化された概念の撤廃」が記されている。ところが現在の日本で、「家庭科」はどう学習されているか。高等学校では「女子は必修」「男子は選択」となっているが、現実には男子が家庭科を選択できるカリキュラムは組まれておらず、かわりに男子は剣道か柔道をやる。中学校でも一部男女両方が学ぶ分野があるが、大部分は、男子は木材加工、金属加工とか機械、電気など、女子は家庭科と分けられている。
「これは明らかに女性差別。条約批准の障害にならないか」という声が国会審議の過程で出てくると、教帥や父母や生徒自身からも「女子も選択にせよ」とか「女子の家庭科必習を守れ」という相反する声が上がって、新聞の投書欄で論争が行われたりした。
核家族化と高齢化が確実に進んでいく日本では、男も身辺自立の学問として「家庭科」の素養がないと暮らしていけないだろう。現に私の恩師で、奥さんに脳出血で倒れられた方がおられるが、見ていられぬほど気の毒な状態だ。
奥さんを愛し、かわいそうに思う気持は誰より強い。その看病の姿はまさに感動的。しかし、日常生活の知識や身辺自立の知恵やセンスがないから、病妻に食事をさせることも下のめんどうを見ることもできない。尽し型の奥さんを持っていればいるほど、夫の家事能力は幼児以下なのである。
この悩みは、何も高齢者だけではない。若者でも地方出身者は、大学進学と同時に一人暮らしだ。炊事、洗濯が必要なだけではない。親の仕送り、アルバイト収入などで、月々の生活費をまかなっていく金銭感覚も必要だ。ちかごろ、学生ローンで破産したり、サラ金被害にあう例も多いが、こういう面も含めた家庭科が必要なのだ。中年なら単身赴任のケースも多い。身の回りのことは他人に頼らなくともやれる感覚が、これから一層必要性を増してくると私は思う。「男は仕事、女は家事」という時代は過ぎたのだ。
家庭科そのものの発想も変えなければならない。
昭和五十九年四月十一日の文教委員会で、私は家庭科を生活教育という視点から練り直し、男女とも共学必修にすべきだと提案した。
この時の文部大臣、森喜朗さんも大いに賛意を表され、文部省の中に「家庭科検討会議」を発足させて、ここで高等学校の家庭科一般の取り扱いについて、条約批准前に一定の方向づけをしたいと答弁された。そこで私は、「現在、各種審議会の委員のうち女性の占める割合は4.9パーセントに過ぎないが、この家庭科検討会議の委員の半数を女性にしてはどうか」と提案し、「家庭科検討会議」の委員は、半数とまではいかなかったものの、十六人の委員のうち七人が女性になった。
最近小さな集会などに出るたびに、「家庭科を男の子に教えることをどう思うか」と尋ねてみる。大部分の人が賛成である。反対の人も、今の家庭科を「生活科」に作りかえるのなら賛成。声なき民の声がここにある。
「つまらない」問題にこだわる理由偏差値で子供を輪切りにする今の教育の中で、私は、家庭科や音楽、体育などのように点数に意味のない教科は、点数をつけることにより生徒はこれを嫌がるようになるのだから、点数をつけるのをやめたらよいと思う。その教科で教えていることが、好きになりさえすれば、できの良し悪しはどうでもよいのだ。しかしそうすると、受験に関係なくなるから、たちまち他の主要教科に侵蝕されて、姿を消すだろうという。教育現場に作用している偏差値という磁力線がいけないのだ。すべてがこの磁力線の影響を受け、何をやってもうまくいかない。根本が狂っているのだ。
私がこれまで取り上げた問題は、今の家庭科共修や前述の車検にしても、本書で触れる余裕がないが、レコードレンタルや松食い虫にしても、これまで「政治の争点」といわれた問題とはほど遠い。イデオロギー優先の政治を重視する人たちからは、「江田五月はこんなつまらない問題に取り組んでいるのか」とあきれられたり、反発を受けたりするかも知れない。
しかしこのような「つまらない」問題でも、国民生活にとって重要な意味を持つ。ところが巨大な官僚機構の中では、この意味が見失われてしまいがちだ。まして急速に移り変わっている現実と国民のニーズ(要求)に即した解決策は、官僚機構の中からは出てきにくい。
政治家の重要な任務は、このような一見「つまらない」問題に誠実に取り組み、常日ごろから国民生活にじかに接している立場から、解決策を見出していくことにある。いかに日本の官僚が優秀でも、これは官僚にはできない、政治家の独壇場だ。
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