第三章 学生運動と退学処分 目次前へ次「浅沼委員長の死」

  六〇年安保闘争

 東大入学と同時に、安保闘争に参加していたようなものだ。入学式の情景も、当時の総長の話も、記憶に残るような感銘を与えてくれなかった。しかし駒場寮食堂に新入生を集めての当時の自治会委員長の演説や、私達の先輩クラスである三十四年入学文T6組の自治委員の話は、内容こそ忘れたが、一生懸命話しているなという印象だけは残っている。

 私は大学に入る前から、将来は政治に関与しようと思っていた。それも具体的に社会党で活動したいという希望だった。子どもがタクシーの運転手になりたいというのと、あまり変わらない願望であったかもしれない。当時の全学連主流派(社学同中心、反日共系)と反主流派(日共系)の区別さえ知らなかった。とにかく一クラスから二人選出される自治委員に立候補した。四、五人立候補者がいたが「学生だけで一生懸命デモするのもいいが、孤立してはどうにもならない。駒場で暮らしているのだから、地域の住民の中に入って、安保反対を訴えていかなければならないと思う」と立候補の弁を述べた。自治委員に当選してしまった。

 最初にデモに参加したのは四月十五、十六両日だった。どちらかが主流派の行動日で、どちらかは反主流派だ。こういう具合に行動日が違ったり、次の4・26(四月二十六日のこと、以下同じ)のように主流派はストライキ(ピケを張って学生の登校を阻止する)、反主流派は授業放棄(ピケは張らない)と戦術が異なったり、ことあるごとに対立していた。行動日の前には、自治委員会や代議員大会が開かれる。双方が敵意をむき出しにして激しく論議している。初めのうちは、何が何だか、まったく理解できなかった。

 そのうち、先輩で社会党青年部に入っている人と接触ができ、いろいろ教えてもらうようになった。当時の社会党青年部は全学連主流派と行動を共にしており、その主張は元気がよい。最初のうちは 「これでも社会党か」と思ったりしたが、私もしだいにその主張に賛同するようになった。

 行動面でも、主流派の方に魅力を感じた。決定的だったのは4・26の行動だった。この日、全学連主流派の国会デモに参加した学生たちは、規制のため装甲車を並べて作ったバリケードを乗り越えて進み、国会周辺を包囲した。デモというのは集団の行動で、一人一人の意志が反映するということは少ない。しかし装甲車を乗り越えるのは、一人一人の意志による。そういう自発的意思の積み重ねが一つの社会的な力になるということを、この日の行動は示していた。私ももちろん、装甲車を乗り越えたうちの一人だった。しだいに、反主流派の請願デモを「お焼香デモ」と呼び批判するようになっていった。

 安保闘争の期間中、私はほとんど全部のデモに参加した。樺美智子さんが死んだ六月十五日は、国会構内に入った。あの時は東大本郷が先頭で、東大教養は隊列の後の方にいた。樺さんが所属していた東大本郷の隊列は構内奥深く入り、それだけ機動隊との衝突が激しかった。しかし私たちはそれほど深く入らないうちに、すぐに押しもどされてしまった。国会周辺をうろついていると「三人死んだ」「いや五人だ」などの情報が乱れ飛んだ。機動隊がしだいに優勢になり、国会周辺から蹴散らすように、学生を追いかけ回した。私は住居である参議院清水谷議員宿舎に逃げ込むより他なかった。午前二時頃になっていた。

 翌朝新聞を読むと、論調ががらりと変わっていた。七社共同宣言があり、それまでの安保批判が陰をひそめ、逆に暴力排除、議会主義擁護が前面に出て来た。全学連主流派の活動は単に「暴挙」として描かれているだけだった。

 私はこのとき「東京だけでやっていてもダメだ」と思った。安保自然承認の六月十九日の行動では、岡山に帰って参加した。集会の壇上に立ち、私の見た東京の実情報告をした。岡山でも、高校時代の友人寺田明生君が、連日一人で「安保反対」を街頭で訴え続けていたことなどを知った。寺田君は生徒会総務の一人としてともに活動した仲間であり、現在も東京の下町で住民運動をつづけている。学生運動で「帰郷運動」が云々されるのは、この直後のことだった。

 この三ヵ月間は、本当に忙しかった。駒場の自治会のデモの他に、社会党青年部が独自に取り組む「岸私邸デモ」などというのもあった。総評の統一行動があれば、国鉄の尾久、品川などの車庫に行き、労働組合の支援をする。こういうスケジュールがぎっしりつまっていて、私は二キロほど痩せた。

 私自身の考え方はあくまで一般学生のものだったのだろう。革命が起きるというような大それたことはもちろん、安保改定が阻止されるとも思っていなかった。ただ安保反対の意思表示をする必要があると思っていただけだ。この当時よく、自治委員は自治会室にビラを取りに来てくれということがあり、私は高校の生徒会のようなつもりで協力していた。一度このため講義に遅れたが、教官が私をとがめ「君たちは学業が本分だから」とお説教口調で言い出したのにはびっくりした。この教官の方は主流派の学生運動を、革命運動につながるものと、ある意味では「正しく」認識していたのである。

 結果的に安保闘争は敗北した。全学連主流派の中心的なメンバーは、そのショックで、ブント(共産同)から革共同全国委員会(マル学同)にくらがえする。以降、学生運動が四分五裂の分裂を繰り返し、悽惨な内ゲバに発展していったことは周知のとおりだ。でも、私にはピンと来なかった。運動の盛り上がりはあったが、国政レベルでどういう政権を作るのかという具体的目標がなかったことが、安保敗北の原因だと思う。父が護憲・民主・中立の政府という形で政権の目標を提起するのは、もっと後のことである。

 こうして安保闘争の潮は、あっという間に引いてしまい、世の中は平穏になった。私も、七月からの夏休みには岡山へ帰り水泳で明け暮れた。夏休み明けからの私の学生生活は一般学生とほとんど変わらないものだった。もちろん自治委員は続けていたが、学生運動の沈滞と共にそれほど忙しくない状態だった。この頃社会党青年部を母体に社青同(社会主義青年同盟)が結成された。社青同東大駒場学生班のメンバーとしても活動を続けた。時々学生向けのビラ作りをやり、原稿書き、原紙切り、ガリ版印刷からビラまきまでやった。

 目黒区内にある中小企業の争議の応援にも出かけた。泊まり込みか、早朝の行動だった。労組員と話し合うこともあった。私たち学生の主張はおおむね強硬諭であった。労組員が「そんなことやったら、会社がつぶれてしまう」というのに対し、「つぷれるかどうかとことんやってみたらいいじゃないか」などと無責任なことを言っていた。

 しかしこういう行動はそれほど忙しくない。講義にもある程度出席し、クラスの友人たちといろいろ楽しむ平均的な学生生活にやや政治活動が加わったという程度だろう。もともと安保闘争の最中にも、合ハイ(合同ハイキングの略)をやったりしていた。相手は東京女子大や女子美術大のお嬢さんたちだったと記憶している。友人から「五月祭を案内してくれ」と頼まれ、女子学生数人と一緒に本郷の構内を歩き回ったこともある。前期の試験(九月)が終わった後には、クラスの友人たちと尾瀬から日光まで、山小屋に六泊して歩き回った。運転免許を取ったのもこの頃だ。

 読書だけはマルクス主義関係のものに集中した。マルクスやエンゲルスの「共産党宣言」「賃労働と資本」「空想から科学へ」「ドイツ・イデオロギー」、レーニンの「帝国主義論」「国家と革命」「唯物論と経験批判諭」、毛沢東の「実践論・矛盾論」など次から次へと読みあさっていた。当時論議の的となっていた構造改革論についても、関心は強かった。イタリア共産党のトリアッチの著作も興味深く読んだ。構造改革の理論的基盤を確立したといわれる「現代マルクス主義講座」なども読んだ。現在、日本共産党の中枢にいる上田耕一郎、不破哲三兄弟は、その頃構革論の旗手であった。

 社青同の学習会なんかもあった。東大の検見川グランドにある宿舎や、伊豆・戸田の寮などをよく利用した。戸田で行われた学習会へ行く途中、列車の中で石原慎太郎氏の「太陽の季節」を読んでいたことがある。同行していた先輩が「そんな下らないものを読む暇があったら、マルクスでも勉強しろ」という。私は口には出さなかったが「そんなものではあるまい」と、ひどく違和感を持った。向坂逸郎氏の「資本論学習会」は、当時から中野区鷺官の自宅で行われていたが、私は一度ちょっとのぞいただけでやめた。向坂氏が、私が通っていたよ うにいっているのは、何かの記憶違いだろう。当時から教条的なものにはなじめなかった。


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