第三章 学生運動と退学処分 目次前へ次「ユーゴでのこと」

  「退学に処す」

 昭和37年、東大教養学部自治会委員長として大管法反対のストライキの先頭に

 十月に入ると、大管法闘争に本格的に取り組まなければならない。十一月の段階で闘争の山場を作ることが決まっていた。全国の学生運動の中心であると自負する駒場が、その先頭を切って闘わなければならないことも当然である。十一月一日と決まった統一行動の日に社学同はストを主張していたし、社青同もストに傾いていた。

 当時東大では学部共通細則でスト禁止を明記し、学生大会(駒場の場合代議員大会)でスト提案をすること、そのスト提案を大会議長として討議させること、その他ストを指導することは懲戒事由に該当すると決めていた。このため執行部がスト提案する場合は、委員長みずから議長をやり、スト提案者ともなることが決まっていた。そうすれは処分者は最少限に食い止められるからである。

 私にはストで処分を食うことがカッコイイなどというヒロイズムは全くなかった。かといって、退学処分が恐いからストをやらないというわけでもない。しかし一年で復学することが慣例になっているとはいえ、すでに一年留年しているので、さらにもう一年無駄な回り道をすることになるのか、という気持があった。

 「どうしようか」と父に相談したこともある。「自分で考えて、いいと思うようにやれ」というだけだ。なんとなくふっ切れない気持でいるとき、気晴らしに映画を観た。たぶん「マノン・レスコー」で、違ったとしても恋愛映画だ。見終わったとき、「俺も男だ。退学は承知の上で、やれるだけやって見よう」と覚悟を決めたのだから不思議だ。

 その頃になると、政府がねらっている大学管理法案の内容もしだいに明らかになった。とくに学部教授会のメンバー資格や、学部長選挙の方法が、法律で縛られることになり、学部自治は大幅な制約を受けることが解った。国立大学協会なども、自由闊達な大学が失われるとして反対の態度をとり始めていた。

 ストライキ提案は代議員大会で圧到的多数で可決され、全学生投票でも支持された。スト当日は早朝からピケを張って、事実上学生が構内に入るのを阻止した。自治会・学生問題担当の教官たちが「ピケを解きなさい」といいに来たが、副委員長の中島君らと「大管法闘争に参加するのを呼びかけるためのピケだ。どうしても入りたい学生を物理的に阻むものではない」などと反論していた。何が何でも講義を受けるという学生もいなかったため、ストは混乱なく行われた。

 駒場正門前の集会の後、本郷へ行き、安田講堂前の銀杏並木集会をやった。さらに文部省へ向けて、デモ行進した。都内の他大学の学生も含めて一万人近くが集まっただろうか。とにかく私が委員長になってから、初めて盛り上がったのはうれしかった。一年間も委員長をやっていて、二、三百人の気勢の上がらないデモばかりで、シビレを切らして自民党総裁室に飛び込んだことがあるだけ――などといわれたのでは、たまらない屈辱だ。

 このデモの途中、私はまた逮捕された。デモの隊列の中にいたところを、警官の一団が一度引きずり出そうとしたが果たさず、二度目に引っ張り出されてしまった。デモの許可は取ってあるし、許可条件違反があるとしても、その頃はジグザグデモをやる程度で、それほど重大なものではない。指揮者を逮捕するには当たらないし、第一私はデモ指揮者でもなかった。私にねらいをつけていたのであろう。現在ほど法律知識があれば抗議するところだが、当時は何の容疑で逮捕されたかも聞かず、おとなしくしていた。もっとも警察の方も処理に困ったのか、夜になって釈放された。

 次に十一月三十日という行動予定を設定していたわけだが、一日のストまでで私の活動は終わったと考えていた。どうせ退学処分になることは決まっている。そういう規則の是非はともかく、規則があり、それを無視したのだから、処分はいさぎよく受けようと思っていた。

 退学になると学生ではなくなる。学生でない者が学生運動を指導することは避けるべきだと思っていた。当時他のセクトでは、少なくとも駒場の学生でない人たちが駒場で暮らし、駒場の運動を指導している例もあった。そういう人たちの運動への情熱は分かるが、人間それぞれ与えられた場所で闘うことが必要だ。いつまでも学生運動から離れない(離れられない?)のはおかしい。そういう人たちにはあまり好感が持てなかった。

 十一月二十四日、朱牟田夏雄教養学部長に呼ばれた。当然のことながら「退学に処す」という懲戒書を手渡された。予想どおりだなと思い、いったん受け取って引きあげた。すると別に呼ばれて無期停学処分を言い渡された中島君が「そんなもの受け取ったら駄目じゃないか」という。あわてて返しに行った。大学側は、受け取ってくれた。返す方も受け取る方も、共にのんびりしていた。

 私たちとはあまり仲の良くないマル学同の諸君が処分撤回闘争を強く主張し始めた。その日午後には朱牟田学部長らとの「団交」が行われた。安保闘争の期間中のストに処分が出なかったのに、今回処分したのは何故か、大学自治を守るためというストの目的と切り離して形式的に処分するのは納得できない――など友人たちが主張したが、論議はすれ違いだった。

 私としては処分は覚悟の上だったし、処分撤回闘争の先頭に立つというわけにもいかない。「処分撤回という闘争目標は後ろ向きだ。安保の時には、あれほど安保闘争自体が盛り上がったから、処分ができなかったんだ。大管法でも本来の闘争自体に大きな盛り上がりを作り、処分を撤回せざるをえない状況に、大学当局を追い込むことが必要なのではないか」とブツブツつぶやいていた。私たちの受け取り拒否でいったん保留となった処分も、後日配達証明付きで懲戒書が郵送され、正式に発効した。

 十一月三十日は駒場ではストライキとならなかったが、全都二万人あまりの学生が本郷に集まり、銀杏並木集会の後、文部省に向けてデモ行進した。赤坂見附から文部省まで、外堀通りではフランスデモで路上を埋め尽くした。六十年安保以後最大規模といわれたこのデモを最後に、私は学生運動から離れることになった。

 学生運動に携っていた当時も現在も、私は学生運動は普通の学生がその時々の課題をとらえ、行動していくものと思っている。そういう意味では市民運動や住民運動と同じものだ。

 しかし学生層の特殊性がある。学生運動をことさら学生の生活条件に直接関係するものだけに限定し、物価値上げ反対だとか、より良い学生生活のための施設を作れだとか、授業料値上げ反対だとかいった問題しか取り組まないグループがある。学生一人ひとりの身近かにある問題から運動を組織していこうというわけだが、これは学生層に潜在する力を見ず、あまりに運動を狭い範囲に押し込めようとするものだ。

 学生層はあくまで学問を目指す存在であるのだから、一見抽象的と思われる問題とか、未来の問題などについても鋭敏に反応する力を持っている。平和と軍事に関する問題など、他の階層が最も取り組みにくい問題に、学生運動が最も大きなカを発揮してきたのも、これが理由になっていると思う。

 他方ではこういう学生の抽象的思考能力を利用して、政治セクトによる運動の引き回しが起こってくる。革命運動の道具として利用し、学生の中からセクトのメンバーを一定数確保すれは良いといった姿勢にもなる。こういうセクト的傾向が目立つ時期には、概して学生運動は沈滞している。学生が政治的、社会的諸問題を見つめ、それについて行動して行こうという姿勢は、自然に生まれるものではないから、一定の思想的立場にある人がリードすることは自然であろう。しかしリーダー自身の思想的、政治的立場の確保と保持よりも、学生運動を高揚させることの方が大切だという考え方が基本でなければならない。高揚期には、意識していなくてもリーダーたちはそのような行動を取っていたものなのだ。私も社青同に属してはいたが、そういう立場で運動に参加していたつもりだ。

 学生運動はその後、全共闘運動として高揚を迎えることになる。私は全共闘運動については、心情的には強いシンパシイを感じた。大学は一見、自治の下で民主的に運営されているように見えながら、戦後、全く改善されなかった機関であり、古い体質を残しており、何らかの改革運動が必要であるのは当然である。大学がその渦の中に巻き込まれたことは、大学のためだけでなく、社会のために良いことだった。学生や教官たちの意識の変革を伴った点でも、有意義な運動だった。ノンセクトの学生が、セクトを巻き込む形で運動をリードしていたことも、学生運動の本来あるべき姿を取り戻したものといえる。

 しかし、そういう重要な運動であったからこそ、手段を慎重に選ぶべきであった。一部の教官の自由を拘束し、健康にも被害を及ばしたような、長時間の団交などは、それ自体として批判されなければならない。それ以外にも暴力に依拠していた部分が、かなり目立っていた。そういう欠陥のために全共闘運動が十分な成果を上げられなかったのは残念なことだ。

 その後、学生運動は、暴力革命を志向するセクトの運動となり、本来持っていた広がりを失ってしまった。今、学生運動は沈滞しているように見える。しかも学生運動の沈滞そのものを問題にし、高揚を取り戻そうという声がないのは寂しいことだ。

 ある時期から学生層の意識が変わったといわれる。戦後の民主教育が変質したことも原因の一つだろう。教師層が、過剰な労働者意識を口実としたものも含めて、教育について無気力になっていることも影響しているかもしれない。いたるところ無関心、無感動、無気力、無責任の四無主義がはびこっているといわれる。

 しかも運動に影響を与えるべき諸セクトは、内ゲバを繰り返している暴力的集団か、そうでなければ、狭い意味の「学生生活改善」だけに学生の要求を押し込めようとする集団しかない。これでは学生運動の再建は難しい。私自身は現状の下でも、学生運動は絶対に必要なものだと思っている。何か新しい芽が出て来ることを期待している。


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